約束を護る
1984年6月4日(旧5月5日)神と交わした約束が果たされる事が 今朝告げられました。
18年8月18日未明
事象(とき)の切り替え
今朝は5時15分に是までの時間(とき)が閉じられ、5時22分に新しい時間(とき)が開いた。 其れは、旧約聖書に「神は6日間で此の世界を創造し 7日目に休んだ」と記されている事と関係が有り、是までの「事象・時空・とき」が閉じられて、新しい事象が始まる理・ことが知らされて来たモノの様である。 其の時間の「扉・まく」は、カメラのシャッターの様な物であり、其れは人間の瞼の仕組みと同じで、閉じている時は「月読界」で、開くと「天照界」であると言う事である。2016年6月6日
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ファイナルアンサー(最後の解答) »
2008/9/28
「素人が私を愛している 」
未来創造
素人が私を愛している
20・9・28
昨夜は、NHK番組の韓国ドラマ「太王四神記」の最終回を観ていると、ラストシーンの石碑の文言を読み上げる処で、私の両手の10本の指に、カモ(神の電気信号)の反応が強く有った。
其の読み上げた文句には、「・・・天は人間が求めるモノではなく 振り返った時に後ろに在るモノ・・・」と有った。其の言葉の内容に、意味が有るので、私の「魂しい・生命・いのち」が反応したのであろう。
そして太王四神記は、昨夜が24回放送の最終回であり、其の日の朝のメッセージが「ファイナル-アンサー・最終解答」であったのは、単なる偶然ではない。
其れに、此処数日「王の条件」をテーマに、メッセージが届いていた。
其の出来事を能く考えると、私達人間の存在の背景には、途轍もないシステムが存在し、人類を操っている事は間違い無い。
其のシステムの存在を、我々人類は、長い間「天の働き・神」と呼んで来たのである。
さて今朝のメッセージは、一休宗純禅師らしき人物が現れたが、其れは、私の意識と合体している存在であった。
其の一休禅師の姿は、ブログのプロフィールの処に大きく現れて、ブログのタイトル名の背景色が、塗り上るのを待っていた。
其の背景色は黒で、なかなか全体が真っ黒に成らないので、タイトルが書き込まれる処までは、映し出されては来なかった。
しかし、下の方には、既にドンドンと内容が書き込まれつつあった。
其の内容は、学級別の授業内容で、神社の16段の階段と同じ意味が有り、精神的な階梯を意味していた。
考えて見れば、現在の日本の教育制度は「小6年・中3年・高3年・大4年」計16年で、神社の拝殿から社までの16階段(伊邪那岐命から高御産日神まで)と同じ数である。
其れは、「天の御中主・卒業」に到達するまでに、16の階梯が必要であるとの理と同じ構造である。
今朝のメッセージは、一休宗純禅師が校長先生である学校を、造れとの事の様である。其れは、私の自適塾の延長線上である。
私は、自適塾のトップページには、京都の大徳寺で、1997年5月10日に撮影した写真と、一休禅師の言葉である「諸悪莫作」と「衆善奉行」をテーマとしてある。今朝のメッセージは、其の自適塾を本格的に開始せよとの事ではないだろうか。
私には、24年前に屋久島で、「風餐水宿・ふうさんすいしゅく」との言葉が告げられて来たので、私の屋号は「風餐宿」にしてある。
始めは、其の言葉が、何を意味するのか解からなかったのだが、旅の途中で其の言葉は一休宗純禅師のもので「風を食し 水に宿る」との意味で、雲水・うんすいの心構えを現す言葉である事が、解かったのである。
私に起きた、4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」の最初に姿を現したのは、マクロビォティックの創設者である「桜沢如一」で、噛む事・歯・顎がテーマであった。
二番目に現れたのは大本教の「出口王仁三郎」で、歩く事・足がテーマであった。
三番目に現れたのが剣豪の「宮本武蔵」で両手を使う事・左右脳がテーマであった。
四番目に現れたのが絵画の「パブロ-ピカソ」で、絵を画く・目・視線がテーマであった。
そして五番目が、宗教の「一休宗純禅師」で「言葉・叡智・感情・場(在る)」と言う事がテーマであった。
其れは、身体の仕組みと、意識構造の成り立ちの順番を示している。
1)噛む・食。 2)足・歩く・後頭葉。 3)手・作業・前頭葉。 4)目・視覚。 5)心・精神。の順番である。
今朝の、「一休学校」の「学年・学級」別カリキュラムは、其の事を参考にして組み上げて行くとの事ではないだろうか。
其のカリキュラムは、私の身体と「神霊の思頼」の精霊との「コラボレーション・collaboration」で、築き上げて来たものである。
其のコラボレーションは、今でもこうして続いているので、24年間の私の体験を、理解出来る人に話せば、おのずと是までには無かった「教材・テキスト」が組み上がって行くのではないだろうか。
其れは、一休禅師の「神仏は 自分に内在する」との教えを、基本とする事である。
私は、全ての個人財産を失ったが、替わりに、地球星一個其の侭を、左手の掌に乗せられている。
其れは、自分自身が自分の左手の、掌に乗っていると言う事である。
老子の言葉に「自分の事を 一番心配している人に 国を預けなさい。そうすれば国は潰れる事は無い。国の事を心配して 走り回っている人に国を任すと 直ぐに 其の国は潰れてしまう。」とある。
其の訓えを護るには、屋久島に「一休学校」が創設されれば、事足りるのではないだろうか。
現代社会はIT社会である。
一箇所に活動拠点が設けられ、其処の活動が、画像で24時間世界に向けて放送されれば、テキストとして利用する事が出来るのである。
既に、屋久島の小島地区の天満宮の山手の岡には、「ルーアンの道」として其の計画は進みつつある。
其の計画が完成すれば、一休学校が開校される事に成るだろう。
今朝は、明け方「素人が わたしを愛している」との言葉が告げられて来た。
其れは、現在・いまの宗教家は、真実の「神・存在」を、正しく理解していないとの意味であろう。
そして、素人の方が、神の存在を理解しているとの事ではないだろうか。
其の「あたし・存在」とは、地球生命全体の「いのち」の基である、「DNA・遺伝子」の二重螺旋から発せられている意識である。
釈迦牟尼佛は、其の「存在・あたし」を「ほとけ・生命」として感じとり、「頼れるモノは 此の自分の肉体だけである。
だから 「精進が一番大事である」と説いたのである。
一休宗純禅師の言葉には、「昔 釈迦と言う悪戯者が居て 余計な事を云ったので 現在の様な 迷い人が多い世の中に成ったのだ。」とある。
其の一休宗純禅師の「想い・念い」が、私の「憶い・思念」と成って、私の「おもい・重い・おもし」と成っているのだろう。
此の漬物石を外すには、私の身心が健康である内に、一休学校を完成させなければ成らないのだ。
昨夜のテレビ-ドラマの「太王四神記」では、五種の神器を王自身が破壊して、天神の呪いを外してしまった。
其れは、日本の神社や、天皇家に有る三種の神器を破壊して無力にし、本来の、神と人間の関係を取り戻す事を、示唆しているとも考えられる。
其れは、釈迦や、老子や、イエス-キリストの訓えの真髄を護る事である。
神の意識は、自分の身体の中に在るのだから、穢れを祓って、本来の自分の「命・みこと」に目覚めると言う、本来の日本の伝統に、立ち返らなければ成らないのである。
其れが、「祷り・帰命」とか「自分」の言葉の意味なのである。
今朝は、其の理を示すかの様なビジョンが現れた。
其れは、私が自分の最後の荷物を、本来の自分の住いに全部運び込んで、最後に、荷物を運んだコンテナ型トラックを洗って居た。
其のトラックの外壁は、何故か、黒板に成っていて、私は梯子を掛けて、汚れや、貼られたガムテープを、水を掛けながら洗って居たのである。
其の意味は、旅で着いた余計な汚れ(情報)を、綺麗に洗い流すとの意味であろう。其の作業が終れば、本来の私の意識に、立ち返れるとの意味なのかもしれない。
其れは、私の心の旅が完了し、元の場に、着地(ソフト-ランディング・soft landing)する事を、意味しているのではないだろうか。
取り敢えず、其の指示に従って、旅で着いたモノを、全て洗い流して見る事にしょう。
其の作業の後に、何が現れるのか、私にも分からないが、「素人がわたしを愛している」との言葉を告げて来る存在が、未だ残っているのだから、全てが白紙に成る分けでもないだろう。
黒板は、白いチョークの色が目立つ為に、黒く塗られている物である。
だから、中に白い模様が着いていてはいけないのである。
黒板は、宇宙の色である「無・真っ黒」でなければ成らないのだ。
宇宙は、真っ黒の闇であるからこそ、小さな星の明かりが、反映されるのである。
今朝の映像で、一休さんが、テーマである看板の背景色が、真っ黒に塗り潰される迄待って居たのは、小さな教えの意味でも、ハッキリと人間の意識に反映される様にする為であろう。
大きなテーマも大事であるが、日本人が得意とする分野は、心のひだの部分である。
其れは、味の文化と同じで、能力が高くなければ、感じ取れない世界である。其の、心のひだの文化こそ、遺伝子を進化させる力を、持っているのではないだろうか。
昨日27日から、屋久島も急に肌寒く成って来て、シャワーを浴びた後にクシャミが出る様に成って来た。
「暑さ寒さも彼岸まで(9月20〜26日)」との言葉があるが、正に其の通りの気候の変動である。
其れ等の、季節に対する言葉を使う者こそ、女神の真実を知る、玄人の世界なのかもしれない。
そうであれば、綺麗に成った黒板に、和歌の世界の季語・季詞でも書いて、敷島の勉強でも始めて見ようかな。
其れが、一休さんの心根と合えば、一休さんが好物だった「地蛸」を肴に、酒の一杯も飲めるのかもしれない。
自適塾トップページ 「みいつ」
http://jite-jyu.main.jp/
平成20年9月28日11時31分
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
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