1984年6月4日(旧5月5日)神と交わした約束が果たされる事が 今朝告げられました。
18年8月18日未明
事象(とき)の切り替え
今朝は5時15分に是までの時間(とき)が閉じられ、5時22分に新しい時間(とき)が開いた。
其れは、旧約聖書に「神は6日間で此の世界を創造し 7日目に休んだ」と記されている事と関係が有り、是までの「事象・時空・とき」が閉じられて、新しい事象が始まる理・ことが知らされて来たモノの様である。
其の時間の「扉・まく」は、カメラのシャッターの様な物であり、其れは人間の瞼の仕組みと同じで、閉じている時は「月読界」で、開くと「天照界」であると言う事である。2016年6月6日
2015/12/31
三個一組み
27・12・31
今年は本日で終わるが、メッセージの内容からすると、事象の動き・流れは現在使用されている暦でなく、冬至に合わせた周期の方に、移行している感じである。
其れは、月を基本とする「旧暦・陰暦」や、太陽を対象とする基準ではなく、地球自身の傾きに因る、四季の移ろいの方に、焦点が合わされて行っていると言う事でもある。
今朝のメッセージの映像は、屋久島自適塾の事務所のオーナーであった「西川良明」氏の存在が登場して、西川氏が以前に他人に売却していた三個の屋久杉の置物を、新しい品物を一個渡して、其の三個を買い戻す場面が映し出されて来た。
次の映像は、私が自分の好物である、豆腐の「厚揚げ」の売り出し方法を考えて居て、三個が一組に成った容器に、三個の厚揚げを入れ、其々に薬味や醤油タレを付けて、切り離せる様にした物であり、本人が一個食べても、二個は土産に持って行ける物であった。
今朝のメッセージは、其れだけであるので、物事は三個一組で考えろとの事の様である。
其れに「西川良明」との名前は、「西の川が明るく良い」との意味合いに成るので、中国の風水で東方を流れる川・水の守護神が、智慧を司る「青龍・せいりゅう」である事の対象として、西方の「商売・物品・道路・流通・経済」の守護神である「白虎・びゃっこ(日本では白狐)」の働きの世界が、新しい概念として示されて来ている様な気がする。
其れは、精神的な世界は真実が一つであるので、智慧の主は一人・一体で役割を果たす事が出来るが、物の世界は一個・一体では成り立たず、三個が必要であるとの理・ことが考えられるからである。
其の数字の「三・参・3」に付いては、是までも数度触れて来ている。
「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」の禊ぎから生まれた「三貴神」、宗像三女神(島)、海の神(はたらき)である住吉三神(筒)、山岳の神(はたらき)である「辺津・中津・奥津(磐座・いわくら)」、三本柱の「鳥居」、三本足の「烏・からす」、老子の謂う「三宝」、仏教の「佛・法・僧」、密教の三密「身・口・意」、聖書で言うところの「三位一体」、・・・等々。
2008/11/2・・私が、四段目の神と言われて、先ず気に成るのは、老子の謂う「初めに一が有り、一から二が生まれ、二から三が生まれ、其の三から全てが生まれた。」の後の世界である。
何故、老子の言葉は「三から全てが生まれた」と謂って、四の世界が無いのであろうか。
其の、三の数の世界を考えると、キリスト教の「三位一体」、仏教の「三仏」・「三宝に帰依」、老子の「我に三宝有り」、日本の「三種の神器」「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」の禊ぎから生まれた三貴神「天照大神・調読命・素戔鳴尊」等が有る。
更に、日本には「上・下・横」の方角を示す為に、神名が有る。
其れは、山の神には、「辺津(へつ)磐座」「中津(なかつ)磐座」「奥津磐座(おきついわくら)」と、上・高い方に向う三神の働きが有る。
海の神には、「住吉三神」の「上津綿津見神(うわつわたつみのかみ)」「中津綿津見神(なかつわたつみのかみ)」「底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)」の下・低い方に向う三神が有る。
島の神には、「宗像三女神」の「田島・辺津宮 - 市杵嶋姫(いちきしまひめ)」「大島・中津宮 - 湍津姫(たぎつひめ)「沖ノ島・沖津宮 - 田心姫(たごりひめ)」 の横に広がる三神が有る。・・・
「四段目の神」http://green.ap.teacup.com/20060818/937.html
2015/5/27・・其れから、「111・0」との数字が示されて来た。
其れは、物事が「0→ 三」に成るか、「三→ 0」に成るのかの、どちらかの意味の様であった。
三の数字の事に付いては、是までにも数度文章にした事がある。・・・
「111・0」http://green.ap.teacup.com/20060818/3477.html
2015/4/17・・今朝の映像で、旅を続けて情報・資料を集めている夫婦が、「3」の数字が加わっている所為であると云って居たのは、「3」の数字が、神の存在を意味している事は、間違い無いであろう。・・・
「オーロラの詩」http://green.ap.teacup.com/20060818/3435.html
2011/12/1・・今日で、「3・三・参」の数に関わる世界が三日続けて示されて来た。3の数字は、一人歩きするとの云われも有るし、中国の老子の言葉には「初めに一が有り 一から二が生まれ 二から三が生まれ 三から全てが生まれた」と有る。
其れに、奈良市の「大倭あじさい邑」を創立した矢追日聖氏は、「3は 神の数字である」と謂っており、福祉施設である「あじさい邑」は、光明皇后のメッセージに拠る物であると謂っていた。・・・
「三面宿儺・さんめんすくな」http://green.ap.teacup.com/applet/20060818/postmsg
2009/10/19・・「参・サン」は【解字】形声。「晶+大彡」の組み合わせで、「晶」は、頭上に輝く三星の象形。音符の「大彡・シン」は密度が高いの意味を表す。みつ・多い・多くなる・多くのものを照らし合わせる・多くの物の中に入る・まいるの意味を表す。
【字義】(一)@みつ。みっつ。三。 Aみたび。三度。三回。Bみっつにする。㋐三分する。㋑三つに合わせる。Cならぶ。ならんで三つになる。
(二)@まじわる。まじる。組み合わさる。Aあずかる。加わる。かかわる。連なる。「参加」「参与」Bまいる。もうでる。行く。宮中などに行く。Cまみえる。君主や目上の人にお目にかかる。5同じにする。等しくする。Eはかる。くらべあわせる。Fのぞむ。あおぎみる。
(三)@からすき・つづみ。星座の名。三宿。オリオン座。 漢語林より
此の様に調べて行くと、エジプト文化だけではなく、漢字が生まれた中国文化でもオリオン座の三ツ星が気にされており、人間の意識行動に影響を与えていた事が判る。何故、三つ並んだ星が、人間の意識にとって、一番大事であるとされたかを考えると、昨日、私の意識に現れた様な現象が、古代から有ったからではないだろうか。・・・
其れを考えると、是から組上げなければ成らない「理論・流儀」は、「善」の漢字の意味の「左右の存在の上に 神・道理の存在」を、定義しなければ成らないと謂う理・ことになる。其れは、「晶」「参」の形の三ツ輪にしなければ成らないと謂う事に成り、「メイソン・石工」の「三角・△・ピラミッド」のマークや、「大日如来・マハーヴァイローチャナ」の「三密(身・口・意)」に拘っていても、いけないと言う理・ことに成って来る。・・・
「侖・リン」http://green.ap.teacup.com/20060818/1310.html
2011/11/30「三羽の鳩」http://green.ap.teacup.com/20060818/2137.html
其れに、今朝「品・晶」の漢字の様に、同じ「文」が三個組みわされている「字」を調べると、次の様な漢字が存在する。
品(ヒン・ホン・しな・靈)、惢(サ・スイ)、焱(エン・ほのお)、聶(ショウ・ジョウ・ささやく)、晶(ショウ・セイ・あきらか)、畾(ライ・靁)、垚(ギョウ)、犇(ホン・はしる・ひしめく)、姦(カン・ケン・みだら)、轟(ゴウ・とどろき)、森(シン・もり)、(ビョウ)、毳(セイ・ゼイ・むくげ)、厵(ゲン)、舙(カ)、羴(セン)、灥(シュン・セン・いずみ)、鑫(キン)、芔(キ)、(キョウ・協)、(リ)、驫(ヒョウ)、贔(ヒ・ビ)、矗(チク)、蟲(チュウ・ジュウ・むし)、(キョウ・あきらか)、鱻(セン)、譶(トウ)、麤(あらい)・・・取り敢えず 29文字
是からの文字の意味からすると、今朝のメッセージは此の文字の意味が示す様に、物事の存在を認識する手法を、再認識する必要がある事が、示されて来ているのではないだろうか。
其れは、「三個・三品」が組み合わせられている要因・価値観を一度回収して、もう一度、意味付け・味付けを行えとの事なのかも知れない。
其の様に考えると、やはり本日が大晦日で、煩悩の除去する108(12カ月×9・苦)の鐘が鳴らされる事と関係が有り、人間の煩悩の原因と成っている「言葉・文字」の世界を、新しいモノ・世界に変革する必要があると言う事になる。
其れは、釈迦牟尼佛が法華経の十二因縁起で謂って居る様に、人間の「煩悩・なやみ」が言葉に拠って組み上がっているので、其の言葉を正しく知ると言うか、言葉・文字の本質の処を掴まなくては、「意識・こころのあや」が晴れないと言う理・ことなのであろう。
「十二因縁起」http://wave.ap.teacup.com/20060106/
此処まで打った処で、由香が食事の準備が出来た事を知らせて来たので、台所に行くと揚げたての豆腐がお皿に三個盛られて、薬味と鰹の削り節が掛けられていた。
昼間から揚げ物を作るのは、非常に珍しい事であり、其れが揚げ豆腐三個であった事が、現実とメッセージとが連動しており、余りの偶然に少し驚いてしまった。
平成27年12月31日
礒邉自適
2015/12/29
「もう一足持って行く」
27・12・29
今朝のメッセージの映像は、先ず、私の故郷である安房の、県道から矢本嶽の方に真っ直ぐ伸びる道路の突き当りに存在する「崎田家」で、私が、姿のはっきりしない男性二人と、御馳走に成って居り、午後10時に成って其の家から外に出ると、直線の道路でオートバイのレースが行われており、警察が取り締まりをしているので、飲酒運転で掴まる恐れがあり、市役所で残業をしている弟に電話を掛けて、「二人の客人を 磯辺のバス停まで送ってくれないか」と云って、了承を得ていた。
次の映像は、丸い重箱セットの容器に「ラッキョウ漬け」を詰める場面が映し出されて来て、其のラッキョウの栽培方法を誰かに訓える様子が示されて来た。
其れから明け方に、男性の声で「もう一足持って行く」との言葉が告げられて来た。
今朝のメッセージは、私にも理解し難いモノであるが、「もう一足持って行く」との男性の声は、私を捜し出して此の世界に入れた故「土肥無庵」に関係が有りそうである。
2013/12/28・・そして、私を東京に連れて行って、「ホテルオークラ」に泊めたり、赤坂の「辻留」に食事に行ったりした。其れは、私に場慣れをさせる為であった。
其れに、身支度として、絹地の100万円のスーツを誂え、オーストリアの貴族の人達が履く靴のメーカー「ゲオルク・マテルナー」の、35万円する靴を誂えて履かせ、時計はローレックスで、財布には100万円の現金を入れて、黒い旅行バックを手にする姿である。・・・
「無庵師匠の御魂」http://green.ap.teacup.com/20060818/2915.html
2012/4/28「イギリス国の文化」http://green.ap.teacup.com/20060818/2291.html
2014/10/13「総合有意識」http://green.ap.teacup.com/20060818/3228.html
2008/1/25「世界一」http://green.ap.teacup.com/20060818/622.html
2015/1/9「霊的学びからユークリッドへ」http://green.ap.teacup.com/20060818/3324.html
「もう一足持って行く」との言葉が、土肥無庵と関係が有るのなら、「二束の草鞋を履く」との言葉と関係が有るのか、其れとも、是までとは違う道が、私に与えられるとの事なのであろうか。
どちらにしても、何等かの変化が私に与えられるのであろう。
其の事が、最初の映像に映し出されて来た「崎田・さきた」と言う家での宴会と、磯辺のバス停まで客人を送って行く場面で、示唆されているのであろう。
「ラッキョウ」は、「辣韮、薤、辣韭」と漢字で書き、「辣韮」とは「辛い韮」との意味である。
「辣・ラツ・ラチ」【解字】形声。「辛+束(剌)」辛は、はりの象形。音符の剌・ラツは、束ねた物に刃物を入れるの意味。針や刃物でさすように、からいの意味を表す。【字義】からい。味がからい。からい味。 漢語林
此の辣の漢字の意味からすると、日本の伝統的食文化である「重箱料理」、正月用の「お節料理」にメスを入れろと言う事なのではないだろうか。
そして、其の事が、是から私が履くべき履物に関係が有るのなら、私は現在の食文化の世界に、辛辣(からい・つらい)刃物・メスを入れて行く為の、道を歩く必要があると言う事に成り、仲間を「崎田・先に」磯辺・石部・石工の世界に、送り出す必要があると言う事なのではないだろうか。
其れに、私の弟が市役所で残業をして居ると言う件は、其の事が、公の機関にも取り上げられる事になるとのことなのかも知れない。
其の様に考えると、私が此の世界に1984年入った時に、4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」で、最初に姿を現した御霊がマクロビオティックの世界を創出した「桜澤如一」であった事と関係が有り、「食国政事長・おすくにのまつりことのつかさ」の世界を創出した「宇摩志麻遅命・うましまじのみこと」とも関係が有るのではないだろうか。
2006/12/15・・昨日の、「ファイナル‐ファンタジー」は、私の旅が、昨日で終ったとの意味かと考えていたら、是から「ファイナル‐ファンタジー」が始まるとの意味だったらしい。是から始まる私の役割は、人間の生活文化の構築を図る為の、シンクタンクの頭を務める事であろうか。
其れは、私が1992年8月25日に、今ではスローフードで時の人に成った、佐賀県の武富勝彦氏に案内されて、初めて東京の「オーサワジャパン株式会社」に行き、桜沢如一氏の御影が飾られている応接間に入った時に「此処が お前の仕事場だ」と声が聞こえた事が有る。桜沢如一氏の霊魂は、私に起きた4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」でも、一番始めに存在を現した霊である。だから、今回の神のプログラムでは、一番大事である霊魂だと言うことに成る。現在、世界に日本の自然食が拡がったのは、此の桜沢如一氏の功績に拠るものであると云っても過言ではない。・・・
「シンクタンクトップ」http://green.ap.teacup.com/20060818/126.html
2001/6/21・・今朝のメッセージで、「大田に途中下車せよ」と有った。
大田とは、島根県大田市の事だと思われる。と言うのは、今月15日に、私は初めて、大田市に存在する「物部神社」を参拝したからである。
6月15日のメッセージには、「ミネラルが不足しているから 頭が悪いし イライラもする。だから 子供達に 早く岩を溶かした水を 飲ませろ」と有った。・・
その時に、神社の境内で「三瓶が ひとまわり大きくなる」と、メッセージが有った。私は、三瓶とは、「三瓶山・さんべさん」の事であろうと想った。其の、海抜1126mの高さの三瓶山は、万九千神社からでも見えている。
物部神社に到着すると、鳥居の所で「此処は 貴方の神社だ。ゆっくりしていろ。」と、男の声でメッセージが有った。
そして、鳥居を潜って御手洗いの所に行くと、其処には、少しピンク色掛かった大きな岩が置かれていて、其の岩が刳り抜かれて、御手洗いの水が流されていた。そして、其の岩の所には、説明の立て札が有り、「此の岩の水は 身体に良い」との理・ことが書いて有るのである。・・
昨日のメッセージの映像には、最初に、男性の義人らしき御魂が次々に映し出されて来たが、其の映像の最初に登場した人物が、「申食国政太夫・おすくにのまつりごともうすのまえつきみ」の仕事を始めた「宇摩志麻遅命・うましまじのみこと」ではなかったのだろうか。
其の様に考えれば、今朝のメッセージの内容も能く理解されて来る。・・・
「大田で下車しろ」http://star.ap.teacup.com/170606/437.html
此の様に今朝のメッセージを解釈して行くと、やはり私の役割は、日本の伝統文化である「食国の政・おすくにのまつりごと」の世界を復活する為に「申食国政太夫・おすくにのまつりごともうすのまえつきみ」の役割を担う必要があるのかも知れない。
平成27年12月29日
礒邉自適
2015/12/28
628代
27・12・28
本日12月28日は、「御用納め」の日である。
今朝のメッセージの映像には、天色(あまいろ)のスーツを着た、三人の三十歳代男性が横に並んで立っている場面が映し出されて来て、右側に立っている男性が私であるらしく、私が628代として合格した事が示された。
そして、テレビ番組の「SASUKE」に登場する、最後に押すブザーの様な物が映し出されて来て、其のブザーを早く押さなければ成らない事が示されたので、私は意識が急いて、目を開けて時計で時刻を確認すると6時31分であった。
其れから、再び目を閉じていると、幾つかの場面が映し出されて来た。
其れは、次の様な場面である。
先ず、暗めの世界に灰色の布生地が、短冊の様に切断されて、魚の群れが泳ぐ様に漂っており、其の布切れの群れの中に、鮮やかに浮き上がっている一枚のマゼッタ色の布切れが、紛れ込んで行く場面。
次に、私が一台の古い乗合バスを、自分の道具を使って修理をし、動く様に成った処で、仕事の無い中年の男性に其の乗合バスの運転を任す場面。
次に、私も参加して、町中で中年の人達がボランティア活動を行った後、食堂で夕食をする事に成ったが、其の食堂で宴会に出される物は、酸化した油を使った揚げ物が中心なので、私は其れ等の揚げ物が喉を通らないので、参加する事を拒んでいる場面。
次に、満タンに成って溢れ出る状態に成っている便所漕が映し出されて来た。
其の他にも、幾つかの場面が有った様だが、他の場面は、今は思い出せない。
6月31の日付は存在しないので、「むさい」で検索すると「無彩色」が有り次の様に記されているので、今朝の暗めの色相の布切れの世界と、関係が有りそうである。
*無彩色(むさいしょく、英: achromatic color[1])は、白と黒との混合で得られる色(白と黒自体も含む)の総称である。白・黒・さまざまな濃度の灰色が含まれる。「無彩色」という名詞は、彩度が0であることを表している。無彩色でない色は、彩度を有する有彩色である。
ウィキペディアフリー百科辞典 現在記載
今朝のメッセージの最初の場面は、私が36歳の時に土肥無庵に捜し出されて、37歳の時に此の神の世界に入った事が、天神(てんのはたらき)に選ばれての事であり、其れから31年半の月日が経過して、最終ゴールである舞台に上がり、自らの手でブザーを押さなければ成らないと言う事なのであろう。
そして、其の事と暗い色相の布切れの中に、鮮やかなマゼッタ色の布切れ(旗)が一枚紛れ込んで行く場面は、釈迦牟尼仏の謂う「無明の世に光明を齎す 弥勒菩薩・マイトレーヤの登場」を意味し、世の中を明るくする光明の存在を示唆しているのではないだろうか。
其れは、自分の仕事を見付ける事ではなく、他人の働く場所を創り出す事や、生活環境の整備を行い、世の中の人々の生活を楽にして遣ると言う事などであろう。
しかし、社会活動の中に触れても、食べ物の良し悪しには注意すべきであり、精進の精神は、貫き通さなければ成らないと言う事なのであろう。
今朝のメッセージの映像を、この様に解釈して行くと、本日が御用納めの日である事と関係が有り、私の是までの31年半の修行と言うか、神仕えの終了が示されて来ており、今後の人生の送り方に付いても、示されて来ている様である。
其れに、私が628代として合格した事が示されて来たのは、昨日のメッセージの「枢・樞・きみ」と関係が有り、628代とは「牟尼の矢・使者」の立場として、釈迦牟尼から私は81代であるが、其れより遥か以前から、牟尼の矢(立場・存在)は継続されていると言う事なのではないだろうか。
其れに、現在の「平成天皇」は神武天皇から125代であるが、其れも「樞・きみ・君・天皇・すめらのみこと・村長(むらおさ)」としての存在・はたらきは、永く続いていると言う理・ことを示唆しているのではないだろうか。
2008/9/8・・今朝は、其の件に関してか、初代から現在まで続く、代々の系図が現れた。その系図は、左上が一代で、下方に順番に横書きで2・3・4と、代々の名前が書かれており、其の列は横に四段有って、私の意識の存在は一番右側の下の最後の所にあった。
私は、昭和62年2月26日に、京都の亀岡市に在る「田中真海老師」の大雲山西光禅寺で在家得度式を行い、「真悠護法居士」の戒名を受けている。
其の事に関係するのであれば、私は「釈迦牟尼佛」の弟子として、81代目である事に成る。
其れか、霊界の天皇霊に関係があるのなら、平成元年1月7日の夜中、私の心臓に飛び込んで来た「昭和天皇」の124代が関係ある事に成る。
其れは、神武天皇が初代であるから、それより前の「天照大神 →「忍穂耳尊・おしほみみのみこと」→「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」→山幸彦 →「鵜草葺不合命・うがやふきあえずのみこ」の五代を足して、129代にしなければならない。
更に、其の上には、天神七代・【陰陽×七代=14。「伊邪那美命・いざなみのみこと」から「国常立命」】プラス 造化三神(高御産巣日神から天御中主)計17神が、存在する。
今朝、其の代々の系図が現れた意味は、「時間・トキ」の概念を意味しているのであろう。
系図では、「釈迦牟尼佛」や「天照大神」が一代・初代であり、彼等が名簿では一番上に位置しているが、其れは、過ぎ去った過去の世界の人であるので、彼等が生きていた世界は、既に消えてしまって無いのである。
在るのは、我々が生きている、今日の「いま・現在」だけである。・・・
「先達」http://green.ap.teacup.com/20060818/874.html
2005/12/23・・「魂・たましい」とは、多くの死んだ者の「霊魂」の上に、築かれて来たモノなのだ。
だからこそ、老子は「古の人はすばらしい」と謂い、釈迦仏陀は「私が悟ったのは 今世ではなく 何代も前だ」と謂い、イエスは「永遠の 魂しいの世界に入るには・・・」と、云っているのだ。
漢字には「魂魄・コンパク」との単語が有り、「魄・ハク」とは肉体のたましいだから、「いのち・DNA」の繋がりで、遺伝子の情報の鎖を意味している。
「魂・コン」は、人間が長い時間を掛けて、積み上げて来ている意識の鎖である。
「いのち」の鎖は、現在、地球上に存在している全生物が、其の鎖を繋いで居る。其の鎖が切れた物は、何物も、この世には存在しえないのだ。
処が、釈迦仏陀からの教えを継ぐ者・弟子達は、遺伝子とは、何等、関係の無い情報・縁の繋がりで、存在している理・ことになる。
其れが、「魂・コン」と「魄・ハク」の関係の世界である。
しかし、日本には、天皇家と言う存在が125代続いている。其れは、「魂魄」両方を繋ぐモノである・・・
「貴方は偉い 読み取ったね」http://star.ap.teacup.com/170606/698.html
2015/4/9「記録」http://green.ap.teacup.com/20060818/3421.html
私の人生は、36歳までの生き方と、37歳からの生き方は、全く異なったモノと成ってしまった。
其れは、私が望んで、そう成ったのではなく、必然の様にして起きて来た流れに拠ってである。
其の出来事を考えると、今朝の映像で暗い色相の布切れ・短冊の群れの中に、一枚のマゼッタ色の布切れ・旗が紛れ込んで行ったのは、私自身の身の上を暗示している様にも想われるモノである。
言葉には、「運命・宿命・さだめ・使命」等の単語が有る。
私の人生を考えると、確かに其れ等の言葉が意味する世界を体験したと言うか、実証した事に成るのではないだろうか。
私は来月の29日で69歳と成り、再来年は70歳の大台を迎える事に成る。
其れまでの13カ月で、どの様な心情と成るのかは判らないが、良いかたちで70歳を迎えたいと意う。
考えて見れば、私の此の「疑問符」を抱えた気持ちは、幼い時から一時も離れた事が無い、一種の不安の様なモノである。
其の気持ちが、此処まで私を誘って来たのであろう。
そして、其の疑問符が、天神(てんのはたらき)を自分の内に取り込んでしまったのであろう。
其の様に考えると、「安心立命・あんじんりゅうみょう」との言葉は、「自分・みづからのわけ」と言う疑問符の言葉が消えた時に、自分の物と成るのであろう。
其の為には、此の私自身から、「神仏」と言う相対的な言葉が消えてしまうまでは、此の生命・いのちを閉ざす事は出来ないし、「とこしえの壽」に還る事にも成らないのではないだろうか。
平成27年12月28日
礒邉自適
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