1984年6月4日(旧5月5日)神と交わした約束が果たされる事が 今朝告げられました。
18年8月18日未明
事象(とき)の切り替え
今朝は5時15分に是までの時間(とき)が閉じられ、5時22分に新しい時間(とき)が開いた。
其れは、旧約聖書に「神は6日間で此の世界を創造し 7日目に休んだ」と記されている事と関係が有り、是までの「事象・時空・とき」が閉じられて、新しい事象が始まる理・ことが知らされて来たモノの様である。
其の時間の「扉・まく」は、カメラのシャッターの様な物であり、其れは人間の瞼の仕組みと同じで、閉じている時は「月読界」で、開くと「天照界」であると言う事である。2016年6月6日
2008/4/28

清水次郎長親分
同じ釜の飯を食う
20・4・28
昨日、私の意識は、全てが浄化されたと思って居たが、今朝は、私に必要が無い様な情報が、沢山脳裏に流れ込んで来た。
其の原因を考えると、昨夜、宿舎に泊まる客が増えた都合で、他人が、私の部屋に一人寝る事に成った所為だろう。
其の他人とは、東京の渋谷生まれの渋谷育ちで、私と同年代の男性である。
其の男性とは、食事も三日間、同じ食べ物を食べているので、昔から言う「同じ釜の飯を食った仲」を、現実として実行した事になる。
そして昨夜は、其の男性と同じ部屋に寝たので、同じ空気を呼吸・息した事にも成るのだ。
何故、今朝、私には関係の無い、情報が流れ込んで来たと、考えるかと言うと、流れて行く情報が、漢字の「金」の文字が頭に付いた、「金銭関係」「金儲け」等の単語が、パソコン画面を何百と上って行ったからである。
其の原因は、其の男性が、家賃収入で生活しており、株の取引等をしているからであろう。其れに、其の人が、此処数日、私のPCで株価の動向を見たりしているので、私の波動情報に、不正アクセスした事に成るのではないだろうか。
其れが、情報が混濁すると言うか、穢れるとの言葉の意味なのかもしれない。
しかし、私は、株価の事や、資産運営には全く関係が無いので、其の情報は、私にとっては「右耳から左耳に聞き流す」や「馬の耳に念仏」や「猫に小判」の諺の通りで、其の儘、記憶に留まる事無く流れ去ったのであろう。
此の様な現象が有るからこそ、日本のヤクザの世界でも、「同じ釜の飯を食った仲」とか「私の息の掛かった者を遣る」とかの言葉が有るのだろう。
其れに、西洋のイエス-キリストの言葉にも「一緒に食事をしなさい」と有り、有名なレオナルド・ダ・ビンチの絵の題も「最後の晩餐」で、食事の風景である。
其れ等の事柄から考えると、如何に、人間は、一緒に食事をしたり、同じ家の中で生活すると、影響し合うかが、理解出来る。
其の影響力を、皆が知っているからこそ、道場が建てられたり、スポーツの世界でも共同合宿が行われるのであろう。
私は24年前、無庵師匠の家の仕事を手伝いながら、師の家族と、約半年間一緒に食事をした。其れは、1984年の3月5日からである。
私は、自宅に帰って寝泊まりをして居るのだが、一緒に食事を始めて数週間後から、私の自宅に、誰からか電話が掛かって来て話をすると、次の日無庵師匠の自宅に行って、師の横に私が座ると、私の様子を師匠が知っている筈は無いのだが、師匠が私の気を計って「又 誰かと電話で話をしたな」と云って怒るのである。
其の理由は、私の生態電気のエネルギーの量(電圧)が、電話機の電線を通して漏れ、下がっているのだと言う事であった。
其れは、人間の体も電気で動いているものであるから、電圧の高い人と、低い人が存在して、「エネルギーは 高い方から 低い方へ 流れる。」のエネルギーの法則通りに、高い者が低い者に接触すると、エネルギーを失うと言う理・ことを意味している。
其れは、何事に対しても、パワーが有る人の側に居れば、低い人も、其の波動を貰って元気に成る事の理由を、明らかにするものである。
だから、イエスキリストの弟子や、釈迦仏陀の弟子は、其のエネルギーを師から貰っていた事に成るのである。
其れは、日本でも「清水次郎長」親分が居て、其処に、子分が沢山集まった事と同じ現象であろう。
其の説明には、比叡山で「千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)」を遣り遂げた行者が、一年に一回だけお祭りに参加し、其の日だけ、其の行者の身体に、一般の信者が触れる事が許され、触った人は、エネルギーを貰って病気が癒えたり、元気に成ったりする現象が、起きる事が参考に成るだろう。
其れは、行者が人間には会わずに、山中で行を積みながら、生体電気を高めて充電しておき、祭りの日だけ、其の生体電気を、信者に分け与えると言う事である。だから、行者は、普段は世間の人間とは、会ってはいけないのである。
其の事は、仏教の世界だけではなく、仏教が導入される前の日本にも、有った世界である。
日本の、古代社会には「卑弥呼」が居て、其の卑弥呼は、山中の社に一人で住んで居り、食事を運ばせる役割は、自分の弟にさせていたとの事である。
其れに、弟に家族が在れば、其の弟の家族を通して、エネルギーが漏れたり、穢れたりしてしまうので、弟にも結婚をさせなかったとの事である。
其れは、神の世界と通じるのには、「意識・魂しい」が時空間の旅をする必要が有るので、相当な電圧と純粋意識が必要だからである。
此の様な事を書いているのに、今日は、初めての方から二人電話が有って、事が急ピッチで動き出している事が明らかに成って来た。
一人は埼玉の「高橋さん」で、もう一人は茨木の「森山さん」である。
「高橋」とは、前に神から告げられて来た名であり、「森山」とは、屋久島の麦生地区の「大山神社」が有る森の名である。
其の方達が、大山祇神の祭典に参加するとの事であった。
今日は、NTTから電話が有り、新しいITの回線が、5月7日に着くと連絡が有り、藤田さんは東京の知人に、新しい容量の大きなノート型パソコンの購入を依頼した。
今日の昼の船で、神奈川に帰った高橋智恵美さんは、今朝霊夢を見て、縦書きで「有り・有り・有り・・」と文字が続いていたとの事であった。
今夜は、8時から、西川宅で「大山祇神」の氏子組を構成する、会合が開かれる事に成っている。ようやく、事が動き出そうとしている様である。
「同じ釜の飯を食う仲間」が、是から増えそうである。
平成20年4月28日
礒邉自適
2008/4/27
死の川を流れる
20・4・27
今朝のメッセージは、此の世から、自分の意識が離れて行くビジョンだった。
其れは、昨日の、人間の感情のテーマの続きであり、人間が、此の世を離れる時の感情を、最後にくっ付ける必要がある事を、告げて来たのだろう。
其の映像とは、私の意識は、肉体の形のエネルギー体に在るのだが、骨格や肉体が伴っていないのである。
そして、生暖かい、マルーン色(赤系統)の血液の流れの中を、流れる様な感覚で、右側の方に移動して行った。
すると、其れに上から重なる様に、光の女神が、笑顔でもって、優しく私のエネルギー体の身体を包み込んで来た。
しかし、私は、未だ体の中に食べた物が残っていて、完全な浄化が済んでいない事を知らせた。
其れでも、其の女神は、私の身体を離さないで、不純物が完全に排出されるまで、其の流れの中を、私を抱きしめたまま、一緒に流れてくれるのである。
私の意識は、其の状態が気持ち良いものであり、安心出来るものなので、其のまま、流れに身を委ねて意識が遠のいて行った。
其のビジョンの意味は、人間の意識は、或る情報(プログラム)に因って、人間の肉体に住んでいるモノであって、肉体から意識が離れる時は、完全にカルマ・業が浄化されていなければ成らないと言う事である。
だからこそ、密教の行者は、即身成仏を願って断食を続け、身体が完全に衰弱してから木漆を飲んで、肉体をミイラ状態にしてしまうのであろう。
其れを考えると、今朝の私の意識は、普通の状態で在りながら、其れを体験していた事になる。
其れは、人間が「人・霊宿・ひと」として、此の世に存在し、最後に体験する感情であると言えるだろう。
私は以前、其れとは逆に、此の世に生まれて来て、初めて産湯に浸かって手足をバタ付かせながら、長い間「オギャ オギャ」と泣き続けている自分の魂しいを、全身全霊で、強烈に感じる体験をした事が有る。
其れは、私が阿蘇に有る「日の宮弊立神宮」の近くに、住んで居た時の出来事である。
抜粋・・私は、京都ドレミ村の天波博文氏が、初めて阿蘇の私の自宅に訪ねて来て知り合った日(1992年11月7日)の未明の霊夢で、私の意識は生まれたばかりの赤子姿で、タライの産湯の中で一時間程、泣き続けて居る体験をした。・・・
「森森」http://green.ap.teacup.com/20060818/252.html
其の時は、其のビジョンを深く洞察する能力は、私には未だ無かったのである。
しかし、今朝のビジョンと、其れを合わして考えると、其れは、非常に大事な事であり、今後の精神世界や、哲学・文化面に於いて、基本的な柱と成る理に成るものではないだろうか。
其れは、日本語の「ひと・人」が、「霊が留まる・ひがとどまる」との意味の「霊宿」である事が、新しい形で再認識される事でもある。
だから、昨日のメッセージに有った、人間の感情の在り様に付いての内容に続いて、今朝、其の「始まりと終わり・誕生と臨終」の魂しいの状態が、追加されて来たのである。
「臨終」の単語の意味は、─引用開始─
臨終(りんじゅう)とは、死を迎える直前の時期をいう。臨命終時(りんみょうしゅうじ)の略語。古来より、この危機的な時期を巡って、死の受入れと死の看取りに関する様々な慣習と文化が生み出されてきた。
死を迎えることの意味を説いた古い文献としては、エジプトやチベットで作られた『死者の書』が知られているが、それは必ずしも臨終時の問題に焦点を合わせたものではない。これに対して西ヨーロッパでは、中世末期に『往生術』として知られる文献が書かれ、臨終を迎える者のための心得が説かれた。この文献によると、死の床には必ず悪魔が介入し、良心の錯乱と種々の苦しみを引き起こす。しかしこのような誘惑に対抗するため、神は死にゆく者のためにあらかじめ天国を経験させ、罪の償いを約束するものとした。この悪魔の襲撃については多くの図が描かれ、民間に流布した。また往生術に関する多くの手引書では、死の看取り手は臨終者に対して、回復するかも知れないという幻想を与えるべきではないとし、臨終者が死を自然に受け入れることができるよう、できるだけの手助けをすべきであると説いている。
インドの仏教では、古く祇園精舎で北西の一角に無常院を作って病者や死を迎える者を入れたという。・・・
─引用終了─ ウィキペディア辞典 現在記載
「臨・リン」の漢字は、上か下を覗きこむの意味で、多くの物を覗き込む・のぞむの意味を表わす。と有り、臨終とは、其の事が終るとの意味に成る。
其の意味からすると、今朝、私が体験した世界は、太陽の様な暖かいエネルギー体が、顔だけ美しい女神の形で現れ、私の身を優しく包み込みながら、一体化して来た事に成る。
そして、其の宇宙の女神である意識から、分離されて居た私の意識(霊宿)の本体が降臨して、地上に降ろされていた分身を、自分の身に回収したとの事に、成るのではないだろうか。
其の様に考えると、「臨終」とは反対側に位置する「誕生」の意味も、相対的に認識されそうな気がして来る。
私が16年前に体験した、生まれたばかり赤子の状態は、未だ、自分に起きている現象が何なのかが、何も分からず、ただ手足をバタ付かせて、激しく泣いているばかりであった。
其れは、私の意識が、45年前の誕生時の産湯の場面まで、記憶が返った事を意味する。
そして今朝は、其の誕生時から61年経っている私の意識が、まだ迎えてはいない「湯灌・ゆかん」の場を体験し、其の臨終を迎える為の、心構えを示唆されて来た事に成るのだ。
其れが、暖かい液体の様な流れの中であり、身体の中から一切の食べ物・糞尿が、排出されていなければ成らない理を示している。
参考HP 湯灌の儀 http://www.dreamer-net.co.jp/sougi/yukan.html
其の理を考えると、「事故死」や「自殺死」は、其の準備が出来ないから、臨命終時(りんみょうしゅうじ)の儀式が、正しく行なわれていないので、不成仏とのことに成ってしまう。
だから、自分が死ぬ感情を体験しない侭、交通事故死等をすると、自分の死が自覚出来ないので「浮幽霊」と成ってしまうのだろう。
今朝は最後に、大きな鍋に、七草粥の様な、緑色の葉の薬草らしき物が入った、食べ物が煮られていた。
其れは、人生の最期を迎える為に準備された建物で、多数の人が成仏を願って身体を浄化する為に、集団生活をする、台所の様子なのかもしれない。
若しそうであれば、先に引用した文章に有る「無常院」らしき物を、準備する事が必要だとの事ではないだろうか。
現在の学校教育は、日教組運動に政府が妥協する形で、神や霊魂などの存在に触れる事はない。
其の結果、人心は荒廃し、漸く此処に来て、道徳教育が見直されて来ている。
本来の、民主主義の概念は「神の下に 民衆はみな平等の権利を有する。」との理であるから、神や霊魂の存在を否定する考えは、本来の民主主義の概念からは外れているのである。
其れに、マルクスは真実の神の存在を理解して居たからこそ、既存の宗教体制を批判したのであって、神の存在を、否定しているわけではないのである。
昨日と、今朝のメッセージの内容は、神の存在が、人類全体に対して、送って来た指示であろう。
其れを考えれば、是から、築いて行かなければ成らない未来社会にとって、人間の感情のテーマは一番大事な理であり、其れを、基本としなければ成らないとの事ではないだろうか。
人間はどんな人でも、自分の顔を持っており、其の顔は「一日に 何万回も変化しているのだ。」と、釈迦牟尼佛は謂っているし、アメリカの16代大統領であるリンカーンも「男は40歳に成ったら 自分の顔に責任を持たなければ成らない。」と謂っている。
彼等の言葉からも解かる様に、人間は、自分の顔の表情を一番大事・重要に考えなければ成らないのである。
其の理を、昨日と今日で、伝えて来たのであろう。
何故か、西洋の風習はイエスの誕生日や、ワシントンやリンカーンの誕生日を祝う祭りが行なわれる。
其れは、日本の神社の大祭が「命日」である事とは反対である。
其れは、イエスやリンカーンが、大往生を向える事が出来ずに、殺された為であり、死の状況が、目出度いものとは成っていないからなのかもしれない。
平成20年4月27日
礒邉自適
2008/4/26
喜怒哀楽の研究
20・4・26
今朝のメッセージは、人間の「喜び」「悲しみ」「感動している」顔などの似顔絵が、説明の文章付きで、明るい世界に書き出されているのが、映し出されて来た。
そして映像が変わり、次の場面は、何故、其の様な感情が発生するのかが、理論的に文字で説明されているのが、裏の陰の世界として示されて来た。
其れは、木の葉の仕組みの様な、現象世界の「表面」と「裏面」の対と言うか、関係性を示唆して来ている様に想われる。
今朝のメッセージは、屋久島から発信する情報が、「生命」をテーマとした内容である事を、示して来ているのではないだろうか。
人間が、「幸福」や「不幸」を感じるのは、精神的な事や、経済的な事等、様々な要因が有る。
其の要因を、科学的に研究して原因を探り、其れに対応する施策を、構築する事が、私の役割と言うか、其の様な研究機関の設置や施策を、採らなければ成らないとの事ではないだろうか。
辞典で「喜怒哀楽・きどあいらく」を調べると、喜びと怒り、悲しみと楽しみ。人間のさまざまな感情。と 載っている。
其の様々な感情には、喜怒哀楽の四つの感情の他に、「寂しさ」や「憂い」「妬み」「不安」「恐怖」など他にも列挙して行けば沢山有る。
其れ等の事柄を、臨床医学や、精神分析学の分野から見詰め、其の原因が解かれば、マクロビオティック的や環境学的に、解決出来る手順を、整備して行く事が出来るだろう。
参考 ─引用開始─ 感情の一覧
安心、不安 •感謝 •驚愕 •冷静、焦燥 (焦り) •不思議 •幸福、幸運 •リラックス、緊張 •名誉 •尊敬 • 親近感 (親しみ) 憧憬 (憧れ) •欲望 •恐怖 •勇気 • 快、快感 (善行・徳に関して) •後悔 •不満 •無念 • 嫌悪 • 恥 •軽蔑 •嫉妬 •期待 •優越感、劣等感 •怨み • 苦しみ •悲しみ •怒り • 諦念 (諦め) •絶望 •憎悪 •愛しさ。
ウィキペディア辞典 現在記載
其れに付いては、釈迦牟尼佛の物語の中に、釈迦は「32相81種」の顔を持って居たと有る。
其の意味を考えると、大悟した人間の意識は、無限大に拡大し、宇宙の森羅万象と共鳴するので、あらゆる現象を映す鏡と成るので、其れが生命現象として、其の者の肉体現象に現われるとの事であろう。
其れは「奇跡」との言葉ではなく、「生命・いのち」の本来の働きと言うか、真実の姿と言えるモノ・世界であろう。
何故、釈迦がそう言う状態に成れたかと言うと、人間は、本来そういう者であるとの事である。
其れが、人間、皆そうでないのは、子供の頃から、其れを失った大人達に育てられ、其の情報が日の目を見る事なく、内に隠されてしまうからである。
其れは、映画会社で一番大事なフィルムが、倉庫の隅に置き忘れられ、上映されなく成る事と同じである。
釈迦は、出家をし、森の中で6年間修行して、過去の殻を破り、生命の正しい情報を取り戻して、本来の生命状態に立ち戻ったのである。
其れが、本来の「祷り・帰命・ナーム(南無)・リリジョン・religion」の意味である。
其の「帰命・ナーム」に「帰る・祷る・イノー」事に「成功・覚醒・成仏」した、ゴータマ-シッタルダに肖ろうとする「儀式・振る舞い・仕種」が、「帰命頂礼・きみょうちょうらい」の佛教者の採る態度なのである。
しかし、帰命頂礼したからといって、其の生命の源に「祷る・かえる」わけではないのである。
其れは、ただ、其の仕種に己を固定してしまい、自分の意識を不自由にしてしまうだけで、真実のブッダ・仏には成れないのである。
だから、人間は、子供の時に持っている自由を失う事なく、木が大きく育つ様に、根や幹や枝葉を、伸ばして行かなければ成らないのである。
其の、人類の本来の生命状態を取り戻し、明るい未来を創造する事が、是から我々が、テーマとしなければならない事なのである。
其れは、別に難しい事ではないだろう。
未だ地球環境には、僅かであっても余裕は有る。其の残りの余裕が有るうちに、経済や政治の方向を転換して行けば、神が願っている本来の世界に、立ち戻る事が出来るであろう。
其の最後の望みが、我々に掛けられているのである。
そして、其の発信基地として今、屋久島が重要な位置を、占めているとの事ではないだろうか。
其の理由を考えると、最初の出だしが、大都会の中で始まれば、環境や、集まって来る人材等の関係から、大きな意識の転換に、成らないからではないだろうか。
私は、屋久島生まれの屋久島育ちである。
其の人間が、38歳から18年間全国を旅して様々な文化に触れ、東京にも二度住み、京都にも一年間住んで古い文化に触れ、更に出雲にも二年暮らして、神々の歴史の研究もして来た。
そして、屋久島に還って6年である。
此の6年間で、自然と人間の暮らしの関係性を、こうして文章にして来た。
此の作業をしながら、感じている事は、現代社会の情報の在り方である。
私の様な、人間の書いた物を、世界中の人達が毎日、何百人も目を通してくれているのである。其れは、奇跡的な事であると言えるだろう。
其れに、人気の有る人のブログは、毎日何十万人もの人が見ているだろう。
其の現実を考えれば、人類の未来が掛かっている情報が、流される拠点が出来れば、昔と違って、一気に改革が起きるかもしれないのである。
其れは、現在の政治が頼り無いからこそ、可能性は高いのである。
其れに、こうしてPCの前に座って、自分に解からない事は、検索すれば、何でも出て来る世の中である。
此の便利さを考えれば、世界は一つに成っているし、自由がある事が、理解出来るのである。
其れ等の事柄を考えれば、神が伝えて来るメッセージも、満更出鱈目と言うわけではないだろう。
実際に、其れに関わる様な出来事が起きつつあるのである。
いま話題に成っているイギリスのオペラ歌手は、ただの携帯電話機売りのセールスマンが、テレビ番組で優勝し、歌の世界で一位に成ったりしているのである。
其れ等の現象を考えれば、何が起きても、変ではない時代なのである。
最早、権力者が居て、全ての情報をコントロール出来る世界は、終ったのである。そんな世の中だからこそ、何が起きても変しくは無いのである。
「ポール-ポッツ」http://labaq.com/archives/50955465.html
昨日は、夕方6時から、安房の公民館で、年度変わりの為に、屋久島に新しく赴任して来た人達の歓迎会が行なわれ、100名以上の参加者があり、賑やかなうちに三時間の催しが終った。
其の会場に、屋久島出身の女性歌手「あざみさん」と、スタッフが参加して居て、少し話をしてチケットも10枚頂いた。
其の開催日は5月5日で、私に知らされて来ていた日付である。
其の音楽祭のテーマは、〜2008年屋久島祭典with屋久島音楽祭〜「自然との共存共栄をテーマに豊かな生き方を」「屋久島出身AZAMIと集う仲間達と屋久島の暮らし」である。
コーディネーター 松下修(松下生活研究所)http://www.lifeware-design.jp/
若しかしたら、此の催しにも、神の息吹が掛かっているのかもしれない。
何が起きて来るのかは、私にも能くは判らないが、事は次第に明らかに成って来るのだろう。
そうして、私にも、また新たな感情が生まれ、もう一つの顔が、誕生するのかもしれない。
平成20年4月26日
礒邉自適
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