1984年6月4日(旧5月5日)神と交わした約束が果たされる事が 今朝告げられました。
18年8月18日未明
事象(とき)の切り替え
今朝は5時15分に是までの時間(とき)が閉じられ、5時22分に新しい時間(とき)が開いた。
其れは、旧約聖書に「神は6日間で此の世界を創造し 7日目に休んだ」と記されている事と関係が有り、是までの「事象・時空・とき」が閉じられて、新しい事象が始まる理・ことが知らされて来たモノの様である。
其の時間の「扉・まく」は、カメラのシャッターの様な物であり、其れは人間の瞼の仕組みと同じで、閉じている時は「月読界」で、開くと「天照界」であると言う事である。2016年6月6日
2007/3/31
小中教科に「徳育」新設
小中教科に「徳育」新設
19・3・31
今日は 自宅から事務所に向う途中に在るガソリンスタンドに寄り、ガソリンを入れ、オイルの点検をして貰っていて、スタンドの事務所の中のテーブルの上に置いて有る、新聞の上に目をやったら、「小中教科に徳育新設」の大文字が、目に飛び込んで来た。
私は 新聞を取っていないので あまり社会の状況が分からない。
今日、其のニュースを見て、世の中も少しは良い方向に、進んでいるのだと想い、少し嬉しく成った。
どんなに勉強をして、知識を増やしても、どうしたら幸福に成れるのかが解らなければ、自分が幸福に成り、他人も幸福にする事は出来ないのである。
だから知識を増やすより、人生をどう歩くかの心構えを、育てる方が大事なのである。
其の為には 心や魂しいの事に、意識を向けさす事は重要なのだ。
確かに、「陰極まれば 陽に転ず」の諺は、正しいようである。
平成19年3月31日
礒邉自適

2007/3/31
年度末
19・3・31
今日は、3月31日で、今年の年度末である。
私の、意識の階梯も、其れに合わせたかの様に、一応の段階を迎えた様である。
私は、1983年の3月18日に無庵師匠と出会い、其れまでとは違う感覚の世界に、触れる事と成った。
其れから、12年x2旬の24年が経過した事に成る。今朝のメッセージは、其の期間での、私の意識の進歩が、神の予定通りに進んだ事を、知らせて来たものの様に考えられる。
今朝の映像は、私が二階から、階下に階段を下りて行くと、広い部屋が有り、其処に5〜6名の人が集まって居る。
私は、其のメンバーを見てハツと気が付いた。
其れは、其の日が初めての会合の日で、私は幹事役を引き受けており、其の部屋に皆が集まり、会議の後、食事会が行われる様になっていたのである。
私は、其の事をすっかり忘れてしまって居たのである。
仕方が無いので、時間が夜の7時頃なので、今更どうにも出来ないから、料理を何処かに頼む事にして、会議が始まった。
其の、会合に集まって来たのは、約30名程だったが、集まった人達が、何処の誰で、何の話し会いが行われるのかは、私には判からなかった。
そして場面が変わり、羊歯のぜんまいの様に、二つの渦巻きが、ペアーに成っている姿が映り、其のペアーは、ライト兄弟の様な組み合わせを、意味しているように受け取られた。
其の意味は、新しい未来社会を創造するのには、相棒が必要である理・ことを意味しているようである。
人間は、一人で考えて居ても、なかなか思考が進まないが、良い相棒が居れば、二人で話し合っている間に、お互いに良い考えが浮かんで来るものである。
其れは、発明・発見などの、相対世界でもそうだが、精神的な世界でも同じである。
唯、其の両方の違いは、物の世界に付いて話し合うか、神の世界に付いて話し合うかの、対象が異なるだけである。
インドの釈迦は、精神的な世界での朋・ともに付いて、こう謂っている。
「此の世界は 一人で考えるより 良い相手を選び 二人で歩いた方が良い。正し 良い相手が見付からない場合は 一人の方が良い。」
其の意味は、お互いが向上し合う者でなければ、二人で歩いても時間の無駄に成るだけだと言う理・ことだろう。
今朝のメッセージは、二つの件を伝えて来ている。
一つは、是からは、私自身で、会合の設定や世話役を、しては成らないとの事であろう。
私は、是まで集まりをするのに、自分で日程や場所を決め、文章を創り、案内役をし、其れに食事も準備して、話しもしていた。
其れに、其の場の記録の為に、写真撮影やビデオカメラまで回して、後片付けまでこなして来た。
今朝のメッセージは、もう是からは、其れ等の事を、行っては成らないとの事ではないだろうか。
其れは、今回の日宮幣立神宮で行われた「瑞穂の国造り出発の儀式」が、私が直接手を下す、最後の行事と成った事も意味しているのだろう。
是から、本番の動きが始まるのであれば、多くのスタッフが必要と成って来るであろう。
其れ等の事に、私が直接意識を使って居れば、私自身の役割が熟せなく成るとの事だろう。
だから、私には、現実的な動きを得意とする相棒を見付けて、其の相棒とペアーを組んで、動けとの事ではないだろうか。
是から、動きが本番と成るのであれば、分刻みのスケジユールが組み込まれて行かなければ成らない。
其の様な世界に、私自身が頭を突っ込んで行けば、神の世界をトランスする役割が、疎かに成って、全ての動きが止まってしまう事に成る。
だから、本番が始まる前に、私に自覚を促して来たのだろう。
今朝の映像に現われた会場は、結構広い空間の会議室だったので、是からは、事務作業が中心と成る様な雰囲気であった。
其れと、私の是までの知り合いの顔は見えず、振り返って私を見た、50歳くらいのリーダーの男性も、私が未だ会っていない人物である。
其のリーダーや、メンバーが、何処に居て、何時集まるのかは判らないが、今朝の内容からすれば、私は、各分野のリーダー格の人達と接触し、神界の様子を伝えて行くだけで良いとの事だろう。
逆に考えれば、其れは、本番が近い事を意味し、私自身が、自分の役割に徹しなければ成らない事にもなる。
何時、何処から、其れ等の事が始まるのかは判らないが、昨日「ながいわ」の看板が架かっている、宿泊施設が映されて来たので、浮羽の「長岩むすびの郷」から、其の切っ掛けが生まれるのかも知れない。
今朝の、メッセージの様子から考えられる事は、私自身の、24年間の人生の棚卸しが、行われるとの事ではないだろうか。
数日前「年度末」との言葉が来ていたのは、此の事だったのだろう。
私もまた、ステップを変えなければ成らない時を、迎えている様である。
昔の人が、12干支x10還=120年を人間の寿命と捉え、半分の60年を半還暦の行事としたのには、我々の認識が及ばない、深い洞察から考えられた生命の時刻なのであろう。
私も、今年還暦を迎えて、人間の意識の成り立ちや、生命の仕組みと、宇宙の関係性が、少しは感じ取れる様に成ったと想えて来ている。
だからこそ、中国の老子は「いにしえの人は素晴らしい。」と、謂ったのであろう。
インドの釈迦も、同じ次元に達したのであろうし、レオナル-ド-ダビンチは其の生命の仕組みに、トコトン科学的に迫ろうとして居たのではないだろうか。
其れに比べれば、私には特別な能力は無い。
有るとすれば、何も知らなかった人間が、たった一人の師と出合った事で、人生が変わり、肉眼の目では見えない世界と、コンタクトを執れる様に成った事を、身を持って、皆に証明出来る事ではないだろうか。
其の役割なら、今後も続けられるであろう。
何故なら、還暦を過ぎれば、次第の脳のシナプスが減少し、体力も弱まるので、余計な自我意識も働かなく成り、子供の頃の状態に還って行くからである。
其処には、未だ、何も余計な理屈を知らず、素直に生きて居た、自由な自分が存在するからである。
私は、是から、中国の「老少」の概念の理解へと、踏み込んで行くのかも知れない。
平成19年3月31日
礒邉自適
2007/3/30
ありとあらゆるものへの愛
19・3・30
今朝のメッセージの映像は、具体的な物ではなく、私の意識が、情報を検索しているのだが、何も出て来ないので、其の検索している相手の正体を見ると、其れは、光のエネルギー体であり、其の光の中には、文字も言葉も画像も無く、物質すら一切何も無いのである。
そして、其れを観ている私の意識も、其の光の一部にしか過ぎないのである。其の様子を、どう説明したら良いのだろうか。
仏教の教えには、「此の世界は『見る者』と『見られる物』と『其の関係性』で全てが成り立っている。」と 有る。
其れは、例えば、林檎が一個其処に有れば、其の林檎は「見られる物」であって、其れを見ている人間は「見る者」である。
そして、其の関係性は「人間に食べられる物。人間が食べる物」と言う事になる。
しかし、今朝の映像は、物が何も無く、有るのは、空間を創り出している明るい光のエネルギー体だけで、私自身も、身体が物質化して存在しているわけではないので、其の三者の関係性が、成り立たないのである。
私が、其の状態を、私なりに説明すれば、此の世界は、全て、光のエネルギーで創造されており、人間の意識の発生源である大脳も、其の光のエネルギーが生み出している物だと言う事である。
だから、私の意識も、人間としての礒邉自適が存在するのではなく、全体の光エネルギーの一部として、溶け込んでいたのである。
そして、私の意識は、其の光のエネルギー体を、対象として見ているのである。しかし、其の光のエネルギー体からは、何の指示も、言葉も表れて来ないのである。
其の状態は、私自身の意識が、何かの作為を起こし、左か右に意味付けを行わなければ、何も物質化しないし、意味が発生しないとの事である。
其れは、私の意識が、何かの意味付けを起こし、其の光の世界に、前向きに歩き出さなければ、何も起きないと言う事になる。
私が、右に動けば、右側の光エネルギーが其れ用に現象化し、左に動けば、左側の光エネルギーが現象化して、此の現象世界が、変化すると言うことに成るらしい。
其れは、人間側から見れば「現人神・あらひとかみ」が、現実として現れると言う事になる。
「現人神」とは、以前「天皇陛下」の事をそう呼んでいた言葉である。
現在・いまの皇室は、日本国憲法で何等、此の現実世界に「詔・みことのり」を発しては成らない事に決めてあるので、天皇陛下がそうしたくても、出来ない状態に成っている。
だから、本来は、皇室に流れるべき光のエネルギーが、私の方に流れて来ているのであろう。
今朝は、だいたいの意味が理解出来て来た処で、何処かの新しい宿泊施設が映り、玄関の上には「ながいわ」と平仮名で扁額が架かっていた。
其れは、福岡県浮羽町の長岩の事であろう。長岩には、岡部賢二氏が経営する「長岩むすびの郷」が現存する。
岡部賢二氏の話では、其処に、宿泊施設を今夏までには建設したいとの事であるので、其の宿泊施設が出来れば、何等かの動きが、見えて来る事に成るのではないだろうか。
今朝のメッセージの内容から考えれば、岡部賢二氏の動きは、既に、神の光エネルギーが流れて来ている事になる。
私は、今年の1月15日に岡山駅前のホテルに宿泊していて、女神の声で「16日の日付で、準備が出来たと書きなさい。」と云われ、其の16日に滋賀県大津市の「山岡康人氏」が経営する「健康社」の会議室で、初めて岡部賢二氏に出会ったのである。
だから、今朝のメッセージは、やはり岡部賢二氏の経営する「むすびの郷」から、新しい神の世界が創出されるとの事であろう。
其れは、私の働きも、其処から効果を現すとの事ではないだろうか。
今朝は、其の後に、地面に草の株が、彼方此方に生えているのが映されて来た。其れは、此の地球の環境を護り、全ての生命を支えているのは、草の存在であるとの知らせであろう。
漢字の「草」は、「地面に早く生える物」の意味であり、「芯」の漢字は「草+心」の組み合わせで、「身体の中心には 草の心が良い。」との意味であろう。
岡部賢二氏が行っているのは、「マクロビオティック(正しい食・穀物菜食中心食・身土不二を原則とした環境全体と調和をした生活)」を「核・芯」とした、「生活・ライフスタイル」の構築である。
マクロビオティックとは、日本人の「桜澤如一」が、世界に広げた生活法であるが、本家本元の日本が、外国より遅れてしまっているのである。
現在・いま世界中に、日本食ブームが起きているが、其れも桜澤如一の影響抜きでは有り得なかったであろう。
世界は、既に、日本から立ち上がる、新しき文明を心待ちにしているのである。其の烽火が、岡部賢二氏の「むすびの郷」から上るのだろう。
私も、其の動きに協力する為に、新しくデジカメを買ったり、ビデオカメラの電池の予備を買ったり、携帯電話も浮羽で通じる、ホーマに切り替えたりしている。
私は、次に屋久島を出るのは4月6日で、7日には熊本県三角で行われる、どれみ村の「天波博文氏」のライブに参加する。
其の後、今後の行動に付いて、打ち合わせをする事に成っている。
愈々神の計画が、皆に認識される時節を、迎えたと言うことであろうか。
今朝は、部屋のカーテンを開けて東の空を見ると、丁度朝日が昇るところであった。其の朝日を眺めていると、「ありとあらゆるものへの愛」と言葉が告げられて来た。
其れは、此の地球に生命を齎している、光からのメッセージなのかも知れない。
日本語には「何処に行っても お天道様と 米の飯は着いて回る」との言葉が有る。私の人生は、正に、其れを実行している事に成る。
其の道を支えているモノこそ、穀物などを生産している草の力である。
だからこそ、今朝の映像には、光を浴びて、地面に生えている草の姿が、映り出されて来たのだろう。
「水心有れば 魚心」との言葉が有るが、今朝の私の心境には、「草心あれば 神心」の言葉が、合うのかも知れない。
やはり、宇宙の根源エネルギーである光の存在は、人間の浅はかな認識力では、計り知れないとの理は本当なのである。
だからこその「阿弥陀・アミターユス・アミターバ」であり「帰命頂礼・きみょうちょうらい」なのである。
平成19年3月30日9時33分
礒邉自適
2007/3/29
完成
19・3・29・7・7
今朝のメッセージは、究極の内容を含んでいる様である。
始めの映像は、箱の中に、様々な物が順番良く並べられ、最後の空間に水が詰められた。
すると、全ての物が、其の水に溶けて、箱全体が水の面に覆われてしまった。
そして、天使の歌声の様な女神の声が流れて来た。
其れは「貴方の想った様に 風が流れる。」と言う言葉のフレーズが、天使の歌声の様に、何回も繰り返し軽やかに流れて行くのである。
そして場面が変わり、各地で色んなセミナーが開かれていて、其の内容の基本には、私の意識が採り入れられている様子が、次々に映り出されて来た。
今朝の内容を、総合的に考えれば、次の様に成るだろうか。
1. 全てが 水の意識に覆われた。
2. 全ての現象は 水の霊で生まれている。
3. 水素原子が 全ての物質の基である。
4. 私の意識が 其の水の源に達した。
5. 私の意識には 其のみなもとの意識が作用している。
6. 是から始まる未来社会の概念に、私の到達した段階の意識が組み込まれる。
7. 其れに因って 此の現象世界が 神の意識に適った世界と成り 安定する。
8. 其れが 瑞穂の国の 本来の意味するところである。
9. 其れが古代から理解されていたので 神社に御手洗の水が設置されている。
10.此の概念であれば 聖書やコーランの内容と食い違いが無いので 世界の意識は統合されて 宗教戦争は無くなる。
未だ書き出して行けば、様々の件が有るだろうが、取り敢えず是くらいにして次に進もう。
女神の言葉の「貴方の想った様に 風が流れる。」とは、「風」の意味が、チベットの「ルン」の言葉と同じ意味を含んでいるのであろう。
チベットのルンの概念とは、「此の現象世界は 風の様に始まった。」との意味の風である。
其れは、現代の量子物理学で言う処の、素粒子の密度が濃く成った空間が、質量のバランス関係で、揺らぎを始める様子を、言い表しているものではないだろうか。
其れは、メーソン・石工の秘儀の内容と一致するものでもある。
だからこそ、聖書にも「此の世界は、水と霊の働きで出来ている。」と書いて有るし、「此の世界に生じている物で、神の息吹が掛かっていない物は無い。」との言葉を、裏付ける事にも成るのである。
今朝の私の意識は「あるときから あるもの」の世界に在り、其の世界で氣が生じ、風の様に揺らぎを始め、質量が生まれ、水が誕生し、其の水が全ての物に変化する世界を、逆回しにして観て居たのではないだろうか。
今朝の、私の意識と同じ段階に達した人が、古代社会に居て、語り部と成り、其の言葉が後世に伝えられ、旧約聖書の形と成ったのではないだろうか。
だからこそ、「始めに水が有り 神は 其の水を 天と地に別けた。」と、書かれているのである。
今朝は、其のメッセージを解釈していて、今回の能登半島の地震は「白山菊理姫・白山大権現」が起こしたものではないかとの想いに至ると、突然、右手親指の指紋の所が、ビリビリと痛く成った。
其れは、此の日本列島の地殻を管理している、白山の白龍が反応したからかも知れない。
23年前、地球を私の左手の掌に載せ、管理を任して来たのは、白山権現の白龍であった。
其れが、今回26日から、行動を起こし始めたのではないだろうか。
昨日、栗生に向かっていると、岡山の「Aさん」から電話が掛かり、能登半島地震の震源地が「門前町走出」との地名で、「門前から走り出すの意味」であると知らせて来た。
昨日は、栗生川の畔に在る「石楠花公園」に出掛け、写真を400枚程撮った。そして、川の畔に佇み、「太鼓岳」の姿も写真に収めた。
太鼓岳に住む神様は「ピーコドンドン」と呼ばれていて、笛と太鼓の音色を出して、屋久島の山岳の峰を渡り歩く神である。
今朝の天女の歌声は、其の楽団のボーカルなのかも知れない。
何れにしても、私の意識は「瑞穂・みずほ」の意識に、到達したのではないだろうか。
屋久島は、花崗岩の岩山と、水の島である。
私は、其の島に生まれたので、清らかな水と、花崗岩の岩山を渡り歩く神霊に育てられて、此処まで辿り着いたのではないだろうか。
其の様に考えれば、私と言う個人的な人間は、無い事に成る。
人間は、自分が有ると意うから、色々悩むのである。
元々、自分など無いのだと考えれば、自己保全を考える事も必要無いので、気楽に生きて行けるのである。
「私が 想う様に 風が流れる。」とは、「私の意う様に 事象が変化する。」との意味だろうが、其の様な事を、真剣に受け取ってしまえば、怖くて何も考えられなく成る。
私の意識の中で、何が起きているのか、解らない事にして於こう。
其の方が、自分の働きを果たせるのではないだろうか。
私の頭を、誰が、使用しているのかは分からないが、どうせ勝手に使っているのだろうから、「我 感知せず」の方が、うまく事が運ぶのではないだろうか。
平成19年3月29日8時33分
礒邉自適
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