1984年6月4日(旧5月5日)神と交わした約束が果たされる事が 今朝告げられました。
18年8月18日未明
事象(とき)の切り替え
今朝は5時15分に是までの時間(とき)が閉じられ、5時22分に新しい時間(とき)が開いた。
其れは、旧約聖書に「神は6日間で此の世界を創造し 7日目に休んだ」と記されている事と関係が有り、是までの「事象・時空・とき」が閉じられて、新しい事象が始まる理・ことが知らされて来たモノの様である。
其の時間の「扉・まく」は、カメラのシャッターの様な物であり、其れは人間の瞼の仕組みと同じで、閉じている時は「月読界」で、開くと「天照界」であると言う事である。2016年6月6日
2006/10/30
八咫烏登場
18・10・30
今朝の映像は、黒い鳥が羽を拡げて、飛んでいる姿が映って来た。
其の黒い鳥は、頭から首に掛けて、金色に光っていたので、黒い体の部分も白い色なのだろう。
黒く見えるのは、光りの影に成っているからで、白い色も光りがなければ、黒に見える事を、意味している。
其れは、太陽の光りが当れば白く輝く雲も、光りが当らない時は黒い雲だし、夕日が当れば、赤く燃える事と同じである。
今朝現れた鳥は、頭から首の部分までは、光りが当っていたのだ。
そして、其の鳥は、身体は黒く見えたけれども、白い色の鳥だったのである。
そして、其の鳥が飛び回ると、其の身体から、黄金の粉が、地上に舞い落ちるのが見せられた。
其れは、是まで黒く見えて居た鳥に、光りが当り、金色に光りながら、地上に黄金の粉を撒き散らして、飛び回るとの事を示して来ている。
其の意味は、良く解らないが、お寺の名前らしき物が現れた後なので、何処かのお寺に関係が有るようである。
其れは、釈迦牟尼佛に関係が有るのか、其れとも、太陽の使いである三本足の八咫烏・ヤタガラスが、姿を現したかは解らない。
其れに、エジプトの太陽の船には、太陽の鏡を頭に着けた「女神イシス(アマテラス)」が乗っているが、其の船の舳先に立ち、道案内をするのは鴇・トキの頭を持つ「イビス・Ebisu・恵比寿」神である。
今朝の鳥は、頭に光りが当って居たので、何れにしても、太陽の方向に頭が向いていた事には、間違いないだろう。
神武天皇が、和歌山から奈良に向かう途中、一行を助けたのは「八咫烏・ヤタガラス」だと伝えられているので、今朝は其の八咫烏が、太陽神の使いとして姿を現したのかも知れないのである。
其れは、私の新しき舞台への出発を、告げて来ているのかも知れない。
今朝は、女神のブログにメッセージを書いた後、更に違うチャンネルが開いて、波動の違う文章を書かされた。
其れは、始めの女神のメッセージではなく、虹の戦士の世界の様なので、男神が動き出した事を、告げて来たのかも知れない。
一時期、「西郷隆盛翁」や「弥次郎どん」が姿を現して来て、「俺に云わせろ」のブログを作成したが、出来た処から、殆んど姿を見せなかったが、今朝は其れに「詩人」が加わった感じの言葉が遣って来た。
其の言葉に、「虹色のマスター」と有ったので、供養に成るならと想い、今朝又其のブログを新しく作成した。
「虹色のマスター」http://sun.ap.teacup.com/20061030/
是でまた、墓石か記念碑が一個増えたので、私の管理する「モノリス・149」の世界が、門を増やした事に成る。
私が、自分で、何か遣りたい分けではなく、そうして遣らなければ、気分が安らがないので、其れは仕方がないのである。
私のブログは、殆んどが「テイカップ社」のブログなので、テイカップ社には感謝している。
其れは、テイカップ社のブログが、私にとって一番扱い易いし、過去に遡って、記事を書き込めるから、便利なのである。
今朝の様子からすると、何か、新しいパターンが始まりそうである。
男供が、喧嘩をしないで、自分に価値観を創造して行くのには、ミクシーを始め、現代社会のブログは平和的で便利なものである。
パソコンの中で、自分の頭のカスを処理出来て、頭の掃除や整理が出来るのは有難い事である。
私も、一年半パソコンにしがみ付いて、過去の整理を続けて来たので、随分頭が楽に成っている。
パソコンは、眼が悪く成るのと、運動不足に成る事を除けば、真に便利な物である。
是からは、記憶脳である左脳の働きはパソコンに預けて、頭脳用のエネルギーを右脳に集中させれば、人類は飛躍的に進化出来るものと想う。
其れは、是からの子供達の教育にも、大変革を齎すものだろう。
文部省や、教育関係者の頭が少し柔らかく成れば、社会は楽しいものに成るであろう。
そしてそう成れば、私の様に八咫烏が飛び回るのを見る人が、増えるのではないだろうか。
何れにしても、真から黒い本物の烏で無い限り、どんな人でも、光りを受ければ、金色に光れる理・ことを、今朝の映像は伝えて来ているのかも知れない。
奈良の「矢追日聖氏」が、62年前に神に告げられた様に、紫陽花の花の様な社会のシステムは、ミクシーの登場で現実の物と成って来ているのである。
其れは、須佐之男尊・すさのおのみこと・苆の尾・穂」の世界の、新しきバージョンであろう。
今朝は、此の様に、毎日映像を文章に変換するのも、少し 面倒くさく成って来ている。
少し違ったパターンを考えて見ようかな・・・。
平成18年10月30日
礒邉自適
2006/10/30
虹色のマスター
http://sun.ap.teacup.com/20061030/
トキが 紅い色に染まり
アステカの世に いま日が昇る
愛しき わがこらよ
静かに 其のトキを 味わいなさい
いま あなた方は
トキのしずくを 味わえる時節を迎えているのです
其の為には 全てから 自由を得ることです
あなた方の 日常が 神聖なるモノに 成る様に務めなさい
あなた方には 無類の幸せが待っているのです
たまらない程の歓喜を 得る瞬間は 眼の前です
其れが また あなた方を見守る
愛の 源泉の 喜びでもあるのです
明日を 照らす 悦びが 其処に在るのです
愛する者達よ 今 其のこころの扉を 開きたまえ
平成18年10月30日
礒邉自適
2006/10/29
水は内に 神は外に
18・10・29
今朝のメッセージは、「人・ヒト」の内側には「水」が在って、「神」は外側に在るのが示されて来た。
其れは、此の人間の「体・體」を創り出しているのは「水」で、其れを支えている「プログラム(神)」は外側に在ると言う理・ことである。
其れは、「神は 自分の内側に 存在する」との言葉を、訂正しなければ成らないと言う事に成る。
其の言葉は、「神を キャッチするセンサーは 内在する」と言い換えなければ成らないだろう。
漢字の「神」の文字の字義は、「祭壇を設けて 神からの電気信号を受け取る。」との意味だから、神は外に存在し、祭壇を拵えて自分のチャンネルを空ければ、宇宙の情報が受信されるとの事である。
だから、日本語の神は「かみ・上」であり、自分は「自ら・水から」なのである。
其れに、漢字の「源・ミナモト」は「水―基・元・素・本」の価値観の、当て字ではないのだろうか。
其れに「源」の漢字は「氵(水)+厂(崖)+泉」の組み合わせで、字義は「水の流れの みなもとは 崖の下に 溜まる 泉。」だから、其れから観ても、人間の潜在意識には、水の存在が根本にあることになる。
だからこそ、神社の鳥居の前に「御手洗水」が準備されているのである。
其れは、国語的な、漢字や言葉だけではなく、宗教の世界でも、一番根本の処に水が絡んでいる。
釈迦仏陀は、六年間の厳しい修行では悟れずに、苦しい修行を止めて、水浴びをして、木に寄り掛かって休んだ時に、悟りを得ているし、「イエスキリスト」もヨルダン川で「ヨハネ」に水の洗礼・禊ぎを受けて精霊に満たされている。
其れに、日本の「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」も、小戸のあわぎ原で禊ぎをして神々を生んでいる。
其れは、仏教も、キリスト教も、神道も、皆水の世界から、生まれている事を示している。
其の事から考えられる理・ことは、水無しでは、神に遭遇出来ないとの事である。
今朝の映像は、其れ等の理を、再確認する為のものだったようである。
始めに、「中村」と言う名前の女性が、向かえに来たので付いて行くと、小高い山の上に着いた。
其処には、木々に囲まれた美しい池が在り、水が勢い良く二箇所の穴から湧き出している。
私は、澄み切った美しい泉なので、直ぐに其の泉に入り、湧き出して来る水の感触を楽しんだ。
すると、人の話し声が聴こえるので、泉から出て其方を見ると、神社の階段みたいな石段が、私の所まで続いており、女性が二人で此方に向かって、其の石段を上がって来ている処だった。
そして、其の一人の女性の名前が「春元」だと判った。
今朝の映像は、それだけなのだが、大事な意味が、伝えられて来ていると想われる。
中村・なかむらとは、「中にむらが有る。」との意味で「むら」は「胸・むね」に通じるもので、「ムラムラする」の胸の「内・なか・中」の感情を表す音魂である。
水が湧く丘の泉に案内したのは、其の言霊・コトダマなのである。
だから、其のイメージが、今朝の文章の書き出しに成ったのである。
そして、其の泉に、新たに上って来るのが「はるもと」と言う言霊である。
其れは、「春に 水こころの元・本が発動する。」との意味だろうか、其れとも、水が神の意志が「張る元」なのかは分からない。
どちらにしても、私の思考を「言霊・ことだま」が運び始めている事は、明らかである。
此の現象こそ、昨日書き込まれた「神のデーターベース」が、現象化し始めた事を、証明しているのではないだろうか。
旧約聖書の「初めに言葉在りき 言葉は神なりき。」は、此の世界を、嘗って観た者が、言い出した言葉ではないだろうか。
今の状況から、私が考えられる事は、阿蘇の「日の宮弊立神宮」は太陽を祀る神社であるが、其の神社での儀式を行なうのには、水の禊ぎが必要である事に成っている。
其の為に、境内の敷地の湧き水の所に、禊ぎの場が在る。以前は、東の禊ぎ場も在ったらしいのだ。
四年前の、11月20日のメッセージでは、来春の3月13日に「日嗣皇子・ひつぎのみこ」が誕生するとのメッセージが来ている。
其れが、現実と成る為には、自分の胸中の「水心」を取り戻して措なければ成らないとの事だろうか。
昨日は、メッセージに現れた「石原靖也氏」から丁寧なメールを戴いた。
石原靖也氏は、3月13日には参加されるとの事である。
「約束を護る」 http://green.ap.teacup.com/20060818/
是で、私し以外の人が、参加する事に成ったので、現実へと向かって、事が動き出すのかも知れない。
私はただ、惟神・かんながらで、日々此の作業を続けて行くしかないだろう。
日本の諺・ことわざに「水心 有れば 魚心有り」と有る。
自分の胸中に水心があれば、必然的に、神の存在も魚の姿を執って現れると、解釈しても間違いではないだろう。
其の為には、先ず 自分が魚に成って、水の世界に泳ぎ出さなければ成らないだろう。
其れが、日本の惟神の世界であろう。
そして、全世界の人類に共通する、神への道ではないだろうか。
平成18年10月29日
礒邉自適
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