1984年6月4日(旧5月5日)神と交わした約束が果たされる事が 今朝告げられました。
18年8月18日未明
事象(とき)の切り替え
今朝は5時15分に是までの時間(とき)が閉じられ、5時22分に新しい時間(とき)が開いた。
其れは、旧約聖書に「神は6日間で此の世界を創造し 7日目に休んだ」と記されている事と関係が有り、是までの「事象・時空・とき」が閉じられて、新しい事象が始まる理・ことが知らされて来たモノの様である。
其の時間の「扉・まく」は、カメラのシャッターの様な物であり、其れは人間の瞼の仕組みと同じで、閉じている時は「月読界」で、開くと「天照界」であると言う事である。2016年6月6日
2007/2/6
金剛界と胎蔵界の風景
19・2・6
今朝の映像は、昨日のメッセージに有った、多人数現れた男女の姿に続く、生命のプログラムに付いての説明と思われる。
今朝は、先ず、地べたを歩き回りながら、餌を捜しているダチョウの様な鳥の首の動きと、視線の使い方が、自分の行動の様に映って来た。
其れは、自分の意識中に、鳥の行動が組み込まれているかの様な、錯覚を起こすものである。
更に、次には、山羊が木の葉を食べている、口や唇の動きが現れた。
其れも、自分の内側に、其の動物の行動様式が、プログラムされているかの様であった。
其れは、両方とも、薄暗い空間の中で、真っ黒の姿形で、影として現れたのである。
今朝のメッセージの意味は、私の意識が、他の動物と同じ生命プログラムを有しており、同じ次元に存在している理・ことを、知らせて来たのであろう。
其れが、自分の中に見えて来たと言う事は、私の意識が、両手を使う類人猿から、手の無い動物の次元まで、辿り着いた事を意味している。
ダチョウ等の飛べない鳥は、手は羽根に成っていて使えないし、山羊は四本足なので、是も手が使えない動物である。
其れ等の生物は、人間と違って、手を使って物事を行い、認識を深める事が出来ない物達である。
今朝は、私の脳が、両手両足を使う人間や類人猿の時代を、通り過ぎてしまって、手を使わない動物の次元にまで、帰り着いたのだろうか。
そうだとすれば、私には今朝、大脳の働きが出来上がった、以前の脳である中脳の働きが、表に現れて来た事に成る。
そして、次に現れた場面は、太陽の光りに満ち溢れた、昼間の景色の中に、近くに居る犬と、草原に居る雉の姿が見えた。
其れは、人間の意識か、太陽の意志かが、動物の居る景色を、光源の方から見ている映像である。
此方は、我々人間が、日常使っている視覚器官の脳の働きである。
今朝は、何故、暗い世界の中で、自分の内側の意識が、動物に成って動いている黒い影と、光りが当っていて影の無い動物の姿を他から見ている場面とが、対照的に現れたのだろうか。
其れは、ただ単に、光りと影の存在を暗示して来たものか、「タオ・道」の世界の陰陽として、示されて来た物なのか良く判らない。
昨日のメッセージの「270」に関係が有り、人間の思考方法に関係が有るのなら、16菊花紋のマークの様に、16の花弁に重なっている裏側の16を、認識に入れろとの事だろうか。
そうだとすれば、表側の16と裏側の16を重ねて、32弁に付いて、思索を重ねなければ成らない事になってくる。
こう成って来ると、私一人の頭脳では、神の注文には、とても対応が出来て行かない。
やはり、こんな話しが出来る相手の居ない屋久島から出て、話し相手の居る都会に行く必要が有りそうである。
今朝は、映像の解釈に手間取っていると、私が17歳の時に、49歳で此の世を去った父親が、其の頃の姿で、畑の向こうに現れ、大きな声で「イナバ」と叫んで知らせて来た。
イナバの言葉で、思い付くのは、因幡の白兎のイナバか、スケート選手の荒川静香さんの「イナバウワ」である。
イナバウワをヒントとして、答えを導けば「ソックリ返って 後ろを視ろ。」との意味に受け取れる。
其れで答えが合うのなら、童謡の「かごめ」の歌詞にある「かごめ かごめ 籠の中の鳥は 何時いつ出遣る、夜明けの晩に 鶴と亀が滑って 後ろの正面だーれ。」の、「後ろの正面」をしっかり確認しろとの事に受け取れるし、出口王仁三郎の謂う救世主の登場があるとの意味にも、受け取れる。
私の父親は、私に23年前に起きた、4311霊体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」で、一番前に立ち「お前に苦労をさせたのは お前の精神を鍛える為であった。もう大丈夫だから この人達に身体を貸せ。だけど 仕事だと想わず 遊びだ 遊びだと 意って行け。」と、私に告げて来た事が有った。
其の時は、丁度20年振りだったが、今回は死後43年目である。
霊界に居る人は、死んだ時の姿のままで、歳をとらない様である。
今朝のメッセージは、其の理・ことまでもが含まれており、此の世は仮の世界であり、後ろの正面こそ真実の世界であると、知らせて来たのかも知れない。
そうであれば、私が、此の世の建て直しに、必死に取り組まなくても、良いとの意味にも受け取れる。
だとすれば、私が色々考えなくても、既に、此の世の中が、其のまま真実の現れであって、人間が、何かを作為する必要が無いとのことに成ってくる。
だとすれば、私は、何も考えずに、ただ楽しく遊んで居れば良い事になる。
ただ楽しく遊んで居れば、桃太郎の物語の様に「犬」と「雉」の仲間が現れるとの事だろうか。
そして其の旅には、鳥の視覚や、山羊の魂が付いて来るとの、事なのかも知れない。
今朝現れた、鳥の姿と、山羊の姿の映像を、見た古代の人が、山羊や牛を神と考えたり、鳥を太陽の使いと想ったりして、後世に伝え残したのではないだろうか。
どうやら、私の意識は、昔のシャーマンの次元まで、立ち戻ったのかも知れない。
平成19年2月6日
礒邉自適
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