2007/5/31
新しい記憶
19・5・31
今朝は、今までには無かった「記憶回路」の事に付いて、メッセージが有った。
其れは、霊界に存在する文章か、私が無意識で書かされた文章を、其のまま現実界にコピーしようとすると、消去されてしまい、其の文章は、画面から消えてしまうものである。
其の意味を、良く考えて見ると、人間の記憶には、自分自身が認識出来ている情報の他に、別の情報が在るのだが、普通の人には、其の情報は現実して認識出来てないと言うか、記憶の表には現われて来ないと言う理・ことである。
其れは、普通に暮らして居る人達の意識には、自分の個体に関係有る情報しか入力されていない事に成る。
だから人間は、物を考えるのにも自己中心的で、自分に都合が良い事は「善」で、自分に都合が悪い事は「悪」であると言う、単純な考えしか、脳裏に浮かばないのである。
其の例として、解かり易い件を一件上げれば、国は既に800兆円も借金を抱えているのに、未だ国民は、自分達の都合の為に、予算を付けろと言い合って居る。
其れは、国の借金が、永遠に減るどころか、増えるばかりである事を示している。だから、今のまま進めば、何れ日本経済は一度崩壊するしか無いのである。
其の事からも判る様に、現代社会が何時までも、此のまま続くと想って居る人達は、余りにも、軽率であると言わなければ成らないだろう。
現代社会は、余りにもグローバル化している為に、日本の食糧は70%が輸入で賄われている。だから、イザ経済が崩壊すれば、食料を輸入出来ないので、半数は国外脱出するか、死ぬしか他に道は無い事に成る。
そして、経済が崩壊すれば、ITに拠る情報社会も維持出来ないので、社会の機能も止まってしまうであろう。
そう成った場合、頼れるのは、自分自身の肉体と、其の、無統制に陥った社会に対応出来る、情報収集力と管理能力だけである。
特に、農村に暮らす人達より、都会に暮らす人々が、其の能力を必要とするのは、誰でも理解出来る事である。
今朝のメッセージは、目に見える世界だけの情報でも、其の様に、変化に対応出来るものでなければ成らないが、目に見えない「こころ」の世界は、もっと危うい事を伝えて来ている。
其れは、人間の存在は、物質の安定だけではなく、精神的な安定がなければ、安定しない理・ことを、知らせて来ているのである。
今朝のメッセージは、物質の世界は、物質さえ補われれば、直ぐに解決できる事であるが、精神的な世界は、真柱を失えば、容易に解決出来ない理・ことを知らせて来ている。
現代社会の、精神的な支えである宗教は、全て、経済の安定の上に成り立ち、維持されている物だから、経済が崩壊した時には、何の役にも立たなく成るので、特定の宗教団体に頼っている人々は、パニックに陥る事は明らかである。
だから、今朝のメッセージは、現実世界に役に立たない訓えを、早く取り去れとの事ではないだろうか。
精神的な強さとは、自分一人に成った時に、役に立つものでなければ成らないのである。
其れが、特定の宗教に依存しては、経済が崩壊し、情報網が消え、組織の運営活動が止まった時に、行き成り自己管理と自己判断を迫られるので、路頭に迷ってしまう事に成るのである。
特に、今朝のメッセージは、精神的な世界は、自分で組み立てていても、現実的社会が崩壊した時に、其の侭、応用出来ない理・ことを示して来ている。
其れは、他人に対する慈悲が大事と考えていても、イザ自分の子供が餓死しようとして居る場合には、他人と争っても、食料を確保しなければ成らなくなること等である。
其の時には、どんな宗教の訓えも、邪魔には成っても、役には立たないのである。其れだけ、精神世界は危うく頼り無いものなのだ。
だから今朝のメッセージは、未来に対して、新しい情報を、意識に組み込めとの事ではないだろうか。
人間の脳の記憶は、全て、過去の情報に因って出来ているものである。
だから、過去の情報が、未来社会に必要な情報でなければ役に立たないし、場合に拠っては邪魔に成り、自分の命を、危機に晒す事にも成りかねないのである。
今朝のメッセージは、私に、過去の情報に頼らずに、新しい情報を組み立てて、記憶としろとの事ではないだろうか。
其れに、霊界の情報・記憶も過去のものだから、次元の壁が訪れれば、消去されて、未来社会には記憶されないとの事なのかも知れない。
聖書には、エホバの言葉として「わたしは今 新しい世界を創造している。だから もう 過去の記憶は 思い出される事も 意識に上る事も無い。」載っている。
だからこそ、現代の人間にも、過去の世界での記憶が、残っていないのだろう。そう考えると、今の世界に生きて居る私達の記憶も、未来世界には残っていない事に成る。
私達は、人類として、未来世界に存在する為には、未来世界に通用する情報をキャッチし、其れを記憶の断片として、未来世界への手がかりとしなければ成らないのだ。其れが、聖書に登場する聖者の「予言」と「異言」なのである。
聖書とは、古代の出来事を学ぶ為に、存在する物ではなく、未来社会に存続出来る為の手掛かりとして、人類に与えられたものなのである。
釈迦の法華経の訓えも、其れと同じ意味を、含んでいるのである。だからこそ、「弥勒菩薩」の登場が予言されているのだ。
もう何処かで、「弥勒菩薩・マイトレイヤー」の異言が、為されているのかも知れない。其の異言こそ、未来世界に存続出来る為の手掛かりなのであろう。
しかし、其の異言は、過去の情報・訓えに執着して居ては、解読出来ないのであろう。私達は、未来世界を創造する為に、新しき理解を示し、記憶の土台を構築しなければ成らない時節に到っているのである。
平成19年5月31日
礒邉自適
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