約束を護る
1984年6月4日(旧5月5日)神と交わした約束が果たされる事が 今朝告げられました。
18年8月18日未明
事象(とき)の切り替え
今朝は5時15分に是までの時間(とき)が閉じられ、5時22分に新しい時間(とき)が開いた。 其れは、旧約聖書に「神は6日間で此の世界を創造し 7日目に休んだ」と記されている事と関係が有り、是までの「事象・時空・とき」が閉じられて、新しい事象が始まる理・ことが知らされて来たモノの様である。 其の時間の「扉・まく」は、カメラのシャッターの様な物であり、其れは人間の瞼の仕組みと同じで、閉じている時は「月読界」で、開くと「天照界」であると言う事である。2016年6月6日
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2008/9/21
「一番古い記憶」
未来創造
一番古い記憶
20・9・21
本日21日は、弘法大師空海の月命日である。
其の、弘法大師空海に関係が有るのかどうかは判らないが、今朝のビジョンには言葉の世界の源が現れて来た。
其れは、アステカ文化の暦である岩に刻まれている「鏡」の、「真北・0時・12時」の所に有る「ケイン・葦の芽・葦北」に関係が有り、日本を「豊葦原瑞穂の国」と呼ぶ事と、「スメラのみこと・皇命」が国を「スメル・総める」とのシュメール文化の概念である事と、パスカルの「人間は考える葦である」とのイメージに、繋がる世界である。
其れは、湖や池の「葦原・よしはら」に、人間の記憶が繋がっている理・ことを示唆している。
其処には、全ての動物の記憶の源が、潜んでいるのだ。
其の記憶は、「蛇」に成る前の「蜥蜴・とかげ・戸陰」の元である「井守・イモリ・泉守」の記憶である。
其の記憶とは、葦が、水中の汚染の浄化を図る事に関係が有り、其の浄化システムは、人間の腎臓のシステムと関係が有るのだ。
私は24年前、此の世界に入った時に、夏の間、水ばかりを飲んで、心拍が停止し、呼吸が止まる寸前まで断食を続けて、宇宙の始まりの次元まで、意識が「祷った・還った」事が有る。
其の記憶は、138億年以上前の記憶だが、途中に、水辺に生活する小型恐竜の記憶が挟まっていた。
其れは、人類が、類人猿から分離する650万年前より古い記憶であり、言葉を使い、大脳を発達させて来た現代人からすると、一番遠い時代の記憶であると謂えるだろう。
人間の体には、物事を考えたり、記憶したり、身体機能を制御している脳は、頭の中にある。
其れとは別に、「リトルブレイン・第二の脳」と呼ばれるものが、ヘソの下辺りに有る。
「リトルブレイン」とは、神経が集まり、神経を繋ぐ神経節の一つで、小さな塊である。其の塊は、小腸など内臓へ命令を出し、化学物質に対しても脳(ビッグブレイン)と同じような反応をすることからこう呼ばれている。
其の、リトルブレインの働きに付いては、未だ解からない事が多いが、脳の研究モデルとして使われる事も有るそうである。
臍の下と云えば、「丹田」と呼ばれる所である。
丹田とは、不老長寿の薬「丹薬」を作るところと言う意味で、自律神経系や免疫力に大きく関わるとされている部分である。
だから、剣術などの武道でも丹田に意識を集中する訓練をするのであろう。
其れは、情報に振り回される大脳よりも、リトルブレインの方が、精神構造の土台に成っていることに成る。
だから、リトルブレインにも適度な刺激を与えれば、その働きが活性化し、精神が安定して、内臓が健康になるのではないかとも、言われているのである。
丹田のリトルブレインとは、「腹腔神経節」と「上腸間膜神経節」の事で、其れは腎臓の中心部分の外壁に着いている。
だから腎臓の働きに直接関わりが有る事は確かである。
「肝腎要・かんじんかなめ」との諺が有る様に、人間の体にとって肝臓と腎臓は大事な役割を担っているのである。
「肝臓」は、身体の毒素を分離する働きを行っており、「腎臓」は身体に不必要な物を、対外に排出する働きを行っている。
だから、其の肝臓と腎臓が健全に働いていないと、肉体に毒素が溜まり、肉体どころか意識も混濁して来るのである。
特に、腎臓は、体内毒素を排出する為に、一日にドラムカン約一本分(160〜170リットル)の水が必要であり、人体は、水無しでは維持出来ないのである。
其のリトルブレインの働きが、何時の時代・次元から始まったのかを考えると、数億年前に、葦の生える湿地で、他の生き物の餌と成って居た時代に、身を潜める行動から生まれたものではないのだろうか。
其れは、鳥等の外敵に見付からない様に、湖面を揺らす事無く、静かに身を潜める為に、養われた仕種が元ではないのだろうか。
其の様に考えると、「パスカル」が、人間は水辺に生える一本の、弱い葦の様な物だと謂った、表現の深層が理解出来る様な気がする。
パスカル【Blaise Pascal】[1623〜1662]フランスの数学者・物理学者・思想家。円錐曲線における定理の発見、計算器の考案、トリチェリの真空実験の追試の成功に基づくパスカルの原理の発見や、確率論の創始など、多くの科学的業績を残した。ジャンセニスムの信仰に入り、イエズス会を「田舎の友への手紙(プロバンシアル)」で攻撃。キリスト教弁証論を書くための覚え書きが死後「パンセ」としてまとめられた。
「考える葦」はパスカルの「パンセ」の中の言葉。「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である」として、人間の、自然の中における存在としてのか弱さと、思考する存在としての偉大さを言い表したもの。
「パンセ」はフランス語で「瞑想録」の意味。パスカルが生前に構想していた書物のための原稿やメモ書きの断片が、死後に整理されて出版されたものである。様々なテーマについての文章が含まれており、フランスでは、人生論、哲学(自然哲学、世界論)、モラリスト文学、信仰の書などとして読まれてきている。「人間は考える葦である」「クレオパトラの鼻、それがもう少し低かったら、大地の全表面は変わっていたであろう(上の記事を参考)」など、印象的で含蓄のある表現も多数含まれており、それらは現在でもしばしば引用句として使われ続けている。・・・
ウィキペディアフリー百科辞典 現在記載
今朝のビジョンの映像は、弘法大師空海の時代に使われていた、道具や文字ではなく、産業革命初期風の、道具や建物が小道具に使われていたので、パスカルの意識が作用していたのかもしれない。
其のビジョンは、私は、哲学者の思考の様な意識で、答えを導き出す為に、様々な文章を紙に書くのだが、真実の扉の前で、其れがブロックされて、奥義に繋がらないのである。
何回遣っても解決しないので、其の作業を止めて、他の所に旅をする為に港に向うと、其の港には客船等も無いし、他に旅人も居ないのである。
私は、港に有る古びた小屋の中に入り、其の中に準備されている、緑色の小型のバッテリーを手に提げて、港に止められている船の方に向った。
其の舟には、エンジンは付いているのだが、バッテリーを繋がなければ始動できないらしいのである。そして、其のバッテリーは、5分程の時間しか使用出来ない事が理解できた。
しかし、私は、其の舟のエンジンを掛けて、乗り込む事には成らないで、船着場で、誰かは判らない男性一人と出会い、何処かに向う事は止めてしまった。そして、其の人と、何かを話し始めたのだが、其の人物の顔と、会話の内容は記憶には残っていない。
しかし、今朝の思索の雰囲気からすると、其の男性はパスカルだったのかもしれない。そして、水辺の葦を、良く見詰めて居たパスカルは、私の意識を、葦原に巧く誘い出したのではないだろうか。
私が1986年の深秋に、高知県の仁淀川の岸辺を歩いて居ると、一陣の風が葦原を吹きぬけて、葦の枯れ葉が音を立てた。
私が、其の様子を観て居ると、頭に和歌が浮かんだ。
其れは「葦原の カラカラ鳴るは 吾がこころ 枯れてこそ尚 美しきかな」と言う一句である。
其の句を詠んだ御霊が、誰であるのかは良く判らないが、葦原と、人間の意識には、深い繋がりが有るのかもしれない。
其れが「豊葦原瑞穂の国」の土地柄であるとの事であり、日本に渡来して来たシュメール人や、アステカ文化の人達の、心象風景を示しているのではないだろうか。
今朝の映像の意味は、言葉や数学は、人間の顕在意識の世界のモノであるから、其の思索の方法では、神の奥義である神秘の扉は、開かないとの事であろう。
其の様に考えると、「真言・マントラ」を使い、また書の達人であった空海でも、神の神秘の扉は開けていない事に成る。
そして其れは、パスカルでも不可能だったので、自分の心象風景を、一本の葦に例えて表現したのであろう。
しかし、アステカの暦(太陽の暦石)の北の中心には、葦の葉が刻まれていて「ケイン」と呼ばれている。
其れは、アステカの人には、其の神秘が解明されていた事を証明している。
其の事実は、人間は文字を開発した為に、其の文字に意識が捉えられて、神秘の扉を潜れなく成った理・ことを意味している。
其れを考えると、日本の文化は「理屈を云うな」で、神社で行う事は、意識を祓う禊ぎの儀式である。其れは、釈迦仏陀の訓えである法華経の「十二因縁起」の意味と同じである。
其の様に考えると、釈迦仏陀はパスカルや空海より、意識が深く神秘に潜り込んで居た事に成る。
「法華経十二因縁起」
http://wave.ap.teacup.com/20060106/332.html
一昨日のメッセージに、「あこい」との言葉が告げられて来たので、ITで「アコイ」を検索すると、次ぎの様に載っている。
・「アコイ・Akoy」ハウサ語
ハム諸語のうちのチャド諸語に属する重要な言語。ナイジェリアを中心に、ニジェール・ベナン・トーゴなど西アフリカの広い地域で話されている。使用文字は、アラビア文字が一般的であったが、現在ではラテン文字を用いる。
1.Akoy kyao アコイ キャオ 良い、きれい(見た目がよい)
2.Akoy dadi アコイ ダーディ 良い、おいしい、気持ち良い(感触が)
との言葉が有り「アコイ・Akoy」とは「良い」との意味である事に成る。
日本では、「葦原」は「よし原」と呼ばれているので、無縁では無いのかもしれない。
「葦・あし」は、人間の役に立つので、善悪の「悪し・あし」では悪いので、「良し・よし」と呼び替えたとの説が有る。
「アコイ」は、山梨県の甲州地方の方言では、「踵・かかと」の意味であるらしい。
熊本県葦北郡の「葦北・あしきた」の地名の意味は、言葉の意味は「進む」である。
其れは、アステカ文化の太陽の暦石の葦が、北の位置に有る事と関係が有り、意識の「アシ・葦・足」が「北・神・かみ・上」に向かう事と、関係が有るのではないだろうか。
其れは、「妙見信仰」や「北斗信仰」や「紫微垣・しびえん」の概念とも、連動している事に成る。
其の様に考えると、「アコイ・踵・かかと」と「葦北・あしきた・足北」が、関係有りそうにも想えて来る。
今朝の私の意識は、言葉や文字に拠る、真実への探索が進まず、何処かに、旅立とうとしていた。
しかし、其の旅立ちを、誰かが、水際・みずぎわで止めたのである。
其の、私の行動を止めた男性は、昨日のビジョンに現れて「ゆうな ゆうな」と示した、男性の御霊と繋がっているのであろうか。
そうであれば、昨日、私の内部から、外に投影された女性の母性が、未だ進化する為に、真実を求めていると言う事になる。
其の真実の扉は、岩に棲む「蜥蜴・戸陰・とかげ」ではなく、葦の生える地の水際で「泉守・井戸守」をしている「イモリ」や、山椒魚・さんしょううお」が、知っているとの事かもしれない。
そうであれば、私の涅槃・瞑想は「蛇・エラブ」の次元を越えて、「善悪・よしあし」のチョイス・選択を超えて、水の意識に潜り込んで行かなければ成らない。
其れが、「リトルブレイン」の働きを、顕在意識に浮かび上がらせる作業と成るのだろう。
私は24年前、水断食を続けて行って、浣腸をしても、水しか排出しない段階まで、胃腸の洗浄を行った。
そして、古代の聖者の排出した、尿の一分子が、自分の飲んだ水に含まれており、其の聖者の尿の水分子が、自分の腎臓の漉し器に引っ掛って、其の聖者の記憶情報が、自分の意識に吸収される事を体験している。
人間の五感とはセンサーであり、其のセンサーが捉えた情報は、大脳に送られて整理される。しかし、整理する基準は、自分自身の過去の記憶データに拠ってである。
だから、自分の過去の記憶データが間違っていれば、出した結論も間違っている事に成るのである。
其の事を考えると、現代の人間社会に蓄えられているデータも、何処までが正しいのか、信じられた物ではないのである。
情報が間違っているのであれば、其の情報は、在る事自体が、悪しき事であるのだ。其れが、旧約聖書で言う処の「蛇の智慧」の意味なのであろう。
パスカルも、聖書の内容に付いて、問題を提起している。
其の事を考えると、私に起きた「神霊の思頼・みたまのふゆ」は、未だ完結していないで、是から、言葉を越えた世界「イモリ・泉守」の棲みかである、葦原の根の、足元に潜り込んで入って、其の場で、細胞の記憶を蓄えている、水心に達する必要があるとの事ではないだろうか。
そうであれば、是から「生命・いのち」の神秘の深みに嵌って行く事が、2600年先の、未来創造の礎と成るとの事なのかもしれない。
其れは、新しき「聖なる書」の創作にも繋がる行為であろう。
其れが、アフリカの古い原語である、ハウサ語の「アコイ・良い」に繋がるのであれば、私の「マントラ・真言」は、一万年前のマレー語の意味を含む「日本語・大和ことば」から、10万年前にアフリカから脱出した、古代人のマントラにまで、里帰りをする事に成るのである。
平成20年9月21日12時21分
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
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