1984年6月4日(旧5月5日)神と交わした約束が果たされる事が 今朝告げられました。
18年8月18日未明
事象(とき)の切り替え
今朝は5時15分に是までの時間(とき)が閉じられ、5時22分に新しい時間(とき)が開いた。
其れは、旧約聖書に「神は6日間で此の世界を創造し 7日目に休んだ」と記されている事と関係が有り、是までの「事象・時空・とき」が閉じられて、新しい事象が始まる理・ことが知らされて来たモノの様である。
其の時間の「扉・まく」は、カメラのシャッターの様な物であり、其れは人間の瞼の仕組みと同じで、閉じている時は「月読界」で、開くと「天照界」であると言う事である。2016年6月6日
2007/9/30
岩戸開き
19・9・30
昨日の講演会は、20名程の参加者が在り、私のブログを読んでいる人が六名程参加していた。
NPO法人「緑の風」の、第一回目の講演会が行われた事が、良い結果を生んだのか、今朝のメッセージは、今までに無かった段階が知らされて来た。
1、観音開きの左側の把手・とってに、光が当たっているのが映る
此の映像は、右側の「相対世界」である物の世界ではなく、左側の「絶対界」である精神世界(神の世界)の扉が、愈々開かれる時節・トキに至ったとの事ではないだろうか。
2、車の後部座席に、古いCDや、其の包装紙などが有り、其れが片付けられる映像が映し出されて来た。
此の映像は、一番目の映像の、神の世界へ入るドアを開けるには、先ず、過去の情報を全部消去(捨て去る)する事が、必要であるとの理を、告げて来ているのではないだろうか。
其れは、過去の概念である宗教などのイデオロギーを、一度、全部捨て去って、頭を空にしなければ成らない事を、意味している。
其れは、物事に執着していても、駄目だとの事である。
3、光り輝く高い山の方へ、何百人もの人々が、次から次へと連なって、歩いて行く後ろ姿が見せられた。
其の人達は、皆、手ぶらで、身に装飾品も着けてはいないで、とてもシンプルな姿であった。そして、其の人達は、皆成人であった。
此の映像の意味も、1と2に続いているもので、神の光りの山に至るには、如何なる飾りも、外していなければ成らない理を示していて、何かの飾りを付けている者は、神の山には近着けない事を意味している。
其れは、此の世で手にしている財産や、如何なる名声も、捨てなければ成らない事を示している。
其れに、子供が一人も居無かったのは、此の我々の住む世界は、人間が神へと近づく舞台の世界であり、修行が済んでいない子供は、神の山に近付ない事も示して来ている。
其れは、子供達が、彼の世から、修行の舞台である此の世に、送り込まれて来ている事を示している。
4、最後の場面は、女性が玄関に一人居て、皆が脱いだ靴を、一足ずつ手に取って、靴の踵の部分に当たる所の匂いを嗅いで、臭い靴を履いている人の靴を、排除していた。
此の映像の意味は、全部捨ててあっても、足の踵が臭い人は、足を洗っていない事を意味し、足を洗っていなければ、前の世界から神の世界には入れても、奥の座敷には入れない事を意味している。
旧約聖書にも、蛇が奨める知恵の実を食べた者は、最後に、其の蛇が自分の踵に後ろから噛み付き、歩けなく成ると載っている。
其れは、如何なる、自分の固定観念も、外していなければ成らない事を、意味している。
其れは、古い世界を捨てる事であり、其れが「足を洗う」との日本語の意味である。
もう、如何なる過去も、捨て去るべき時節が、廻って来ているのだ。
平成19年9月30日
礒邉自適
2007/9/28
全て葬式
19・9・28
今朝のメッセージの映像は、誕生日の儀式と、葬式の儀式の、二つの世界が映り出されて来て、葬式の方が、何倍も大事な世界である理・ことが示されて来た。
誕生日の儀式の方は、明るい世界で、少人数で行なわれていて、儀式もなく簡単で終われるものであった。
処が、葬式の方は、様々な問題が有り、ただ儀式をすれば良いと言うものではないらしい。
一昨日の、天照大神の女性の声は、左上から聞こえて来て、声の波動(音色)はオレンジ色の感じだったが、今朝の女性の声は、中央前方の、やや左から銀色の音色で「全て葬式」と聞こえた。
其れは、天照界と、調読界(つきよみかい)の差が、「音色」と「言葉」で区別されて、伝えられて来たものの様に思える。
そして「全て葬式」とは、神社のお祭りの事を示している様である。
其れは、人生にとって大事な事は、此の世に生まれて来る事よりも、彼の世に帰る事の方が重要である事を、意味しているのだろう。
其の言葉を聞いて、神社のお祭りが、其の霊魂の誕生日ではなく、全て命日に行なわれている事を、改めて強く意識する事に成った。
其れは、仏教でも、誕生日の儀式は一回しかしないが、命日は3年忌だ、7年忌だと言って、何回も行なわれるので、同じ意味があるのだろう。
今朝は、其の二つの儀式の他に、私の居る家に、33年前30歳で亡くなった、親友の両親が訪ねて来た。
其の両親の墓は、屋久島には無い。子供は、他に散人居たのだが、何処に今住んでいるのかは判らないが、屋久島に墓が無いので、霊界で、私を訪ねて来たのではないかと考えられる。
私は、木造の二階立ての家に住んで居て、誰かが「お客さんが訪ねて来た」と知らされたので、二階の部屋から梯子(何故か階段ではなく梯子)を降りて行くと、其の二人が梯子の下に立っているので、私はやかんに入っていた甘茶を、其の人達の体に振り掛けてから、二階の部屋に上げた。
そして、私は、大きな葬式に参加しなければならないので、其の二人を部屋に残して、外に出る事に成った。
私は出掛けに、他の人から土産に貰った、海苔の佃煮入りのビンを、自分が一個残して、残りの二個を「帰る時に 持って帰りなさい」と云って渡した。
其のビンは、綺麗な包装紙に包まれて、紐で飾られ、美しい物であった。
そして、其の二人に、海に生えている侭の海苔と、こうして美しく出来上がっている商品の違いを確かめて、其処に関わる人達の手間を、良く考えるように云って、其の家を去った。
其れは、霊界に居る人達が、我侭であるので、地上に暮らす人々の苦労を良く考えなさいと、諭していたのではないだろうか。
自分が、無縁仏に成ってしまって、供養を受けられないのは、自分が生前に先祖の供養をしていないので、自分の育てた子供も、先祖の供養をしないのである。
それは、自業自得なのだが、肉体を失ってから、後悔をしても無駄なのである。
今朝のメッセージを良く考えて見ると、霊魂に供物を捧げる事は良いのだが、無闇に供物を捧げたりすると、霊魂の我侭が、益々強く成る可能性がある理・ことを、示唆して来ている。
其の事を良く考えると、矢張り釈迦牟尼仏陀の様に、大悟した御仁が出て、悟りの世界で、霊魂に説教をする必要があるようである。
其の事を考えると、お寺の住職が、お墓を管理したり、経文を上げたりしているだけでは駄目で、霊界人を成仏さすだけの、説法力を付けなければ成らない事になる。
其れに、神社の神主や宮司なども、霊魂の禰宜・ねぎらいや、お払いをしているだけでは駄目で、本当の鎮魂・振魂が出来る修行をする必要があると言う事になる。
昨日は、熊本県球磨郡の相良藩の当主が建立した、「神武天皇」と母親の「玉依姫」、其れに孫夫婦が祭神の「王宮神社」に参詣し、昔し、屋久島に移住して来た相良家子孫との繋がりも見えて来た。
「王宮神社」http://moon.ap.teacup.com/20051112/351.html
昨日は、4311体の神霊の思頼(みたまのふゆ)が、又一つ、解決出来た事が、今朝知らされて来たのかも知れない。
そして、銀色の音色の声は、霊界星シリウスからの声で「瀬織津姫・せおりつひめ」かも知れない。
平成19年9月28日
礒邉自適
2007/9/27
天空の橋を渡る
19・9・27
今朝は、えびの市に在る「阿弥陀の邑」のホテルで目を覚ました。
そして、今朝受けたメッセージは七つ有り、其々が、レベルが高く内容も深いものがある。
一、焼けたカバーボックスの本を、男性が一冊持って来て、私に渡すので、私は其の本を受け取り、焼けたカバーから、中の本を抜きだすと、水色を基調とした表紙で、何故か、本の題名が、創価学会の池田大作名誉会長の著書で「老子」である。
此の映像の意味は、釈迦の教えである法華経の教義から、老子の道徳経に、宗教のテキストを換えろとの事はないだろうか。
創価学会が、人間の業火に焼かれても、老子の教えを取り込んで措けば、其の部分は無傷で残されるとの事かも知れない。
其れは、昨日の天照大神と、宇佐八幡の神が、日蓮の法華経解釈より、老子の道徳経を選んだ事を、告げて来ているのだろう。
二、屋久島の山岳の花崗岩に、自分から発する意識を当てると、意識が当たった部分が、ライトを当てた様に光り、其の花崗岩の光が反射して来て、自分の胸に真っ直ぐ跳ね返って来たら、合格である事が示された。
此の映像は、花崗岩が、人間の意識の情報をダビングしており、其の真実の部分を探り当てて、其処に、自分のハートの鏡を合わせれば、神の情報と合体出来るとの事であろう。
そして、其の花崗岩の情報の中心が、屋久島の或る部分に有るとの事である。
三、地上から、雲の上まで立ち上がっている岩山の頂上が、真っ直で細い一本の道路に成っていて、私の意識は、其の雲海に掛かる岩の橋上を、車の後ろ座席に座って渡ろうとしていた。
しかし、未だ其の車には、運転手が乗り込んでいなかった。
其の雲海に掛かる橋は、車の幅ギリギリしかなく、少しでもハンドル操作を誤ると、崖から転落してしまう事が理解出来た。
此の映像は、古事記に記されている「天の橋立」のビジョンに、重なる所が有る。
古事記では、「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」と「伊邪那美命・いざなみのみこと」の夫婦が、橋を渡って来た事に成っているが、今朝の場面では、未だ、私の意識が後部座席に乗っているだけで、乗り物を運転する者が乗っていなかった。
其れは「天の橋立」を渡るには、パートナーが必要であるとの事であろう。
しかし、今朝の所は、其れが男性なのか、女性なのかは判らない。
其の相手を探し出し、二の場面の場所に連れて行って、岩戸の儀式をする必要が有るのだろうか。
其れは、「岩鏡」の秘密を、公にする事にも成るのだろう。
其の秘儀を行なう場所が、広島県に有る「葦嶽山」の二の舞に成って、破壊されてはいけないのだ。
四、何処かの建物の広間に、合宿で人々が集まるらしく、10個程の旅行バックが、玄関の入り口に置かれていた。
其の荷物には、電子機器が含まれている様であった。
此の映像は、愈々未来社会の構築をする為に、其の役割を持っている御命持ち達に、神の召集が掛かる事を、示唆して来ているものだと考えられる。
だが、其の幹事役が誰なのかは未だ分らない。
先日「本署は阿蘇」だと告げられたので、阿蘇地方に、其の合宿所が準備出来ているのだろうか。
五、私が中学の頃、後輩と二人で撮った写真が出る。
其の写真は、私が前に座っていて、後ろに、近所に住む秋山義文君が、私の肩に手を置いて立って映している物である。
しかし、私の意識が、其の写真を拡大して視て行くと、何故か、秋山君の瞳が暗くて濁っており、其の輝きの無い瞳は、無明の世界を連想するものであった。
此の映像の意味は、一口に言えば、後輩の目を明るくするのが、先輩の役目であるとの事だろう。
「先生」との単語も、先に生まれた者の意味である。
だから、先に生まれた者は、後から生まれて来た者を、善い方向に導く事が、一番大事な役割であるとの事である。
幸いにして、私には、二年先輩の「岩川道夫」と言う人が居たので、其の人に游びを教えて貰い、人生をどう生きたら良いかの、話し相手にも成って貰ったのである。
其の先輩は、30歳の若さで癌に罹って死んでしまったのだが、今でも、私を霊界から護ってくれている気配がある。
だから、兄弟とは別の役割が、先輩後輩の間柄には有るのだ。
六、薄紫色の光が反射している、川の水の流れが映し出され、其の水から「弁財天・サラスヴァテイ」が現れて「言葉や 文字を使用して居る者に“消費税”を払うように云えろ」と告げて来た。
是は、初めて告げられたメッセージで、なかなか面白い。
普通は、弁財天は湖の小島や、池の中に造られた社に祀られ、灯明が燈されて、お賽銭などが上げられるものだが、其れが、賽銭や供物ではなく、言葉や文字を使用している者達に、消費税として払えとの事だから、人間側も新しい概念を持たなければならない。
確かに、人間社会は、言葉や文字があるからこそ、発展して来ている。
言葉や文字が無ければ、人間社会もゴリラやチンパンジーなどと、同じ程の能力しか持つ事が出来なかったかも知れないのだ。
言葉や文字が無ければ、現在のIT社会も存在しないし、文学や芸能の世界もないし、法律も無い事になる。
其の事を考えれば、法律の世界で生活をしている、弁護士や、裁判官は、言葉や文字を一番使用しているのだから、最も番消費税を払わなければならない事になる。
此のメーセージを、法律家が真剣に聞くとは思えないが、冗談でも良いから、知らせて見るのも一興ではないだろうか。
七、車の助手席に乗って、道路を走っていると、左側の家に、ウエットスーツが何着か干されていて、其処に光りが当たっているのが見えた。
此の映像は、大人に成ってからも、水と戯れる事が、神の光りに触れるチャンスに成るとの事ではないだろうか。
子供の頃は皆、水と戯れる事が大好きである。
其れが、社会に出て働く様に成ると、暑い夏でも服を着ていて、なかなか水と戯れようとはしない。
仏教の教祖である「釈迦」や、キリスト教の「イエス」や、日本の神道の元である「伊邪那岐命」も、皆、水浴びをした時に、神の世界に触れているのである。
私も、子供の頃から水浴びが好きで、此の世界に入ったのも、屋久島の安房川で水浴びをした時である。
今朝のメッセージは、「岩」と「水」が、神の世界の土台と成っている事を示して来ている。
天の橋立てを渡るには、此の、岩と水の世界を、クリアして行かなければならないのである。
平成19年9月27日
礒邉自適
2007/9/26
信仰を捨てる
19・9・26
現在・いまの時刻は、6時15分である。
部屋の中から見る、東の空には、いま、日の丸の様な真っ赤な太陽が、地平に顔を出したところである。
昨夜は、地元で、子供綱引きが行なわれた。
昨日は、旧暦では15夜であったが、月齢は明日が満月らしい。
だから、昨日は、西の地平に、真っ赤な太陽が沈む頃には、もう東の空には月が昇っていた。
其れは、正に、「月は東に 日は西に」の言葉通りの風景であった。
そんな、屋久島の景色の中に、いま在る私の意識は、自分のモノであって、自分のモノではないようである。
今日は、島を出る事にしてあるが、先日告げられて来た、26日の日付の意味は、出発の意味だけではなく、私の意識の切り替えの日である事も、含まれていた様である。
今朝は、「信仰を捨てる」との言葉が有って、其の後に、五色の短冊を重ねた様な色の、祝詞を書いた紙が七折りされているのが、映し出されて来た。
其の意味は、「執着するな」との意味であろう。
現在の人間は、宗教の神の信仰、お金の信仰、財産への信仰、情報への信仰、其れ等の物で、意識が一杯だから、其れ等を止めろとの事であろう。
其の事を書いてあるのが、神社で唱える祝詞の内容である。
昨日は、平内の八幡神社の秋季大祭が行なわれた。
祭典が行なわれた後の「直会い・なおらい」で、大牟田宮司さんと話していて、私が、綱引きの綱が七回半トグロを巻いている話をすると、宮司さんが「神社の祝詞も 紙に書いたら それを 七つ半に 折るのだ。」と云う。
私は、其の事を初めて聞いたので、やはり綱引きの綱の意味する大蛇のトグロと、正月の鏡餅の意味も、全て繋がっている事が、改めて自覚出来た。
其の、八幡神社の神殿での自覚が、今朝のメッセージに関係しているのだろう。
今朝は、其の祝詞が書かれた紙が、祭壇に置かれている器の中に、立てて入れられる映像が映り、右の上から、女神の声で「貴方に すべてを与えたい」と有った。
私は、其れを受け入れれば、人間の責任を、一身に引き受ける事に成るので、「受ける」との返事に躊躇していると、今度は、左側から、大きくて丈夫な体格をした男性が現われて、私の正面に座り「貴方を 皇帝にしたい」と云うのである。
其れが、軍神である八幡様の姿なのであろう。
私は、其の、「全てを与える」と云う女神の働きと、「貴方を皇帝にしたい」と云う、男神の働きの違いの意味を考えていると、別の映像が現われて来た。
其れは、森の中に一本の竹の根が走っており、其の地中の竹の根の節から、等間隔で、竹が地上に生えている場面が映されて来た。
そして、いま地上に出て来ている新しい竹の子が、私に関係が有る事が示された。
其れは、宇宙には、時間の働きが、等間隔で節と成って、陰の中に走っており、時節が到来すれば、其の節から、新しい竹の子が生えてくる事を、示して来ている。
其れが、「チャクラヴァルティン・転輪聖王(てんりんじょうおう)」の出現の意味なのであろう。
そして、女神は其の為に、必要な物を皆揃えると云い、男神は、私が政・まつりごとの中心に成る事を、応援したいと云っているのである。
私は、そんな事を告げられても、今更引き受けてやる気が無いし、自信も無い。
しかし、今朝のメッセージは、最初から「執着を捨てろ」と告げて来ているのだから、私が其れに付いて、特別な感情を抱かなくても良い事を、示して来ている。
其の事を考えると、やはり日本の伝統である「神惟・かんながら」の概念と、老子の謂う「自然無為」と、親鸞聖人の謂う「自然法爾・じねんほうに」の訓えのままで良いとの世界であるから、私が、引き受けるとか、断るとかの世界ではないのだろう。
今朝のメッセージは、宇宙には、そう言う「働き・道・神・法」が存在すると言う理を、信仰心を起こす事なく、人間側が、自覚をして措けば良いとの事ではないだろうか。
今朝、祝詞が器の中に立てて入れられたのは、言葉や文字が、神との通信手段の一つである事を、意味しているのだろう。
其れは、「白川静氏」の言う、漢字の「口」の字は、神とのコミュニケーションの為に、書いた札を、立てて入れる器の意味であるとの、説明が当たっている事に成り、密教のマントラ(真言)との概念とも通じている事になる。
其れは、七夕の短冊も、同じ意味を持っている事を示している。
(此処で、左手の人差し指にカモ・(神の電気信号)が有る)
其の事を考えると、私が毎日パソコンでやっている此の作業が、其の役割を果たしている事になる。
私は、パソコンを持ち歩き、毎日こうして、送られて来る映像や言葉を、文字化しているのだから、神官の役割を果たしている事になるのだ。
其れに今朝は、七折半の五色の祝詞が現れたのだから、其の役割は、上手く果たしている事を、意味しているのだろう。
私は、自分では何も考えないで、毎日、此の作業を続けていれば良いのではないだろうか。
それさえしていれば、女神から「三行半・みくだりはん」の離縁状を、渡される事はないだろう。
サテ 今回の旅で 何が始まるやら・・・・・
追記
書き終わってから、太陽を見て居ると、今朝の女神の声は太陽からで「天照大神」であり、「宇佐八幡」の男神と、ペアーである事が解った。
天照大神の声が右からで、宇佐八幡が左側から現れたと云う事は、日蓮宗の法華経曼荼羅の働きが、具現化する事を意味している。
其れは、昨日の宮澤賢治の世界と、繋がっている事になる。
私は、無庵師匠が、屋久島に1984年3月5日に引っ越して来て、8日後の3月13日未明に「あの人は 神だから 護れ」との声が聞こえ、目を開けると、今朝の真っ赤な太陽と同じ朝日が、太平洋の水平線の上に、半分だけ顔を出していた。
それで、其の声は、太陽からのものであると理解したのである。
やはり、太陽には、人間を育てる意識が有るのだ。
其れが、世界の宗教の基に成っているのだろう。
今日の、旅立ちの気持ちは、「何処に行っても お天道様と 米の飯は付いて回る。」である。
やはり、9月19日に、八番町のカウンター寿司バーに、有り金を全部叩いて、渡した事が良かったのだ。
日月神事「此の神事 腹に入ったら 捨ててくだされよ」
平成19年9月26日
礒邉自適
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