2017/5/31
お世話になりました
29・5・31
今朝のメッセージは、先ず、地面に西瓜の苗が複数生えて来ている場面が映し出されて来て、私の意識は、蔓が繁る西瓜は、1本の間隔が2m程空いていないと、蔓が重なって日当たりが悪く成って実が生らないので、込んでいる所の苗を掘って他の場所に移植しようとして居た。
だが、店舗に売られているポット苗とは異なり、実生で生えた西瓜の根は、土中の四方八方に広がっているので、根が切れたり、茎が根本から折れたりして、上手く行かないので、其の作業を止めた。
すると、蔓がドンドン伸びて重なって行き、日当たりの悪い下の蔓は、茶色に枯れて腐り始め、全体が見苦しい状態と成って行く所で、其の映像は終わった。
次に、暗い宇宙空間の様な世界が映し出されて来て、其の暗い場面全体に、虹色に輝く様々な光の粒子が、方々に飛び散って、線で見える映像が映し出されて来た。
其れ等の場面の意味を考えて居ると、「照ノ富士」の名前が告げられて来たので、意識が目覚め、照明を点けて時計を見ると、時刻は4時00分であった。
其れから、再び眠ると、文章の題を記さなければならない、紙片の上の部分が映し出されて来て、「お世話になりました」との男性の言葉が一言聞こえて来た。そして、「ニュートン」との名前が告げられて来た。
其処で起きると、時刻は8時8分であった。
今朝は、PCを立ち上げて「ニュートン」を検索し、目を通すと次の様に載っている。
サー・アイザック・ニュートン(英: Sir Isaac Newton、ユリウス暦:1642年12月25日 - 1727年3月20日、グレゴリオ暦:1643年1月4日 - 1727年3月31日[注 1])は、イングランドの自然哲学者、数学者、物理学者、天文学者。
・・1669年にケンブリッジ大学のルーカス教授職に就いた。これは師バローがニュートンの才能を認めて自分のポストを弟子に譲ろうと打診したものであり、ニュートンは一度断ったが、結局その申し出を受け入れることにした[1]。ルーカス教授としての役割は、幾何学、算術、天文学、光学、地理学のいずれかの講義を毎学期わずか10回ほど持つことと、週に2回学生との会合に出るだけでよいというものであった[1]。ニュートンは自分が開拓した光学について講義したが、内容が斬新すぎ理解しがたかったらしく、学生がひとりも講義に現れず出席者が無いということもしばしばだった[1]。
ルーカス教授時代に、彼の二大著書となる『光学』の執筆(刊行は1704年)および『自然哲学の数学的諸原理』の執筆・刊行(1687年刊)、および聖書研究や錬金術の実験などに没頭し、また哲学者でもあったので、自然学に対する情熱と同じくらいの情熱、あるいはそれ以上の情熱を神学に注いだ[1]。『自然哲学の数学的諸原理』は18か月で書き上げ、この期間は食事も忘れるほどの極度の集中だったという[4]。
ニュートンの死後残された蔵書1624冊のうち、数学・自然学・天文学関連の本は259冊で16%であるのに対して、神学・哲学関連は518冊で32%である[1]・・・
ウィキペディアフリー百科辞典 2017/5/31現在
此の、彼の二大著書となる『光学』『自然哲学の数学的諸原理』との書物の存在から考えると、「お世話になりました」とのニュートンの言葉は、サー・アイザック・ニュートンの霊魂も、私に起きた4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」の中に在って、私の頭脳を、PC代わりに使って居たと言う事に成りそうである。
其れに、『光学』『自然哲学の数学的諸原理』との著書の題名からすると、今朝のメッセージの、宇宙空間の光の粒子の乱舞や、西瓜の日当たりの事に付いての映像場面は、其のアイザック・ニュートンの意識が、自分の考察を私の潜在意識のスクリーンに投影して来た事に成りそうである。
其れに、今朝のメッセージには相撲の「照ノ富士」の名前が告げられて来たが、一昨日は「久木田照世」との名前が告げられて来ていたので、「照・てる」の漢字の意味が大事である理・ことが示されて来ている様なので、太陽光線(光エネルギー)の世界に付いて何かを考えなければ成らない様である。
今朝の愉伽さんのビジョンには、周りの大勢の人々が凍結して行く場面が映し出されて来て、少しでも寒さを凌げる透明な膜かガラスで覆われた小部屋に、4、5人が入って寄り添っていたが、それでもみんな次々と凍り付いて固まって行くので、自分も覚悟を決めて身体を緊張させていたが、固まらず、「あれ?」と周りを見ると、赤子と数人の人だけは凍結しておらず、「何故だろうか」と思った瞬間、柔和・柔軟な心を有しているからであるとの意味が伝えられて来たとの事である。
其の愉伽さんのビジョンと、私のメッセージの内容を考えると「照」の漢字は、「天照大神」の働きに付いて示唆して来ており、改めて太陽の働きに付いて、考えなければ成らない様である。
其れは、「照世」の名前は「神の光が照る御世」の意味であり、「照ノ富士」の名前は「日本から照る」との意味が、示されて来ており、この東の国の日の本から照る、神の光の恩恵に預からない者は、日照不足で枯れてしまうか、凍結して死んでしまうと言う理・ことではないだろうか。
「久木田照世」で調べると、次の文章が有る。
2008/9/5・・今朝のメッセージは、愈々「パンドラの箱」の蓋が開けられて、人類の禊ぎが始まるらしく、食料難や、道路が壊れて車が走れなく成る事等が、映し出されて来た。
其れは、私が漸く、行き着くべき処に辿り着き、見るべきものを観て、自覚が出来たからであろう。しかし、其れも、宇宙のシステムと言うか、数学的なトキの歯車が、回っている事の現象事なのである。
其の理が、古代から認識されていた事が、「王」と「暦」と「時間」の関係で明らかである。
古代社会で、王に選ばれていた者は、宇宙の森羅万象の流転を、自分の意識の映像に映しこみ、其れを時節・トキと言う概念にて「暦・カレンダー」に刻み、此の現し世を管理していたのである。
だから、「聖・セイ」の漢字を使い「ひじり」と読み、「暦・レキ」の漢字を使い「こよみ」と読んでいるのである。
「ひじり」とは、「日知り」で太陽の「霊・ひ」を知る者の意味で、「こよみ」とは「日読み」の意味である。
だから、「天津日継・あまつひつぎ」とは「天の霊を継ぐ役割」との意味であるから、天皇の役割は「太陽の霊魂」である「天照大神」の意志を受けて、「神籬・ひもろぎ」と成って、此の世を管理しなければ成らないのである。
其れが、「天皇・皇統」の「すめろぎ(古くはスメロキ)」なのである。
だから、天皇の役割を為すべき御仁が、テニスの稽古をしたり、英語の勉強をしたり、恋愛等をしている場合ではないのである。
其れは、古代の天皇の和歌を読めば、其の心構えが、如何なるものかは明らかである。皇族が、何故「敷島の道・和歌」を嗜まなければ成らないのか、其の理を今一度、自覚して貰わなければ成らないのである。
「すめろぎの 食(を)す国なれば みこと持ち 立ち別れなば 後れたる君はあれども」万葉集 4006
私は、1986年(S61)1月10日近江神宮での「天智天皇祭」で、「ひもろぎの 代よの乱れを さかずきに 菊一輪と 回し飲み」と、自動書記で書かされた事が有る。
其れに、昭和天皇が崩御された昭和64年1月7日の夜半、天皇の御魂が心臓に突然ドカンと飛び込んで来て、飛び起きた事がある。そして、御大葬の2月24日朝、自動書記で「吾が身 既に遠く よき代を願い奉る」と、書かされてもいる。
其れは、天皇の御魂は、和歌にて会話をしている事を、明らかにする現象である。
昨年の9月4日の文章との繋がりからも、暦が関係している事は、間違い無いのである。
次の映像は、私の実家の近くの家の娘が、私に西瓜を一個くださる場面であった。其の娘は、「久木田照世」との名前で、私より幾つか年下の女性である。
私は、其の人の畑を見て歩いてから、「近頃 作物を盗む人がいるから 注意した方が良いよ」と云って、其の場を離れた。
其れは、食料難の時代に成れば、他人の畑の作物を盗む人が、増える事を意味している。
そんな時でも、他人に、無料で食べ物を与える人が居る世の中こそが、神の光が「照る世」であり、神の九氣手が満ちている事を、意味しているのであろう。其れが、「久木田照世」の名の意味ではないだろうか。
日本は、食糧自給率が、先進国では一番低く、実質30%しかない。
だから、経済力が落ちて円安と成り、食料の輸入が止まれば、70%の人は飢え死にするしかない。外国に、出て行ける人は良いが、経済が崩壊して、財産が価値を失った人達は、どうする事も出来ないのである。
其れに、30%の農家の人も、飢えた人達が大勢押しかけて来れば、畑の作物どころか、来年蒔く種籾まで失って、全滅する可能性が、無い分けではないのである。
今朝は、メッセージの最後に「面だと想って 話しなさい」と知らされて来た。「面・めん」とは、屋久島では「お化け」や「幽霊」の意味で、死んだ人間の霊魂や、河童や妖怪の意味も含まれている。
其れは、南方の国では「ピー」と呼ばれる自然霊で、祭りの時に仮面として被られる、お面の存在と同じ物である。
「面だと想って 話しなさい」とは、シャーマンとして話せとの事か、アニミズムの世界に、身を徹して行けとの事かもしれない。
其れは、前記した「聖・ひじり」や「すめろぎ」の本来の働きを、意味しているのではないだろうか。
其れは、本来の天皇陛下は「御饌殿」の祭事を真剣に行い、「食国の政・まつりごと」を司るべき者で、森羅万象の「ピー・万物の霊」を背景として、物言いをしなければ成らない理を意味している。
だから、是から、私が人々に話す立場は、天皇の様な立場ではなく、仮面舞踏会の役者の気持ちで、話せとの事ではないだろうか。
其れは、日本に古くから伝わる「お神楽」の舞いの世界と同じであり、昔の人を表わす仮面を被って、その面が意味している霊魂を降臨させ、其の霊に身体を貸して、其の霊魂の仕種を借りる事である。
其れは、人間霊を宿して、言葉を発して人を動かせば「シャーマニズム」の世界であり、自然霊を宿せば「アニミズム」の世界である。
其れは、どちらも同じく、目に見えない霊魂を背景にして、行動する事を意味している。
其の世界と、全く反対の世界が、現在の政治の世界である。
現在の政治家の背景には、精霊の働きは無く、背景に在るのは、武器産業や石油利権などで、例え其れに関係無くとも、族議員と言って、何かの団体の柵(しがらみ)が絡んでいる者達が多いのである。
其れは、背景に成る物が、神とは関係の無い、人間の煩悩や、欲望であると言う事に成るのである。
其の様に考えると、昔は各部族の中に一人居た「シャーマン・占術師・錬金術師」の役割を、私は一人で熟して居る事に成る。
其の役割とは、自分の暦で森羅万象を動かす事である。
其の暦を動かす力を、私の身体を借りて行使しているのが、マヤの神官や、アステカの神官であり、日本の「安倍晴明・あべのせいめい」等であろう。
現在社会の政(まつりごと)は、其の理が蔑ろにされているからこそ、戦争は止まらず、人々の気持ちは神から離れ、人心が荒廃しているのである。
日本語の、「ひと・人」の本来の意味は「霊止」で「霊が 体内に留まる」との意味である。其の「霊・ひ」が「霊魂・たましい」であり、先祖から子孫へ繋がって行くものなのである。
其の理を、伝える伝統こそ、天皇家の存在意義である。
だから「面に成ったつもりで話す」とは、「御祖神・みおやかみ」の代わりと成って、話すとの意味であろう。
私が、其の面に成り切れば、食料難や災害から人類を救う手立てを、背景に付いている「精霊達・ピー」が行うとの事ではないだろうか。
屋久島の、山岳の峰々を巡回して居る神様の名は、「ピーコドンドン」と呼ばれている。其のピーは、親の云う事を聞かない悪い子供を、夕方、山に攫(さら)って行くと伝えられている、力の有る神様である。
しかし、今朝のメッセージからすれば、其の存在意思は、人類の三分の二は、此の世から攫(さら)って行く力を持っているのである。
自分の遺伝子を伝え残し、自分が来世で「霊宿」として、生まれ変って来たいのであれば、そのピーの化身である「聖・霊知り」の云う事を、聞くしかないのではないだろうか。
「面だと想って話しなさい」http://star.ap.teacup.com/2007313/531.html
此の文章の中に有る「・・其れは、私が漸く、行き着くべき処に辿り着き、見るべきものを観て、自覚が出来たからであろう。しかし、其れも、宇宙のシステムと言うか、数学的なトキの歯車が、回っている事の現象事なのである。・・」
の「数学的なトキの歯車」との言葉こそ、其のアイザック・ニュートンの御魂が私の意識に介入して来ていた証と成るモノではないだろうか。
其れに、5月18日に「全ての事には 原因が」との言葉を告げて来たのも、其のアイザックニュートンだったのかも知れない。
2017/2/28・・そして、「アイザック・ニュートンが発見した交流電気」との言葉が告げられて来た。私は、其の言葉で、宇宙の「引力・重力」と「人間の魂しい」の関係を思った。
其れは、私の体験から、人間の魂しいとは、電磁気的な情報の塊であるので、地磁気や太陽磁気にも関係が有り、其れが人間の脳波や、心臓の動きとも関係していると言う理・ことである。
そして、其れが「直流」ではなく「交流」であるとの理・ことに、深い意味が有るのだろう。
今朝「アイザック・ニュートンが発見した交流電気」と告げられて来たのは、霊界の間違いではなく、ニュートンからニコラ・テスラまでは、214年の差が有るので、ニュートンの存在がなければ、テスラの交流電気の発明も無かったとの事が、示されて来ているのではないだろうか。・・・
「全てが電磁気の世界」http://angel.ap.teacup.com/20071208/845.html
今朝のメッセージの映像に映し出されて来た、西瓜の生態から、私に考えられる事は、次の様な事である。
・地球の全ての生き物は、太陽光線の恩恵で命を得ている。
・太陽の存在がなければ、地球は凍結してしまい、何物も生きられない。
・生命の世界は、全て実生で輪廻・存続している物であるので、人間の手に拠って人工的に管理できる物ではない。
・太陽光線(光エネルギー)を得る為には、自分自身が一日も休まず、努力をしなければ成らない。其の戦い・競争に敗れた物は、消滅するしかない。
・太陽光線自体は、何物にもエコヒイキする事なく、全ての物に平等である。
・生き物の生態は、太陽光線の有り様に因って、其の場に適した形態を採って存続している。
・人間は、太陽光線の有り様で、物の姿形が目に見えるので、視覚が発達し、物の存在に名前を与える事で、言葉が生まれ、意識が発達し、文化文明を此処まで築いて来た。 等々
今朝、私が時間を確認させられた時刻は「四時00分」と「八時八分」である。其れは、「死〇〇」と、末広がりの「八八」で、〇〇はダブルの「収縮・消滅」で、八八はダブルの「拡散・繁栄」である。
其れを考えると、どちらの世界を選ぶかは、本人次第であり、全ては自己責任に措いて遣って貰うしか、他に道は無い様である。
何故なら、今朝の映像で、私が、空間(生活舞台)の過密から、西瓜の苗の救おうとしたが、一本・一株も移植に成功する事無く、其の場面は終り、生存競争に負けた蔓は茶色に枯れて、消滅して行ったからである。
私は、昭和天皇の長男である「加治木義博氏」に、淡路島の「天満宮」に案内された事が有り、其の時に祭神である「天照大神」が「救わない」と一言告げて来た事が有る。
其れは、「助けてくれ」と神にお願いをする様な人間を、天神(てんのはたらき)は「救わない・助けない」と言う事であり、神の役に立つ為に必死に努力を重ねる人々にだけ、天神は手を差し伸べると言う理・ことなのであろう。
2006/10/12・・今朝のメッセージの映像には、茶色のページが現れ、三組の陰陽の楕円形の玉が、其のページ上の白い部分に書かれていた。
其の楕円形の中は、茶色の色の着いた部分と、白い部分が半々に成っている。
其れは、タオ・道のマークを意味している様であり、三組の陰陽が三角形に組み合わさる形に見えた。其れが、何を意味するのかは良く分からないが、理科の教科書に関係がある事が知らされ、
次に、水色のテキストみたいな物が映り、其れは、社会科の教科書である事が知らされた。・・
明石大橋を渡った所で、昼食を済ませ、目的地である天満宮に向かい、近くに御住まいの「加治木先生(昭和天皇の長男)」に、初めてお会いする事に成った。
加治木先生の話では、「此処が天照大神の本拠地である」との事で、其の天満宮の祭神が、私の礒邉の血筋に一番関係があるとの事であった。
そして、加治木先生の話では、「此の神社には 誰でも簡単に足を踏み込めない」との事であったが、私には特別な反応は起きず、其の儘境内に進んだ。
私は、境内お手水で禊の為に手に水を掛けると、「あまてらす」との言葉が告げられて来た。私は是まで、数多くの日本の神社にお参りしたが、「あまてらす」の言葉が告げられて来たのは、初めての事である。
そして、拝殿の前に立って拍手を打つと、無意識で「三・三・三」の数で打ち、最後に五回打って、其の所作は終った。そして、告げられた言葉は「救われない」である。
何故、「あまてらす」と「救われない」の言葉だけなのだろうか。
其の、二つの言葉から、私が考えられる事は「天照大神」は、生命全体の存在は支えてはいるが、人間を個体別に救う事はしないとの意味ではないだろうか。
其れは、“救う”と言う第三者的なモノの働きが無く、助かりたい者が助かる努力をしてこそ、生き延びる事が出来るとの意味であろう。
生き残る努力をしないで、自分の我欲の侭に生活し、自分に都合の良い事ばかりを、神に願って居ても、其れは、無意味な行動に過ぎないとの理・ことであろう。
現代社会では、神社にお参りするのは、殆どが、自分の幸福や、無事を祈る為であり、神の働きに、自分の人生を掛けて、仕える者は居ない。
神が望むのは、神が創造したい世界の、手助けをする者達の存在である。
其の様な者が、少ないのが神の嘆きであり、人間社会の改革が、善い方向に進まない原因でもあるのだろう。
其の淡路島の天満宮は、上下に、男女の神様の社が別れて存在してり、私がお参りしたのは上の段の、女性のお宮の方である。
男性の神霊ならともかく、女性の神霊が「救わないよ」と告げて来るのは、節目の時が、余程、身近に迫って来ているとの事ではないだろうか。・・・
「理科の教科書」 http://green.ap.teacup.com/20060818/55.html
今朝のメッセージからは、何故、古代の人々が「天照大神」や「ラー」などの太陽神を信仰していたのかの理由が、理解できる様な気がする。
其れは、科学的に物事が理解出来なかった時代では、太陽の働き・役割を神様と認識するしか、他に手立てが無かったからであろう。
其れを考えると、「アイザック・ニュートン」や「ガリレオ」の様な科学者が、真実の神の働きを解明して来たと言う事になり、数学的な価値観・学問が、人間の進歩や未来創造には欠かせないと言う事に成り、私こそが、「サー・アイザック・ニュートン」の霊魂に、御礼を謂わなければ成らないのではないだろうか。
そして、過去の人々の認識作業(現実世界への真摯な取り組み)が、人間の御魂を高めて来ており、其れが霊界の情報として、積み上げられて来ていると言う理・ことである。
「是は 夢の世界ではなく 現実の世界である
全ては 現実であり
其れは 電気的なモノグラフィーに 拠ってできている
其のモノグラフィーが 貴方の思考を 動かしているのである」
平成29年5月31日
礒邉自適
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