1984年6月4日(旧5月5日)神と交わした約束が果たされる事が 今朝告げられました。
18年8月18日未明
事象(とき)の切り替え
今朝は5時15分に是までの時間(とき)が閉じられ、5時22分に新しい時間(とき)が開いた。
其れは、旧約聖書に「神は6日間で此の世界を創造し 7日目に休んだ」と記されている事と関係が有り、是までの「事象・時空・とき」が閉じられて、新しい事象が始まる理・ことが知らされて来たモノの様である。
其の時間の「扉・まく」は、カメラのシャッターの様な物であり、其れは人間の瞼の仕組みと同じで、閉じている時は「月読界」で、開くと「天照界」であると言う事である。2016年6月6日
2007/10/26

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ノーマインド
19・10・26
今朝は、何かが完成した感じの映像が送られて来て、「ノーマインド」との言葉が告げられて来た。
今朝の映像は、先ず、最初に、私の人生に関わった人達の顔が次々に出て来て、其の人達の存在が、私の意識を組み上げる事に、無駄無く役に立って来ている理・ことが示されて来た。
そして、全ての人達や、其れ等に関わる全ての出来事が、全部必要であった理・ことが示されたので、私の意識が「不必要なものは 何もなかったのか ?」と、疑問に想うと「有るとすれば 其れは 自分自身の意識ぐらいのものだ」との答えが返って来た。
そして「ノーマインド」との言葉が告げられて来た。
其れから、海岸の方に出掛けて、小船に乗り、三つの島が沖に向かって並んでいる所まで出かけ、自分の意識の位置と、三つの島が、一直線に並んでいる所まで達した。そして、時計の針が「12時・0時・正午」の所に達すると、丸い「太陽」か「鏡」の様な物が真向かいに有り、其の丸い鏡の様な物の背景に、白い雲が柱の様に立ち上がって、其の雲の頭上部が、お釈迦さんの守護神である、七つのコブラの様な形に成って、丸い鏡の様な物を被ったところで、其の場面は終った。
そして最後に、筆字の草書体で「祷心」「御心」と「無心」文字が現われて来た。其れは、空海の文字ではなく、誰か他の人の書体の様に想われた。
今朝のメッセージの意味は、私の意識がある段階に至った事を、示唆して来ているのではないだろうか。其れか、「宇宙・神」の計画が、ある段階に達したとの事かも知れない。
「マインド」を漢語林で調べると、【mind】は心。精神。意識。と有るが、「ノーマインド」の単語は辞書には無い。
「ノーマインド」とは「不心、不精神、不意識」との単語となり、心や精神が無いとの意味に成る。しかし、其の単語をPCで検索すると「引き篭もり」等の、医学的世界の精神科の単語としてしか出て来ないのである。
だから今朝は、解読のヒントとして、「祷心」「御心」とか「無心」とかの文字を映し出して来たのだろう。「無心」を漢語林で調べると「心なきこと。何も考えないこと。思慮・分別のないこと。」と 載っている。
と言う事は、「ノーマインド」とは「無心」を訳語としてつかって良いのではないだろうか。無心には、仏教の概念で「妄念を離れた状態」ともある。
「無心」を辞典で調べると、英語で「イノセンス・inno-cence」と有る。此れは、ビックリである。「イノセンス」の「センス・sense」は、物事の微妙な感じをさとる働き。感覚。である。そして「イノ」とは、古代語の「神」を意味する「いのり・いのる」の「イノ」であろう。
そして英語の「イノセンス」は、1 無実。無罪。2 天真爛漫(てんしんらんまん)。無邪気。)」の意味である。
其れは、イエス‐キリストの謂う「永遠の命・魂に還る」との意味合いを含んでいる感覚の言葉である。其れは、今朝現れた「御心」と「祷心」の単語の意味に繋がっている。
「祷心」とは「祷」が「祷る・いのる」で「祈る」は其の略字である。
「祷」とは「示+寿(壽)」の組み合わせで、「壽」は「老+S(2つ渦巻き・縦長のメビウスの輪)」の組み合わせで「久しい・永遠」の意味である。
だから「祷り」とは、「祭壇(示)の前で 久遠元初の命に 還る事を 祈る。」との意味である。
其れは、明治時代に、英語の「リリジョン・religion」が「再び 神の御許に還り 結ばれる。」との意味なので、「宗教(おおもとの教えの意味)」に訳された事と繋がっている。
今朝現れた「祷心・御心・無心」の文字は、「神の御心に還るには 無心に成って 祷る心が大事である」との理・ことわりを告げて来ている事になる。
其の為には、「ノーマインド」の心境が必要との理・ことであろう。其れは、日本の神社で行なわれる「禊ぎ祓い」の儀式が、一番理に適っている事になる。
其の儀式の要約を表す絵として、現されて来たのが、今朝の映像の場面ではないだろうか。三つの島は、宗像三女神を意味しており、時計は正午(正しい時刻)を意味し、丸い形は「太陽・鏡・真理」を意味し、白い雲は「水・水神」の働きを意味し、其の頭が七つに別れて真理を護っているのが、「大日如来・マハーヴァイローチャナ」を意味しているのかも知れない。
そして、海と空は青色で、聖なる世界を意味しているのではないだろうか。
今、PCで「イノー」を検索すると、沖縄の「イノーオーシャンブルー」と言う名の水族館が出て来たので、電話で問い合わせをすると、イノーは「海の浅瀬」の意味である事が判明した。
海の浅瀬とは「祓い戸の大神」である「瀬織津姫・セオリツヒメ」の立つ場である。そして、宗像大社の伝説でも、流れの速すぎる瀬で禊ぎをするのを失敗したので、次に浅瀬の流れの遅い所で禊ぎをしたら成功したと有る。
と言う事は、神の御心に還る為には、海の浅瀬で、祷りの為の禊ぎ祓いの儀式をする事が大事であるとの理・ことになり、世界中の、言葉やと祷りの意味や、儀式は、全て繋がって来ると言うか、根っ子の処はみな同じであると言う事に成ってくるではないか。
此れは、昨日現れた「グリン‐マザー」が云った様に、腰が抜けないまでも驚きの謎解きである。
「山から降りて来たお婆さん」http://star.ap.teacup.com/170606/1028.html
「般若波羅密」http://star.ap.teacup.com/170606/1029.html
此処まで書き進めて来れば、もう書く事が無く成るのではないだろうか。
此処から先、私の意識が何処に運ばれて行くのかは、私自身にも皆目分からない。私はこうして、毎朝のビジョンを、文章化して、ブログに入力すれば、もうする事は何も残ってはいない。明日の計画が、一切何も無いのである。
其れが、般若波羅蜜の精神なのであろうか。
今朝のメッセージは、「ノーマインド・無心」である事が、良いとの事であるのだから、私の心境は、其れに適っている事に成るのではないだろうか。
私の生命時間・生命意識が、正午(正しい時刻)に至っているのであれば、もう何も謂う事は無いだろう。其れが、イシスの頭に着けられている鏡の意味ではないだろうか。
若し、私の意識が其処に至っているのであれば、私の頭からは、エジプトのツタンカーメンの仮面の頭に着いている、「ハヤブサ」と「コブラの頭」は外された事に成る。
「無心」とは、もう自分の意識の中に、鳥や蛇の記憶が現れないと言う事なのかも知れない。其れとも、無心に成ったら、其れ等の意識が、潜在意識として蘇って来るとの事であろうか。
どちらにしても、明日のビジョンを待てば、結果が明らかに成って来るだろう。
平成19年10月26日
礒邉自適
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