1984年6月4日(旧5月5日)神と交わした約束が果たされる事が 今朝告げられました。
18年8月18日未明
事象(とき)の切り替え
今朝は5時15分に是までの時間(とき)が閉じられ、5時22分に新しい時間(とき)が開いた。
其れは、旧約聖書に「神は6日間で此の世界を創造し 7日目に休んだ」と記されている事と関係が有り、是までの「事象・時空・とき」が閉じられて、新しい事象が始まる理・ことが知らされて来たモノの様である。
其の時間の「扉・まく」は、カメラのシャッターの様な物であり、其れは人間の瞼の仕組みと同じで、閉じている時は「月読界」で、開くと「天照界」であると言う事である。2016年6月6日
2015/5/31
完璧な色は黒
27・5・31
本日で5月・皐月も終り、明日から6月である。
今朝のメッセージの映像は、昨日の映像で、四次元世界の「文章・情報」が完成した事と関係があるのか、未明の映像では、暗黒宇宙の様子が現れて来た。
其れは、光に関する物体が何も無い世界であり、言葉や文字を引き出そうと求めても、何も出て来ない世界である。
だが、宇宙意識と言うか、天意が、何も無い譯・わけではなく、無言での意識の存在が在り、其れは、真の闇の中に濃紺のエナジーが籠っている様な状態で、永遠に変わらない恒久意識とでも、謂える存在である。
其れは、仏教で言う処の「久遠元初・くおんがんじょ」でもあるのかも知れない。
そして、其の真っ黒の世界は、全ての色を混ぜ合わせると「黒色」に成る事と同じく、全ての色を含んでいるモノ・世界であり、其の世界の一部が破けて、現在我々が存在する宇宙が、138億年前に生まれて来た物の様である。
其れは、仏教の般若心経の一節である「色即是空・空即是色」の言葉が其れに当たり、「空」とは真っ白のイメージで「何も無い」と言うのではなく、真っ黒の世界であり、光エネルギーで生じた物質世界が、其の闇の世界に全て溶け消えて、元還りをすると言うか、何も無く成ると言う事である。
そして、其の世界は「陰・雌」の意識体・存在であり、私の意識は、其の存在と均衡している状態であったので、私が1987年(S62)6月29日(旧暦6月4 日)に、「天上を娶り 天下を治らす」との詩を書いた時の世界・イメージが、言葉ではなく現実として起きた物であり、其れは「陰陽・雌雄」の「結び・結婚式・対応」の現場が映し出されて来たモノ・現象ではないだろうか。
そして其れは、陰陽の概念が反対の世界であり、人間として存在する私の存在が、「陰・イン・かげ」であり、全てを含んでいる黒い暗黒世界の方が「陽・ヨウ・本体・実体・もと」であると言う理・ことである。
そして、其の世界は、昨日のメッセージの映像に映し出されて来た、三つ葉葵の形態が、其の三方に拡がった葉が古く成り朽ちて、消えて行く事であり、次に其の三つ葉が吸収して、根本に送り込んだエネルギーが、新しい芽として、再び此の三次元世界に、現出するとの理・ことではないだろうか。
其の様に考えると、確かに昨日の「オールド・ブラッシュ、庚申・こうしん」との言葉と、「政・まつりごと」に関する世界は、古い事柄がブラッシングされて、新しい芽が吹く土俵が、整った事に成るのではないだろうか。
今朝は、明け方に、此れまでと同じ様に、三次元世界に対応する事柄が映し出されて来た。
其れは、其の完璧な「黒・陽」の世界の一部が裂けて・破けて生まれて来た、「光の世界・物質」の物事の「次元・事象」の世界である。
そして、其の世界には言葉や文字が存在し、最後にキリスト教の神父から、音声付きの短い手紙が届いた。
其れは、「私は 東京に出て行く」との内容であり、手紙の主は「ジョン・ベン」と成っていた。
私は、其の手紙の内容から、其れは、私を31年前に此の神(はたらき)の世界に送り込んだ「土肥無庵」の悪戯と言うか、ユーモアであると思った。
何故なら、其の手紙の筆や文体が、土肥無庵の物に似ており、「ジョン・ベン」とは、日本語の「便所」を捩(もじ)った物であるからである。
そして、其の悪戯の根拠は、土肥無庵が生前に「此の世に存在する あらゆる絵画や作品は 人間の脳の排泄物である。」と、謂っていたからである。
だから、「私は 東京に出て行く」とは、逆の謂い方であり、「東京は 便所であるから 出て行くな。」「塵(人間が創造した物)の世界は 崩壊する。」との意味を伝えて来ているのであろう。
其の、土肥無庵の「悪戯・ユーモア・余裕」の状況からも、天神(てんのはたらき)の世界は、完成した事に成り、私は是から、のんびりと生きられると言う事なのではないだろうか。
今朝の、其の土肥無庵の様子からすると、最後の答え・真理を求めていた、故土肥無庵は、彼の世・神霊界にて、其の答えを掴んだ事になり、逆の立場で私に応答して来たのであろう。
此れだけも、此の世と彼の世の仕組みの本質の一端が、理解できると言うものである。
2011/5/24・・私を探し出して此の神の世界に送り込んだ無庵師匠は、私に「人間が書く文章や 芸術作品は 人間の脳の排泄物である」と謂っていた。其れは、人間の生活排水や、工場から吐き出される化学物質だけではなく、人間が頭脳で生み出す文化も、排泄物の一種である事を意味している。
其れ等の排泄物を、正しく浄化する事こそが、日本の伝統文化である禊ぎ祓いの価値観なのではないだろうか。・・・
「排泄物の処理」http://green.ap.teacup.com/20060818/1938.html
2010/5/29・・私は、此の26年間、自分の意識を、宇宙の真実に向けて生きて来た。其の答えが、今朝示されて来たのかも知れない。
其れは、日々の、日常の暮らし中で起きて来る出来事を、毎日冷静に消化して、情報化する事である。
其れこそが、宇宙意識と共に在る事であり、宇宙意識を進化させる事に、繋がるのである。
其れを行う者が、此の世界に居なければ、此の世界は、人間意識の排泄物・ゴミで一杯に成り、無明の世界と成るのである。
其の意味では、26年間、4311体の「神霊の思頼(みたまのふゆ)」に付き合って、其の念いを浄化して来た私の働きは、大きなモノ・効果があったのではないだろうか。・・・
「宇宙の進化と人間の記憶」http://green.ap.teacup.com/20060818/1556.html
此の「宇宙の進化と人間の記憶」の文章は、5年前の5月29日の文章である。
其の日付の事を考えると、一昨日・2015年5月29日5時29分に、私の右手の中指の強いカモ・(神の電気信号)の反応が起きたのは、25日の映像の「右腕」の脈診の場所と、26日の「掌」の針壺の絵図と、29日の「中指のカモ・(神の電気信号)」は、全て関係があり、ブッダの右手の働きで、事象が動き出したと謂うか、新しい次元・時間が回り始めたと、言う事に成るのではないだろうか。
今朝の映像は、最後に、私が自分の顎に手を当てると、顎髭が伸びている事が判ったので、其れを良く確かめると、白い髭が長く伸びており、長く伸び過ぎたので、結んだ様に絡まっているのである。
私は、其の髭を、切れない様に地面に伸ばして行くと、其の長さが5m程も有りそうな長い物であった。
其れを確かめてから、何故、其の様に長いのかと思って、本の方を見ると、其れは、私の顎髭ではなく、私より少し背の高い、長四角形の顔をした、色白の80歳位の年齢の人物の、顎髭である事が判った。
其の映像の意味は、昨日私が、様々な三次元の様子を認識する事で、其れが事葉を産み出し、文字文章と成って、上の部分の情報・文章が完成し、下の方の文章の段階と繋がって完成した事と関係があり、其の文章・情報は「一体の男性・一個の人格・翁」の存在で繋がって来ている理・ことを、示して来ているのであろう。
其れは、釈迦牟尼仏の謂う「私が悟ったのは 今世ではなく 何代も前の事である」との事や、老子の謂う「古(いにしえ)の人々は凄い」との言葉や、イエスキリストの謂う「永遠の命に入る為には・・云々」との事と関係が有り、其の継続されている情報・智慧の本体が、姿を現したと言う事ではないだろうか。
そして、其の髭の存在は、現在・いまの私の顎に生えていると言う事になり、私も漸く「翁・オウ・おきな」として完成した事に成り、日本の天津日嗣の伝統や、水天宮の祭神である「御祖神・みおやかみ」の域に達したとの事に成るのではないだろうか。
そして、其れが天を娶った男性意識の完成と言う事に成るのであろう。
2000/8/30・・「翁・おきな」とは、年老いた男性の事として認識されているが、私はもっと意味深いものが有ると考える。
漢字の「翁」は「公+羽」の組み合わせで、「公」は鳥の首の象形で、首の下に両翼「羽」が着いた形である。其れは、長生きして居る老人が、髭が伸び、其の髭が鳥の羽の様に見えるからだとある。
「翁・オウ」【解字】形声。「羽+公」音符の公は、項に通じ、くびの意味。鳥の首の羽の意味を表し、転じて、老人を尊んで言う、おきなの意味を表す。
【字義】@鳥のくびすじの羽。Aちち(父)Bおきな。男のとしより。また、老人の尊称。「老翁」「村翁」 漢語林より
何れにしても、自然の中で、豊かで美しい老後を送る、「翁」と「嫗」が存在する暮らしの実現を願って、是からも、行動を続けて行かなければ成らないだろう。其れは、可能な事だと想う。
何故なら、私が子供の頃は、村の中に縁側で日向ぼっこをする老人が居て、私は其の人達に、昔の事を聞いて回って居たのだし、其れから未だ、僅か50年しか経っていないのだから・・。
「翁と嫗」http://star.ap.teacup.com/2006o414/1.html
今朝の愉伽さんのビジョンにも、私のメッセージと同じ様に「叡智」を持つ老聖が登場して、本・情報の世界の事に付いて、話し掛けて来たとの事である。
たいじんこうか「古の叡智が」http://taijinkouka.blog.bbiq.jp/blog/2015/05/post-445a.html
其の愉伽さんへのメッセージからも、今朝のビジョンは男性である私だけの事ではなく、「男女・雌雄・陰陽」の双方の働きが、バランスが取れて調和した理・ことが、示されて来ているのであろう。
此れで私は、4日後に迫って来た31年目の「入神記念日」を、ゆったりとした気持ちで迎える事が出来そうである。
平成27年5月31日
礒邉自適
2015/5/28
蒸かしたジャガイモ
27・5・28
今朝のメッセージの映像は、私の意識が、幾つものキャンプに参加する場面が映し出されて来た。
其れは、次の様な場面である。
先ず、最初に、権威の有る学者の様な、60歳位のスラリとした紳士風の男性が登場して、一緒に古い地層を調べる事に成った。
そして私が、古代の地層から、大変貴重な物を発見したので、其の学者に見せると、其の男性は、「調べて見るので ちょっと貸してくれ」と言うので、私は「返してくれよ」と云って、其の男性に手渡した。
すると其の男性は、キャンプが終わっても帰って来ずに、行方不明に成って、連絡が執れなく成ってしまったのである。
次の映像は、自然の中にキャンプに出掛けると、其処には小川が流れ、様々な植物が生えており、温泉なども有るのだが、其れらは全て人工的な物であり、自然の在り様を真似て造った模造であり、本当の自然は何も無いのである。
次の映像は、ジプシーの音楽隊の様な旅に同行すると、其のグループには、昔の伝統的な精神性は何もなく、大麻などを吸引したりする人達の仲間が集まった物であり、精神が堕落してしまう場であるので、私は直ぐに其のグループから離れた。
次の映像は、本物の山中に分け入り、テント生活をする場面だったが、夕方に成って狼の群れが近付いて来るのが見えたので、私は車に乗り込んで帰るか、テントを建てて、安全を確保しようとするのだが、其れ等の車やテントは、全て他人の物で、持ち主が他の事を行っており、自分で自由に行動する事が、何も出来ないのである。
其れから、幾つかの場面が映し出されて来て、最後に私は旅疲れて、自宅に帰って来てテーブルに座ると、由香が蒸したばかりのジャガイモを、数個ザルに入れて持って来てくれた。
私は、其の場面で、これが一番良いのだと納得していた。
其れで、今朝の文章の題は「安楽」か「安心立命」にしようかと思ったのだが、其の儘の状況の「蒸かしたジャガイモ」とする事にした。
何故なら、現場の一コマの映像こそ、言葉や文字に表せ無い真実を、感じ取れるからである。
【安心立命・あんしん-りつめい】 意味
心を安らかにして身を天命にまかせ、どんなときにも動揺しないこと。人力のすべてを尽くして身を天命にまかせ、いかなるときも他のものに心を動かさないこと。▽初め儒学の語であった。仏教語では「あんじんりゅうめい」「あんじんりゅうみょう」と読む。「心」は「身」とも書く。また「立命安心・りつめいあんしん」ともいう。 出典:新明解四字熟語辞典
今朝の其の映像は、私が子供の頃の主食が「薩摩芋(鹿児島では唐芋・からいも)」であった事に関係があり、此処数日、実際に、自分の畑で採れた新ジャガ芋を食べているからなのかも知れない。
其れに、自分の食卓の席が決まった事で、私の意識が、安住の場をようやく見付けたと言う事に成るのであろう。
そして、其れは、私個人の問題だけではなく、流浪の旅を続けた「釈迦牟尼仏」や、安心立命の世界まで辿り着けなかった「イエスキリスト」の御魂が、ようやく安住の立場に辿り着いた事になり、私に31年前に起きた、4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」も、其の答えを見付けて、カルマ・業から自由(解脱)になり、落ち着いた事に成るのではないだろうか。
だが、現在の現実世界では、今朝、私が体験して居たキャンプのような有様が続いており、現代人は、誰も「蒸したばかりのジャガイモ」だけの食事で、安楽と謂うか、幸福感を、味わっている者は居ないのではないだろうか。
私の其の感覚は、現在の私には、何のスケジュールも無いし、電話も殆ど掛からないので、全くの自由であるからこそ、齎されて来るモノ・現象であろう。
其れに、由香が今年の2月から、本格的に会社務めを始めたので、生活の心配をする必要も無いのである。
私が、自分で仕事をしていたり、宗教などを興したりしていれば、此の様な「時間・とき」と謂うか「空間性」を感じる事は、絶対に無いであろう。
何故なら、其れは「満足感」とは異なるモノ・状況だからである。
満足感とは、満足とは反対に「不足感」が有る者が、其の不足が満たされた時に感じる精神状態なので、満足感とは一時的なモノ・現象であり、恒久不変のものではないからである。
其の意味では、私は、自分の大役を果たしたとの充実感や、小学五年生の時に父親の多量の喀血を見てから、「家族を守る為に 働かなければ成らない。」と思い続けて来た事が、ようやく外れたので、其の解放感が、気持ちを自由にしているのであろう。
2012/7/31「癒しと旅」http://green.ap.teacup.com/20060818/2390.html
私の、「自適」の名前は、悠々自適の言葉にある物だが、其れは、私が1947年1月29日の午前3時頃生まれて、次の日に、馬小屋の前で父親に「自適」と告げられた物である。
何故、其れが、馬小屋の前でなければ成らなかったのか、其処に、馬小屋で生まれた「イエスキリスト」や「聖徳太子」との関係性が、示されているのであろう。
其れは、私に対する、イエスや聖徳太子の御魂の関わり方で、予想できる事である。
【悠悠自適・ゆうゆうじてき】 意味
のんびりと心静かに、思うまま過ごすこと。▽「悠悠」はゆったりと落ち着いたさま。「自適」は自分の思うままに楽しむこと。「悠悠」は「優遊」「優游」とも書く。 新明解四字熟語辞典
私の「自適」の名前は、私自身の御魂が、地上に降る時に持って来た物であり、父親が考えた物ではない。
其れが、どの御魂・霊魂の物であるかは、私が道徳経の老子の言葉が、誰の言葉よりも理解し易いので、老子の御魂である確率が高い。
其の老子は、人間の生活自体には、触れていないので、私に起きた4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」の中で「宇摩志麻遅命・うましまじのみこと」が重要な位置に付いており、弘法大師空海が同行二人で傍に居るのであろう。
其れに、私の潜在意識と言うか、頭の古皮質の脳幹の所にチャンネルしている女神の存在は、138億年前に此の宇宙が誕生した時からの、記憶保持者である「エホバ・ヤハウェ(有る時から在る物)」であり、私の意識を総合的に管理しながら、自由にもしているのである。
老子の一節の「我に三宝有り」の内容からすると、老子は「無為自然」を謂って居るので、昨日の「111・0」の数字は、「0・無為」の生き方であっても、「111・三宝」は必要であるとの理・ことを、示唆しているのかも知れない。
其の様に考えると、私の意識には、確かに老子の意識が内在すると言う事に成るのではないだろうか。
2001/12/20・・老子67章「我有三宝 持而保之 一曰慈 二曰倹 三曰不敢為天下先」
(我に三宝有り、持して之を保に、一に曰わく慈、二に曰わく倹、三に曰わく敢えて天下の先たらず)の、文章である。・・・
「我に三宝有り」http://moon.ap.teacup.com/20061108/150.html
平成27年5月28日
礒邉自適
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