屋久島生命研究所
世界自然遺産に登録された屋久島から 世界に向けて 人類の未来社会を創造する情報を発信して行く為に 作成しました。
青い海に囲まれ 美しい緑の山岳と清い水と風の島。其の島から人類が幸福に成る情報を発信します。
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2009/5/10
「最後の長い夜が明ける」
祭り
最後の長い夜が明ける
21・5・10
昨夜は、旧暦の4月15日で満月であった。そして、今日は16日で大山祇神の祭の日である。昨夜は、PCに向かっても目が痛むので、作業を止めて11時前に宿舎に帰り、シャワーを浴びてベッドに入った。
そして目を瞑って居ると、誰かが、右手に持っているコーヒーカップの様な器に入っている、コーヒーか醤油の様な液体を、立ったまま、床に全部溢してしまう映像が映し出されて来た。
其の映像の意味が理解できないまま、長い間眠れない状態が続いていた。すると、時々、身体に、何かのエネルギーが流れ込んで来る感覚が有り、身体に痙攣の様な症状が有った。其れは、以前には度々有った現象だが、此処数年は無かった症状である。
其れから、何時の間にか眠りに入った様で、メッセージの長い映像を見ていた。其の映像は、天に恥じない生き方をする内容である。其れは、昨日のメッセージに有った「晃光主義」の中身に付いて、示されて来たモノなのではないだろうか。
「晃光主義」とは、「主義」が、次の様に、大辞泉に記載されている。
1 持ちつづけている考え・方針・態度など。「それが僕の―だ」「完全―」「菜食―」
2 思想・学説・芸術理論などにおける一定の立場。イズム。「実存―」「自然―文学」
3 特定の原理に基づく社会体制・制度など。「資本―」
「晃光」とは、「光の存在を 明かに示す」との意味で、「晃光主義」とは「太陽の下で 光に満ち溢れて 生きる主義」との理・ことではないだろうか。
しかし、昨夜は15夜の満月であり、太陽の光ではなく、月の光に満ちている世界である。そして、今日は16日で、大山祇神の祭りの日である。
其の日付の事を考えると、私の身体に起きた現象を含め、何等かの答えを導き出さなければ成らないのだろう。「満月」とは、月の表面に太陽の光が当っている場所が、全面地球の方に向いている時の呼び名である。其れは、太陽光の46万5千分の1が地球に届いて、地球の夜が明るく成る現象である。
「満月」とは、全面が輝いて円く見える月。月と太陽の黄経の差が180度になったときに起こる。十五夜の月。望(ぼう)。もちづき。 と 辞典には載っている。
其の理・ことと、大山祇神の関係は、直接には無いのであろう。大山祇神の御神体は、7回半トグロを巻く大蛇の姿であり、雨や、水や、海水の動きに関係有るモノである。其の要因の1つとして、満月が水平線に顔を出す時刻が、海の満潮時なので、海水を動かしている「神・働き・力」が、満月に関係有ると考えられたからであろう。
其の満月の夜に、器の中に残っていた黒い液体が、床に全部捨てられる映像の意味は何なのであろうか。「キリスト・メシア・救世主」の意味は、天に油を注がれた者の意味で、神に選択されるの意味らしい。しかし、昨夜の場面は、油を人間が掛けられるのではなく、残っていた黒い液体が床に全部捨てられる場面である。其れは、何を意味しているのであろうか。
(いま右手の親指に激しくカモ(神の電気信号)の反応が起きて来ている。)
どうやら、此の理・ことに重大な意味が有るらしい。
今朝の明け方のメッセージは、「最後の夜が明ける」との内容で、地球に滞っていた「黒い闇・無明」が全部晴れるとの意味であった。其の、闇が存在する原因は、1人の「義人・キリスト・ブッダ・王」を育てる為のモノ・現象であり、「善・慈悲」を育てる為に、「鬼・悪魔」の存在が必要であったと謂う理・ことである。
其れは、聖書に有る様に、イエスキリストの行為が、皆の「罪・業・カルマ」を背負ってくれたとの意味ではなく、1人の「キリスト・メシア・彌勒菩薩」を育て上げる為に、皆(民衆)が「業・ゴウ・鬼役」を、背負ってくれていると謂う事である。
其れは、新約聖書の内容を、覆す「モノ・内容」である。
しかし、老子の言葉を借りれば、此の世界は「嗇にしくはなし」であるので、全てが答えを出す為に存在するとの理・ことであるから、1人の「義人・キリスト・王」が育てば、此の世の一切の「罪・業・闇」は、晴れると謂う事に成るのである。
其れが、昨夜から、今朝に掛けて、起きたと言う事であろう。
其の様に考えると、私の意識の成長の為に、全ての現象が存在した事に成るのである。其の理・ことを、私の師は全て知っており、私に全てを掛けたのであろう。
そして、其の背景に在る「天・神」の働きは、私が師の下に返る事を恐れて、師を天に召し上げてしまったのであろう。そして「天・神」は、私を屋久島に帰す為に、妻も召し上げてしまったのである。
だからこそ、今朝の私が「今 此処に」存在するのである。
内容は前後してしまうが、今朝のメッセージの映像の中間の内容は、「晃光主義」の中身に付いてである。其の理・ことを説明しなければ、何故、地球の「闇・業・カルマ」が晴れたのかの意味が、解からないであろう。
其れは「天照・あまてらす」の世界が何であるかと言う事である。「天照・あまてらす」とは「こころ・心」の世界の理・ことである。
其れは、身体の生理を司っている「月読み」や、「いのち・DNA」を司っている「スサノオ」や、水の循環や時間・トキを司っている「大山祇神・海神」ではなく、「意識・こころ」の世界を司っているのである。
其の様に考えると、昭和天皇が崩御した昭和64年1月7日の夜中に、私の心臓に昭和天皇の御霊が飛び込んで来て、私が飛び起きた現象の意味も理解されて来る。だからこそ、漢字の「心・シン」は心臓の形の象形であり、マヤ文化でも、太陽の神である鶏に、生きた人間の心臓が供えられるのである。
そして其の生きた人間の心臓こそ、神に捧げる人間の真心の証しなのである。
今朝のメッセージでは、其の太陽の「神・天照・あまてらす」に捧げる供物は、心臓ではなく、人間の嘘の無い「言葉・文章」であった。其れは、「天照・あまてらす」が人間の「こころ・意識」を管理している理・ことを意味し、天照に捧げる供物は、人間の真心であり、嘘や偽りの無い「言葉・こころ」なのである。其れが、本来の「祝詞・のりと」の意味であり、「商売繁盛」や「合格祈願」などの、個人願望を祈る事ではないのである。
そして、其の事は、真心が有っても、嘘が無くても、情報が間違っていれば駄目なのである。だから、現在の世の中に蔓延っている、政治の世界のワイロや、宗教の世界の詐欺的行為は、全部「天照皇大神・あまてらすすめおおかみ」の働きには、反しているのである。
今朝は、其の理・ことが示された後、屋久島の麦生の集落を、村の上空から見回っている意識が在った。其の意識の元を探ると、旧暦の9月15日の十五夜の日に、1年に1回祭が行われる、麦生集落から港に下って行く道路の、右側の山の中に存在する「正八幡」の祭神である事が解かった。
其の神社の祭神は「大山祇神」であり、2006年3月19日に「6月11日(旧暦5月16日)に 紀・トキの祭りを行え」と告げて来た、高平岳の山の口に祀られている、大山祇神の祠の元神社である。
其の神社の海側に有る家に、丹治氏は引越しして来るのである。そして、丹治氏の先祖が関わりを持っている、奈良県の丹生川上神社の上社の祭神は大山祇神である。
屋久島の「御嶽の神」が、2005年4月16日に動き出し、奥岳から麓に降り始めて、4年掛かって、ようやく里の元神社である「正八幡神社」まで、降りて来た事に成る。今日は、旧暦の4月16日である。何故、4年前の新暦の4月16日に、御嶽から動き出した神が、旧暦の4月16日の未明に、村の上空に降りて来て、村を見て廻っていたのであろうか。其れは、「御岳・御嶽・ウタキ」の神の働きが、新暦から旧暦に動きを変えた理・ことを意味している。
現在の新暦は、明治政府が、其れまで使われていた陰暦の、明治5年12月3日を、グレゴリオ暦に合わせて、明治6年1月1日とした物である。だから、日本の本来の神々は、スケジュールが狂ってしまい、本来の働きが出来なく成ってしまったのである。
其れは、当然の事である。何故なら、神社の祭典は、其の神社の祀られている「祭神・御霊」の命日である。其れが、命日に帰って来ても、神社には子孫もいないし、祭の準備が成されていないのである。そして、祭神の命日には関係の無い新暦の日付で祭が行われ、しかも其の日付も、人間の都合に合わせて、モーゼが決めた日曜日に行われる始末である。
其れ等の事を考えると、人間は、神々の世界の都合を考える事なく、自分の都合だけを神々に押し付けていると謂う事に成るのである。
其れは、育ての親に対する恩義を知らず、一人歩きをする様に成ってからも、自分の都合の悪い事を、親に押し付けている放蕩息子と同じであると言う理・ことである。
其れ等の、人間の「心得違い」を改める様に、いま事が動き始めているのである。そして、其の切っ掛けと成る、今日の日が、4年前の4月16日から決められていたと言う事なのである。
今日は午後8時から、麦生集落の大山邦博氏の自宅で、今月の大山祇神の集いが行われる事に成っている。私は、今朝の映像で「正八幡神社」の鎮守の森から出た意識が、麦生集落内の路地を、上から観て廻っている映像を見て、今月麦生集落に居を移す丹治氏の事を考え、会社関係の4名の人達に、大山邦博氏の自宅に集まる様に連絡を取った。
麦生集落は、以前の文章に書いて有るが、村造りで、昭和55年に天皇杯を授与されている集落である。そして、其の麦生集落の上に有る森には「素戔鳴尊」が祭神である「大山神社」が有り、昨年の4月29日には其の神社の大蛇も姿を見せている。其れに、昨年の2008年2月8日には、北海道から素戔鳴尊に呼ばれて来た女性にメッセージが出ているのである。其れ等の事柄を考えると、確かに丹治氏が屋久島に移住する事で、神々が発動する事は間違いないのであろう。
「大山神社でのお告げ」
http://moon.ap.teacup.com/20060615/
1996年5月10日、当時京都に住んでいた私に、太陽から「写真を撮れ」との指示が有り、京都の大徳寺で写真を撮影してから、今日で丸13年が経過した事に成る。
其の日の出来事が、昨日、示されて来た「晃光主義」の言葉で、完了した事に成るのではないだろうか。
其れが何故、一休宗純禅師が創建した大徳寺でなければ成らなかったのであろうか。私が、当時住んで居た家は大宮通りであり、其の10日は、吉田神社の奥宮で仲間の祭が開かれた日であった。吉田神社は、天皇家の儀式を司っていた吉田神道家の神社である。
其れ等の事柄を考えると、此の流れは、単に屋久島だけの事ではなく、日本の国体に関わる事であり、矢追日聖の謂う「新しい世界維新」の幕開けに、繋がる現象なのではないだろうか。
「正傳 矢追日聖 」
http://moon.ap.teacup.com/20060403/133.html
昨日は、文章には書いていないが、昨日のメッセージに「屋久島から 全世界に向けて 情報発信」との言葉が告げられて来ていた。其の言葉の意味が、今日は理解出来て来た様な気がする。是も、昨日、丹治氏が東京から電話を掛けて来て、色々話したからかも知れない。
数日前に、大山祇神の祭主である大山邦博氏が「自適さん 10日の資料を 何か準備して下さい」と云っていたので、私は、何にしようかと考えて居たが、此の文章が丁度良いのではないだろうか。
今月5月24日から、永田農法の永田照喜治先生が、弟子を伴って丹治氏と来島する事に成っている。いよいよ、現実世界が本格的に稼動する時節が訪れた様である。其れが大山祇神の「紀・トキの祭り」を行えとの意味なのであろう。
其れに、今朝は、2005年10月7日に「2008年9月15日から 具体的な事を起す」と告げられて来た、霧島の知り合いの家の建物に、神の意識が返るのも見せられて来た。それは、霧島の山の神も、同時に動いている事を伝えるモノであろう。
「情報の発信と管理」
http://star.ap.teacup.com/170606/597.html
今、携帯電話が掛かったので、出て見ると、今月屋久島に引越しして来る鬼頭君からであった。鬼頭君の実家は真言宗の寺であり、鬼頭君はパワーを秘めている若者である。今夜の集まりの事を伝えると、参加するとの事なので、是でまた、仲間が1人増えた事に成る。
昨夜、寝る前に現れた黒い液体は、私に残されていた「カルマ・罪穢れ」が、全部浄化される時間が無いので、神の手で全部捨てたとの意味なのかも知れない。そうであれば、私は未だ完璧に意識が浄化された分けではなく、何処かに其の罪穢れの影が残っている事に成る。其れが、黒く現れない様に、気を付けていなければ成らないのであろう。
其れは、さて置き、「長い最後の夜」が明けた事には間違いないのであろう。長かった25年間の「霊宿・ひと」としての「家離・たび」は、終ったのだ。
「惟神霊幸倍坐世 (かんながらたまちはえませ)」である。
平成21年5月10日
礒 邉 自 適
投稿者: 礒 邉 自 適
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