1984年6月4日(旧5月5日)神と交わした約束が果たされる事が 今朝告げられました。
18年8月18日未明
事象(とき)の切り替え
今朝は5時15分に是までの時間(とき)が閉じられ、5時22分に新しい時間(とき)が開いた。
其れは、旧約聖書に「神は6日間で此の世界を創造し 7日目に休んだ」と記されている事と関係が有り、是までの「事象・時空・とき」が閉じられて、新しい事象が始まる理・ことが知らされて来たモノの様である。
其の時間の「扉・まく」は、カメラのシャッターの様な物であり、其れは人間の瞼の仕組みと同じで、閉じている時は「月読界」で、開くと「天照界」であると言う事である。2016年6月6日
2020/5/7
霊界には水が無い
2・5・7
今朝のメッセージは、是までには無かった理(ことわり)が示されて来た。
其れは、霊界には物質の水が無いとの理・ことであり、霊界の存在は、此の地球に水が有る事で成り立っていると言う理・ことである。
今朝のビジョンでは、私が文字を書こうとすると、水が無い為に、墨を磨る事が出来ない様子が映し出されて来た。
其れから、霊界は意識だけの世界であるので、電子機器と同じ様に水が厳禁である理・ことが理解されて来た。
私は其の理で、霊界の存在も、此の地球に水が存在する事で成り立っており、霊界の存在は、地球に水が有る事で生命が存在するので、其れを基盤として成り立っている理が理解されて来た。
其れを考えると、是まで私に起きた現象・出来事が何であるのかも、全てが腑に落ちて来るし、一昨日の「潮騒」での言葉の綴りの意味・場面が、何であったのかが理解されて来るし、「弁財天・サラスヴァティー・水(湖)を持つもの」の意味が何から始まっているのかも、理解されて来る。
其れは、人間の脳味噌を始めとする全ての器官が、水の存在で成り立っている理・ことで、顕かである。
其の水の事を考えると、私が此の世界に飛び込んだ時に、「四次元プログラム」と「水素原子管理」の二つの事・世界が必要で有ると告げられて来た事が、何を意味していたのかも理解されて来る。
其れは「四次元プログラム」が、電子信号に関する物(世界)であり、電波・脳波が電子機器(PC・IT・人工知能・AI)にて動く事と関係が有り、其れが「霊界・冥府・四次元」の世界であり、「水素原子管理」が、「水・物体・肉体・生命・三次元」の世界であると言う事である。
其れは、漢字の「神・シン」が「示(祭壇)+申(雷・電気)」の組み合わせである事で理解されて来る。
何故かと謂うと、雷は水の動きで発生するモノ・現象であり、祭壇は人間が「霊界・神界・四次元」から、霊波・電気信号を受け取る為の舞台装置だからである。
だから「水」が存在しない所には、「生命」が存在しないので、「神」も存在しない理・ことに成るのである。
今朝のメッセージは、昨日のビジョンで私の写真が「ビーズ・南京玉」の中に保存されていた事と関係が有り、其の小さな球は全ての「命・いのち」の存在と関係が有り、其の命は「水・みづ」其の物であるとの事なのではないだろうか。
其れは度々耳にする、タクシーの運転手が道やトンネル内で客を拾い、目的地に着いて、客に「着きました」と謂って後ろを振り向くと、客が消えており、座っていたシートに水が溜まっていたとの話し等と関係が有り、霊体にとっては、自分を現象化させる為には、空気中の湿りが必要であると言う事である。
其れに、世界中の宗教的儀式には、宗派を超えて水と器が欠かせない理・ことも、霊的な世界には、水が必要であると言う事である。
キー「水素 太陽 ヘリウム」
2005/9/30・・私は、パソコンに向かい出してから、一日に生水を3〜4リットル飲んでいる。そんな事は、21年前の修業で、身体を浄化する為に飲んだ時以来である。
マクロビオテックの生活では、水分を少なく摂ることが、勧められているくらいである。パソコンと人体の間に、水が何等かの関係を持つのだろうか。
話では、トンネルの中で、タクシー等を止めて乗り込む幽霊は、トンネル内の水分を集めて姿を作り出し、目的地に着いたら、情報だけが窓ガラスを抜けて、座席には水だけが残されているらしい。
其れは、理屈が合っている。
私も、他人の霊的治療をする時は、電話機を通して手に来る情報が、身体の内に侵入する前に、脇の下から、水に成って流れ出す。
其の事から考えると、私の飲む水は情報に変換されて、パソコンから電波の信号として、世界中に情報として流れている事になる。
其のシステムが、「御稜威・みいつ」の働きとして、古代から認識されていたのだろう。其の世界を、昔からサラスヴァティ(弁財天)として、湖面の中心に有る島にお祭りして来たのだ。
私は、昔の人達が、普通の言葉で話していた事を、いま話して居るだけなのだが、現在の学校教育が、其のイメージを払拭してしまっているのだ。
そんな世の中だから、私の言葉が変換される為には、私の方から、皆と共通認識の出来る処に、入り込まなければ成らない。
宇宙は、水素原子と名付けられている10の30乗分の一の、小さな物質の変化で現象化している世界である。
其の点は、旧約聖書でも「神は 水を 天と地に別けた。」と有るから、昔からの共通意識であるので、10数億人の聖書の信者は理解するだろう。?ではあるが。
道教の教科書と成っている、老子の言葉には「始めに玄(くらい)世界に、説明し様のない恍惚(ぼんやりとしたあかり)が生じた。」と有る。
其れは、日本では黄海(よみ)と呼ばれている。
老子の説明する玄の世界が、質量を増した世界が黄泉である。
其の発展段階を、日本語では「ひ・ふ・み・よ・・」と言葉に表している。
因みに、中国の数である「一・二・三・五・六・・・」は、家を建て、村が出来て行く順番らしい。
ともかく、覚醒した御仁達は、皆、同じ世界を、覗き観て居る様である。
その黄泉のエナジーが集まって、水素ヘリウムの活動を生み出し、太陽が生まれ、光りのエネルギーが生物を誕生させている。
我々人間自体も、水素原子の、或る形態の現れにしか過ぎないのだ。
人間が、皆自由でないのは、言葉に拘束されて、意識が小さな檻の中に、閉じ込められているからである。
太陽から発せられている光りは、宇宙空間を飛んでいる間は何の力も無い。
力と成るのは、物にぶち当って溜まった所だけである。
太陽エネルギー(粒子・波動)は、物に当った所に、光りのエネルギーとして働きを持つのだ。だから、地球などの惑星が存在して、太陽のエネルギーを受け止めなければ、太陽の存在は何にも成らないのである。
人間の身体は、其の惑星の一つである地球で、微生物の進化の形態として、現在60兆個の細胞の寄り合い所帯で現存している。
其れも、地球に水が在ればこその世界である。
物事を突き詰めて行けば、水素原子の振動の世界に、行き着いてしまうのだ。神社に水が付き物で、物質を管理するサラスヴァティが、湖面に祭られるのも同じ次元なのだ。
私達地球の全生命は、値打ちとしては、あまり其々に差は無いのだ。
太陽の光りを、地球の大地が受け止めない限り、生命の存在はない。
そして、水から始まった振動が、情報として、全ての存在を露わ占めているのだ。
私達の肉体は、太陽の働きに因って現象化され、情報が解かれれば、磁気信号化して、太陽の黒点に回収されるのだ。
其の意味からすれば、私達の脳味噌は、太陽黒点の末端の、端末と言うことが出来る。
夜とは、人間の言葉に因る区別であって、宇宙には夜は存在しない。
宇宙は、闇こそが全てであり、太陽の光りが当って溜まっている所だけが、昼と呼ばれる、奇跡的な世界なのである。
私達は、眠りに着いている時こそが、原点の世界を生きていると言うことなのだ。それは、睡眠を取らないで起きて居ると、やがて死んでしまうが、寝すぎて死んでしまったと話は聞かない事からも、明らかである。
昼の世界は、仮の世界で、夜こそ真実の世界なのである。
私の文章が、日陰の世界こそ、スムーズに流れるのは其のためであろう。
昼の世界で、目に見える物だけにしか、反応しないで生きて居る人達に、どうしたら、私の文章が理解されるのか、これから先の世界は、天皇陛下でもどうにも成らない。
誰か、新しい理解を示す人が必要だろう。
私の文章の侭では、「が」で打ち消されて、変換されない様だ。
誰か、通訳(菩薩)の役割が出て来なければならない時を迎えている。
私も、パソコンに向かい出して4ヶ月が過ぎ様としている。
近頃、心臓がパカパカして来ている。もう限界が、近いのではないだろうか。
水 ―心臓 ―太陽 −振動 ―花崗岩 ―脳 ―言葉 ―文字 ―パソコンー磁気信号 ―水―、これらの繋がりを、科学の用語で説明し、コンピューターグラフイックで映像化して、誰でもが視覚化出来、認識出来る世界を急がなくては、地球も、私も、現界である。
「が」接続詞・先行の事柄に対し、後行の事柄が反対、対立の関係にあることをしめす。 言泉より
「「が」で引っ掛かる文書」https://star.ap.teacup.com/170606/588.html
2007/6/18昨日は、「饗宴祭・みあえのまつり」のテーマに相応しく、昼過ぎに「阿蘇品喜文君」が飛び魚漁の帰りに、自宅に立ち寄り、飛び魚40匹と、ダツ3匹を置いて行ってくれた。
献立は、飛び魚の刺身と腹子の煮物、其れに、飛び魚とダツの塩焼きと、前日に作って居た、地鶏で人参やジャガイモを煮た煮物等を出して、島の神に喜びを示した。たった三名での饗宴祭の直合いだったが、それでも一応の儀式には成ったのであろう。
其の効果が、現れたのかどうかは分からないが、今朝のメッセージの映像は、先ず、老人が座って居る姿が出て来て、其の姿が、鳥の首の形に変わった。
其れは、翁の漢字の意味を表して来たものであろう。
翁の漢字は、「羽+公」の組み合わせで、音符の公は、頂に通じ首の意味。鳥の首の羽の意味を表し、転じて、老人を尊んで言う、おきなの意味を表す。
【字義】@鳥のくびすじの羽 Aちち(父)Bおきな。男のとしより。また、老人の尊称。「老翁」「村翁」 と 載っている。 漢語林
正に、今朝のメッセージの映像は、翁の事を、示して来てものである事に間違い無い。
次の映像は、太陽の光を浴びている、植物の枝が映って来た。
其れは、小さな葉の広葉樹の枝か、其れらしく見える、海草の枝の様な物で、植物が、宇宙で一番大事な存在である理を伝えるものであった。
其れを、別な表現で言い表すと、宇宙生命には、太陽(水素ヘリウムの核反応)の光・エネルギーを、無機質から有機質に変える「みどり」の働きが、一番大事・重要である理・ことわりを、伝えて来ているものである。
此の地球の生物は、木の葉や苔や海草などが、太陽の光を利用して、有機質を生産する事から生じているものである。
だから、みどりが存在しなければ、生物の存在も無いし、動物が生きる為の酸素も、食料も無い事に成る。其れに、緑の森が無ければ、水の循環も、うまく行かなく成るだろう。
今朝のメッセージは、翁とは、人間だけの都合で、物事を考えるのではなく、宇宙全体の事柄を踏まえて、思考を進める者である事を示して来ている。
そして、翁の考えの基本には、地球生命の存在の理・ことわりが、在る事を示して来ているのだろう。
其れは、人間が思考のターゲットに、何を選べば良いのかをも、指示して来ているのだ。
現在社会に身を置く、人々の多くは、人間が創り出した金銭感覚の中にドップリ浸かって居て、生命の存在意味や、成り立ちなどを、気にしている人は、格段に少ない。其れは、翁の価値観からは、大きく外れている世界で、暮らして居る事に成るのだ。
今朝のメッセージの意味は、「本来の 人間の立場に回帰せよ。」との、神の指示ではないだろうか。
翁の姿が、鳥の首の形に成ったのは、単に、髭や髪が伸びて、鳥の様に見える姿の意味だけではなく、宇宙の意思の現れである「鳳凰」の思念をも、意味しているのではないだろうか。
人間とは、此の宇宙で、今の時間帯を生きる、最先端の姿をしているのであれば、宇宙の意思を、絶えず、自分の意識の内に置いて於かなければ成らないのである。そうする者が、此の地球に一人も居なく成れば、宇宙は存在意味を失うのである。
人間の体は、人間の存在だけで組み上がって来たものではない。
此処まで、体が出来上がる為に、36億年もの年月が掛かっているのである。
物が見える目も、音が聞こえる耳も、匂いを嗅ぎ分ける鼻も、食べ物の味を感じる舌も、人間自身が考えて創り出して来たものではないのである。
其れ等の理・ことわりを、突き詰めて行けば、人間にとって、何が一番大事な理であるかが、自から見えて来るのである。
其の、人間にとって一番大事な理が見えれば、我々は、どの様な暮らしをすれば良いかは、明瞭・はっきりとして来るのである。
そして、其の第一義には、生命の尊さが自覚されて来る筈である。
人間の生命は、36億年の時間と、DNAの記憶を抱え込んでいるのである。36億年前に、岩のミネラルを溶かして利用し、細胞を造り始め、やがて太陽の光を利用し形を変え、様々な姿に変化しながら、動物へと形を変え、情報管理の為に脳を発達させ、声や言葉を生み出し、現在の人類の姿と、成って来たのである。
現在・いまの地球生命は、地球の46億年の年月だけに因って、生まれた物ではない。其れは、太陽系の50億年より更に遡って、137億年の宇宙の誕生まで、起源を遡るのである。
其の、生命の成り立ちを考えれば、自分の存在が如何に尊く、大事な物であるかが見えて来るのである。
其の理に気付けば、価値観が大きく変わり、小さな物事への拘りなどが消えて、意識は自由に成り、調和の大事さに気が付き、周りの環境にも、敏感に成って来るのである。
其の調和に気付いた者こそ、翁と成り、人々に真理を説き、此の世を去っても、彼の世で聖霊として、永遠の世界を生きられるのである。
其れが、釈迦や、老子や、イエスの訓えの真髄なのである。
そう成る過程として、男性には、旅の行程が必要なのである。
翁とは、行く者・行者の行程を経て、ウォーキング-ディクショナリーを体得した者の呼び名であろう。
日本には「可愛い子には 旅をさせろ」との諺・ことわざが有る。其れは、正に「行く者」の基礎訓練と成るものである。
昔から、人類は、男性にとって旅が大事である理・ことを、自覚して居たのである。其の対象として、女性が無意識に、白馬に乗った王子様が、自分の所に訪れるのを夢見るのであろう。
其れは、「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」に見初められた「木花之佐久夜毘売命・このはなさくやひめ。別名神阿多都比売・かむあたつひめ」や、「須佐之男尊・すさのおのみこと」に助けられた「櫛稲田姫」の伝説に、色濃く反映されている。其れこそが「タオ・道」の真髄なのである。
今朝のメッセージは、「タオ・道」や「ダルマ・法」を悟った者は、既に、人間の意識を超越して、鳳凰と意識が合体している事を、知らせて来たのではないだろうか。其の翁とは、此の世に身を置いて生きながら、既に意識は、御嶽の「まつばんだ」に参加して「ミタケ-オアシンス」の世界に居るのである。
イエスや、空海の旅は、中断したままで、現在・いまも続いているのであろうか・・・。
「翁・おきな」https://star.ap.teacup.com/2006o414/16.html
其れに、宗教儀式で「水」が不可欠とされ、禊ぎ祓いの儀式が清水で行われるのかも、神道・仏教・キリスト教と共通している。
禊ぎ祓い 釈迦 イエスキリスト 「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」
2001/3/1人間が、水辺や滝などで、体を洗い清めて、罪穢れを祓い除く事を「禊ぎ」と言う。
年中行事として、陰暦3月「上巳(月の初めの巳の日、後には3日)」に行うのを春禊、7月14日に行うのを秋禊と言う。
「禊」と言う漢字は「示+契」で成り立ち、音を表す「契・ケイ」は「罪、けがれを清めるために 人の肌に 印を刻む。」と言う意味を持つ。漢語林から
「契・ケイ」は、ユダヤ教では「神との契約」として聖書に使われている。
昔は、人の肌に印を刻む事が、神との契約だったようである。
その風習が、刺青として現在まで残っている。
日本で、川や滝で水を浴びるのは、肌に印を刻む前の儀式なのだろう。
印を刻むと言うのは、自分の気持ちを肌に刻む事で、いつまでも忘れないで、記憶しておく為の行為だと思われる。
「文・ブン」と言う漢字は、人の胸に刻んだ印、「あや」の事であり、「辛・つらい」と言う漢字は、刺青をする針の形である。
古代では、川で体を清めて、胸に文字を刻む事が、神に通じる事に成るのである。
其れが禊ぎであれば、刺青をしなくても、自分の心に、しっかりと神との契約を刻む事に拠って、禊ぎをした事に成るのではないだろうか。
現代では、床の間の掛け軸や、額などに、自分の生活の指針となる言葉を書いて、日夜見る様にしているが、これも元を辿れば、文を胸に刻むと言う処から、来ているのかもしれない。
「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」も、釈迦牟尼仏も、イエスキリストも、神に通じる直前に、水で体を清めている。
これは、神道でも、仏教でも、キリスト教でも同じである。
私も、1984年6月4日に、屋久島の安房川で同じ事を行った。
そして、新しい世界創造の始まりの為に、自分の体を差し出す契約を結んだのだ。其の時、私に、未来世界の創造のプログラムが刻まれたのである。
神は、その契約に基づいて、2001年1月から事を起こし始めている。
私のプログラムでは、屋久島での始まりから16年7ヶ月目の事であった。
16年半の旅で、関わった人達が、一斉に動き始めたのである。
2月9日には、愛媛から「みどりの会」の立ち上げを決定すると、日本の「えひめ丸」に、アメリカの「グリンビル号」が衝突したと言うニュースが、飛び込んで来た。
2月9日は、終戦の日に「日本から 世界救済が 始まる」と、神のメッセージを受けた「矢追日聖」の命日(1995年)であり、マンガの神様「手塚治虫」の命日(1998年)でもある。
神の働きが、人の目に伝わるように、動き始めた事を示しているのである。
「禊」は、「契」に「示(神)」が加わって成り立っている。
私は今年に入って、1月と2月で、基本的な事が見えて来た様に意う。
今日から3月である。
春禊を前にして、今日、私の左腕と成って働く人も決まった。
ようやく、「旁」の文字の「方」の部分である「かたわら」に置く人材が決まり、「凡」の部分である「あまねく」と言う意味の、神の働きを広げて行く形が整った事になる。
明日からは、本格的な動きが起きるだろう。
2月27日には、「新天領」「心的」とメッセージが来て、「遷都を 心の的にせよ」と受け取った。愈々、新しい社会の組み立てに参加する事になりそうだ。
「禊ぎ」https://moon.ap.teacup.com/20061108/78.html
令和2年5月7日
礒邉自適
コメントは新しいものから表示されます。
コメント本文中とURL欄にURLを記入すると、自動的にリンクされます。