2007/3/30
ありとあらゆるものへの愛
19・3・30
今朝のメッセージの映像は、具体的な物ではなく、私の意識が、情報を検索しているのだが、何も出て来ないので、其の検索している相手の正体を見ると、其れは、光のエネルギー体であり、其の光の中には、文字も言葉も画像も無く、物質すら一切何も無いのである。
そして、其れを観ている私の意識も、其の光の一部にしか過ぎないのである。其の様子を、どう説明したら良いのだろうか。
仏教の教えには、「此の世界は『見る者』と『見られる物』と『其の関係性』で全てが成り立っている。」と 有る。
其れは、例えば、林檎が一個其処に有れば、其の林檎は「見られる物」であって、其れを見ている人間は「見る者」である。
そして、其の関係性は「人間に食べられる物。人間が食べる物」と言う事になる。
しかし、今朝の映像は、物が何も無く、有るのは、空間を創り出している明るい光のエネルギー体だけで、私自身も、身体が物質化して存在しているわけではないので、其の三者の関係性が、成り立たないのである。
私が、其の状態を、私なりに説明すれば、此の世界は、全て、光のエネルギーで創造されており、人間の意識の発生源である大脳も、其の光のエネルギーが生み出している物だと言う事である。
だから、私の意識も、人間としての礒邉自適が存在するのではなく、全体の光エネルギーの一部として、溶け込んでいたのである。
そして、私の意識は、其の光のエネルギー体を、対象として見ているのである。しかし、其の光のエネルギー体からは、何の指示も、言葉も表れて来ないのである。
其の状態は、私自身の意識が、何かの作為を起こし、左か右に意味付けを行わなければ、何も物質化しないし、意味が発生しないとの事である。
其れは、私の意識が、何かの意味付けを起こし、其の光の世界に、前向きに歩き出さなければ、何も起きないと言う事になる。
私が、右に動けば、右側の光エネルギーが其れ用に現象化し、左に動けば、左側の光エネルギーが現象化して、此の現象世界が、変化すると言うことに成るらしい。
其れは、人間側から見れば「現人神・あらひとかみ」が、現実として現れると言う事になる。
「現人神」とは、以前「天皇陛下」の事をそう呼んでいた言葉である。
現在・いまの皇室は、日本国憲法で何等、此の現実世界に「詔・みことのり」を発しては成らない事に決めてあるので、天皇陛下がそうしたくても、出来ない状態に成っている。
だから、本来は、皇室に流れるべき光のエネルギーが、私の方に流れて来ているのであろう。
今朝は、だいたいの意味が理解出来て来た処で、何処かの新しい宿泊施設が映り、玄関の上には「ながいわ」と平仮名で扁額が架かっていた。
其れは、福岡県浮羽町の長岩の事であろう。長岩には、岡部賢二氏が経営する「長岩むすびの郷」が現存する。
岡部賢二氏の話では、其処に、宿泊施設を今夏までには建設したいとの事であるので、其の宿泊施設が出来れば、何等かの動きが、見えて来る事に成るのではないだろうか。
今朝のメッセージの内容から考えれば、岡部賢二氏の動きは、既に、神の光エネルギーが流れて来ている事になる。
私は、今年の1月15日に岡山駅前のホテルに宿泊していて、女神の声で「16日の日付で、準備が出来たと書きなさい。」と云われ、其の16日に滋賀県大津市の「山岡康人氏」が経営する「健康社」の会議室で、初めて岡部賢二氏に出会ったのである。
だから、今朝のメッセージは、やはり岡部賢二氏の経営する「むすびの郷」から、新しい神の世界が創出されるとの事であろう。
其れは、私の働きも、其処から効果を現すとの事ではないだろうか。
今朝は、其の後に、地面に草の株が、彼方此方に生えているのが映されて来た。其れは、此の地球の環境を護り、全ての生命を支えているのは、草の存在であるとの知らせであろう。
漢字の「草」は、「地面に早く生える物」の意味であり、「芯」の漢字は「草+心」の組み合わせで、「身体の中心には 草の心が良い。」との意味であろう。
岡部賢二氏が行っているのは、「マクロビオティック(正しい食・穀物菜食中心食・身土不二を原則とした環境全体と調和をした生活)」を「核・芯」とした、「生活・ライフスタイル」の構築である。
マクロビオティックとは、日本人の「桜澤如一」が、世界に広げた生活法であるが、本家本元の日本が、外国より遅れてしまっているのである。
現在・いま世界中に、日本食ブームが起きているが、其れも桜澤如一の影響抜きでは有り得なかったであろう。
世界は、既に、日本から立ち上がる、新しき文明を心待ちにしているのである。其の烽火が、岡部賢二氏の「むすびの郷」から上るのだろう。
私も、其の動きに協力する為に、新しくデジカメを買ったり、ビデオカメラの電池の予備を買ったり、携帯電話も浮羽で通じる、ホーマに切り替えたりしている。
私は、次に屋久島を出るのは4月6日で、7日には熊本県三角で行われる、どれみ村の「天波博文氏」のライブに参加する。
其の後、今後の行動に付いて、打ち合わせをする事に成っている。
愈々神の計画が、皆に認識される時節を、迎えたと言うことであろうか。
今朝は、部屋のカーテンを開けて東の空を見ると、丁度朝日が昇るところであった。其の朝日を眺めていると、「ありとあらゆるものへの愛」と言葉が告げられて来た。
其れは、此の地球に生命を齎している、光からのメッセージなのかも知れない。
日本語には「何処に行っても お天道様と 米の飯は着いて回る」との言葉が有る。私の人生は、正に、其れを実行している事に成る。
其の道を支えているモノこそ、穀物などを生産している草の力である。
だからこそ、今朝の映像には、光を浴びて、地面に生えている草の姿が、映り出されて来たのだろう。
「水心有れば 魚心」との言葉が有るが、今朝の私の心境には、「草心あれば 神心」の言葉が、合うのかも知れない。
やはり、宇宙の根源エネルギーである光の存在は、人間の浅はかな認識力では、計り知れないとの理は本当なのである。
だからこその「阿弥陀・アミターユス・アミターバ」であり「帰命頂礼・きみょうちょうらい」なのである。
平成19年3月30日9時33分
礒邉自適
コメントは新しいものから表示されます。
コメント本文中とURL欄にURLを記入すると、自動的にリンクされます。