1984年6月4日(旧5月5日)神と交わした約束が果たされる事が 今朝告げられました。
18年8月18日未明
事象(とき)の切り替え
今朝は5時15分に是までの時間(とき)が閉じられ、5時22分に新しい時間(とき)が開いた。
其れは、旧約聖書に「神は6日間で此の世界を創造し 7日目に休んだ」と記されている事と関係が有り、是までの「事象・時空・とき」が閉じられて、新しい事象が始まる理・ことが知らされて来たモノの様である。
其の時間の「扉・まく」は、カメラのシャッターの様な物であり、其れは人間の瞼の仕組みと同じで、閉じている時は「月読界」で、開くと「天照界」であると言う事である。2016年6月6日
2008/3/31
為手・仕手
20・3・31
明日から、新年度である。
今年度、最後のメッセージは、午前2時頃に文字が一行出て来ただけである。
そして、其れから眠れなく成ったので、2時半から事務所に出て来て、朝まで関係している事の、たたき台を少し作成した。
今朝現われた、一行の文字は、「 ・・・・・・・・ 、している。 」との単語だけである。
其の文章の前には、何々に付いてとかの内容が有った様だが、文字は現われなかったので、何が書かれていたのかは全然判らない。
古語辞典で「している。」の「して」を調べると、「為手」「仕手」が有る。
「して」の意味は、する人。行う人。またうまくやる人。やり手。と 載っている。
其の意味からすると、私に知らされなくても、私の見えない処で、神か、聖霊達が、事を為しているとの事であろう。
そうであれば、是から、私にメッセージが何等来なく成っても、私は心配する必要が無いとの事であろう。
私はただ、毎日、日常起きる事を、しっかりと認識して居れば、良いとの事であろう。
其れは、イエスキリストの言葉である「今日一日を しっかりと認識して生きたら、明日の事は 何も考えないで寝なさい。明日の事は、明日の朝起きた時に、用意されている。」を、実行すると言う事であろう。
今日は、29日から来島して居た前田社長一行も、無事に予定をこなして、午後の便で帰って行った。
明日は、少し、のんびり出来るのではないだろうか。
平成20年3月31日
礒邉自適
2008/3/30

廃墟の建物
心構え
20・3・30
今朝のメッセージは、具体的な指示の様で、未来に対しての心構えが必要である事が、告げられて来た様である。
先ず、顔はハッキリと映し出されては来なかったが、私の母親らしき姿が現れて、伝票か、帳面らしき書面を見せて、預貯金が残り少なく成って、是から、支払いが不可能に成る事を私に示した。
次の映像は、何処かの大きな建物の会議場が映し出されて来て、是から講演会らしき物が行なわれるらしく、私も、其の会議場の視聴者側の席に着く為に、座席の方に向かって進んで行く場面だった。
其の会議は、ブロック毎に40歳代位の責任者が決っていて、テーマに合う人達を、同じブロックの座席に案内していた。
其の男性達は、ガリ勉タイプではなく、身体も丈夫で、頭脳優秀な様に見受けられた。
其れは、頭脳だけではなく、身体も鍛えていなければ、ブロック長には成れない理・ことを、意味している様である。
そして、私の立場は、何処かのブロックに専属に成っているのではなく、別の通路から、ドアを開けて行ったので、全体を把握する立場に在った様である。
今朝のメッセージの意味は、地球全体を管理運営している「母神・母性・ガイア」が、もう人類全体を賄える質量を、失いつつある事を、示して来たモノではないだろうか。
そして、息子達に、どうしたら生き残れるかを、皆で検討しろとの事ではないだろうか。
其れは、母親が、息子達に「こうしろ」と指示を出すのではなく、能力の有る者達が、連絡を取り合い、如何に行き抜くかを、考えろとの事であろう。
其れは、他の存在に甘えて生きるのではなく、人間も、他の地球生物と同じく、自分達の能力を出し合って、協力しながら生き残れとの事であろう。
其れは、自分が何の努力もしないで、他人を当てにして生きている人間は、存続出来なく成る事を意味している。
現代社会は、昔の様に自給自足型ではなく、中央集権管理型の社会なので、仕組みが維持出来なく成れば、農村以外に住んでいる人間は、生き残れなく成る。
特に日本国は、食糧自給が30%程しかなく、資源も海外に依存しているので、一番危ない国と言えるのである。
だからこそ、今朝は、早く新しい社会体制を整えろと、示して来たのではないだろうか。
しかし、今朝の様子では、私自身は、其の動きのど真ん中に入っては行かなかったので、私は、私の立場を維持しろとの事であろう。
そうであれば、私自身が、三次元の現象世界に、直接関わっては成らないと言う事に成るので、皆の動きを待つしかないと言う事になる。
今朝の指導者達は、皆、まだ顔を見た事の無い人達であった。
と言う事は、其れ等の人々も、私と同じく、何処かで、神に育て上げられていると言う事であろう。
私はこうして、其の人達が立ち上がって来るのを、待っていれば良いのだろう。何故なら、今朝の会合の催しの案内状を出す事には、私の意識は、関わってはいなかったからである。
其の事を考えれば、私の心・きもちは、少し軽く成ると言うものである。
私は、既に、無一物の体制に入っているので、何が起きても、一向に困る事は無いので、改めて心構えを採る必要はないが、未だ、現在の社会機構の中に、ドップリと使っている人達にとっては、早く心構えを整えなくては、大変な事態に陥るとの事ではないだろうか。
明日31日で、本年度の決算が行われる。
今日、伝票らしき物を見せられたのは、明日の決算日を、考えての事なのであろう。
私は、もう25年間、決算書には触れてはいない、其の決算書が現れると言う事は、私の個人的な事が、影響していないと言う事である。
其れ等の事柄を考慮すると、全てがこうして、神の管理下に有ると言う事になるのだ。
今日は、屋久島は雨である。
しかし、是から、前田氏の案内をしなければ成らないので、ホテルに向えに行かなければ成らない。
今朝のメッセージが簡単であったのも、其れ等の事を、踏まえての事であろう。
平成20年3月30日
礒邉自適
2008/3/28

写真 広島県比婆山山頂のイザナミの御陵
道具を使えない神々
20・3・28
今朝のビジョンは、短い映像であるが、短い故に、大事な事を伝えて来ている様に想われる。
其れは、神霊や、霊界人は、実体としての手足を持たないので、此の三次元世界の道具を使えないと言う事である。
だからこそ、此の三次元世界に身を置く、我々人間に頼って来るのである。
今朝の映像は、私が、男女のペアーと一緒に、深い森のある山岳に続く、登山道を歩いて居た。
すると、途中で其の二人が水を飲みたいらしく、谷川に下りて行った。
私が、其の様子を眺めていると、水をどの様にして、飲んで良いのかが判らない様子で、水を飲むのを止めて引き返して来た。
私は、彼等に、上流に人家が無く、生活廃水が流れて来ていない川かどうかを確かめてから、こうして汲んで飲むのだと、岩から水が湧き出している所に、ペットボトルの口を当て、水を汲んで示していた。
其れから場面が変わり、女性の方が、3000の情報パワーを有している事を私に伝え、大型のパソコン画面の様な物が、明るい空白で映り出されて来た。そして次に、男性の方が、其れより、大きくて明るい画面を現して、自分の方は5000の情報パワーを、有していると示したのである。
其の場面が、どう言う意味を持っているのかは、私にも能く解からないが、若しかしたら「伊弉冉命・いざなみのみこと」と「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」のペアーの姿を、意味しているモノだったのかもしれない。
古事記の物語では、二人が夫婦喧嘩をして、「伊弉冉命」は「一日に1000人の人間を殺す。(消す)」と云い、其れに対して「伊邪那岐命」は「だったら一日に1500人の人間を生み出す。」と、云ったと有る。
其れに、「伊弉冉命」の肉体からは、物が生み出され、「伊邪那岐命」の身体からは、神々の働きが生まれた事になっていて、「伊弉冉命・イザ波」と「伊邪那岐命・イザ凪」は、「モノ・物」と「コト・事」を生み出す働きとされているので、今朝の映像は、物事を生み出す力・パワーの量を、示して来ているのかもしれない。
仏教の言葉に「色即是空・空即是色」と有り、此の世に生じている物は、空から生じたものである理・ことを伝えている。
だから、今朝の場面は、男女の物事を生み出すパワーの比率を、伝えて来ているのではないだろうか。
其れは、女性は子供を産む働きと、育てる働きを持ち、男性は、此の現象界である三次元世界に、自然物ではない文化や文明を発明発見して、神の働きを助けて行く役割が有るとのことではないだろうか。
其の働きのパワーは、3対5の比率となり、男性の役割の方が、難儀であるとの理であろう。
私が、今朝の数値で気に成る事は、私に、其れを示して来た事と、3と5の比率の解釈である。
其れが、10(全体)の中の3分と5分であれば、「10−(3+5)=2」で
残りが2分となる。
それか、神の結びの働きを示す、神社の注連縄に差す稲藁の数の7・5・3であれば、数の多い7が残っている事になる。
其の2と7の数が、人間が受け持つ生産力・パワーを意味しているのなら、道具を使わなければ、人間の力は、神の働きの3と5より弱い2であり、道具を使えば、神の力より強い、7に成るとの理・ことかもしれない。
2であれば、人間も動物と同じく、生殖活動をして、魂しいの器である肉体の遺伝子を、伝え残すだけである。
しかし、其の役割を、人間が放棄すれば、神々も此の世界から消える事に成るのだから、2の世界は、根本として大事なのである。
そして、道具を使う事を発見し、文化・文明を発達させて来た人間は、脳を進化させ、神々の意識の進化を支えて来たので、7が、人間のパワーを示していると考えても、間違いではないだろう。
しかし、今朝の場面から考えられる事は、男女のペアーが「伊弉冉命」と「伊邪那岐命」の様に、夫婦喧嘩(不調和)をしていれば、3対7か、5対7の対応と成るので、どちらに対しても、人間のパワーが優る事に成る。
しかし今朝は、其のペアーが二人仲良く現れて来たので、既に仲直りしているらしいから、協力している事に成り、「3+5=8」だから、人間側の7よりは1分だけ強い事になる。
そして、今朝の映像では、私が其のペアーに、人間が自然環境に与えている影響や、近代社会の道具の使い方を丁寧に教えて居たので、神と力を合わせる事に成り「(3+5)+7=15」と成り、15のパワーを発揮出来ると言う事になる。
其れは、ただ飲み食いと、セックスをして、遺伝子を伝えている2の働きとは、13もの開きが有ると言う理・ことに成るのだ。
其の、2と13の数の差が、是から、人間が生き残って行く為の、大事な理と成るのではないだろうか。
今朝の数値が、3・5の数字ではなく「3000・5000」の千の数値で示されたのは、「3000+5000+2000」が、1万に成るので、森羅万象の「万・萬(よろず)」「マン・満(みちる)」「八百萬神・やおよろずのかみ」を、伝える為ではないだろうか。
今朝のメッセージは、其の「3+5+2=10」の働きに、人間の技である7が加われば、此の宇宙の森羅万象は安定もするし、未来へと繋がる理を、示して来ているのかもしれない。
其れにしても、男女のペアーが、パソコンの画面を応用して来た事は、私の日常と、意識の仕上がり具合を、良く知っている事を示している。
と言う事は、其の二人の働きの背景に、未だ、何者かが潜んでいる事に成る。まだまだ、此の世界は奥が深い様である。
平成20年3月28日
礒邉自適
広島県 比婆山山頂のイザナミの御陵HP
http://moon.ap.teacup.com/applet/20051112/200512/archive
2008/3/27
政(まつりごと)の助言
20・3・27
今日3月27日は、22年前(1986年)衆議院議員「二階堂進氏」の鹿屋の自宅を訪ね、次の総理大臣に付いて話をした日であり、25日には皇居に手製のロケット弾が3発打ち込まれ、28日は大阪府警本部に火炎弾が三発打ち込まれてもいる。
そして、其の日に知った事は、本来の天皇家の菊の紋は、9つの花びらの菊花が、3つ三菱のマークの様に組み合わされた物であると言う事だった。
其れは「3×9=27」で、今日の日付の「3・(3×9)27」と、数霊として因縁が有りそうである。
何故、其の様な事が、今朝、気に成るかと言うと、今朝のメッセージが「政治・まつりごと」に付いての、助言の様な事ばかりだからである。
昨日の文章に、「新しい世界の創造」とのテーマ・題を付けたので、其れに対して「神界・霊界人」が、直ぐに反応をして来たのではないだろうか。
今朝のビジョンから考えられる事は、霊界人達が、過去の自分の「残念・怨念」を、私に「神霊の思頼・みたまのふゆ」して来るのではなく、私の是からの行動に対して、具体的な助言をして来ていると言う事である。
其れは、私自身に、欲が無く成っているから、私に任せていれば、何も行動を興しそうに無いので、私の行動を即す為に、色々な世界をイメージとして送り込んで来たのであろう。
先ず、最初に、畑のブドウの木に、実がたわわに実っているのに、収穫されないで、地面に落ちている場面が映されて来た。
そして、次に、作業を手伝う人達が派遣される場面が映されて来た。
そして次に、其の作業員の派遣や、収穫された作物の流通を、航空会社が行なう事が示されて来た。
*是は、「経済活動」が、広範囲で行なわれる事を意味しており、航空機が未来社会でも、飛ぶ事が許可されている事を、意味しているのではないだろうか。
次の映像は、無庵師匠が現れて、私に、水の入った雨靴を履かせて、歩かせるのである。
そして、其の雨靴の中の水が、立てる音を聴いて、聞こえる音から、歩く癖や、健康度を診察するのである。
*此の場面は、健康に付いて示唆を与えて来ているのだろう。
私の師は、出会って直ぐに、私の口を開けさせ、歯の状態を調べて、歯医者に行って歯を整える事を指示し、私が履いている靴の靴底を観て、其の磨り減り方から、病気の判断をしたのである。
だから、此の映像は、健康に付いての世界・概念を、根本の処から、組み直せとの事であろう。其れは、人間は、自分自身が健康管理をする事が大事であり、其れが、医療費が下がる為の方法である理をも、示唆しているのだろう。
次の映像は、前田氏とホテルに一緒に行き、私がロビーに居ると、其処に居る人達が私を見ながら、何かを云っているのである。
私が、何故だろうかと怪訝に想っていると、前田氏が、私に鏡を見る様に云うので、鏡の所に行って自分の姿を映して見ると、頭髪が寝癖で逆立っているのである。
*此の場面は、身だしなみを整える理・ことを、示唆しているのであろう。
私は、其のホテルに居辛く成ったので、外に出て散歩して居ると、ホテルの裏の残飯を集めている所に着いた。
其処には、繊維質の食物の残滓・ざんさいが堆肥の原料として積まれていた。私は其れを見て、資源が正しく使われていると想って居ると、其処に、女性の従業員がバケツを持って遣って来た。
処が、其の女性は、下水に通じている穴の所に、バケツの中身の豆腐やケーキ等を出して、水を掛けながら潰して、下水に流しているのである。
そして、残った繊維だけを、堆肥の材料として積んでいる事が判った。
*此の映像の意味は、資源の無駄遣いをする事を戒め、下水に有機質を流して、川の水を汚しては成らない理を、示して来ているのだろう。
次の映像は、其の女性と話して居る場面で、原因を尋ねて見ると、其れはホテルの経営者の指示である事が解かり、色々話している内に、ホテルの従業員の中に、新しい女性が居るが、其の女性がITで募集された人であり、素性が判らないので、皆が困って居る事を私に云うのである。
*此の映像の意味は、IT社会の欠点として、ITの情報は裏づけが取り難いので、裏づけの取れる、正しい情報が遣り取り出来る様に、社会システムを構築しろとの事ではないだろうか。
社会が混乱する原因に、相手の資質や、背景が明確にならない事がある事を、意味しているのだろう。
次の映像は、私が役所に出かけて行くと、丁度朝の朝礼か、新期入所者の入所式が、ロビー広間で行なわれる様な場面で、各部屋から、職員が玄関ロビーに出て来る処だった。
若い人達は、皆、身なりも動きもスマートで、優秀な人達である事が理解出来た。そして、全体的な人間構成を見ると、管理職に歳を取っている人が居ないのである。
*此の映像の意味は、役所が、人間社会では一番大事なので、優秀な人材を入所させる様にする事と、役所の人間は、自分の利益の為に働くのではなく、国民の為に働くのだから、一般的な会社の様に、歳を取って動きが鈍く成った管理職は、必要ない理・ことを意味しているのではないだろうか。
其れは、定年を早める事と、次の職場を用意しなければ成らない事を、意味しているのかもしれない。
次の映像は、私が役所から出て、外を歩いていると、70歳ぐらいの男性が、素裸の身体の上に、白い看護士が着る上着だけを着て、前をはだけて一人で歩いて居るのである。
私が、どうしたのだろうと想って、其の男性を眺めて居ると、後から、看護士か看護婦の様な職業の格好をした女性が追い駆けて来て、其の男性を捕まえて連れ帰って行った。
*此の映像は、老後の暮らしの介護や、援助に、国が力を入れなければならない理・ことを、示唆しているのであろう。
人間は、老後の生活が心配に成ると、不安がつのり貯蓄に励み、財産に執着する様に成る。だから、壮年の時期から利己主義に陥り、ボランティア等の社会貢献をしなく成るのである。
其れは、釈迦仏陀や、イエスキリストの様な訓えが有っても、実行出来ない社会情勢が生まれる事を、意味している。
今朝のメッセージは、昨日の「新しい世界の創造」のテーマに付いて、重要な基本と成る部分の指針と、為すべき処を、示唆して来たものである事は、確かである。
其れはまた、私に、是からの行動や、話す言葉が、如何に大事であるかを、示して来ているのであろう。
其れは、私の意志に関わらず、私の存在が、新しい御世・御代を創出する為の最前線に、立たされている事に成る。
其れが、「すめらみこと・現人神」の役割と言う事なのかもしれない。
其の様に考えると、私の想いや、意識とは関係無く、事態が進み出している事に成る。其れが、神の意味である「天の働き」と言う事なのだろう。
ITの世界が出来る迄は、ピラミッド型の、命令型絶対服従の縦社会が必要だったのである。
其れは、猿型の社会構造であり、人間が猿の遺伝子から、進化途中である事を意味している。
だから「朕思うに」の皇帝の言葉や、天皇陛下の玉音放送などが必要だったのである。
しかし、そんな時代でも、皇帝が「教えを請う」相談相手が、山中に「仙人・聖者」として存在した。
其れも、是からは、山中に聖者がPCを持って籠って居れば、其の体制が整う事に成るし、其の遣り取りも、デジカメで撮影して、全世界に同時中継出来るのである。
其の社会体制の中で、指導者が、どう言う態度を採れば良いのかを、今朝のメッセージは示して来たのだろう。
今朝の状況で判る事は、私はこうして、自分の役割を確実に果たして居ると言うことである。
是も、神々が、長い時間と、莫大な質量を、私の環境に注ぎ込み、今の私の「意識・認識・魂」を、育てている事の証である。
其の様に考えれば、私の存在など、始めから無いのである。
其の理を理解し、皆が「惟神の道・かんながらのみち」を歩く為に、神社の存在と禊ぎ祓いの儀式が、此の日本に伝え続けられているのである。
其れに気付けば、私は、惟、其の伝統の中を、歩いているだけと謂うか、歩かされて居るだけに過ぎないのだ。
其れが、イエスキリストの謂う「聖霊に満たされる」と言う事であり、日蓮上人の謂う「諸天善神 皆 加護に付く」との意味なのであろう。
平成20年3月27日
礒邉自適
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