1984年6月4日(旧5月5日)神と交わした約束が果たされる事が 今朝告げられました。
18年8月18日未明
事象(とき)の切り替え
今朝は5時15分に是までの時間(とき)が閉じられ、5時22分に新しい時間(とき)が開いた。
其れは、旧約聖書に「神は6日間で此の世界を創造し 7日目に休んだ」と記されている事と関係が有り、是までの「事象・時空・とき」が閉じられて、新しい事象が始まる理・ことが知らされて来たモノの様である。
其の時間の「扉・まく」は、カメラのシャッターの様な物であり、其れは人間の瞼の仕組みと同じで、閉じている時は「月読界」で、開くと「天照界」であると言う事である。2016年6月6日
2008/5/31
出づ 稜威の守
20・5・31
昨夕、二年振りに、平内に有る落語家の三遊亭歌之介師匠の別荘に、草刈りを兼ねて、知人と行って泊った。
其の別荘には、電話もテレビも無く、川の辺なので川の流れの音しか聞こえない環境である。勿論ITも無いので、昨夜は早めに休んだ。
昨夜は、横に成って眠る前に、瞼に映って来た映像は、自分の右足の指の数が増えて行く場面であった。
其の増えて行く指は、何故か、蛇の頭なのである。
其の蛇の頭は、「八又大蛇・やまたのおろち」の様な物だが、インドでは釈迦牟尼仏陀の頭上で、ブッダを守護している七つ頭の大蛇である。
何故、其の多頭の蛇が、私の頭の上に、鎌首を持ち上げないで、足の指として動き始めたのであろうか。
昨夜は、眠りに落ちるまで、其の理由を考えて居た。
そして、フト理解出来て来た理・ことは、大山祇神とは、四方神の青龍であると言う事である。
何故、私がそう想ったかと言うと、此の別荘は、屋久島の東経130度30分線上の南に位置し、以前に宿泊した時には、太陽の化身である「朱雀・すざく」が現れて来たからである。
何故、其の宿に泊って「朱雀」が現れないで、多頭の蛇が出て来たのかを考えると、やはり此の宿は「朱雀・鳳凰」の宿であるから、蛇は大地を這うモノとして、朱雀の足の指として現れたのであろう。
そして、其の意味は、大地を神が、歩き始める用意が出来たとの事であろう。其れは、マヤの神である、翼を持つ蛇神「ケツアルコアトル(ククルカーン・括る神)」の姿が、完成した事を意味し、ヘルメスの杖の仕組みが、動き出した事を、意味しているのではないだろうか。
四方神の青龍は、東方の守護神であり、水の神であって智慧を司る神である。其れは、旧約聖書に出てくる樹木に住む蛇も、智慧を齎す物と考えられているので、其の概念は、元を同じくしているのであろう。
何故か、一昨日は、買い物の帰りに、島の真東の河口に遊びに立ち寄った。
すると、森の中の道を歩いて居ると、左手にビリビリと反応が起きた。
其の、左手に入って来た、東の方角の働き・神の青龍のエネルギーの情報が、昨日のメッセージに関係が有ったのであろう。
其れは、智慧を司る青龍の働きが、三次元で動き出す時節を向かえた事を、意味しているのではないだろうか。
其れを裏付けるメッセージとして、今朝は、男性の姿が現れ、其の男性の名が「出づ 稜威の守・いづいづのかみ」であると示されて来た。
其の名前は、「みいつの力を持った守(神・御仁)が出る。」との意味に成る。
そして、其の御仁の働きは、二面性を持っている理・ことが示された。
其の二面性とは、中国の老子の訓えである「道徳経」に関係が有る様である。
老子の書であると伝えられている「道徳経・どうとくきょう」は、人類の文化遺産であり、世界一の叡智の塊である。
其の老子の道徳経とは、5000字に纏められている文章で、其の文章は、後の人の手に拠って81章に分けられている。
其の内容は、「道・タオ・天の働き」38章と、「徳・人間の振る舞い」43章の、二面性に由って書かれているものである。
今朝現れた男性は、其の二面性の内容を正確に理解し、何事に対しても、自分が完全に対応出来る事を、身に付けている事が示されたのである。
其れは、「スメラの尊」としての男性の器が、完成した事を、意味しているのではないだろうか。
何故、其れ等の事が、今朝示されたのかと言うと、やはり此の建物には、朱雀が関係あり、鳳凰が羽根を休めているとの事であろう。
だからこそ、其の鳳凰の意識体の右足の指が、大地を這う蛇として、数を増して動き始めたのであろう。
右手や右足は、左手や左足とは違って、行動に出る出発の意味を含んでいる。其れは、神の「イクサ・意草・胃食・クシミケ(宇迦之御魂神・うかのみたま)」が始まる事をも、意味しているのであろう。
其れは、時空を司る龍神自体の、次元突破(九回目)の動きでもあるのだ。
昨夜、一緒に宿泊した方は、宮司の資格を取得する為に頑張っている方で、今回も、お弟子さんと屋久島の山岳の神に参詣する修行の為に、来島しているのである。
私は、其の方の助人をしなければ成らないのだが、何故か、他のスケジュールと上手く折り合いが付いているのである。
今日から、7日までが、其の方の前半の神事で、後半は11日から15日迄である。其の隙間に、7日から前田社長が五名で入島し、8日から松山さんが七名で入島して合流し、10日には全員島を出る。
其れに、長野県の平田和文氏の一行が、今朝から山に入って居るので、明日は淀川入り口まで、車の運搬もしなければ成らない。
だから、今日から15日までは、一日の休みも無いのである。
其れに、19日には一番大事な「紀(トキ)の祭り」も控えているのである。
是は、丸で、私の身体のスケジュールに合わせて、皆のスケジュールが組まれているかの様である。
今回の動きに対して、私は、全く人為を働かせてはいない。
其の事を考えると、確かに、何者かが見えない世界で、事を仕組んでいることが理解出来る。其れが、右足の指の働きであるとの事だろうか。
其れと、私は先月から、左手の腕を痛めて、左腕が意う様に動かせないでいる。其の原因は、前田社長と客人に、自然館に展示してある、矢筈岬産のサザレ石の説明をする為に、ただ左手を伸ばしただけで、左腕に痛みが走り、其れから左腕が神経痛の様に痛んでいるのである。
だから、海に、貝などの磯物を採りに行く一番良い季節なのだが、一度も海に行く事が出来ないで居るのである。
其の原因は、神の計画が一番大事な段階に来ているので、私の意識を、他に向けない為であろう。
其れに、私のPCの作業は両手打ちではなく、右手の人差し指の一本打ちであるので、左手の方を痛めて、私の動きを封じているのである。
其れと、似た様な現象は前にも有る。
其れは、6年前に島に帰って来て、自宅の修理を始め、一応住める様に成ってから、本格的に改築を始め様としたら、一緒に、屋形船で宴会をして居た男性が、突然神懸りの様に成って、私を抱えて安房川に投げ込んだので、其の時に右腕のくるぶしを痛め、半年ぐらい大工道具を使えなく成って、作業が停止してしまったのである。
そして、其の間に、台風で屋根が壊れ、自宅に住めなく成って、町の中から静かな所に出る事に成ったのである。其の男性の、神懸り的な暴力が無ければ、現在・いまの私の生活は無いのである。
其れに、私は、其の他にも、大好きだった魚の刺身等の生物が食べられなく成って、二ヶ月が過ぎている。其れ等の事柄も、神の世界で、何等かの動きが有って、私の食事や、身体をコントロールしているのではないだろうか。
其れは、今年の9月15日までに、具体的な事を決めろと、二年前に示されていた事と、関係が有るのだろう。
昨夜は、今回神事に来ている方と、岡山の伊丹由香さんを会わせて、神事の改革を始めろとの示唆も有った。
伊丹由香さんは、今月19日(旧暦5月16日)に行なわれる、大山祇神の第3回「紀(トキ)の祭り」に参加して、山に入る為に一週間の日程で来島する事に成っている。
若しかしたら、其の二人を16日から19日の間に会わせて、何等かの対策を練る必要が有るのかもしれない。
現在の、私の周囲に起きている事柄を良く見ると、確かに、新たな動きが、急速に動き出している事が解る。
其の動きは、どう言う事に成っているのだろうか。
其の動きは、此の屋久島に身を置き、無為でもって、事を見詰めている私の意識でしか、全体が見えないとの事ではないだろうか。
私は、此の世界自然遺産に登録された屋久島で生まれ、此の島で38歳まで暮らして居たのである。此の、花崗岩と、水と、緑の木々の島は、地球の特徴を、全て抱えている様な島である。
無庵師匠は、私の存在を捜して、何年間も九州中を捜し回ったそうである。
そして、何処にも見付からないので、最後に、何千年の杉が生えている原始林が存在する、屋久島に居なければ、もう何処にも居ないと考えて、島に来たと謂って居た。
そして、私が誕生した場所の風水と、母親の姿を見て「成る程」と頷いていた。
其れが、全島花崗岩である此の屋久島の特徴と、其処で育った、私の背景の物語なのである。
今朝の文章は、何故か、私の人生物語の様な雰囲気に成って来たが、其れは6月に、私の身体が三次元に投入されるからではないだろうか。
現実世界での活動が多忙に成れば、其の現実に、意識を向けなければ成らない。
此処まで次元が進んでくれば、中途半端な気持ちで取り組んでは、相対世界と絶対世界の区別が曖昧に成り、両方ともが駄目に成る可能性がある。
6月中は、メッセージを受け取る事は余り気にせず、現実の世界に目を向けて行く事にしよう。
其れが、今朝現れた男性の、神霊の思頼(みたまのふゆ)に、付き合う事に成るのではないだろうか。
其の行為が、「出づ 稜威の守・皇帝」の行為に当たるのか、霊界に存在する「出づ 稜威の守・天帝」の存在に、私が協力する事に成るのかは、私にも判断しかねる出来事である。
平成20年5月31日
礒邉自適
2008/5/29
主権王国
20・5・29
今朝のメッセージは、先ず、出雲の稲佐の浜が映り、国引き岩の手前の岸に、胡坐をかいて座り、国引き岩の方を見ている、古代の男性の後ろ姿が見えた。
そして「主権王国」との言葉が有り、「2000」との数字が出て来た。
出雲の稲佐の浜は、出雲王朝から天津神に、国譲りが行われたと伝えられている場所である。
其の場所と、古代の男性が現われたと言う事は、新しい王朝が誕生するとのメッセージではないだろうか。
其の事を主題として考えれば、新しい国とは「主権王国」で、是から2000年間、其の御世が続くと言う事に成る。
そうであれば、ハルマゲドンのプログラムは、一応中止された事に成る。
今朝は、其の「主権王国」に付いて、少し説明も有った。
主権王国の「主権」とは、権威は「主・神・宇宙意志」に有り、其の存在を王とする価値観の世が「主権王国」との意味の様であった。
そして、上から下に順番で、何かが書き出されなければ成らない事が示された。
そして、其の第一章に、「主権は天に有り 其れを主体にして 政(まつりごと)を行う」との意味が、書き込まれる必要がある事が示された。
そして、中間に70項目が有り、最後の第72章には、「全ては 皆の物」との意味が、書き込まれる事が示された。
其れは、是から私達が、新しい決まりの下に、2000年間生きて行く事を、約束されたと言う事であろう。
其の為には、6部門毎に12章か、12部門毎に6章かの、決まりを制定して、其の決まり・則・法に従って、生活をして行かなければ成らないと言う事である。
逆に言えば、其の決まりに従って生活する人間は、神の手に拠って守られると言う事であろう。
聖書には、「始めに言葉有りき、言葉は神なりき、神の名は72」とある。
其れは、単なる言葉の「音・ね」の事であろう。
しかし、今朝の72の数は、単なる1音の数ではなく、人間の生き方を72項目に亘って、書き込まなければ成らないと言う事である。
其れは、モーゼの10戒の7倍であり、釈迦の八正道の9倍で、聖徳太子の17条の憲法よりも4倍も数が多い事に成る。
今朝は、其の新しい社会体制に付いて、一つのヒントと成る映像が映されて来た。
其の社会体制とは、物品の遣り取りに、現在の商社の様な組織が無くなり、必要な物だけが、生産者に注文されて、生産される体制である。
そして、其の情報処理機関が、2%の手数料を貰う事に成っている事である。
其れは、生産者と購入者の両方から、4%の手数料が情報システムに入るだけで、物量が流通すると言う事である。
そう成れば、中間業者が必要では無くなり、倉庫も必要無く成るし、余分な物が生産されなく成るので、少エネルギー社会が実現する事に成る。
果たして、そんな世の中が、本当に実現するのかとの、疑いが起きるのは当然の事である。
しかし、現代社会の体制は、明治維新からのものであるので、未だ200年も経っていないし、更に2000年遡れば、国家と呼ばれる様な体制はなく、部族集落が存在しただけなのである。
其の事を考えれば、人間社会は、人間が組み立てた物であるから、人間が変えられる事は間違いないのである。
今朝は「稲佐の浜」の場面を思い出して居て、鹿児島の「笠沙の浜」の事を連想した。
出雲の「稲佐の浜」に上陸したのは兄の「饒速日命・にぎはやひのみこと」であるが、鹿児島の「笠沙の浜」に上陸したのは弟の「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」である。其の両方が、上陸したのは砂浜の海岸である。
古代では、港が無いので、船は砂浜の海岸に乗り上げたのであろう。
だから、「いなさ」の「サ」と、「かささ」の「サ」は砂の意味であろう。
出雲の、砂鉄が採取される砂は「真砂土・まさつち」と呼ぶので「さ」は砂の事であるのは間違いない。
其の様な言葉使いと言うか、言葉の背景を思い浮かべると、此処まで変化した、文化の中で使う言葉は、改めて検討し直す事が必要であろう。
し直すと言うか、今一度、言葉の世界を再認識する必要が、あると言う事である。
昨日は、4時ごろ長野県松本市から来た平田和文氏と、夕食の後、聖書に付いて長らく話しをした。
其の中で、19年11月18日の文章の中の、「貴方の歓びは 私のよろこび」のメッセージの言葉は、「聖書の中に有る」と平田氏が云うのである。
平田氏は、神父をして居た事があり、現在も、自社ビルの4階フロアの90坪を、教会として無料提供しているとの事である。
平田氏が、車の中から聖書を持って来て、詩篇119の処を開けると、其のページに「あなたのみ言葉は わが足のともしび、わが道の光です。」と書いて有る。
「道を照らすライト」http://green.ap.teacup.com/20060818/545.html
其れは、マルチン-ルターの御魂に触られた時のものである。
平田氏の話では、ドイツ国の言葉が、現在のドイツ語に統一されたのは、マルチン-ルターがギリシャ語の聖書をドイツ語に翻訳して、其の聖書が市民の中に広がったので、其のドイツ語の聖書を皆が勉強する事で、現在のドイツ語に統一されたとの事であった。
そして、ドイツ人が真面目なのも、其のマルチン-ルターの約した聖書に影響されての事であるらしい。
其の事から理解出来る事は、人間の意識は、どう言う規範の文献を読むかに拠って、社会風潮が変化すると言う事である。
其の理を考えれば、今朝の72項目の則・倫理の言葉は、人類に新しい風潮を興す基に成ると言う事であろう。
昨日は、「ルーアンの道」から始まって、驚き現象が有ったが、更に、昨日の文章を書き終えて、各ブログにアップした直後に、埼玉の高橋直厚氏から電話が掛かり、今朝は、非常に驚く奇跡的な事が起きたと云って来た。
其の一つは、夢に紙片が現われて、其の紙に「daughter」と書かれて居たと云う。私が、意味は何ですかと訊ねると、「娘」との意味であるとの事。
其れを聞いて、私の方が「エーッ」と声を上げてしまった。
何故なら、私には「妹」と告げられて来ていたのに、高橋直厚氏には娘と示されて来ているからである。
其れだと、私に対しての妹は、高橋直厚氏の娘に当るので、其の娘の兄の立場は、高橋直厚氏の霊の息子と成るからである。
其れは、昨日の私の霊の父親が、高橋直厚氏の霊である事になるのである。
高橋直厚氏の一番の驚きは、朝二階の寝室から、階下の居間へ降りる為に、階段に差し掛かると、カーテンの隙間から一条の太陽の光が、鉢植えのカーラの花に差し込んでいて、其の光景が余りにも美しいので、其の光景をカメラに収め様とカメラを持って来て、レンズをカーラの花に向けてシャッターを押したら、雷が落ちた様な音がして、差し込んでいた太陽の光が、変化したとの事である。
そして映した写真には、其のイナビカリの光が、三枚の写真に写り込んでいるとの事である。
其の高橋直厚氏の出来事と、私へのメッセージと、平田和文氏の来訪などを検討すると、昨日は、神界や聖霊の世界に、何か、大きな変化が起きている事は確かである。
其の変化を受けて、今朝の私へのメッセージが、届けられたのであろう。
詩篇の「あなたのみ言葉は わが足のともしび、わが道の光です。」の続きは、「わたしは あなたの正しいおきてを守ることを誓い、かつこれを実行しました。」である。
其の、言葉の意味する処を考えると、今朝のメッセージは、確かに聖書と繋がっている事に成る。
昨日は、私が数ヶ月前にテレビを観て居て、気に成った言葉「アポカリプト・ギリシャ語で・新たな治」を、事務所の白板に書いて有るのを平田氏が見て、「自適さんは どうして 此の言葉を 此処に書いているのか。」と、私に訊ねた。
私が、「テレビを観ていて気に成ったので、調べて見ようと想い、忘れない様に書いておいたのだ。」と答えると、平田氏は「アポカリプスが 聖書の黙示録の事で おおわれている の意味である。」との説明をしてくれた。
「アポカリプス」とは、@天啓。黙示。の意味。A補説the Apocalypse新約聖書のヨハネ黙示録。
新約聖書の最後の一書。95年ごろ、ローマの迫害下にある小アジアの諸教会のキリスト教徒に、激励と警告を与えるために書かれた文書。この世の終末と最後の審判、キリストの再臨と神の国の到来、信仰者の勝利など、預言的内容が象徴的表現で描かれている。ヨハネ黙示録。アポカリプス。
参考 ウィキペディア辞典 現在記載
是を参考にすると、昨日から、今朝に掛けてのメッセージは、確かに、聖書に関係する神霊の思頼・みたまのふゆが、動き出している事を示している。
此の侭、此の事が進んで行けば、9月15日頃までには、アポカリプトが明らかにされて来るのではないだろうか。
其の9月15日の満月の日には、綱引きが行われる。
其の綱は、「大山祇神・海神」の化身とされる物である。
其れを考えると、三年前「大山祇神の祠」から始まった「紀・トキの祭り」は、確かに、地球規模の祭り事であると言う事になる。
其れを考えると、釈迦は四国のコンピラ山からインドに使わされ、イエスは岩手の五葉山から派遣された、大山祇神の霊と成るのである。
其の事を考えると、天理教の教祖である「中山ミキ」に掛かった物部の神が、「世界から お帰りなさい。」とアポカリプト・啓示したのは、当然の成り行きであると言う事に成るだろう。
屋久島は、其の為のアポカリプトが始まる地であると、言う事に成るのであろう。
平成20年5月29日
礒邉自適
2008/5/28
ルーアンの道
20・5・28
今朝のメッセージのビジョンは、目蓋の裏に、自分の心臓の中の血液の流れが、心臓の鼓動を伴って映っていた。そして、其の血液の「流れ・循環」を見ていると「ルーアンの道」との言葉が告げられて来て、「妹」に関係が有る事が知らされて来た。
其れから、其の血液の循環は、植物と関係が有り、生命の源に繋がっている理・ことが映像で見せられた。
朝、事務所に出て来て早速PCで「ルーアン」を検索すると「Rouen・フランス北部、セーヌ川下流の河港都市。パリの外港。繊維などの工業が発達。古くはノルマンディー公国の首都。1431年ジャンヌ=ダルクが処刑された地。歴史的建造物が多い。」
ジャンヌ-ダルク【Jeanne d'Arc】[1412〜1431]フランスの愛国者。ドンレミ村の農家の娘。救国の神託を受けたと信じ、シャルル7世に上申していれられ、イギリス軍を破ってオルレアンの包囲を解いた。のち、イギリス軍に捕らえられ、ルーアンで異端として火刑に処せられたが、1920年にローマ教皇庁により聖女に列せられた。オルレアンの乙女。
と 載っている。 〜引用終了〜 ウィキペディア辞典
どうやら「妹」の言葉と繋いで考えると、私の意識の中にルーアンで処刑された「ジャンヌ-ダルク」と、兄妹関係が有る霊魂が住んで居る事になる。
(此処で 右手の中指に強いカモ(神の電気信号)が有る)
ジャンヌ-ダルクは、其の私の意識の中に住んでいる霊魂の、妹の役割を果たして居た様である。其れが、キリスト教の神の兄妹であるなら、兄とはイエスキリストの御魂ではないだろうか。
そうであれば、イエスの言葉に「此のワインは 私の血であり、此のパンは 私の肉である。」と有るので、今朝のビジョンが、心臓の中の血の循環であった事と繋がってくる。
其れに、植物が関係有る事が示されて来たのは、パンと同じ植物性の食べ物を意味しており、肉体が存在する事の原因を示唆して来ている事に成る。
何故、心臓の中の血の循環の流れが、映像として目蓋に映り込んで来たのであろうか。其れには、様々な事柄が含まれているのだろう。
其の血液の流れの映像は、私の心臓の鼓動と連動していたので、時間とも関係が有るのかもしれない。
時計の秒針の速度は、安静にして居る時の人間の心臓と同じ速度である。
其れは、時計の秒針の速度が、人間の心臓の速度に合わせて決められている事になる。そして、12×5倍の数字で60回を1分としてあるのである。其れは、12進法による数学の世界で決められ、地球の一回転も12×2=24時間として区切られ、太陽の周りを一回転するのも12ヶ月として分割されている。
其の心臓の「鼓動・動き・刻み」が太陽と関係有ると考えたのが、マヤの人達である。だから、マヤ文化では、時間の操縦士である神に、生きた人間の心臓が取り出されて、供物として捧げられていたのである。
そして、其の時間の操縦士の臍から生えた生命樹の木の梢には、時刻を告げる鶏が止まっており、其の両脇には太陽と蜥蜴がぶら下げられている。
(此処で 左手の小指に強力なカモ(神の電気信号)が有る)
蜥蜴は、冷血動物なので太陽に当る事が大好きであるし、古代から生命の象徴とされてもいる。
其れに、漢字の「心」は心臓の構造其の物の象形文字である。
更に、西洋でも、心臓の形がハートマークにされているので、元々の概念は同じであるのだろう。
其れは、恋している人に出会った時や、何かの出来事で興奮した時に、心臓の鼓動が高まるので、精神が心臓に宿ると考えられていたからであろう。
其れと、インドのアーユルベーダでは、三本の指を使って、相手の手首の脈から過去の情報をみな読み取り、治療に当るので、心臓から送られる血液の流れには、情報が含まれている事になる。
また、アメリカの近年の医療報告では、男性から提供された心臓移植を受けて、元気に成って退院した女性が、飲めなかったビールを、急にむしょうに飲みたく成って、飲み始め、更に、乗った事の無い路線の電車に乗ってしまう様に、成ったとの事である。
不思議に思い、心臓を提供して下さった男性の事を調べたら、其の人は生前ビールが大好きで、其の路線の電車で仕事場に通勤して居たとの事である。
其の出来事は、心臓の細胞に過去の情報が記憶されており、其の情報が脳に送られ、其の人間の行動に影響を与える事を実証しているのである。
確かに、其れに付いては、科学的な根拠も有る。
人間の肉体には、多くの仕組みが有るが、其の中でも大きい働きが、血液の循環を担っている心臓であり、酸素ガス・空気の交換を担っている肺臓である。心臓と肺臓が共同して、身体に酸素を運び、酸化の働きで脳の活動を支え、体温を生産する働きを行っているのである。
・・・血液中のヘモグロビン【hemoglobin】は、脊椎動物の赤血球中に含まれる、たんぱく質のグロビンと鉄を含む色素ヘムとが結合した色素たんぱく質。呼吸器官から入った酸素と結合してオキシヘモグロビンとなり、体内の各組織に運ぶ働きをする。一酸化炭素とは酸素以上に結合しやすい。血色素(けっしきそ)。 ヤーフ辞典で検索
そして、脳が言葉を使って物ごとを考える時には、大量の酸素を必要とするので、血圧が上がって脳に大量の血液が送られるのである。
其れは、人間が、自分の顕在意識で、盛んに思索を繰り返す時に、起きる反応である。
だから、其の脳の活動を抑える為に、頭を良く使う小説家や、新聞記者等は煙草を吸って、肺に炭酸ガスを送って酸欠にし、脳に送られる酸素を減らして、脳活動を一次的に抑えるのである。
其れが、「一服する」の意味と成っているのである。
しかし、神の世界に通じる為の瞑想や祷りの時は、高圧電気が必要なので、酸素の多い自然の中で体内電気を高め、脳のフル活動を必要とする。
だから、煙草を吸って肺が汚れている人は、悟る事・宇宙と繋がる事は出来ないのである。
イエス-キリストや、ジャンヌ-ダルクの生きた時代に、もし煙草が有って、彼等も煙草を好んで吸って居れば、神に通じて、奇跡的な事を起す事は出来なかったであろう。
今朝のメッセージは、其れ等の事よりも、もっと大事な事が含まれている。
其れは、イエスの言葉の「ワインは私の血で パンは私の肉である」が示す、本来の意味である。
其れは、単にイエスの身体の事を意味しているのではなく、其の血とは神の血であり、パンは神の肉体であるとの意味である。
其れは、神の存在が、神社や教会の建物に在ると言うのではなく、日々の食卓の上に在ると言う理・ことでもあるのだ。
其れは、イエスが「一緒に食事をしなさい」と謂っている事と関係が有り、日本の「新嘗祭・にいなめさい」や、神社での「直合・なおらい」に通じる世界であろう。
其れは、神に通じる世界には、食べ物が一番大事であり、其の食べ物の世界を疎かにする者は、神の世界には近付けないとの理・ことである。
其れは、現在テレビ番組で取り上げられているグルメの世界や、大喰らいの世界とは、正反対の処に有り、仏教の訓えである精進や、マクロビオティックの世界である。
神の世界に通じる為には、人間の身体の波動・振動数を、神のバイブレーションの周波数まで高めなければ成らないのである。
其の為には、身体から不純物を取り除き、生体電気を高め、脳に送られる酸素量を多くしなければ成らないのである。
其れに拠り、人間の身体の波動が高まり、額の奥に有る松果体の珪素・シリコンの周波数にスイッチが入れば、イエス-キリストやジャンヌ-ダルクとも、時間の壁を越えて、兄弟姉妹に成れると言う事である。
其の為には、仲間が同じ食卓を囲む必要が有るのだろう。
其れが、日本語の「同じ釜の飯を食う」との言葉の意味であり、イエスの謂う「一緒に食事をしなさい」との訓えを実行する事である。
其の事を実現する為に、屋久島に聖なる道場を建設する必要が有るのだろう。其の事も、来月7・8・9・10日の集いで現実化するのであろう。
若しかしたら、其の道場が建設される土地への道が「ルーアンの道」と言う事なのかもしれない。
其の村は、釈迦牟尼佛が理想とした村の完成であり、祇園精舎の施設と成るのであろう。其処には、人間の身体を癒す食べ物が植えられ、人々の癒やしが行われるのである。
其処では、108の煩悩消去の鐘の音も必要ないのではないだろうか。
しかし、私には24年前、石塚山に祷りの為に登る時に「アンジェルスの鐘を背負え」と告げられているので、ミレーの晩鐘の祷りの鐘は必要なのかもしれない。そして、其の祷りの鐘の音は、ジャンヌ-ダルクの霊魂の鎮魂とも成るのではないだろうか。
「死の川を流れる」http://green.ap.teacup.com/20060818/730.html
いま書き終えた処で、NPO法人「緑の風」の事務局長である、杉浦英世氏より電話が掛かり、昨日の役場での様子を話した後で、今朝の私のメッセージの事を話していると、其の土地へ登って行く交差点の反対側の、海に通じる道路は、日本にキリスト教を布教に来たイタリア人のシドッチ神父が上陸した所に下る道で、突き当たりにはシドッチの上陸記念碑とカトリック教会が建てられていることがわかったのである。
「シドッチ教会」http://wave.ap.teacup.com/894019/799.html
ジョバンニ・バッティスタ・シドッチ(Giovanni Battista Sidotti 11668年-1714年11月27日)はイタリア人のカトリック司祭。江戸時代中期の日本(屋久島)へ潜入して捕らえられ、その死まで江戸で幽閉された。時の幕政の実力者、新井白石はシドッチとの対話を通して『西洋紀聞』などを著した。
「参考 シドッチ」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%89%E3%83%83%E3%83%81
其れに、たった今電話が掛かり、屋久島の楠川出身で、日本100名山を最速で巡った平田和文氏が、長野県から屋久島にツアーガイドの仕事で来て、今からフェリーを下りて事務所に訪ねて来ると連絡が有った。
彼は、キリスト教の神父をして居た人である。此の三つの偶然には、流石の私もビックリである。
是は、確かに、イエス-キリストの霊が動き出したのだと考えても良いだろう。
私が、イエスの霊魂と初めて遭遇したのは、1984年(s59)12月13日の出来事で、場所は岩手県の五葉山であり、其の五葉山はピラミッド研究で有名な酒井勝軍が、天界から宝剣を授かった山である。
其のイエスの霊から「私の訓えを 誰も護っていない。私の肉体を 十字架から降ろしてくれ。」と頼まれてから、既に24年が経過している。
「キリストの手足」http://star.ap.teacup.com/170606/501.html
「振り出しに戻る」http://green.ap.teacup.com/20060818/587.html
其れが、此処に来て、釈迦の祇園精舎や、アンジェルスの鐘の意味など、全部揃って来たのである。是も、大山祇神の「紀・トキの祭り」に絡んでの事であろう。
何だか、私にもようやくエンジンが掛かりそうである。
是で、重く成っていた尻が上がりそうだ。
平成20年5月28日
礒邉自適
2008/5/27
停止した赤い二連風車
20・5・27
昨夜は、宿舎に帰って、シャワーを浴びてから、ベッドに入って目を閉じると、男女の子供達の、元気な話し声が聞こえて来た。
そして、奈良の事が頭に浮かんで来て、日本建築の古民家が現れた。
そして、更に「108」の数字が現れ「全勝」との文字が浮かんだ。
私は、其の意味を考えている内に、眠りに入った。
そして、今朝のビジョンには、赤い二連の風車が、止まっている映像が現れた。
今朝のメッセージは、経済の事を意味しているのではないだろうか。
「経済」の言葉は、「経世済民・けいせいさいみん」の略で、其の意味は「世を經(おさ)め、民を濟(すく)う」である。
何故、私が其の様に想うかと言うと、風車は機械で回して動かす物ではなく、風・空気の流れで動く物だからである。
だから、風車が止まると言う事は、風の流れが無いと言う事を意味しているのである。そして、其の風車が、赤い色の二連で有ったのは、二つとも危険な状態にあるとの事ではないだろうか。
其れに、其の風車が、水の循環を司っている物であれば、風車が止まってしまえば、水の流れも止まり、水が腐れて、濁ってしまう事に成るのである。
其の、風車が示す暗示を、現在の社会経済に当て嵌めれば、石油が止まった時に、全ての風車が停止してしまう事になる。
そんな社会状況に陥れば、元気な子供達の、明るい話し声は、聞こえなく成るとの理・ことではないだろうか。
そして、奈良の事が気に成ったのは、「奈良・大和」が、日本の政治の始まりの地である事を、示唆しているのではないだろうか。
日本の国造りは、出雲で「大国主命」の働きに拠って、始まった事に成っているが、政治の始まりは「神武天皇」に拠り、大和で始まった事に成っている。
其の事を考えると、昨夜から今朝に掛けてのメッセージは、新しい政(まつりごと)を、始めろとの事ではないだろうか。
そして、其れを始めれば、紀元前のアシャカ王時代の様に、「ナーガ・大山祇神・大山の巳」に感謝する、豊な文明が齎されるとの事ではないだろうか。
奈良の政(まつりごと)の中心は、三輪山近辺である。其の、三輪山(三室山)の麓に有る「三輪神社」の祭神は、三輪山に住む蛇神である。
其の蛇神こそ、人間社会に、安定と平和を齎す神として、存在が伝えられている。
其の蛇神の化身が、「大物主神」であり「大己貴・おおなむち」である。
だから、今朝のメッセージは、早く「大己貴」の働きが現れなければ、風車が停止してしまう理・ことを、示して来ているのではないだろうか。
今朝の風車が、二連であったのは、動かさなければ成らない物ごとが、一つではなく、二つ有るとの事だろう。
其れは、政(まつりごと)とは、何かの両輪である理を示している。
其の二輪とは、経済と政治の「政経」なのか、経済界と精神界(宗教)なのか、其れとも、政治と教育の事なのかが、明確ではない。
一応、現代では「政教分離」との言葉が有るので、「政治」と「宗教」の二本立ての事に成るのかもしれない。だからこそ、古代では、其れ等の事を、一切合切纏めて「政(まつりごと)」と呼んでいたのだろう。
私は25年前、無庵師匠に捜し出された時に、「此の侭の状態で 人間のカルマ・業が増幅して行けば 必ず滅びが来る。しかし 駅に佇んで 子供達を観て居ると 皆元気に 此の世を生きている。」「子供達は 未来を造る為に 此の世に遣って来ているのだから 若し未来が無いのであれば 子供達がこんなに 此の世で楽しく 元気に振る舞っているはずがない。」「だから 神は 誰かを立てて 方向転換を図るはずである。其れが 自適さんの役目だから 今の仕事を止めて 家族とも別れてくれ。」と、云われたのである。
昨夜、寝る前に、聞こえて来た子供達の元気な話し声は、天子の囁きの様な響きが有った。其の事を考えると、既に、天界では準備が出来たとの事ではないだろうか。
そして、其の事を知らせる為に、今朝のビジョンが送られて来たのかもしれない。
しかし、其れには「大己貴命」が、腰を上げなければ成らないと言う事であろう。
其の役割が、誰であるのかは、私にも明確ではないが、こうして毎日、神の情報を受け取りながら文字化して行けば、次第に、事は明らかに成って来るのであろう。
其れと、日本建築の古民家が映し出されて来たのは、日本の伝統建築が、人間の生活にとって、非常に優れた物であり、世界に誇れる文化である事を、示唆して来ているのではないだろうか。
其れと「108」の数は、大晦日に成らされる、除夜の鐘の音と同じ数であるので、其れに「全勝」と言う事は、私は、自分のカルマ・業に、全て打ち勝ったとの事かもしれない。
(今ここで右手の小指にカモ(神の電気信号)が来る)
今日は、10時半からNPO法人「緑の風」の理事長と三名で、屋久島町役場に出向かなければ成らない。
私は、「緑の風」の命名をしただけなのだが、ドンドンと、其の動きの中に巻き込まれつつある。其れは、私個人の考えや、作為を超えた処での動きである。
其れも、風車を回す、風の役割を果たしている事に成るのであろうか。
たった今、気付いたのだが、「緑の風」との名を付けたのも、私の考えではなく、フト頭に浮かんだ言葉である。
其れは、既に、其の時に、新しい、風車を回す風が、私の潜在意識の中で回り始めていたからなのであろうか。
平成20年5月27日
礒邉自適
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