1984年6月4日(旧5月5日)神と交わした約束が果たされる事が 今朝告げられました。
18年8月18日未明
事象(とき)の切り替え
今朝は5時15分に是までの時間(とき)が閉じられ、5時22分に新しい時間(とき)が開いた。
其れは、旧約聖書に「神は6日間で此の世界を創造し 7日目に休んだ」と記されている事と関係が有り、是までの「事象・時空・とき」が閉じられて、新しい事象が始まる理・ことが知らされて来たモノの様である。
其の時間の「扉・まく」は、カメラのシャッターの様な物であり、其れは人間の瞼の仕組みと同じで、閉じている時は「月読界」で、開くと「天照界」であると言う事である。2016年6月6日
2015/8/29
原則と行為
27・8・29
今朝のメッセージの映像には、落花生の収穫作業をして居る、男性の姿が映し出されて来て、乾いた物を貯蔵して居た。
次に魚屋の店舗が映し出されて来て、切り分けられた魚の部分が、桶の中に入れられているのが映し出されて来た。
其れから、「原則」との言葉と、「やってみたかった」との言葉が示されて来た。
これ等のメッセージは、最初の落花生の収穫と貯蔵は、人間の陸上での食糧の確保作業行動・行為を示唆しており、魚屋の場面は、海産物の調理や保存の作業・行為を表している。
そして、「やってみたかった」との言葉は、人間の性格が、男女とも子供の頃から、色々な事に興味を抱き、自分の手で遣って見たく成る行為を、示唆しているのであろう。
原則と行為を検索すると、次の様に載っている。
げんそく【原則】
@人間の社会的活動の中で,多くの場合にあてはまる基本的な規則や法則。 「 −として五時に下校すること」 〔しばしば「原理」と区別せずに用いられるが,「原理」は物事を成り立たせる根本的な決まりの意で,主として存在や認識に関係する。それに対して「原則」は人間によって社会に適用するために決められた規則の意で,主として人間の活動に関係する〕
A〘論〙 〔ドイツ Grundsatz〕 他の諸命題がそこから導き出される基本命題。
デジタル大辞泉の解説
こうい【行為】
@個人がある意志・目的を持って意識的にするおこない。行動。ふるまい。しわざ。所為。
A〘哲〙 自由な意志に基づいて選択され,実行された身体的動作で道徳的評価の対象となるもの。
B法律上の効果を発生させる原因となる,人の自発的な意思活動。 「不法−」 〔 (1) ロプシャイト「英華字典」(1866〜69年)に act や action の訳語として載る。日本では中村正直訳「西国立志編」(1870〜71年)が早い例。 (2) 類義の語に「行動」があるが,「行動」は実際にからだを動かして何かをする意で,個人に限らず集団や動物のふるまいにも用いられる。それに対し,「行為」は個人が意志・目的をもって意識的に何かをする意を表す〕
大辞林 第三版の解説
今朝は、其のメッセージの後に、何物かの意識が、人間が生活する広い町の様子を、高い上空から見下している映像が、映し出されて来た。
次に、私の故郷である安房を流れる安房川で、私が、未だ水が冷たい川に泳ぎ出すと、水の流れが速く、元の場所に引き返す事が出来ないので、其の儘、水の流れに身を任せて下って行き、反対側の岸に上がって、岩が多い森林の中を通って、道路に出た。
そして、上流に向かって道路を歩き、橋を渡って服を置いてある元の場所に帰って来た。
すると、「エキセントリック」との言葉が示されて来た。
エキセントリックとは、辞典に次の様に載っている。
「エキセントリック・eccentric」
[形動]性格などが風変わりなさま。奇矯(ききょう)なさま。「エキセントリックな行動」 国語辞典
どうやら、此のエキセントリックとの言葉からすると、私が1984年6月4日に安房川で行った事は、「奇矯(ききょう)な様」であり、一般的な人間の行為ではなかった事を、示唆している様である。
2003/2/7「私に何が起きたか」http://moon.ap.teacup.com/20061108/246.html
今朝のメッセージは、人間の社会的活動の中では、基本的な規則や法則が必要であり、其の中での人間の行為が許されており、其れ等の様子は、天神(てんのはたらき)が24時間監察を行っているとの事であろう。
そして、私が行った、宗教的な儀式は「エキセントリック・奇矯」な行為であり、原則からは外れているので、無闇に他人に薦めるモノ・世界ではないとの事なのであろう。
其の様に考えると、私に起きた事は、私だけに必要な物事であり、他人には何等、関係が無いと言う理・ことになる。
其の様に考えると、私は漸く「惟神道・かんながらのみち」の神髄に、今朝行き着いた事に成るのではないだろうか。
何故かと言うと、惟神道とは、「訊いてもいけない。視てもいけない。教えてもいけない」との世界だからである。
2007/5/22・・今朝のメッセージの映像は、此の世界は、やはり「神惟・かんながら」の一言に尽きると、言える様なものであった。
日本に伝わる、古神道の訓えは「神惟・かんながら」で、其の訓えとは、「云(教)ってもいけない」「聞(訊)いてもいけない」「見てもいけない」との世界である。
其れは、人間各自が、自分の「みこと(使命・天命・役目)」を持って、此の世に来ているのだから、「道」を知った者が、他人に自分の遣り方を教えたり、見せたりしてもいけないし、「道」を体得したい者が、他人の行動を覗いたり、遣り方を訊ねたりしても、いけないとの理・ことである。
何故、其れがいけないのかと言うと、自分には、自分成りの、生命のプログラムや、先祖霊が働いているので、他人の真似をしては、本来の自分の「命・みこと」が開かないからである。
人間は、一人一人が自分成りの役割が有るからこそ、此の世に生を受けているのである。だから、他人の真似をする事は、自分の生命・使命を殺す事に成るのだ。・・・
「神惟らの道」http://green.ap.teacup.com/20060818/296.html
書き足して措くと、私が今朝の映像で、下流に流されていると、60歳位の頑強な男性が、後ろから泳いで来て、私の前を進み、流れが緩やかな反対側の岸に上がり、無言で岩が多い森林の中を歩き、私が道路に出られ場所まで案内してから消えてしまった。
其の男性の存在は、私が此処まで成長して、自分の役割を果たすまで、見守り続けて来た理・ことを、示唆しているのであろう。
其の様に考えると、是まで私に起きた事は、私個人の出来事ではなく、森羅万象の流転を舞台として、何等かの宇宙意思が働いていると言うか、天神(てんのはたらき)が仕組んだ、物語の一環であると言う事になる。
其の様に、是までの出来事を纏めて考えると、古代から、世界中で、神の存在が信じられて来た事の理由・わけも解かるし、自分の存在や人生が、どの様なモノであるのかも、改めて深く理解できて来る気がする。
平成27年8月29日
礒邉自適
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