1984年6月4日(旧5月5日)神と交わした約束が果たされる事が 今朝告げられました。
18年8月18日未明
事象(とき)の切り替え
今朝は5時15分に是までの時間(とき)が閉じられ、5時22分に新しい時間(とき)が開いた。
其れは、旧約聖書に「神は6日間で此の世界を創造し 7日目に休んだ」と記されている事と関係が有り、是までの「事象・時空・とき」が閉じられて、新しい事象が始まる理・ことが知らされて来たモノの様である。
其の時間の「扉・まく」は、カメラのシャッターの様な物であり、其れは人間の瞼の仕組みと同じで、閉じている時は「月読界」で、開くと「天照界」であると言う事である。2016年6月6日
2006/9/30
あたらしい道
18・9・30
今朝の映像には、「道」の漢字の「首」が外された文字が映って来た。
そして、其の文字は、水色をした印鑑の文字として、使われる意味が知らされて来た。
其れは、今回の新しき時代の始まりは、敵の首を刎ねなくても、出来るとの理・ことであろう。
「道・衜」の漢字は、行の間に、手に首を下げた人が、存在する意味で、字義は「自分と違う考えを持つ相手の首を刎ねて、違うイメージを持つ人々を消し、自分の考え通りにする。」との意味から、清まる・征するの意味を表すものである。
今朝の映像は、其の首が外されていたので、是からの国造りは、自分以外の人間の首を刎ねる必要が無いとの理・ことであろう。
昔は、インターネットの様な、情報操作の方法が無いので、自分の考え通りにするには、自分の考えを受け入れない者は、総て排除するしか、他に方法が無ったのである。
しかし、現代社会はインターネットを利用すれば、世界中に、自分の考えを拡大する事が出来るのである。だから、別の考えが有っても、其れを排除する必要はなく、自分の考えが拡がれば、世の中を替えて行く事は可能である。
そして、其の代表印は、水色の文字である事が示されて来た。
水色は、水を意味し「弁財天・サラスヴァティー」」の働きを意味しているのであれば、「九代龍王水神」が新しき御世を、創出する段取りをしているとの事ではないだろうか。
私は、今回29日・30日と、宮島の国民宿舎に泊まっている。
宮島は、「厳島神社」の存在だけで、経済が成り立っている様な島である。
厳島神社の祭神は「市杵嶋姫(いちきしまひめ)」で、元は宗像神社の祭神であり、宗像の三女神の名前は、田心姫神(たごりひめかみ)湍津姫神(たぎつひめかみ)市杵島姫神(いちきしまひめかみ)で、沖ノ島の沖津宮には田心姫神、大島の中津宮には湍津姫神、田島の辺津宮には市杵島姫神がそれぞれ祭られている。
宗像大社の三女神は、天照大神の娘と成っているが、海から産まれた三女神は、インドのヒンズー教のブラフマンから生まれた、水の神の三女神が、日本に伝わったモノであろう。
住吉三神も、おそらく其の流れから、生じたモノではないだろうか。
どちらにしても、海の神・水の神が生命に関わりを持っている事には、間違いないのである。
何がどうあれ、今回 此の宮島で行われた「WAO&マザーグレース」の集いは、新しい国造りに向けて、確かな動きを興した事には、間違い無いようである。
平成18年9月30日
礒邉自適
2006/9/29
リスボンズの図形
18・9・29
今朝の映像は、パソコンに文章を書き込みながら、文章の中の文字に、リンクを張る場面が映り、其のリンクの題名は「リスボンズの図形」と言う物であった。そして、「コケシ・木人形」の様な形の物が現れた。
「リスボンズ」とは、どう言う意味か辞典で調べて見ると、「リスボン」が有りリスボンはポルトガルの首都で、旧王宮と美術博物館などが有る都である。
リスボンの、本来の意味が、何なのかは分からないが「ズ」が複数の意味であれば、リスボンの様な町が、複数との意味に成るのだろうか。
其れと、コケシの様な図形に、何が関係有るのだろうか。
コケシは、手足が無く、胴体の上に丸い頭だけが着いている形である。
其の形に、意味が有り「頭・王」の意味なら、王朝の意味に繋がるし、図形に意味が有るのなら、美術品の形と繋がるのかも知れない。
明け方には、是からの動きに関係有りそうな、日付で「4月18日」「5月27日」「沖縄」との言葉が、インプットされて来た。
それが、どう言う意味なのかは、未だ分からない。
今朝は、松山悦子さんのお世話で、下関のホテルで朝を迎えている。
いよいよ、今夜は「孔紀氏夫妻」と、月山の巫女さんに初対面と成る。
どう言う展開に成るかは、分からないが、私の身体の調子も、だいぶ復活して来たので、本格的な動きが始まるのかも知れない。
平成18年9月29日
礒邉自適
(20年5月6日 追記)
藤田さんが、フェニキア語の'Allis Ubbo(安全な港)の意味を調べてくれて、今其れを書き込む為に、此のページを開くと、右手の中指に強いカモ(神の電気信号)が来た。是は、よほど大事な事の様である。5月7日11時45分
2006/9/27
最後の警告
18・9・27
何故か、今日は、文章の題名が「最後の警告」と出てしまった。
今日からは、私の第三ステージの始まりで、旅に出発しなければ成らない。
新しい出発だから、悦び勇んで良いのだろうが、気分はあまり良くない。
ニートとか、引き籠もりの人達の気分は、こうなのかも知れない。
其れが、何故かとの理由は、分かっている。
其れは、是から、人類の大禊ぎが待っているので、中身は良い(充実と新生)のだが、外側は、崩壊と苦しみが起きて来るからである。
其れを、見詰めなければ成らないので、喜びの感情が湧かないのである。
しかし、其の峠を越えれば、神の望んでいる理想世界が待っているのだから、気が進まなくても、歩き出さなければ成らないのだ。
今朝の映像は、地球の内部から、外側に吐き出さなければ成らない物が、一杯に詰まって来ているのが、映されて来た。
其れは、地球のマグマが、周期的に内に溜まったガスを、外に吐き出さなければ成らないからであるらしい。
其の吐き出し口を、いま何処にしようかと、数箇所で混沌が起きている様である。其の吐き出し口が、何処に成るかは、地上に暮らす人間の行動に、関係が有るらしいのだ。
其の出口に成らない為には、人間側が、地球を守る行動を起せば良いようである。特に、水を汚さない様に、努力をしている人が居る所は、其の災害から逃れられるようである。
水が汚れるのは、森が無く、人口が多い都会である。
だから、マグマが影響を与える所は、水を汚す人々の多い都会だろう。
今朝の映像では、マグマの様子の映像が終わった後、私が、簡易水道貯水池の水の排出口で、顔を洗い、うがいをしていると、人間の糞が、上から浮いて流れて来た。
私が、ビックリして上の方を見に行くと、其処等中に誰かが糞尿をしているのである。
私は、其れ等を皆、清掃しながら上流に向かって行くと、一人の女性が居て、私の行為を見ていた。
そして、私に、優しい眼差しを掛けてくれたのである。
其れは、水の女神が、私の行為を認めてくれた事を意味している。
私が、是まで侵した罪は、ようやく許されたのである。
と言うのは、私は魚釣りをするのに、屋久島で一番先に「冲アミ」の撒き餌を始めて海を汚したし、不動産業をして居たので、山を削り、谷を埋め自然破壊をして居たからである。
無庵師匠に始めて会った頃、私は師に「自適さんは こんなに自然を破壊して よく 神様に殺されないね。」と、云われたのである。
其の師の訓えで、自分の行為に気が付き、不動産の仕事も、化粧品や宝石の商売も、マージャン屋も全部止めて、神の世界に入ったのである。
其れから、私は23年間、紙屑一つ捨てた事が無い。
一番罪に成るのは、空き缶を捨てる事である。
捨てられた空き缶の中には、雨水が溜まって閉じ込められるので、水の循環が止まって腐れてしまうので、水に対して一番の罪を、犯す事に成るのである。
其の水の量が、自分の体内水の量を超えた時、其の人の運命がどうなるのかは分からないが、良い結果が待っているとはとても思えない。
今朝の映像から考えられる事は、川に直接汚水を流している人は、あまり良い人生が待っているとは、考えられないのである。
私の人生は、17歳の秋に父親を失って、一家6名の大黒柱と成って働き、20年間、世間の中に普通に居た事に成る。
そして、37歳から是まで、神の世界に奉仕して23年が経過した事に成る。
更に是から、また未知の世界を、体験して行かなければ成らない。
此処から先は、過去の人達が未だ、体験をした事がない未知の世界である。
其れは、ブッダのステージを越える、新しいビジョンの世界である。
是から、宇宙の森羅万象の質量をどう変化させて行くのか、其れは、是からの人間の行動と、宇宙とのコミュニケーション如何に、掛かっているのである。
此の三次元の現象世界と、神の世界である四次元世界は、物事の表裏に成っており、其の姿は、粒子的存在で映し出されている。
空き缶を一個、自然の中に投げ捨てれば、其れは其の侭、粒子を繋ぎ止めているプログラムの影として記憶され、人生のカルマとして積み重なって行くのである。
其の、積(罪)んだモノを消して行くには、また其れだけの時間と、努力が必要なのである。其れが「罪 穢れ 祓もうば・・・」の祝詞の意味である。
偉大な「お釈迦さん」でさえ、其れに六年間もの歳月が掛かっているし、イエスは其の人間のカルマの為に、磔に成っている。
其れに、日本では神様である「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」さえ、小戸のあわぎ原で禊ぎ祓いをしているのである。
イエスや、釈迦や、伊邪那岐命までが禊ぎをしている。
其の大事な水を、汚す者は許されないのである。
地球の内部はマグマで、表面は水で出来ている。
其の間に在る大地は、平らにしてしまえば3000mの海底に沈んでしまうのである。
なのに、どうして大地が水面に出ているのか、其の訳は、大地を手足の様に水面に出している、マグマに聞いてみなければ分からない。
私は22年前、禊ぎ祓いの後、椎の木に寄りかかって海を眺めていたら、突然太平洋に火柱が立ち、其の火柱の中に「末法」との文字が現われた。
そして、大地から赤い龍が出て来て、私の身体に巻き付いたのである。
其の現象こそ、マグマの意志ではなかったのだろうか。
昨日までの体調不調は、其の地球の苦しみを、体現する現象だったのかも知れない。
昨夕、孔紀氏より電話を戴いた。
孔紀氏も、大変な苦しみの中に在るらしい。其れは、正に、地球の最後の踏ん張りを、一身に受け止めて居るからではないだろうか。
今回の旅で始まる、新しきステージが、孔紀氏を始め、苦しみの中に在る人々の救いに繋がるのであれば、旅の途中で行き倒れに成っても、其れは、私の本望でもある。
其の私の「カルマ・業(背景)」は父親譲りだから、どうしようも無いのかも知れない。
今日は、屋久島は朝から快晴で、新しい出発には相応しい日和である。
私は未だ、「人生とは何なのか」の、明確な答えを掴んではいない。
漸く、「いのち」とは何なのかと言う答えが、おぼろげに解り掛けて来ただけである。此の調子だと、後 何回輪廻して来れば、全ての答えが見付かるのか、其れも解らない。
ハッキリしている事は、だからこそ宇宙が存続できて、永遠のトキが刻まれるのだと言う理・ことである。
若し、其の答えが出るとすれば、其の時、此の宇宙は存在の意味を失い、瞬間にバイブレーションが停止して、消滅してしまうのだ。
其れが「色即是空・空即是色」の言葉の意味であり、我々の疑問の裏には、何時も、真っ暗な闇が天幕として張られているのである。
其処に、光りの映像を映し出し、神の姿を映し続けて行くには、此の人類の旅は、まだまだ続くのである。
其の幕に、映し出される映像は 其れぞれが そう願う者達の 影であるのだ。
屋久島の水の祟り 2004年7月6日
「白州」http://moon.ap.teacup.com/20061108/324.html
平成18年9月27日
ようやくの旅立ち
礒邉自適
2006/9/26
魂しいの発露
18・9・26
今朝の映像は、私自身にも、思い掛けないものであった。
と謂うのは、私の是までの価値観では、「縁」は、糸の様に繋がっているとのイメージで、「赤い糸で結ばれている」とか、「縁結び」と言って、見えない紐で結ばれていると考えて来た。
だから、日本国では「注連縄・しめなわ」が造られ、鳥居や神社の入り口に掛けられるし、人家でも正月には、玄関や車などに藁で編んだ「注連縄」が着けられて来た。
漢字の、「意識」の単語も「人間の意が 言葉に拠って 織られる。」との意味合いだから、やはり糸の感覚である。
処が、今朝は、其れが粒子の繋がりと成って、黄金比の放物線の様に、回転するのが見えて来た。
確かに、黄金比も図で書けば、其れは線である。
しかし、其の線を顕微鏡で視れば、墨の粉や色素の粒である事が判かる。
だから、此の世には線とは無く、全てが粒子の集まりなのである。
昨日のメッセージ映像に、「ナミオ氏・波男」が現れて「鍵を渡せ」と云ったのは、波である派動の感覚を、外せとの意味だったのではないだろうか。
そうであれば、親子の縁とか、仏教の結縁とかの概念を、排除しなければ成らない。
確かに、親子の関係は、遺伝子に拠る繋がりがあるが、親子は別の人格であるし、同じ両親から生まれても、一卵双生児の間は別にして、兄弟姉妹の性格や性質もバラバラである。
其れは、確かに、糸で繋がっているのではなく、情報に因る伝達の所為の結果である。
其の様に考えると、家系の系図も、線で繋いでいるのは正しいとは云えないし、釈迦から何代目の弟子だと云っても、何等かの確かな糸が、繋がっている分けでもないのである。
其れ等の事柄を、別な角度から見れば、此の世には「因縁」とかで繋がっている物は、何も無い事に成って来る。
何故、其れが、繋がっていると考え始めたのだろうか。
其れは、「縁で繋がっている」との言葉が存在し、其の言葉で、人間の思考に概念が生まれ、其の概念が伝え続けられているからではないだろうか。
其れ等の概念を忘れさせるのが、釈迦牟尼佛の説なのであろう。
釈迦牟尼佛とは、ブッダに成った「釈迦(姓)シッダッタ(名)」の事だが、彼は、池の水で禊ぎをしてから、菩提樹の枝の下で休んで、全ての言葉を頭から排除した時に、悟りを得ている。
其の釈迦牟尼佛の教えは、成仏・覚醒したければ「出家」をして、人間社会との「縁・えにし・ゆかり」を切りなさいとの理・ことである。
日本語の、「えにし」と「ゆかり」が、どう言う意味合いかは解らないが、日本の古神道では、神が降りるのは「ちぎ」であり、儀式は「ちはやふる」である。其の世界には、糸は無く、電気的な粒子を意味している様である。
振るは、「振り撒く」に発展するので、「たまふり」とは粒子的な振る舞いを起す事ではないだろうか。
其の意味から考えれば、巫女さんの舞いは「ちはやを 振り撒く」事であり、出雲の「お国さん」が踊りの始まりであるのも理解できて来るし、天の岩戸が「天のうずめ」の踊りで開かれたとの伝説の意味も、謎が解けてくる。
其れに、日本語の「ふるまい・振る舞い」や、「しぐさ・仕種」の言葉の持つ景色も見えて来る。
私には、昨日から、男の口調で言葉が聞こえ始めて来た。
今朝の、私へのメッセージの言葉も、訛りの有る男性の声だった。
今朝のメッセージの内容は、私の立場が、現場から下げられて、長老組の方に回される内容である。
其れは、野球の現役選手が、肉体の限界を感じて、グランドで活動する事から、身を引く様子と同じである。
現場から引退した後、能力の有る者はコーチか監督を務め、其のグランドに関わりを持って行くが、採り得の無い者は、其処から去るしかない。
其れ等の理を、知っている御仁のお出ましなのだろう。
どうやら、今朝のメッセージからすると、私の活動も終りを向え、何事からも現役を退かなければならないらしい。
其れは、ネィティブ・アメリカンの長老の様に、部族長の相談相手に成る様なものである。其れは、シャーマンとも違い、全ての業を終えた者の役目である。
私は、来年1月に満60歳を迎えるが、母親の体内に宿った時点から数えれば、丁度60歳で還暦と成る。
還暦とは、12支×10干の120年が大還暦であり、60歳は其の半分の「半還暦」だから、是からは、生命の消滅に向かって行く年代である。
だから、何時死んでも良い様に、段取りをして措かなければ成らないのである。其の為には、あらゆる事の第一線から、身を引いて措かなければ成らない。
其れは、後継者が育つ為に、場・グランドを空ける事を意味している。
是からの私の役割は、コーチか監督の様な立場なのであろう。
其れも、「欽ちゃん」の様に、自分で球団を造って監督を務めるのではなく、自由で気儘な「雇われ監督」である。
其して、ピッチャー型の「星野監督」式ではなく、キャッチャー形の遣り型で、相手の行動を受けながら、対応して行く立場である。
今朝のメッセージは、昨日のメッセージの続きである様だ。
私は、是から全ての面に置いて、現役で在っては成らないようである。
現役とは、寝ても覚めても、其の事を考え続けていなければ成らない役割だから、其の活動の間は、他の世界の事には、眼が行き届かない。
其れを避ける為には、あらゆる世界から、足を洗って措かなければ成らないのだ。
何故、此処に来て、この様な事柄を示して来るのだろうか。
其れは、今月30日より、新しい体制が動き出す事に関係があるのだろう。
其の動きに、私自身が嵌ってしまえば、私の意識が、三次元に定着してしまうからである。
其れに、今朝告げられた事は、是まで、22年間取り組んで来た行動からも、足を洗えとの事のようだから、シャーマン的な行為からも、外れろとの事のようである。其れは、四次元世界からも脱しろとの意味らしい。
私は22年前、37歳の時に、三次元世界を捨て、四次元世界に触れながら生きて来た。其の世界からも、離れて生きろとの事である。
其れが、何次元の世界なのかは私には判らないが、今朝の黄金比の放物線の映像からすれば、拡大する宇宙の模様を、視る事が出来る立場である事は間違い無いようである。
私は22年前、水断食を続け、脈拍が止まり、魂しいが自由に成り、時空を越えて視て来た宇宙の始まりの世界を、今度は、違う角度から観られるのである。
其れは、22年前に観た「宇宙の始まりに 自分が在り、此の世の事象は 全て自分の分身である。」との感覚とは、違うものだろう。
おそらく、釈迦牟尼佛が説明しようとした世界は、其の世界であり「三千世界に我が在り 衆生一切我が子。」の言葉は、其の世界を言い表しているものと想われる。
しかし、今朝の雰囲気は、其れと違い、「此の世界が、粒子に拠り 黄金比の螺旋で 拡大して行く」映像である。
それは、自分がそうであると言うのではなく、新しく創造される世界を、見詰める目線である。
其れは、釈迦牟尼佛が体験した世界より、もう一段深い世界と言うか、見られなかった世界であろう。
此処から先の世界は、誰も体験した事が無く、其の為に、言葉も概念も無いのかも知れない。
しかし、そう思うのも私の身勝手で、言葉も概念も有るのに、私の見識が未だ浅いから、気付かないだけなのかも知れないのである。
ただ謂える事は、釈迦牟尼佛も、老子も、イエスキリストも、自分の想う様な国を造る立場には至っていない。
自己顕示欲からではなく、神の支持に因り国造りが行なわれ、其れが現在まで保たれているのは、此の日本国だけではないのだろうか。
だからこそ、世界中の神霊が此の時代に、日本に皆集まって来ているのではないだろうか。
日本の国造りは、何度も、外来の男性が渡って来て、原住民・地祇の娘と結婚して行われている。
「須佐之男尊・すさのおのみこと」・「饒速日命・にぎはやひのみこと」・「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」・「神武天皇」等、皆自分が生まれた国ではなく、妻の里での国造りである。
其れ等を見ると、新しい国造りとは、他民族の男性の登場が必要らしい。
其れは、何故かと言えば、現状維持の体制側の人間では、革新が行なえないからである。
今回の新しき国造りが、どの様な形で始まるのかは判らないが、今朝のメッセージでは、私に現役から引退して、何も、しては成らないとの事のようだから、其れを守って、私は、全体の流れを眺めて居るだけにしようと想う。
今日は、此の文章を書いていると、月山の巫女さんから電話が有り、話していると途中で、インターネットも電話も携帯も一切通じなく成った。
其れは、4時間程で復活したが、種子島・屋久島全域だったらしい。
若し何か有れば、この様に成り、一切の連絡も取れないし、情報の入手も困難に成る。
電話線が繋がっているので、情報が手に入ると考え、安心して居ても、突然にして其れが切れるのである。
何もかもが切れて、繋がりが無く成る状態をシュミレーションしていないと、イザと言う時にパニックを起し、社会全体が混乱してしまうだろう。
そう成らない為にも、其々が独立して生きて行けるシステムを、完成させなければ成らないだろう。
そして、自立心を育てる教育を、構築しなければ成らないのだ。
今日の題を「魂しいの発露」としたのは、私が今朝、パソコンの前に座った時に出て来た言葉だが、其の意味は「人間の魂しいは、其々が 自分で体験を積んで 現場の映像を蓄えていないと、イザと言う時に アイデアが湧かないし 現実に対して 手も足も出せない。」との事ではないだろうか。
魂しいとは、「たま」が沢山詰まっている様を言っているのである。
其の「たま・魂・霊」とは、現場の映像の数であり、密議が図れる能力を意味している。
其の事は、私の人生の記録を見れば、参考に成るだろう。
其の、私の脳内の現場の多さは、他には、類が無いかも知れない程である。
現代文明だけの事か、自然生活だけの事かの、片一方だけなら、私以上の者は多いだろうが、両方のバランスを考えれば、私が、天の働きで遣らされた体験は、幅が広くしかも多彩だと想われる。
其れが、私の意識の特徴だとも考えられるのだ。
其の場数の多さが、是から社会の役に立つのだ。
そして、私には、是から「何もしない」と言う事を、修行する現場が待っているのだ。
平成18年9月26日
礒邉自適
2006/9/25
ナミオ
18・9・25
断食状態で三日目の映像。
今日の映像は 書かない方が 良いかも知れない。
そして 読んで貰わない方が 良いのかも知れない。
昨夜 久し振りに、テレビの日曜洋画劇場を観た。
其の映画の題名は「アナコンダ」である。アナコンダの映画は、予告では何度か目にした事はあるが、観るのは初めてである。
其の映画の内容の所為か、今朝の映像は、今までの物とは違っていた。
私の意識の中に住むアナコンダが、映画の内容に違和感を持って、混乱を起しているのだろうか。
映画の内容は、アナコンダを捕まえて見世物に売ろうと考えている者と、アナコンダ自身との戦いなのだが、其の森に住む現住民は、其のアナコンダを護り神として祀っているのである。
私の立場は、原住民側だと想うのだが、現代社会の人達は、ジャングルの神秘を、お金に替えたいと意う者が多いのだろう。
映画では、都会の人間側が、知識と道具とで、アナコンダには勝つのだが、其れで善いのかどうかは良く分からない。
現実的には、森林は人間にドンドン破壊されて、アナコンダの住むジャングルは狭く成っている事は確かである。アナコンダの住む領域を、人間側が侵略し続けているのだ。
其れは、其れとして、一応 今朝の映像を掻い摘んで記して措こう。
今朝の映像では、是までとは様子が違い、私が、自分でする行為が、全部上手く行かないのである。
何処かへ出かけても、帰りには、自分の置いた車の場所が分からないし、ポケット中のキイーの区別も出来ない。
オマケに車を運転しても、前後の操作が上手く行かないし、写真を撮ろうとしても、カメラとレンズの取り付け部分が、巧く合わないで撮影が出来ないのである。
更に、ガイドの仕事も、客の方が私より先に出掛けてしまう在り様である。
今朝の映像では、私には、採り得が一つも無いのである。
其れが、どんな意味を示しているのかさえ、理解出来ない。
ただ、現場に遣って来て、私にキイーを渡すように云った人は、35年前一緒に仕事をして居た、東京の「七三雄さん」と言う方であった。
ヒントとすれば、其の「七三雄・なみお」と言う名前だけである。
其の七三雄氏が、キイーを渡すように言うのだから、謎解きのキイーが七三雄の名に、有るのだと考えられる。
ナミオのナミが、「イザナミ・イザナギ」の「ナミ」に関係が有るのなら、「イザナミ・伊邪那美命」に鍵を渡せとか、返せとの意味にも受け取れる。
其れは、「此処から先は お前では出来ないから 鍵を伊邪那美命に返還しろ。」との、意味にも受け取れる。
二日後には屋久島を出て、広島の集いに参加して、パネラーとして話しをしなければ成らないし、各地を転々としてから、15日には愛媛県大洲市の「少彦名神社」の秋季大祭にも顔を出さなければ成らない。
屋久島に帰るのは、10月18日ぐらいに成りそうである。
其れまで、此の身体の状態で持つのだろうかと不安がある。
自分の家で、クタバルのなら他人に迷惑を掛ける事には成らないが、島を出てから倒れれば、大変な迷惑を他人に及ぼす事に成る。
迷いがある侭、残りの日数が無いので、今日は27日のフェリーの予約をした。
今の私には、是から全てが始まるのか、それとも、私の役割が完了したのかの、区別が付かないのである。
其れは、私が長年、自分の価値判断で行動を続けて来たのではなく、「神霊の思頼」に心身を全て預けて行動して来たからである。
今朝の映像を、其のまま素直に受け取れば、私が自分でする事は、全て無く成ったと言う事に成る。
私が元気なら、張り切って、自分が先頭に立ち、事を仕切ろうとするだろう。
しかし、此の体調なら、他人の後を、付いて歩くのがヤットの状態である。
其れが、御魂の作戦で、私の行動を止めようとしているのなら、私にも理解出来ない事ではない。
何も、口を出さないで、動く事もしないで、惟一椅子に座って居るだけなら、何とか持つのではないだろうか。
「何もしてはいけない」との理を悟れば、身体の調子も良く成るのだろうか。
私は、農林漁業の一次産業で生きて来たので、何もしないで座って居るのは、犯罪的行為だと意ってしまう。
其のカルマは、なかなか取れそうに無い。其れを、カバーするのには、病気は手っ取り早い処方である。
今回の旅は、全ての行為を、他人に委ねて、ジーッと座って居る事にしよう。しかし果たして、他人が働いて居るのに、何もしないで見て居るだけの姿勢が、私に保てるだろうか。
変った修行が、在ったものである。
平成18年9月25日
礒邉自適
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