1984年6月4日(旧5月5日)神と交わした約束が果たされる事が 今朝告げられました。
18年8月18日未明
事象(とき)の切り替え
今朝は5時15分に是までの時間(とき)が閉じられ、5時22分に新しい時間(とき)が開いた。
其れは、旧約聖書に「神は6日間で此の世界を創造し 7日目に休んだ」と記されている事と関係が有り、是までの「事象・時空・とき」が閉じられて、新しい事象が始まる理・ことが知らされて来たモノの様である。
其の時間の「扉・まく」は、カメラのシャッターの様な物であり、其れは人間の瞼の仕組みと同じで、閉じている時は「月読界」で、開くと「天照界」であると言う事である。2016年6月6日
2008/6/11
一陣の風
20・6・11
本日6月11日の日付は、3年前に大山祇神の祠の百周年が、行なわれた日である。
今日は久し振りに、客が誰もいない日で、私の心が、他人の事に振り回される事が無い一日である。
そしてPC前に座ると、「一陣の風」との言葉が頭に浮かんで来た。
其の言葉で、私に頭に浮かんだ事は、今回の屋久島での催しの事である。
予定されていた、矢筈の八幡様の儀式は、悪天候で飛行機が到着しなかった為に中止に成った。
其の原因が、何であるかのヒントとして「一陣の風」と告げて来たのではないだろうか。
「一陣の風」とは、天気予報とは関係なく、或る物事が行なわれている時に、急に、風が吹き通る出来事を、比喩して使われる言葉である。
其れは、通常の天気模様の所為ではなく、或る働きが、急に、何かの力の作用で、起きる事を意味している。
今回の儀式が、何故、中止されたのかの原因を考えると、私を含め、其の儀式に参加する誰かの、仕事か行為に、神の意思に添わない事柄が、有ったからなのかもしれない。
私自身の気持ちとしては、6月8日が、旧暦の5月5日に当たり、其の日に「御岳さん」に出会って、未来への糸口が開いたので、24年目の記念すべき日はハッピーエンドとして、認識される事に成った。
其の出来事が有ったので、私には6月9日の儀式の中止は、其れ程気に成る事ではない。
其れよりも、今朝解けて来た謎は、6月7日に現われた「11月1日」の日付である。
其れは、5年半前の2003年11月1日の事であり、其の日は、安房地区に有る「粟穂神社」の秋の大祭の日であった。
其の日の朝、自宅前の安房川に、美しい虹が両岸に掛かったのである。
私は、其の虹が余りに神秘的だったので、写真に撮ってある。
そして、夕方5時から始まった神社の大祭で、「大牟田宮司さん」の手伝いに付いて来た女性と、面識を得た。
其の女性は、11月22日生まれで、其の11月22日は天皇家や全国の神社で、「新嘗祭」が行なわれる日である。
私が、其の女性から、携帯電話に連絡を貰って訪ねて行くと、其の女性は、屋久島の矢筈岬に在る「八幡神社」の、社の裏に有るトンネルの中に、何日もお籠もりをして居て、其の日が行の終わりの日であった。
其の女性は、矢筈八幡神社の拝殿の中で、キャンプ用のコンロでお茶を沸かしてくれたので、其れを飲みながら、しばらく二人で話した。
其の女性は、屋久島に来たのは二回目で、前回の来島に続き、其の時も山中に籠もっての修行が、目的だとの事であった。
其の女性が、「島に来たら 直ぐに山に入るので 麓の事は何も知らない。」と云うので、私は、島を一周しながら「東・西・南・北」の聖地に案内をした。
其の日は11月16日で、真南の朱雀の方角の聖地で、磐座・いわくらに玉石を奉納して祈りを捧げた。
そして、明くる年の11月26日の未明に「女宮司に全て任せろ」とのメッセージが有り、次の日の午後9時15分に、私の携帯に其の女性から「今 宮之浦岳から下山途中だが 懐中電灯の電池が切れそうなので 助けに来てくれ。」と連絡が有り、私は直ぐに、車で山に向かえに行き、其の女性を車に乗せて、宮之浦の友人が待つ宿に送って行った。
「可能性」http://star.ap.teacup.com/170606/651.html
其の女性に、車の中で「貴方と 女宮司に関係が有るか」と尋ねると、「自分は 宮司の資格を取りたいと想っている。」との事であった。
其れから4年が経過し、其の女性は宮司の資格を既に取得している。
今回は、其の女性とセッションをすると、其の女性の背景に、ホームセンターの様に、沢山の道具・工具が壁に掛けられている映像が現われた。
其れが、何の事であるのかが解らなかったのだが、今朝のビジョンで、其れは「千手観音菩薩」が千の手に持つ、其々の道具である事が、理解されて来た。
其れが解れば、4年前に「女宮司に全て任せろ」と告げられて来た言葉は、「千手観音菩薩に全て任せろ」との意味に成って来る。
今回は、私達の儀式は中止に成ったのだが、其の女宮司が三名で、私達の代わりに儀式を執り行ってくれたのである。
其れに、今回判ったのは、其の女性宮司は、昨年から、6月11日に屋久島での儀式を行っているとの事である。
今日も其の為に、氏子が数名到着する事に成っているとのことである。
私は、私に起きた4311体の「神霊の思頼(みたまのふゆ)」が何時、終わるのかと想って居たが、どうやら12年×2周の24年間で一応の鎮魂が済み、是から新しい子年として、また12年のサイクルが回り始めるのであろう。
其れは、11月22日に行なわれる「新嘗祭・にいなめさい」の為の「鎮魂の儀」の持つ意味が、是から、本格的に実行され、真実の「御陵威・みいつ」が始まるとの事ではないだろうか。
其れには、「千手観音菩薩」の働きが大事であるとの事だろう。
そして、千手観音菩薩が手にする道具こそ、新嘗祭の儀式の元である、奈良の石上物部神社に伝わる「十種の神宝・とくさのかんだから」の事ではないだろうか。
其の「とくさ」の「くさぐさ・品々」が、其の道具に当るのではないだろうか。
そうであれば、「女宮司に全てを任せる」との意味は、私が直接、其々の人間が手にする道具を、一々吟味する必要はなく、千手観音菩薩の働きに任していれば、良いと言う事になる。
其れで、私の役割が勤まるのなら、こんな楽な事はない。
私は是から、人々の行動に、目くじらを立てる必要はないのである。
そして私自身も、自分の持ち物と行動に、責任を持っていれば、良いと言う事に成る。
ようやく「神霊の思頼・みたまのふゆ」が解決し、私の手は、私に必要な物だけを、手にすれば良い日を向かえたのではないだろうか。
そして、是から起きて来る事件は「一陣の風」に過ぎないと、達観して居れば良いのだろう。
其れが、「平常心」の言葉の意味である。
平成20年6月11日
礒邉自適
2008/6/10
七層のホテル
20・6・10
本日6月10日は「時の記念日」で、「日月神示」の岡本天明氏に、千葉県成田市台方の麻賀多神社の境内に有る、「天之日津久神社」の祠で、昭和19年に神のメッセージが降り始めた日でもある。
今朝のメッセージは、昨夕のエネルギーの降臨に、関係が有るのかどうかは解らないが、七層の階層に関係が有る事が示されて来た。
其の第一は、昨夜宿泊した「屋久島JRホテル」が六角形の造りで、屋上まで数えると七層に成っており、其の建物は、中心部分がロビーで吹き抜けに成っているのである。
其れは、大山祇神の「巳・へび」が七回トグロを巻いている事と関係が有り、昨日の霊的エネルギーのシャワーは、其の階層を使って下りて来たモノらしい。
今朝、其の事が知らされ、其れが、山岳やピラミッドの形に絡み着く、「大山祇神・おおやまつみかみ」の御神体である事が示された。
そして、其の七層の物の階層の上に、神の意識が頭として七つに別れているのである。
其の、七段のトグロの階層の上に、意識として存在するのが鏡であり、仏陀なのである。
だから、仏陀・ブッダとは、「蜥蜴・カガミ」として「蛇・エラブ」の意識に目覚めた者の意味である。
其れは、エジプト文化のピラミッドや、ツタンカーメンの仮面の額にコブラの姿で描かれ、イシス女神の額の上には、鏡として着けられている。
其の文化は、インドのナーガ信仰や、南米の古代文化の「ククルカーン」や「ケツァルコアトル」にも共通している文化である。
特に、南米の神「テスカトリポカ」は、「ナワトル(縄取る)語」で鏡の意味である。
今朝のメッセージは、世界の神の概念は、皆七層の「階層・螺旋・トグロ」に源を発している理が知らされた。
其れは、人間の肉体も、其の構造が、基本的な処に組み込まれていると言うことである。
其れは、人体の七つのチャクラとして、一般的に知られている。
其れが、キリスト教では七つの燭台とされ、石上神宮では七枝の剣として神宝とされている。
私は、此の世界に入った時に、近所の2〜3歳の子供達に誘われて、裏山に在る「粟穂神社」の境内に連れて行かれ、其処の水道の蛇口から、水を手に掬って七回数を数えて、飲む儀式をさせられた。
今に成って考えれば、其の、数を七回数えて水を飲む仕種は、非常に大事な意味を持っていた事に成る。
世界中で、雨や、雷や、水を管理する神が、日本では「大山祇神・山の巳」の名で呼ばれ、海原にいる時は「海神・わだつみ・海の巳」と呼ばれて、人間の生活を見守って来たのである。
其の「巳神」が、七つの頭をもたげて、新たな動きを始めているのである。
そして、新しき次元を創造するのである。其れが、私に告げられて来た「紀・トキの祭り」の意味であろう。
今年も、其の祭りの日が19日に行われる。
今日は6月10日で、時の記念日である。
時の記念日は、琵琶湖の湖畔に都を築いて、667年に政(まつりごと)を始めた天智天皇が、日本で始めて濾刻時計を開発し、国民に時刻を知らせた事に由来している。
其の天智天皇をお祭りする、近江神宮から見下ろす琵琶湖には、「弁財天・サラスヴァティー」を祭る竹武島が浮かんでいる。
今日のメッセージは、其の竹武島の弁財天の動きも、重なっているのかもしれない。
「私達が全員持っているモノ」
20・6・10
私達が みな 持っているモノ
其れは 愛したいと言う気持ち
何も 其れは 他から 買って来る 必要はなく
皆が自分の内に 此の世に 生まれて来た時より 持っているモノ
其れが 外に現せないのが 霊宿・ひとの悲しみ
イエスは謂った 「愛される者に成るより 愛する者に成りなさいと」
『其れは 私が そう謂ったのではなく
神に 私が愛された事に由って 学んだモノ』
新しい弁財天へ
時の記念日
平成20年6月10日
礒邉自適
2008/6/9
新しき弁財天
20・6・9
今日は、久し振りに不思議な現象が起きた。
其れは、本日、知人が案内して、屋久島に着いた人達の中に、女性歌手が一人居て、其の歌手が、宿泊先である屋久島JRホテルのロビーで、食事の前に、同行した方々に歌を数曲披露する事に成った。
私も、其の方達の横に並べられたソファーに座って、其の女性歌手の歌を聴かせて貰った。
其の女性歌手は、5曲程歌った後、最後にアメージング-ストーリーを歌った。私が、其の歌を聴いて居ると、突然に、頭上から精霊が降って来たかの様に、霊的な波動をシャワーの様に受けた。
其れは、1996年9月11日に、東京の「品川プリンスホテル」に宿泊する為に、自分の部屋に入り、荷物を置いてベッドに腰を掛けると、強く顎が引かれて、首が其方に回るので、其の動きに逆らうのを止めて、顔が向く方に意識を向けた。
其の視線の先には、よくホテルの部屋で見受けられる、一冊の聖書が置かれていた。
私は、何故、其の聖書に意識が引っ張られるかと意い、其の聖書を開いて、其の開いた頁の文章を読んだ。其れは、次の文章である。
そのとき、イエスは聖霊によって喜び溢れて言われた。「天地の主なる父よ、あなたをほめたたえます。これらの事を智恵ある者や賢い者達に隠して、幼子に現してくださいました。父よこれはまことにみこころにかなった事でした。」
「すべての事は、父からわたしに任されています。そして、子がだれであるかは父のほか知っているものはありません。また父がだれであるかは、子と、父を現そうとして子が選んだ者のほか、だれも知っている者はいません。」
それからイエスは、弟子達の方に振り向いてひそかに言われた「あなたがたが見て居ることを見る目はさいわいである。
ルカによる福音書、第10章21.22・23節
そして、此の文章を読み終えるや否や、私は、後頭部から背筋に掛けて、何かのエネルギーが強く流れ、全身が、強い霊気に満たされ身震いをしたのである。其れは、決して嫌な感じの現象ではなく、歓喜に満たされる様な感じのモノ・現象であった。
其の時感じた感覚の現象と、今日の現象は同じ様なモノである。
其れは、イエス-キリストに関係が有り、先日の「ルーアンの道(殉教者の道)」のメッセージにも、関係が有るのだろう。
其の様に考えると、私の是からの活動には、イエス-キリストの行為が関係有り、イエスが途中で頓挫した世界を、私が引き継ぐ必要が有るとの事なのかもしれない。
其れに、其の女性歌手は品川生まれで、品川は多くの殉教者を出した土地であるとの事でもあった。
私は、キリスト教の信者でもないし、其れほど、聖書に付いて研究している分けでもない。
しかし、私の母親はキリスト教関係の学校を出ているし、私の師の尊父はキリスト教の神父であったとの事だから、満更、キリスト教と無縁と言う事でもないのである。
其れに、私には1984年の12月13日に、岩手県の五葉山にて、イエス-キリストの霊魂のコンタクトが有り、メッセージも受けている。
だから、イエス-キリストの霊魂が、本格的に動き出す事に付いては、ある程度の理解は出来るのである。
「キリストの手足」http://star.ap.teacup.com/170606/501.html
昨日から、今朝に掛けて、今回初めて、屋久島を訪れた「御岳さん」と色々話して居て、是から始まる出来事の方向も、少しは見えて来た様な気がする。
其れは、真実を世界に拡げて、人間世界に、新しい価値観を齎す事である。
其の事に成功しなければ、霊界のイエスも浮かばれないし、殉教者達の鎮魂もできないと言う事である。
平成20年6月9日
礒邉自適
2008/6/8
左肩の烏賊墨
20・6・8
今日は、知り合いの方達数名と、屋久島の「戌亥・いぬい」の方角に在る「民宿 やくの子の家」に宿泊して、朝を向かえた。
本日6月8日は、旧暦の5月5日であり、其の旧暦5月5日は、私が此の神の世界に入って、丸24年が経過する記念日でもある。
其の、記念日となる今朝のメッセージは、「神 三宅 様」の様な言葉の「三宅」に、横に二本の線が引かれ、消される意味が示されていた。
其の文字は、「みやけ」と読む事も示された。
次の映像は、私が、新しく出来た共同浴場に出掛け、浴槽の横でシャワーを浴びると、左肩に着いていた、真っ黒の烏賊墨が周囲に飛び散って、新しい浴槽に溜められているお湯の中にも入ってしまい、其の浴槽内は、烏賊墨で汚染されてしまった。
私は、慌ててシャワーを止めようとしたら、今度は、シャワーのホースが狭い所に引っ掛かってしまって外れないので、私が、根元の所に有るホースを外すと、其れはシャワーのホースではなく、ガスのホースであり、今度はガスが漏れ始めて、ガスの元栓の有り所が解らないで、とても困っている処で、今朝の映像は終わった。
今朝の映像で解り易いのは、左肩のイカ墨である。
左肩は、精神的な世界を意味し、其処に付着している黒いイカ墨は、精神的な人間の霊魂を表しているのだと想われる。
其の黒いイカ墨が、新しい浴槽に持ち込まれれば、折角用意されたお湯が汚染されて、使い物に成らなくなるとの理・ことであろう。
其れは、例え、精神的な世界で働いた人間の霊魂であっても、新しい浴槽に連れ込んではならないと言う理・ことである。
其れは、新しい世界には、過去の人間の価値観が、必要ない理・ことを意味している。
其の中には、日本の天皇家の御所の存在や、カトリックのバチカンや、チベットのポタラ宮殿も、必要無いとの事なのかもしれない。
其れ等は、例え、伝統的な価値観に基づく物であっても、最早、未来社会には役に立たないと言う事である。
何故かと言えば、其れ等は「イエス」や「釈迦」の意にさえも、違反しているモノだからである。
其の事が、24年目の日に示されて来たと言う事は、是以上私は、過去の霊魂を背負って居ては、いけないとの意味ではないだろうか。
そうであれば、未だ、私の左肩に依り憑いている霊魂を、振るい落とさなければ成らないと言う事に成る。
中国の老子の言葉には、「精神的な事柄を 他人に話してはならない。」と有り、「道から外れてしまえば 神霊も 力を発揮出来ない。」とも有る。
其の老子の言葉を借りれば、私は、是以上、過去の霊魂の相手をして居ては、新しい浴槽の水まで、過去の情報にて汚染してしまう事に成り、未来世界を新しい物とする事が、出来ないと言うことの様である。
そして、そう成ってから、慌てて事に挑んでしまうと、益々被害が拡大して、取り返しが出来なく成る理・ことを、示唆して来ているのではないだろうか。
其れに、「三宅・みやけ」とは「宮家」の事を引っ掛けているのかもしれない。其れは、霊界の事柄だけではなく、此の現実世界でも、精神的な立場に置かれている宮家が、未来社会のシステム構築の、障害に成るとの意味なのかもしれないのである。
三宅の「宅」を漢語林で調べると、「人が 身をのびやかにして 寄せくつろぐ家屋の意味を表す。」と、載っている。
其の「宅」に横線が入れられ、消される意味が示されていたと言う事は、今存在する社会には「人が 身をのびやかにして 寄せくつろぐ家屋。」が、無く成るとの意味なのかもしれない。
そうであれば、否が応でも、新しい世界に進む必要が、あると言う事になる。そして、其の為には、新しい浴場で、裸に成って、身を清めなければ成らないのだ。
そして、其の為には、過去の霊魂を、其の浴場に連れ込んでは、成らないと言う事である。
其の事を能く考えると、私が是まで取り組んで来た、24年間の「神霊の思頼(みたまのふゆ)」現象は、一体何だったのだろうと想えて来る。
しかし、私の24年間の努力が有ったからこそ、今朝の状況が生じたのかもしれない。
思い起こして見れば、私が此の世界に入った切掛けは、核戦争に因る第三次世界大戦で、人類が滅びる映像を見せられたからである。
其の神のプログラムは、私が、此の事を引き受けてからは、一度も映像には現われては来ない。
其れは、神の計画が、一応順調に進んでいるからであろう。
しかし、今朝見せられた映像は、決して此の侭、人間社会が順調には継続されないと言う理を示している。
人類は、是から、大きな水の禊ぎを行なう必要がある理・ことが、示されて来たのだ。
其れは、24年間、神の世界を生きて来た此の私でさえ、古い霊魂を振り落とす必要が有ると言う事でもある。
其れが、どう言う意味を持つのかは、是からジックリと、考えて見なければ成らないだろう。
今日は 東京の秋葉原で大量殺人事件が有り、其の犯人のブログ書き込みには「時間です」との言葉が有った。
其れは、両方の窓口が開いた事を意味している。
いよいよ 始まりと言う事ではないだろうか。
平成20年6月8日
礒邉自適