2016/4/2  21:17

無鉄砲  篆刻

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最近よく、作家にとって表現の幅とは何かを考えたりします。
「あの作家は表現に幅があるねぇ〜」などとしばしば称賛の意味で言われたりしますが、実際のところ表現の幅とは何なんでしょうか。

例えばピカソには、青の時代、バラ色の時代、キュビズムの時代とあり、結果としてみれば表現に非常に幅があるように見えます。しかしそれは結果論であって、青の時代にはあの特有のほの暗い冷たく静かな世界で一貫していたわけで、その当時に表現の幅があるわけではありません。
それぞれの時代、その時の特有の世界で埋め尽くされているわけです。

作家にとって必要なのは、色々な表現が出来る技量ではなく、何かに固執して拘りその表現に惚れ込み没頭し埋没することなのではないかと最近思うのです。

色々なモノを見て入力することは必要でしょうが、出力も色々とあっちこっち摘み食いをするような事をせず、ひたすらに拘って執拗に同じような表現をしていくことで技量の安定と表現力の強さが定着するのだと思います。

見出しに「無手法」(無鉄砲の語源。無点法とも)の六分印を載せました。
これは今まで私が拘ってきた極めて精緻な神経質な表現でなく、布字もいい加減、刻もいい加減で殆ど勘だけで作ったような雑把な表現です。

恥ずかしい限りですが、下にさらにいい加減な表現にて、布字はせずに直彫り、出来るだけ細部に神経を行き届かさない、ダメだと思うところも直さない、撃辺も何も考えずに適当にぶっ叩くというめちゃめちゃなやり方の「無鉄砲」のバリエーションwを載せます。

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8分印
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9分印
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一寸印
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一寸印

まあこんなものは、私の心の乱れというか、お遊びにすらならない一過性の精神のブレみたいなもので、「ちょっと変わった風を装ってみたい症候群」的なもので取るに足らないしょうもないしろモノです。
しかし、例えば私のHPを長らく見てくださっている方々は希夷斎どーしちゃったの?などと思っていただけるでしょうが、初めての方でこのエントリーだけを見てくださった方には、希夷斎の作風はこんなものなのかと認識されてしまうでしょう。一面だけを切り取られてしまう可能性が多少なりともあります。
ですから、作品を常に表に出している作家は、出来るだけ作品の幅などない方がよいのであって安定したた作風をつねに保つことの方が、畢竟その作家の色が濃く反映されることと思います。

最近はそんな感じで、今後も出来るだけ細部まであらん限りの神経を行き届かせて、偶然の面白さなど排除した、極めて技術偏重的な表現に埋没していく所存でございます。

それが私にとっては一番気持ちの良い表現方法なのです。
かたくなに、自分にとって愉悦を伴う表現技法に徹していきたいと思います。
いつになるかは分かりませんがどうせ一定の拘りなど飽きてきて自ずと変わってくるものです。
諸行無常。人の考えも変わります。拘り続ける方が無理なのです。
それよりも今この身体だから出来る表現がしたい。
老化と共に段々と目も見えなくなるし、手先の神経も鈍くなる。腰も痛いし肩こりも慢性的。
今のこの身体で出来る限りの神経をすり減らしながら自分が佳いと思うものを作りたい。
ただそれだけです。

わざとぶれて試る様なことをせず、自然に知らぬ間にぶれて行き、死ぬ間際になって振り返ったら「ああ、随分変わって来たんだなぁ…」と。そんな連続的でかつ振れ幅の大きな、そうですねぇ…熊谷守一みたいに滔々と飄々と無理なく変化していきたいなと。


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