1984年6月4日(旧5月5日)神と交わした約束が果たされる事が 今朝告げられました。
18年8月18日未明
事象(とき)の切り替え
今朝は5時15分に是までの時間(とき)が閉じられ、5時22分に新しい時間(とき)が開いた。
其れは、旧約聖書に「神は6日間で此の世界を創造し 7日目に休んだ」と記されている事と関係が有り、是までの「事象・時空・とき」が閉じられて、新しい事象が始まる理・ことが知らされて来たモノの様である。
其の時間の「扉・まく」は、カメラのシャッターの様な物であり、其れは人間の瞼の仕組みと同じで、閉じている時は「月読界」で、開くと「天照界」であると言う事である。2016年6月6日
2007/7/30
まつり人(公務員)の心構え
19・7・30
今朝のメッセージは、政治家や、公務員の心構えに付いてが、テーマの様であった。
其れは、私が、昨日の参議院選挙をテレビ番組で見た影響が有るのかも知れないが、まつりごと(政治)に関わる人は、民間会社に働く人とは、意味が違う事が示されて来たのである。
其れは、事業家や、人気タレントが、お金が有るからとか、顔が売れているからとかで、気軽に、政治の世界に関わって良いものではないと言う事である。
政治とは、厳粛に考えれば「天・神」に代わって、此の三次元世界を管理する事である。
だから、政治家や、国家公務員、並びに地方公務員も、襟を正して、仕事に就かなければ成らないのである。
今朝の映像は、以前、総理大臣をして居た人の息子が、大麻を吸って逮捕された件や、時間を厳守しない公務員や、役所内での物の貸し借りで問題を起こす人や、暴力団の力を借りる人が居る場面が、映し出されて来た。
其れ等は、皆「政・まつりごと」に就く人の、立場を踏み外している理・ことを知らせて来ている。
特に、総理大臣は、国民の代表でもあるが、外国に向けての、国の看板でもある。だから、其の看板に傷が有ったり、色が悪かったりすれば、国のマイナスでもあるし、国民の恥でもあるのだ。
そして「政・まつりごと」は、将来、未来を創る事に成る、子供達の教育も管理している。
だから、政・まつりごとに関わる人々は、国民のお手本と成るべき存在なのである。
其の、お手本である教員や公務員は、言葉使いや、立ち振る舞い等の仕草に、充分に神経を使わなければ成らないのである。
だから、其れを守る事に自信の無い者は、最初から、公務員には成らない方が良いし、行政側も、採用する前に、其れを確認しなければ成らないのである。
今日のメッセージは、聖徳太子(574〜622)の霊魂が関係しているのかも知れない。
聖徳太子は、1400年前に、十七条憲法を作成した事で有名な人である。其の聖徳太子の十七条憲法は、現在の国家公務員法と呼べるものであろう。
現在・いま、時代が大きく変わろうとしている時に、一番大事な事は、国家の体制をどうするかであるし、其の国家を運営する「まつり人」が、どんな心構えを執るかである。
其の、時代の大きな変化に対応する為には、誰かが、矢面に立たなければ成らないだろう。
今朝は、其のメッセージの後に、魚釣りの場面が映し出されて来た。
魚釣りは、釣る魚類に合わして、道具や餌を変えなければ成らない。
魚釣りは、其の魚種別の、大物を釣る事が醍醐味であるし、目的以外の魚種の大物を釣り上げても、其れは外道と呼ぶのである。
其の映像の意味は、是から、私が人材を募る時の、手法を示して来たのかも知れない。
昔から「餅屋は餅屋に」と言う言葉が有る。其れは、遣るべき事と、違う業種の人に物事を頼んでも、上手く行かない理を示している。
是から、未来を創造して行くには、相当数の専門分野の人材が必要である。
残された時間の中で、適材適所で人間を配置し、物事を進めて行くには、其れなりのプロフェッショナルを探し出し、嵌め込んで行かなければ成らないだろう。
其れが、天津金木を此の世に組み込む事である。
昨日は、ビルシャナの三密が、赤い新芽を出し始めたのが映されて来たが、今朝は早速「政・まつりごと」の人材発掘と、心構えを、認識するように指令をして来た。
やはり、事は、現実世界に転換されつつあるのだ。
平成19年7月30日
礒邉自適
2007/7/29
三つの紅い新芽
19・7・29
今朝のメッセージの映像は、暗い世界の中に、木の枝が三本現われ、其々の枝先に紅い小さな芽が一個着いていた。
其の芽は、私には「大日如来・ビルシャナ」の三密が、此の色の世界に働きを現す前兆の様に想われる。
其れと、今朝は初めて、右後側から次々に男女の人影が現れ、左前方の建物の中に入って行った。
其れは、神に送り込まれた人々が、此の世界を動かす為に、配置に付く場面として解釈して良いのではないだろうか。
何故、そう考えるかと言うと、是まで人間の姿が現れるのは、右前方から現れて左側後ろに消えていたからである。
其れが、今朝は、人間の流れが、是までとは逆に成っていたのだ。
其れに、現実的にも、昨日11時53分に、愛媛県大洲市に在る「少彦名神社」の管理をしている「亀田稔氏」より電話が有り、「自適さんが 今朝 夢に現れて 私に書類を渡したので、何の意味だろうか。」と、言って来た。
其れは、私が前の日に「天の御中主神」を祀る、小倉の妙見宮に参詣したので、其の効果が現れたのではないだろうか。
少彦名神は、天御中主神の直ぐ下の、「高御産日神・たかみむすびのかみ」の子と言う事に成っているので、亀田氏の霊夢は、天御中主神の指令が、高御産日神を通して、少彦名神に渡されたとの事ではないだろうか。
其の結果として、今朝は「大日如来・ビルシャナ」の三密が動き出したのではないだろうか。
ビルシャナとは「宇宙の真実の本体」との意味で、其の働きを三つに分けて説明すると、@此の宇宙に存在する物質は、皆ビルシャナの身である。
Aそして、其の物質には意が存在する。
Bだから、其の現れの一部である人間には、其の意を、言葉に代える働きが備わっている。と 言う様なものである。
今朝のメッセージは、其の三つの働きが揃い、此の三次元世界に芽を出すとの事ではないだろうか。
今朝は、朝起きて、宿泊して居た人達と話し始めると、とても話しが合う男性が居る。名前を訊くと、「中村です。」と答えた。
仕事は、宗像にある合宿スポーツ施設のグローバルアリーナであるとのこと。
私は、其れを聞いて、昨年のメッセージに有った、デズニーランド風の施設のオーナーから届いた、大きな袋のプレゼントに張られていた名前が、「中村様」であった事を思い出した。
若しかしたら、其の施設はデズニーランドではなく、子供達が楽しく身体作りをする施設の意味だったのではないだろうか。
そうであれば、此の中村氏が、神が用意した働きの、人物なのではないかと意われる。
しかし、其のメッセージの映像でのプレゼントは、鹿児島港で下ろされたが、大型トラックの荷物は屋久島には渡らず、鹿児島港から何処かに向かったので、中村氏の職場は屋久島ではない事になる。
今朝は、其の「中村洋之介氏」と、子供の育て方や運動の仕方など、色々な分野で話をした。
其れは、精神世界の人達との会話とは、かなり違うものである。
昨日、亀田稔氏が受け取った書類の内容は、どんなものであるかは分からないが、子供を育てるのに運動は一番大事なことでもある。
先ずは、子供を育てる、女性達の助人として出来る事は、其の事かも知れない。
段々と、神の指示も具体的なものに成りつつあるので、建て直しも間近かと言う事だろうか。
平成19年7月29日
礒邉自適
2007/7/28
全ての物に実体が無い
19・7・28
今朝のメッセージの映像は、私にとって、始めて体験する不思議な場面であった。
其れは、私が手に取ろうとする物が、全て実体が無く、私が手を触れる物が、全て変化して、物の形が変わってしまうのである。
其れが、どう言う意味なのかは、私には未だ理解されない。
昨日は、「ライヤー(立て琴の一種)」の演奏家である、「池末みゆきさん」に誘われていたので、北九州市の小倉に在る市民交流会館「ムーブ」で開かれる演奏会に出掛けて来た。
折角小倉まで出掛けるのだからと意い、早めに、赤間の市村志乃婦さんの家を出て、足立山に在る「妙見宮」に参拝して写真を撮る事にした。
小倉の妙見宮は、全国の妙見神社の本宮でもある。
神社に午後3時頃着いて、御手水で、作法通りに手を洗い、口を濯いで水を飲み、拝殿の前に立って手を合わすと、「ゆうやく」との言葉が伝えられて来た。
其の言葉は、是までにも、何回も出て来ていたが、長年意味が解からなかった単語である。
私は、焼き物に大変興味が有るので、其の言葉は陶器に色着けする「釉薬」の事だと考え、他人の生命現象に色付けする事だと、考えていたのである。
処が、今朝の女神のメッセージで、其れは「言う役」との意味であり、日本語の「治らしめる・しらしめる」の意味である事が理解された。
「取り返しの利かない事」http://moon.ap.teacup.com/20060103/123.html
「治らしめる」とは、「スメラのミコト」が民に向かって、「まつりごと(政治)」を行なう意味である。
其れは、神(天帝)の意思を受けて、君(皇帝)が、神の意思を民に伝え、政治を行う事である。
其の為に、「君(右手+杖+神の言葉の組み合わせ)」の漢字の象形が有り、「聖(耳+神の言葉+聖なる王の組み合わせ)の漢字の象形が有るのである。
「君・クン・きみ」の漢字は、手に杖を持った人が、神の言葉を受け取り、官や臣民を治める意味である。
「聖・セイ・ひじり」の漢字は、其の人が神の言葉を聴いている姿を現しており、知るの「知」は「矢+口」の組み合わせで、手にしている矢を、神に返して、手ぶらに成り、神の知らせを受け取る意味である。
そして、智恵の「智」は、其の「知」+「曰(開いた口の意味)」で、神に知らされた事を、他人に「話す・伝える」の意味である。
だから、長年に亘り、私に告げられて来ていた「ゆうやく」の言葉は、其れ等の世界を、全部含んだ意味での「ゆう役」だったのである。
私は、1987年の5月26日から、89年の9月26日まで、妙見宮の在る足立山(霧ヶ岳)の東側に住んで居た。
だから、妙見宮には何回も参詣している。
しかし、今回、神社の彼方此方を写真に撮っていると、妙見宮の本来の名は「御祖神社・みおやかみやしろ」である事が判った。
其の事で、私が思い出したのは、無庵師匠に聞いた話である。
無庵師匠は、小倉市の出身で、17歳の時に、メグロのオートバイを運転して走っていて、崖から落ち、頭蓋骨骨折の重傷を負い、病院に担ぎ込まれたが意識不明の状態で、生命の危機を迎えて居た。
だが、自分の意識は、妙見宮の神社の階段を上って行くと、上から真っ白い服を来て、杖を突いた、髪と髭の長い人が光り輝いて出て来て、「お前は 未だ 役目が有るから返れ。」と、云われて、意識が回復し、奇蹟的に助かり、其れから超能力が付いたらしい。
私が、無庵師匠に捜し出されたのも、其の白い服を着た神様の指示だったのであろう。
妙見神社の祭神は「天御中主」とされ、大きな木の生えている山の、清い水が湧いている所に祭られていて、北斗信仰と重なっている。
北斗信仰とは、北に位置する北極星を中心にして回る「北斗七星」の運動を意味していて、宇宙の回転の中心軸を意味している。
「斗」とは、一升(マス)の10杯の量の意味で、科学の科と同じ意味合いの「計る」の意味であり、其れは、北斗星が柄杓・ヒシャクの形をしているので、其の様に名付けられたのであろう。
其れ等の意味を組み合わせて、宇宙の中心に存在する力の「神・はたらき」を「天の御中主」と名付けたのであろう。
だから、宇宙の意思が、自分の存在を「白髭神」として、人間に見せて来ているのだ。
そして、其の働きが備わった者に、言葉を与え、三次元世界の「政治・まつりごと」を、任せようとするのであろう。
其の事を考えれば、無庵師匠を交通事故に導いた「者・はたらき」も、天の御中主である事に成り、私が無庵師匠に捜し出されてこう成ったのも、天の御中主の仕業である事になる。
さて、此処らで、今朝の本題に入りたいと意う。
今朝の映像は、まるで私が、何処かの宇宙に在る空間の、舞台上の様な場所に居て、私の手が触れる物が、全てフッと姿形を変えてしまうのである。
其れはまるで、私の手が、世界を変えてしまう様な感覚である。
私には、其れがまるで、現実の様に想われるので、一度意識を現実に戻して、両手を動かし、自分の身体や布団に触れて見た。
すると、其れは、やはり現実ではない事が、自覚出来たので、再び幻覚の中に意識を沈めて行ったのである。
(此処まで打ったら、いきなり、頭の左上が急激に痛み出して来た。また天界は、次の段階に進み出した様である。)
後は中断して、言葉が出て来ないので、此の件に付いては触れない事にする。
昨日は、参詣が済んだ後、まだ時間が有るので、以前小倉でお世話に成っていた「常安豊子さん」に電話を入れると、電話に出て下さったので「顔を見に伺います。」と云って、葛原の常安宅に向かった。
そして、夜のコンサートに誘って見たが、足が痛むので行けないと言うので、しばらく話した後、風呂場を借りてシャワーを浴び、着替えをしてコンサート会場に向かった。
今回のコンサートの主催者は、福岡県仲間市に住む助産婦の「金子由香利さん」で、会場には多くの妊婦や、子供連れの母親が集まっていた。
私も、自分の七名の子供は皆、助産婦か、其れに似た産院にお世話に成っているので、お産に付いての見識は、金子さんと通じるものがある。
私に伝えられて来ているメッセージで、重要な事は、子供を産み育てる母親の身体と、環境を護る事である。
其れは、人間の生命だけを考える(重きを置く)のではなく、地球全体の生命を護る事でもある。
其れが、釈迦牟尼仏陀の謂う「衆生一切わが子」の言葉を、理解する事でもあるのだ。
其の仏陀の気持ちこそ、「天の御中主」の意志に通じる、心構えではないだろうか。
其の様に考えれば、私が、是から口にする言葉は、漢字の「聖」と「君」の持つ概念から、外れない様にしなければならないのであろう。
其れが、今朝の女神からの指示でもある。
今日は、夕方6時から、勝浦海岸に面した市村志乃婦さんの別宅で、20名が集まり「天空の宴」が催しされる。
取り敢えずは、今夜の祭りを楽しむ事にしよう。
明日は、宗像を離れ、屋久島に向かって下って行く事に成るだろう。
今回、屋久島を出たのは、原さんのFMラジオ出演が目的であった。
しかし、私が動かされる時は、いつも幾つもの出来事や、神の目的が組み込まれているので、今回も内容が重なるだろうとは意っていたが、今回の旅は、私が想った以上に、多くの事が有り、意味深いものと成った。
特に、市村志乃婦さんとは、四国の道場に市村志乃婦さん一行が訪ねて下さった時に、一度お会いして居ただけだったのだが、今回11日間お世話に成って、実に多くの事が解明され、また自分の役割も果たされたと意う。
屋久島を11日に出発して、今日で17日目である。
今回の旅は、今までの旅の中で、一番充実したものであった。
今回の旅で、お世話に成った方々に「感謝・合掌」して、今日の文章を終わる事にしよう。
平成19年7月28日
礒邉自適
2007/7/27
因縁を切る
19・7・27
今日の文章は、神のメッセージではなく、人間の因縁が、如何なっているかが解かるものであった。
昨夕、S君が訪ねて来て、夕食を共にし、同じ部屋に眠ったので、今朝現れた情報は、彼の背景・カルマが、私の脳裏に移されて来たものだろう。
日本の、巫女の始まりの人物として卑弥呼(ひみこ)の存在がある。
其の卑弥呼は、一人で社・やしろに籠もっており、其の卑弥呼のお告げに因り、当時の「政治・まつりごと」が行なわれていたらしい。
そして、其の卑弥呼は、食事を運ばせるのは弟一人に限定させており、其の弟にも結婚をさせなかったらしい。
其れは、自分に、他人の因縁が及ぶのを、防ぐ為である。
卑弥呼の、巫女としての役割は、神の意思を受ける事だから、人間社会の情報が自分に伝わると、神の情報と、人間の因縁情報が混雑し、どれが神のメッセージか判らなく成るからである。
だから、自分が結婚しなくても、弟が結婚して世間と交わりを持っていれば、弟を通して、人間のカルマ・因縁が、自分にまで到達する。
だから、其の為に、弟も生涯独身を通したのである。
私の修行も、先ず、仕事を止め、世間との繋がりを切り、家族との縁も切って、孤独に成るところから始まった。
そして、無庵師匠の家で一日を過ごして、夜は安房に在る自宅に帰って眠っていた。
処が、私に電話が掛かったり、人と話した次の日は、師の家に行き、無庵師匠の横に座ると、「又 誰か電話が掛かって来たな。」とか、「アレだけ 人と会うなと云ったのに 又 誰かと話したな。」と、怒るのである。
其れは、私が誰かと会ったり、電話で話をすると、私の生体電気の電圧が下がったり、情報が乱れたりするからである。
其れを、私の師は毎日欠かさず測って、様子を視て居たのである。
今朝は、其れと同じ事が、私とS君の間にも起こったのであろう。
今朝の映像は、大雨の影響で、河川が氾濫し、道路が破壊され、家に続く道路も橋も流され、自宅に帰る事も出来ない映像が映し出されて来た。
更に、火山の爆発などで水が濁り、水を飲む事も出来ず、何処に誰が生き残っているのかも、確かめようが無い状態に陥っていた。
しかし、自分一人と、自分のパートナーだけは、生き残れると考えているのである。其れは、現実とはかけ離れた考えである。
S君は、今は其れほど熱心ではないが、或る宗教の信者であったらしい。
しかし、今でも、完全に縁が切れている分けではないようである。
其の宗教は、自分の考えを捨てさせ、結婚相手も教祖が勝手に決めるらしい。其れは、人間が、自然生物である事を止めさせる手法である。
其れは、自我の訓練や、努力を、捨てさせる方法であるとも言える。
釈迦牟尼仏陀や、イエスキリストは、自分の真我に目覚める理を説いているので、個人の自覚意識を消してしまう遣り方は、天理に背く訓えであると言えるであろう。
人間は、起きる状況に対して、正しい認識が出来る訓練が行なわれていないと、どんな事が起きても、自分だけは生き残れるとの思い込みに、陥る可能性があるのだ。
特に、教祖の云う事だけを信じる宗教に入信していると、いざ社会が混乱を起こし、連絡網が途絶えた時に、教祖の命令は届かなく成ってしまい、混乱を起す事になる。
其の時、自己判断が出来ない人間は、右往左往するしか無くなってしまう。
そして、自分だけは、神が助けてくれると言う妄想を抱く事で、自己弁護をしようとするのである。
聞いた話だが、インドで、或る行者が川原で瞑想をして居る場面で、ラジオ放送で、「上流に大雨が降り 洪水が起きる。」と聞いた人間が、高台に非難する途中、其の行者に「洪水が来るので早く逃げなさい。」と伝えたが、其の行者は、「私は 神を信じて居るので 死ぬ事は無い。」と言って、其の侭瞑想を続けていたら、洪水に流されて死んでしまったと言う話しが有る。
其の喩え話しは、神を信じる事がどう言う事なのかを訓えている。
私は、此処数日、自分のPCをITに繋げない状態なので、メールを読んだり、ミクシィの読み書きが出来ない状態が続いているので、人助けの為にPCに無線を着けて、何時でも自由に、ITに繋げる事が出来る様にしょうかと考えて迷って居た。
其れは、此の侭、私の旅が続くのであれば、其の方が便利でもあるし、他人様に迷惑も掛けないと考えたからである。
しかし、今朝の状況から判断すると、私が移動して、他人に会う度に、其れに影響を受けた文章を書いて行けば、私の文章を読んでくださる方に、誤った情報を送る事に成ってしまうのだ。
其れは、私の意識が、宇宙意識から外れ、世間の風に吹かれている情報を流す事に成り、真の情報元ではなくなってしまうからである。
25日の場面では、黒い服を着て卒塔婆に文字を書いている男性の、卒塔婆と、私の手にする杖とで、バトンタッチの儀式をしたのは、其の男性に、死に行く人の道案内を任して、自分は、未来社会創造の世界に、引き上げるとの意味だったのかも知れない。
そして、昨日の「選ぶ・チョイス」のメッセージは、教師や聖者の持つ杖か、お坊さんが書いてくれる卒塔婆の、どちらを選ぶかは、本人の自由選択であるとの意味ではないだろうか。
私が此処まで、次元の壁を越えて来たのは、無庵師匠を通じて、己の全てを捨て去って、神に身心を預け切って来たからである。
私し自身は、弟子らしき者を一切持ってはいないし、自分の財産を所有する事もしていない。
だから、私は、無庵師匠の様に自分の全てを掛けて、弟子を目覚めさす力も財も無い。
其の私に出来る事は、こうして毎日送られて来るメッセージを解釈して、言葉に変換し、ブログにアップして行く事だけである。
其れが、世間の人に触れて歪んでしまうのであれば、やはり私は、屋久島にジーッとして、静寂を護って居る事が重要なのであろう。
今回は、東経130度30分の北の端に、10日間居て、其のレイラインの強化を図っただけで、役目が果たされたのかも知れない。
平成19年7月27日
礒邉自適
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