1984年6月4日(旧5月5日)神と交わした約束が果たされる事が 今朝告げられました。
18年8月18日未明
事象(とき)の切り替え
今朝は5時15分に是までの時間(とき)が閉じられ、5時22分に新しい時間(とき)が開いた。
其れは、旧約聖書に「神は6日間で此の世界を創造し 7日目に休んだ」と記されている事と関係が有り、是までの「事象・時空・とき」が閉じられて、新しい事象が始まる理・ことが知らされて来たモノの様である。
其の時間の「扉・まく」は、カメラのシャッターの様な物であり、其れは人間の瞼の仕組みと同じで、閉じている時は「月読界」で、開くと「天照界」であると言う事である。2016年6月6日
2007/10/20
変わらないモノ
19・10・20
今朝のメッセージの映像は、是までに無い、不思議な映像であった。
先ず始めに、物を分ける為の、ステッカーのマークらしき物として、◎や● 等の印が、二個ずつ組み合わされて着けられ、何かが、左右に分類されて行くのが映されて来た。
次の場面は、古い大きな建物の中に、色が浅黒く、頭髪が黒い癖毛の男性が一人居て、建物の部屋の床板を取り替える工事をして居た。
私が、其の建物を見て回ると、其の建物は、既に白蟻に食い尽くされており、皆が見捨てて出て行った廃屋なのである。
そして、其の建物の隣には、私が以前部屋を借りていた、八階建てのビルが建っている事も、意識に浮かんだ。
私は其の工事をしている男性に、「此の部屋を改造しても、直ぐに白蟻に食い尽くされてしまうから、止めた方が良いですよ。」と云った。
すると其の男性は、親が残した財産が、後600万円残っているので、其の金を、全部此処に投資してしまえば、直ぐに白蟻が食ってくれるから0に成れるので、ようやく親父の残した因縁が切れて、自由に成ると云うのである。
私は其の話を聞いて、其の男性が、全ての事柄から自由に成る為に、遣っている最後の行為である事を理解したので、止める事を止めて、其の男性の作業を見て居た。
すると、其の男性の上半身は裸なのだが、下半身は、白い十字架に成っているのである。
私は、不思議に想って周囲を良く見ると、其の男性が改造している左隣に、部屋がもう一つ在り、其の部屋には、家具らしき物は一切何も無いのだが、薄紫の衣らしきものを着た女性が、半透明で一人座っているのが見えた。
其の部屋は、薄紫色の透明な空間で、現実的な物質は何も無い。
ただ、エネルギーだけの壁で出来た部屋なのである。
私には、其の薄紫の衣を着て座っている女性は、「弁財天」か何かの女神で、其の男性の守護霊であり、其の男性が、過去の「柵(しがらみ)・カルマ・業」を全部断ち切って、自由に成るのを待っているのだと感じた。
其れに、其のエネルギーだけの空間は、物質としては、何も存在しないので、白蟻に食われる心配は、何も無い事が理解出来た。
其の場面が消えると、今度は、パソコン機能らしき物が現れて、検索の所に私の名の「じてき」が有った。
そして、其の文字が有る窓が、黒く色着けされ消えてしまった。
後には、何の文字も残されていないので、何回クイックして検索しても、もう何も現れて来ないのである。
それは、全ての情報が、消えてしまっている事を示していた。
其の後、「34年前の7月6日」との日付が伝えられて来た。
今朝のメッセージは、男性の血筋の事か、先祖から続いているカルマに付いて、私に認識を迫ってきているような気がする。
34年前と云えば、私は26歳で、借金が0に成り、前の妻「名越美代子」と出会って、婚約をした年である。
そして7月6日とは、七夕の朝に立てる竹の七夕飾りに、願い事を書いた札を下げる日でもある。
其の事で、私に思い当たる事は、私が17歳の秋に、父親が49歳の若さで病気にて死亡したので、長男であった私は、父親の後を継いで農業を始めた。
そして、時代の変化と、周囲の協力も有ったので、一気に肉牛生産の規模拡大をしたのだが、販売する段階に到ると、肉牛の価格が下がり、大きな借金を抱えてしまったのである。
其の時が23歳の秋であった。其の時の借金の額が600万円で、今の価値では6000万円程であろうか。
其の時、何日も悩んだ末、神に祈りをしたのである。
其れは「四人の弟妹が、一人前に成るまで見守って下さい。四人の弟妹が、一人前に成れるまで見守って下されば、私はどんな事でもします。私の自分の事は、其れからでかまいません。自分の結婚などは、其れからで良いです。」と、天の神に誓ったのである。
其の事が、短冊に書く願いの言葉と、同じ効力を発揮したのかも知れない。
其れで、26歳の時に借金が0に成り、直ぐに其の夏、妻と知り合う事になり、秋に婚約をして、次の年の3月3日に結婚式を上げたのである。
そして、37歳の時、結婚10周年記念として、1984年3月3日〜4日に家族で旅行をして、帰った次の日の5日に、無庵師匠が屋久島に引越して来て、私は此の世界に入り、家族と離縁する事に成って行ったのである。
今朝のメッセージは、私の人生、其の物に関係が有る様な気がする。
今朝現れた男性は、下半身は十字架だったので、イエスキリストを意味しているのではないだろうか。
そして、色が浅黒く頭髪に癖が有り、高貴な顔をした30歳半ばの男性は、インドの「お釈迦さん」を意味しているのではないだろうか。
其の男性は、床に腰掛けて、床板を剥がして居たのである。
釈迦は、座って瞑想をする事を訓えていて、イエスは自分の訓えを拡げる為に歩けと謂っている。
今朝の男性は、歩くイエスの姿(行為・気持ち)と、座る釈迦の姿(行為・気持ち)が、合体したものであったのかも知れない。
今朝現れた、物事の分類の為の白黒のマークは、是まで、人間の男性が生み出した、言葉に拠る概念を、白黒を付けて、整理しろとの事ではないだろうか。其れは、昨日のメッセージの映像に有った、本屋での本選びの場面にも関係している。
今朝のメッセージの重要な点は、親のカルマ・業から、如何に男性が抜け出すかを意味している。
釈迦は、出家をする事を薦め、イエスは家族を捨てて自分に付いて来る事を薦めている。
其れは、どちらも、家や、家族や、仕事から離れて、自由に成る事を薦めているのだ。
其れを実行しなければ、宇宙の真実である、永遠の真理(いのちのプログラム)には、辿り着けないとの事である。
其の為には、自分の名さえ、捨てなければ成らないのである。
人間は、赤子の時から、自分に名付けられた名前で、自分を固定化して、自己形成をしているのである。
だから、家族や仕事を全部止めて、肉体は自由に成ったとしても、名前が産まれた時からのままの名であれば、其の名を呼ばれる事で、本来の自分ではない、自分に引き戻され、永遠に、真実の自分に辿り着く事が出来ないのである。
其の為に、出家した時に、戒名が与えられるのである。
つまり、弟子に成ると言う事は、自分の人生の、過去の記憶を忘れ去る事なのである。
そうしなければ、永遠の宇宙の「ダルマ・法(雌の立場)」には還れないのである。
其れは、男性の染色体「X・Y」の組み合わせの「Y」を「X」に変えて、女性の染色体「X・X」の組み合わせにして、不完全な男性生命情報から、完全な女性生命情報に立ち返る事なのである。
何故、男性が不完全なモノで在るかの説明は、解剖学の大家・養老孟司先生(現在東京大学名誉教授)の著書「超バカの壁」新潮新書の4章「男女の問題」に詳しく書かれている。
無神論者の解剖学の大家の言と、無学な私の瞑想の答えとが、同じ結論のところに到っているのは、其れが生命の真実であるからだろう。
養老孟司先生は、此の世の物事を制し、一番の出世頭である。
一方私は、今月一杯で、遂に、住所不定無職で天涯孤独な身の上と成る。
ようやく、釈迦牟尼仏陀やイエスキリストと同じ立場に成れるのである。
今朝、薄紫のエネルギー空間に居る、雌の姿を見せられたと言う事は、私の意識も、老子の謂う「タオ・道」の世界に、辿り着いたとの事であろうか。
しかし、今朝の映像は、タオのマークである白黒の巴マークではなく、◎や●のマークが、別々で二個ずつ付いて、分類されていた。
其れは、陰陽の仕組みを、正しく認識しろとの事であろうか。
そうであれば、是からの私の学びは、中国の易学を、学ばなければ成らない事に成るのだが、自分の名前である「じてき」も消去されたのであるから、今更、文字の世界に入り込む必要もないだろう。
それとも、白の世界から、黒の世界に入れとの事であろうか。
そうであるなら、オセロゲームでも覚えた方が、早道かも知れない。
其れと、今朝、癖毛のお兄さんが576の意味を伝えて来た。
576とは「72x8=576」で、其の数はゴルフの72のスコアの数字である。
そして廃墟に成った、八階建てのビルは、古い魂しいの階梯を、意味しているのかも知れない。
其れは、新しい認識を興す為には、九階建ての新しいビルを、建てる必要が有るとの事ではないだろうか。
其れは、八幡が九幡に成る事を意味し、17階梯の神の名が、19階梯に成る事を意味している。
どうやら、57億6千万塵点劫とは、時間の事ではなく、人間の脳の中にあるシナプスの活動の、パターン数ではないだろうか。
其れは、マヤ文化の暦にも反映しているのかも知れない。
其れに、旧約聖書には「始めに言葉有りき。言葉は神なりき。神の名は72。」と有る。
神が、人間の言葉を話すわけがないので、其れは、自分の脳細胞が、宇宙のデーター(DNA情報)と共鳴して、自分の脳内の音が、72音に別けられる事を認識したに過ぎないのであろう。
そして、其の穴を埋める作業・行為が、ゴルフの遊びを生み出したのではないだろうか。
其れは、貧者に対する慈悲の行為の歩きが、富者の退屈しのぎの歩きとして、現れたものではないだろうか。
其の、言葉の中心の穴が「あ」の音で、大日如来の座と成っているのだ。
今朝は、其の「あ」の場に、癖毛のお兄さんが座って、言葉の絨毯を張替えようとして居たのであろう。
今朝は、走って行く一台の車を追跡して行くと、其のT字型の交差点を、車が右に曲がったので、私も其方に曲がって見ると、其の道路は昔の道路で、曲がって直ぐの所に橋が有り、其の橋の板は既に腐っており、手で触れるとバラバラに砕けてしまった。
未だ、右側の道路は、何も整備されてはいないらしく、曲がった車も消えてしまっていた。
私が引き返して、反対側を見ると、其方には、新車がズラリと並んでおり、何時でも出発出来る体制と成っているのである。
其の意味は、もう左側(精神世界)の方は整ったので、右側(現実世界・物質世界)の整備に、着手しろとの事であろうか。
昨日は、経済の嵐が来ると書いたが、其れを大難から小難に変える為には、早く、新しい社会体制を構築しろとの事かも知れない。
其れは、古い世界の研究はしないで良いから、新しい世界・価値観を早く構築しろとの事であろう。
もう理屈を述べている暇は無いのだろう。
早く、現実の世界で、檄(げき)を飛ばす事を、しなくては成らないのだ。
そうしなければ、弁財天もエネルギーの箱の中に座ったままで、動かないとの事なのかも知れない。
もう古い世界は、エゴと言う名の白蟻に食い尽くされ、穴だらけに成っていて、改築は効果がないと言う事であろう。
イエスが謂う様に、新しい酒は、新しい皮袋に入れなければ成らないのである。
早速、石垣雅設氏の所に出向き、温暖化で使用出来なく成ったスキー場を借り受けて、新しい村の建設に取り組まなければ成らないのだろうか。
変わらないモノとは、釈迦牟尼仏陀の謂う「ダルマ・法」や、老子の謂う「タオ・道」や、イエスの謂う「永遠のいのち」の世界である。
其れは、生きとし生ける物の、存続の法則なのである。
其の、「道・法」に適った働きが、此の世から消えない限り、我々の魂しいの乗り物である「船・車」は、神に与えられ続けるのである。
其れが「天津日嗣・あまつひつぎ」の意味であろう。
私のカルマ・業は、ようやく0に成ったのであろうか。
平成19年10月20日
礒邉自適
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