1984年6月4日(旧5月5日)神と交わした約束が果たされる事が 今朝告げられました。
18年8月18日未明
事象(とき)の切り替え
今朝は5時15分に是までの時間(とき)が閉じられ、5時22分に新しい時間(とき)が開いた。
其れは、旧約聖書に「神は6日間で此の世界を創造し 7日目に休んだ」と記されている事と関係が有り、是までの「事象・時空・とき」が閉じられて、新しい事象が始まる理・ことが知らされて来たモノの様である。
其の時間の「扉・まく」は、カメラのシャッターの様な物であり、其れは人間の瞼の仕組みと同じで、閉じている時は「月読界」で、開くと「天照界」であると言う事である。2016年6月6日
2008/5/11
あめのみなかぬし・宇宙の王
20・5・11
今朝のビジョンは、是までとは全く異なり、私の意識も、是までとは違っている。
其の様に云っても、メッセージの内容が、急激に変った分けではなく、是までのメッセージに連続しているのだが、一応其の様に謂って措くのは、読者が、私が物に執着していると、勘違いをして、気持ちが反転して、元に還ってしまう恐れがあるからである。
其れは、一枚の木の葉の裏側から、表側に意識が抜けてしまう事を、反対の世界に入ってしまったと、誤解されない為である。
24年前に、私の意識は、此の人間社会である相対の現実世界から脱皮して、四次元の絶対世界である、神の世界に突入した。
そして、此の人間世界を、神社の鏡の裏から視て来たのである。
其れが、昨日から、此方側の物の世界に、意識が戻っている。
其れは、銅鏡を胸に下げた男性を、女神が連れて来て、新しく漉いた和紙を、私に渡した事と、関係が有るのだろう。
其れは、私の意識に対する、女神が起した儀式だったのだ。
其れは、私の此の肉体が62年前から、母親の腹の中で形創られ、其の私の肉体に24年前・37歳の時に、神の世界の杖(御陵威・みいつ)を渡され、平成9年5月10日に京都の大徳寺にて、其の杖を手にして、表に姿を現す写真を撮らされた。
そして、今日から再び、全く新しい世界の中に、私の意識を送り込んでいると考えられるからである。
其れは、左右も、上下も、前後も、過去未来も、善悪も無い世界である。
其れこそが、自己判断の林檎を食べない前の、アダムとイブの世界である。
其処には、言葉がなく、ただ此の体を始めとした、全ての物が存在する、宇宙と呼ぶ世界が存在する。
其の世界は、言葉が無いので、物の区別や識別が無いのである。
其れこそが、釈迦仏陀が謂った「十二因縁起」の世界であり、三千世界の中心に、自分の意識が存在すると言う事である。
そして、其の意識とは、久遠元初に自分が在って、其の儘、此処まで「生命・いのち」が此処に、居座っていると言う事である。
其れが、日本の「惟神の道」で云う処の、「あめのみなかぬし・天の御中主」の立場・在所なのである。
其の在所には、最早、階段は無いのである。
其れは、イエスキリストの謂う「天の父」が存在する場である。
其処は、老子の謂う「恍惚」のガスの霧も晴れ、何も、意識を反射する物は無い。其れが、ヒトが存在する原初の場であり、ヒトは覚醒さえすれば、帰れる場である。
其処には、安らぎの西方浄土も無く、東方から、光と共に現れると言う「メシア・救世主」の概念も無いのである。
其処に住む意識の拠り所は、一休宗純禅師の謂う「風餐水宿・ふうさんすいしゅく」である。
一休宗純禅師は、誕生日が1394年1月1日で、命日は1481年11月21である。
一休禅師は、第100代の「後小松天皇」の子供で、元旦に生まれて、新嘗祭の鎮魂の日に、88歳で亡くなっている。
だから一休禅師は、一番目出度い日に生まれて、一番大事な日に、大往生した事に成る。
其の一休禅師が、屋久島で1984年夏に私に杖を持たせ、庵の名を「風餐水宿」と告げて来たのである。
そして、自分が住んで居た大徳寺に13年目に呼び出して、看板に成る写真を1997年5月10日撮らせ、其の日から、昨日で11年が経過したのである。
そして、今朝気付いた事は、一休禅師の誕生日を調べる為に、一休禅師がテーマのブログを開くと、平成18年5月13日に一休禅師がメッセージを伝えて来た事が記されている。
其の5月13日は、旧暦が4月16日で、今回、第一回目大山祇神の勉強会が開かれる新暦5月20日(旧4月16日)と同じ日である。
一休禅師の母親は、南朝方の血筋だったので、一休(幼少名千菊丸)は貴族には成れず、6歳の時に、寺に預けられ出家する事に成ったらしい。
是だと、来年で、写真を撮って丸3年と成るので、何処かに「風餐水宿」の看板を揚げられるかもしれない。
「面白雑学」http://moon.ap.teacup.com/26660606/
昨日10日は、意味が解からないので、文章にはしていないが、四角の銅鏡の映像の後に、太陽の光に透かされ、葉脈がはっきりと見える、若葉が現れた。
今朝、其の意味を考えると、自然界の植物は、全て葉の形を別けて、存在していると言う事である。
其れは、人間の暮らしは道具の使い方で、夫々の働きを違えているが、其れに対して植物は、自分自身の体を使って、様々な役目を果たしている理を、意味しているのではないだろうか。
其れは、生物の遺伝子は、自分の形を変化させる事で、進化を続けて来ている事を示している。
其れは、人類が67億人居ても、全員が、顔や姿形が異なる事と同じであり、生物は皆、他と違う形状を探りながら、特徴を現して、いのちの継続を図って来ていると言う事である。
其れは、植物が、葉の形状だけではなく、花の形や、色や、臭い等にも、気を使って、自分の個性を、発達させて来ている事を見れば、理解出来る事である。
其れに対して、人間類は、脳や手足の発達で、使用する道具を発明をしたり、色々な色に、糸を染めて作った服を着て、自分の個性を創り出しているのである。
今朝のメッセージは、其の事の続きであるらしく、白い豆腐が二皿と、黒い胡麻豆腐が一皿映って来た。
私は、其の豆腐を食べる前に、部屋の外に一回出て、また帰って来ると、黒い胡麻豆腐は、誰かが食べてしまったらしく無く成っていた。
そして、白い豆腐は二皿とも残っているのだが、形も色も皿も同じなので、どちらが自分の物なのかの区別が付かず、食べる事が出来なかった。
其の意味は、形が同じであっても、白黒の色の違いがあれば、区別が出来るが、形も色も同じであれば、どちらが自分の物であるかの判断が、出来ないと言う事を意味している。
そして、場面が変り、私の意識は銭湯に居て、近くに、同じ形の白い石鹸が同じケースに入れられて置かれている。
私は、どちらが自分の石鹸なのかが判らず、使う事が出来ないのである。
そして、近くの棚の上を見ると、同じ石鹸入れが、沢山置かれていた。
此の映像は、人間が生活に使用する物の世界であるが、前の場面の食べ物が同じである事と、共通している。
此の二つの場面も、此の相対世界である三次元の、現実世界の意味を示して来ているのだろう。
其れは、神が、何を伝えて来ている物なのかは、私にも明確ではないのだが、昨日からの内容を考えると、此の三次元世界に現れている、物の存在の意味を、正しく理解しろとの事ではないだろうか。
其れは、物の存在の意味が、明確に成らなければ、此の現象世界の政(まつりごと)は、正しく行えないとの事ではないだろうか。
今朝は、其の他にも沢山の事柄が現れたが、文章が長く成るので、最後にもう一件説明すると、神棚に捧げられる「日本酒」と「塩」と「丸い球石」が映されて来た。
其れは、神に捧げる御供え物だから、鏡や剣等と同じく、神と人間の絆を意味するのだろう。
其れは、石上神宮の物部の儀式に、関係が有るのではないだろうか。
一昨日からのメッセージは、言葉や文字の世界ではなく、神社の儀式に関係がある物の世界である。
其れは、神々が、新しい政(まつりごと)の儀式の件を考える様に、私に訴えて来ているのではないだろうか。
群馬県の南北村に在る、黒滝不動尊に納められている「先代旧事本記大成経」の内容は、儀式に使用する品物に付いて細密な説明である。
此処数日のメッセージから考えられる事は、儀式に使う品物は、私が考えていたより大事であり、神が、此の三次元を動かすには、物が正しく配置され、正しい順序で、動かされなければ成らないと言う事である。
其の事があるからこそ、日本では事難しく、儀式が行なわれて来たのであろう。
私は、儀式に使う神具や、作法等には全く疎いので、何をどうしたら良いのかが判らないが、其れ等の事柄は、宮内庁や神社庁に、長い伝統として残されているのであろう。
私の役割は、ただ霊魂・神々が、正しく此の世で働ける様に、協力して行く事である。
今朝の他のメッセージは、其れに拠って、宇宙の森羅万象がどう成るかの内容であるので、簡単に文章にする分けには行かない。
若し、私が間違って公表してしまえば、大変な事に成ってしまうからである。だからこそ、是まで、大事な事は秘儀とされて来たのである。
是からが、私の働きの本番であるとの事だろう。
今朝示された事を、是から、どの様に、此の三次元世界で現実化して行くかが、是からの私の課題であろう。
大変な世界が、在ったものである。
平成20年5月11日
礒邉自適
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