1984年6月4日(旧5月5日)神と交わした約束が果たされる事が 今朝告げられました。
18年8月18日未明
事象(とき)の切り替え
今朝は5時15分に是までの時間(とき)が閉じられ、5時22分に新しい時間(とき)が開いた。
其れは、旧約聖書に「神は6日間で此の世界を創造し 7日目に休んだ」と記されている事と関係が有り、是までの「事象・時空・とき」が閉じられて、新しい事象が始まる理・ことが知らされて来たモノの様である。
其の時間の「扉・まく」は、カメラのシャッターの様な物であり、其れは人間の瞼の仕組みと同じで、閉じている時は「月読界」で、開くと「天照界」であると言う事である。2016年6月6日
2007/6/26
神の要求
19・6・26
今朝のメッセージの映像は、私の文章や、人間の活動の様子を写した写真のコピーを、神が要求しているのが映されて来た。
其れは、是までには無かった場面である。
其れが、私に、何を指示して来ているのかと考えると、神が、私の心身を使用して、此の三次元世界の描写を、手に入れていると言う事である。
其れは、此の世に有る本や、話には、未だ記録されていない概念である。
其の事を考えると、是から、人間と神の関係が、新しい段階に突入するのだと考えても良いだろう。
私の見聞力不足かも分からないが、釈迦仏陀や、イエスキリストや、老子の言葉にも、其れらしき記述が無いように思われる。
其れは、イエスが、パンを四次元から、此の三次元世界に取り出しても、何故、其れがそう成って、此の世に現れるかの説明が無い。
其れは、イエス自身も、其の現象に対して、理解が出来ていなかったからであろう。
若し、其の事に対する理解があれば、余計な事を行なって、磔に成り、殺される事も無かったのである。
其れは、神に対する理解が浅かったので、神の働きを、其の侭信じる事が出来なくて、余計な事を仕出かした結果の出来事なのだ。
其の点、老子や、釈迦は、イエスの様に、神を人間が頼れる人格霊と考えずに、老子は「道・タオ」釈迦は「法・ダルマ」が働いていると考えていたので、他人を一切攻撃する行動(作為)が無いので、敵が生ぜず、殺される事が無く、天寿を全うする事が出来たのである。
だから、イエスの様に、後悔の念は何も残ってはいないのだ。
今朝のメッセージと言うか、私の意識が覗き込んだ世界は、人間の存在を通じて、神(天)は此の三次元世界の描写を、手に入れていると言う事である。
(「手に入れている」との言葉は、人間の言葉の世界なので、其の言葉自体が神を人格化しているので、正しくはないのだが、取り敢えず思考が外れるので、此の侭 書き進める事にしよう。)
其れは、人間の此の肉体は、五感の働きを持って、情報を電気信号に置き換え、宇宙にダビングしているのだから、此の肉体は、人間の物ではなく、神(天)の感覚器官として存在しているのである。
だから、神が手に入れているモノは、人間の脳を通して発生している情報である。
其の人間の情報に拠って、神は未来を創造しているのである。
其れは、私達人間の此の身体や思考体系でさえ、38億年前発生した微生物の組み込んだ情報を基礎にして、描写されながら、発展して来た物であると言えるのだ。
そう考えれば、我々の人体は「記憶の箱」であると言えるだろう。
其れは、航空機の情報記録装置であるブラックボックスが、我々人体にも取り付けられていると、考えても間違いではない。
其れが、宇宙の何処かにアカシックレコードが存在し、全てが記録されていると考える、思考の元に成っているのだ。
しかし、釈迦仏陀は、宇宙にアカシックレコードが在るとは謂わずに、自分の内側に其れが在るので、其れに目覚めよと謂っている。
だから、釈迦の訓えでは、アカシックレコードは、自らの体内に在るのだから、其の記憶を全部取り戻せば「ブッダ・仏」に成れると謂っているのである。
其の理を裏返して考えれば、宇宙には記憶は無く、有るのは此の人体なので、新しい記憶を蓄えるのも、此の人体しかないと言う事に成る。
と言う事は、我々の身体の仕組みである、此の五感器官と、其れに拠って発生する「六感・シックスセンス」こそ、レコードに新しい情報を刻む、針の役割を果たしている事に成るのだ。
我々の五感器官は、人間の認識量の何倍・何十倍もの情報を、取り込んでいるのである。
我々の、表層意識に認識される情報量は、其の内の、僅かな部分だけにしか過ぎないのである。
だからイエスが謂う様に、飲んだり食ったりして居れば、其の瞬間の目の前だけの情報が、無意味に流れているだけで、記憶装置に送られる情報には、成っていないという事である。
其の人間の生活活動の情報を、少しでも記憶装置に送り込もうとするのが、「利休」の考え出した茶道や、弘法大師空海の書や真言の世界なのであろう。
そして、其の意識の世界を明らかにしようとしたのが、レオナル・ド・ダヴィンチや、釈迦達なのだ。
私の意識は、彼らの協力の下、次の世界へと向かっているのである。
其の為にこそ、私の此の脳味噌が必要なのだろう。
今朝の映像は、私が24年間撮り続けて来た写真のネガや、書き残して来た文章等が、神霊の働きの役に立っているのが、知らされて来たのである。
と言う事は、是から先、未来社会を創造して行く為にも、私の写真や、文章が、必要不可欠であると言う事に成ってくる。
今朝の私の思考の変化と言うか、発展の原因を探ると、昨日、広島の谷君と、今後の活動に付いて長話をした事に、関係が有るのかも知れない。
彼の父親は、ツタヤの関係会社の重役である。
彼は、今月、是までの仕事を止めて、今は自由の身であるので、ツタヤの営業企画部に就職して、若者向けに「未来創造コーナー」を設置して、其処に本やビデオや音楽など、未来社会創造に関する物を、総合的に揃えて、選択し易い様にしたらどうかと言うと、彼は其の気に成っていた。
其の、谷君との会話は、天に響いて、状況を変化させ、今朝の情報と成って映し出されて来たのではないだろうか。
そうであれば、今日から、既に神の世界では、ツタヤに向かって、エネルギーが流れ始めている事に成る。
其れは、ツタヤだけの事ではなく、ソフトバンクの携帯電話が無料だから出来る事でもある。
金が無い私は、自分から電話を掛ける事は殆ど無いが、それでも長話に成れば、相手の電話料金が心配に成って、用件を短くしようと自我意識が働くのである。
しかし、ソフトバンクの携帯電話は無料なので、料金が気に成らないから、無職で何の立場も無く時間が自由である私は、相手の気持ちが納得出来るまで、話している事が出来るのである。
其の時の、私の脳味噌は、あらゆるデーターを選択しながら、谷君の人生が幸せな方向に向かう様に考えながら、映像(イマジネーション)を組み上げ、言葉に変換して話しているのである。
其の時に、私の脳味噌から発生する磁気信号は、携帯電話を通じて、全世界に電波と成って飛んでいるのだ。
更に、其れは、光ファイバーにも流れ込んで、レーダーアンテナを通じて、電離層の彼方まで飛んで行っているのである。
其の世界こそ、観音力・観自在菩薩の働きの世界なのである。
今朝の私の意識は、観自在菩薩の働きをしていたのである。
11面観音菩薩像は、大日如来・ビルシャナの働きを仏像として、人間の視覚に見える形に描写している物である。
其れは、今迄の事であって、是からの世界は、皆が自分の脳の中に、自分の観音様の姿を観る御世になるのだ。
其の働きの中核として、ツタヤの様なレンタル店は、若者の意識の通過点と成るのではないだろうか。
其れは、神社の鳥居の役割が、レンタルショップの玄関入り口に、在ると言う事に成るのだ。
最早、教会や、寺院や、神社の建物の役割は、レンタルショップ店の建物に置き換わってしまっているのではないだろうか。
だから、教会に行って、2000年も前の文章を読み上げたり、お寺に行って、2500年前の分けの判からない経典を書き写したりしていても、時間の無駄と言うことである。
今朝のメッセージは、日々、宇宙の情報が進化している事を伝えて来ている。其れは、私が23年間、新しいイメージを求め続けて来たからであろう。
私は、此の文章を書くのにも、何かを書こうと意って、パソコンの前に座っているのではない。
ただ頭に浮かんで来る言葉を、其の侭、指先に伝えているだけである。
だから、書き終わった時点で、もう私の記憶には残っていないのである。
此の作業をしている、私の指先の動きこそ、新しい密教の指の印の組み方・運動なのかもしれない。
現在のインターネットの世界には、「未来創造」との言葉が検索しても、あまり出てはこないし、カテゴリーにも未来創造とのコーナーは無い。
其れは、未だ、人間の意識に、未来を創造すると言う概念や想いが、薄いからであろう。
と言う事は、過去の歴史や、文化を研究する者は多数存在して居ても、未来を創造しようとしている人間が、居ないと言う事である。
其れはそうだろう。
未来社会へのレールを引く役割の政治家が、選挙対策や、敵対する党派のあら探しをしているだけでは、時間と税金の無駄使いに成るだけである。
神は、悪魔の姿をとって「此の世を 全部お前に渡そう」と、迫って来る。
しかし、其れを受け取ってしまえば、最後のテストは不合格と成るのである。
今日まで、存在する物事や権力は、明日は過去の物と成るのである。
だから、其れを受け取る事は、未来を創る役割を棄てる事に成るのだ。
神は、未来創造の為に、人間に力を与えるのである。
其の力を、バベルの塔の物語の様に、神に近付く為に、天に向かって築いてはいけないのである。
だから、神は、自分の念いと違う行動をする者達の言葉を乱して、人間の行動をバラバラにしてしまったのである。
神が、人間に望んでいるのは、新しい認識の積み重ねなのである。
人間の意識の成長こそ、宇宙の進化を即すものであり、宇宙の存続価値を生み出し、未来の時間と空間を創出する基と成るのである。
其の役割を果たす人間が、旧約聖書で言う処の「義人」であり、油を注がれた者の意の「メシア・キリスト」の事なのだ。
だから、「未来創造」とのコーナーや、カテゴリーがIT世界に無いと言う事は、未だ、神の世界が、此の世に写し出されているとは言えないのである。
此の地球に、残されている時間は少ないのである。
今回始まる九回目のアセッションが、また人間のエゴの為に失敗すれば、此の地球での舞台は壊され、また他の舞台で、一から遣り直さなければ成らなくなるのである。
せっかく此処まで準備が出来たのだから、神の喜ぶ世界を、造り上げなければ成らない。
其の為にこそ、用意された、我々の身体と認識力なのである。
我々の此の身体こそ、神の手足として創造されて来た物なのだから、未来の有無は、我々の認識に委ねられているのである。
其の一端として、私の意識の描写が役に立っている事を、今朝は知らせて来たのだろう。
平成19年6月26日
礒邉自適
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