1984年6月4日(旧5月5日)神と交わした約束が果たされる事が 今朝告げられました。
18年8月18日未明
事象(とき)の切り替え
今朝は5時15分に是までの時間(とき)が閉じられ、5時22分に新しい時間(とき)が開いた。
其れは、旧約聖書に「神は6日間で此の世界を創造し 7日目に休んだ」と記されている事と関係が有り、是までの「事象・時空・とき」が閉じられて、新しい事象が始まる理・ことが知らされて来たモノの様である。
其の時間の「扉・まく」は、カメラのシャッターの様な物であり、其れは人間の瞼の仕組みと同じで、閉じている時は「月読界」で、開くと「天照界」であると言う事である。2016年6月6日
2016/5/31
効力
28・5・31
今朝のメッセージの映像には、小さな事を幾つも行っている男性と、大きな事を一つ行っている男性の存在が示されて来て、「効力」との言葉が告げられて来た。
そして、其れ等の事に付いて考えて居ると、時刻が気に成ったので照明を点けて時計を見ると、4時25分であったので、私は其の時間を「425・しにご・死に語」と記憶した。
今朝は、先ず「効力」を調べると次の様に載っている。
こう‐りょく〔カウ‐〕【効力】
効果を及ぼすことのできる能力。「―を発揮する」「―を失う」
其れに「効果」を調べると次の様に載っている。
こう‐か【効果】
1ある働きかけによって現れる、望ましい結果。ききめ。しるし。
「薬の効果が現れる」「宣伝結果」
この効果の言葉からすると、今朝のメッセージは、小さな事を幾つも行っている男性と、大きな事を一つ行っている男性の、どちら側の効力が高いかと言う事が、テーマに成っている様である。
私は、昨日、PCが完全に壊れてしまったので、PCに向かう必要が無くなったのかと思い、33年前この世界に入った時の様に、再び全ての行為を止めて、座禅や瞑想の世界に入らなければ成らないのかと考え、座禅に関する道元禅師の「正法眼蔵」の本を手に取って読み始めた。
だが、興味が湧いて来ないので、老子の本を手に取って開くと、其のページは十五章「大人物」のページであった。(308P中の54・55P)
そして、其の文章に目を通すと、以前の気持ちが蘇って来た。
其れは、私が前田氏に出会って、屋久島おおぞら高等学校の建設や薬草園の準備に取り掛かる前まで、自分で紙に書いて、壁に貼っていた文言である。
老子 道徳経15章 大人物
・原文
古之善為士者、微妙玄通、深不可識、
夫唯不可識、故強為之容。予兮若冬渉川。
猶兮若畏四隣。儼猶兮其若客。
渙兮若氷之将釈。敦兮其若棒。
曠兮其若谷。混兮其若濁。
孰能濁以静之徐清。孰能安以動之徐生。
保此道者、不欲盈。
夫唯不盈。故能蔽不新成。
・現代語訳
古の善く士たる者は、微妙玄通、深くして識るべからず、それただ識るべからず。
故に強いてこれが容をなす。
予(よ)として冬川を渉(わたる)がごとし。
猶(ゆう)として四隣を畏(おそ)るるがごとし。
儼(げん)としてそれ客のごとし。
渙(かん)として氷の釈(と)けんとするがごとし。
敦(とん)としてそれ棒(ぼく)のごとし。
曠(こう)としてそれ谷のごとし。
混としてそれ濁れるがごとし。
たれかよく濁りて以ってこれを静かにして徐(おもむろ)に清からん。
たれかよく安んじて以ってこれを動かして徐(おもむろ))に生ぜん。
この道を保つものは、盈(み)つる事を欲せず。
それただ盈たず、故によく蔽(やぶ)れて新たに成さず。
・解釈
昔の真にすぐれたる人物は、微妙深遠で、計り知れない器量をそなえていた。だから説明のしようもないのだが、強(し)いて形容するなら、こんな按配(あんばい)になる。
まず、万事に慎重である。
あたかも冬のさなかに川を渡るがごとくである。
次に、消極的である。
あたかも強国に囲まれて孤立した弱国のごとくである。しかも、重厚である。あたかも招かれた賓客のごとくである。
物事に執着せぬこと、氷が溶け行くさまにも似る。
飾り気のないことは、手をくわえぬ原木さながらである。
無心なことは、広々とした谷そのものである。
そして、捉え所のないことは、濁った水を見る感がある。
これは実に底知れぬ深さを持つ人物である。
濁りを濁りのままに受容して、濁りそのものの静止を待ち、しだいに清く澄ませて行く。これをなしうる者が、いったいどこにあろうか。休止を休止のままに受容して、休止みずからの動きを待ち、しだいに生々発展へと導く。これをなしうる者が、いったいどこにあろう。
このように、「道」を体得した人は、完全になろうと努めずに、おのずと完全になる。
みすぼらしさに甘んじて、立派になろうと努めないのは、そのためである。
・補足
(真にすぐれた人物)原文「善く士たる者」の「士」とは、君主を補佐する政治家、知識階級。
【微妙玄通】
理想の政治家像。自然の理法を体得した人物は、意欲的な明快さはどことして見当たらず、一見デクノボウ然たる姿である。
徳間書店「中国の思想」老子・列子 奥平卓 訳
今朝のメッセージは、私が昨日、此の文章だけに目を通した事と関係が有り、今朝のメッセージで、大きな事を行う人物とは「老子」の様に、誰にも出来ない事に取り組む人物(男性)の事を示唆しており、小さな事を幾つも行っている人物は、器用貧乏ではなくても、大成する存在では無いと言う理・ことなのかも知れない。
其の様に考えると、私が今朝起こされた時間が「4時25分」であり、其の数霊(かずたま)を「425・しにご・死に語」と認識したのは、老子の様に「生きた言葉」を遺す必要があると言う事に成るのかも知れない。
禅の言葉にも「不立文字教外別伝」との言葉が有り、其れは「文字にては 教えが伝わらない」との意味なので、紙に記されたた言葉は「死に語」であると言う事に成るのかも知れない。
2013/10/25・今朝のメッセージの映像は、私が割合に大きな禅宗の寺を訪ねていた。訪ねたと言うより、何物かに、其の禅寺に呼び出された様な感じであった。
私は広い本堂に居て、少し離れた前方に、其の禅寺の60歳代の管長が、私の方を背にして、机を前にして若い男性と話して居た。
そして、其の男性との話が終わったら、私の方を振り返って、傍に来る様に手招きしたので、私は其れに従って傍に行った。
すると、後ろの机の上から、一枚の書類を出して、私の前に置き、新しく梵字の様な文字にて、横に二行書かれている追加文の下に、右中指の拇印を押せと、強引に云うので、内容も訊かずに私はそれに従った。
そして、私が、「何と書いてあるのか」と訊くと「お前は 此の寺から出ないとの証文だ」と云うのである。
其の書類には、上の方に日本語の文章が書かれて有り、其の下には署名捺印がされていて、其れは私し用の書類であり、私は以前に、其の寺で約束事をしていた様で、其れを護らずに寺から出ていたらしい。
私は、其の管長に、「仏教の寺で 書類を書かせて拘束するのは 傍(かたわ)ら痛し」との意味の事を云ったが、管長は其れに対応せずに何処かに行ってしまった。・・
禅宗の言葉には「不立文字」との言葉が有る。其れは、「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」の語句の始めに当たり、「経典の言葉から離れて、ひたすら坐禅することによって釈尊の悟りを直接体験する」という意味となり、禅の根本を示すものとして知られる言葉である。
今朝のメッセージの映像で、私が禅寺に閉じ込められたのは、其の世界に立ち返る必要がある事を示唆しているのかも知れない。
「龍布雲寺」http://green.ap.teacup.com/20060818/2850.html
昨日のメッセージの「新しい道(タオ)」からすると、私は老子の謂う「微妙玄通」の世界に身を処して、神に通じる生きた言葉を紡ぐ必要があり、其の私の言葉が未来を切り開く事に繋がり、其れ等の事が「八百萬神・やおよろずのかみ・矢尾羽諸々の神(はたらき)」を動かす切っ掛けに成るとの事なのではないだろうか。
そして其れが、此処まで私を導いて来た「弘法大師空海」を始めとする、4311体の「神霊の思頼」が、完成する事に繋がるのであろう。
昨日のメッセージの内容から考えると、確かに「道反大神・クナドの神・黄泉大神」の働きが其の役割を果たし始めており、其の効力が効き出しているのではないだろうか。
其れを考えると、昨日の映像で、道路や鉄道の世界が新しく成ると示されて来たのは、「道反大神」との名前が其の働きを示していると言う事にも成る。
2002・10・24・・由緒書きを読んで見ると、熊野神社の祭神は「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」だが、合祀させられたのが「道祖神社」で、本々は道祖神が祭られていた場所らしい。祭神の名は「クナドの神」で、又の名を「道反大神」「黄泉大神」と言うと説明されている。
此の神は、現世と、あの世(黄泉の国)の間に存在する神らしい。
有名な「猿田彦神」も、高天原と現世の間に位置する神で、道祖神とされているので、同じ働きの者だろう。
由緒書きの中には、「此の神は 巨石を以って 象徴され、街路坐(みちにま)して悪霊を防ぐとされ、『船戸神』『久那斗神』とも呼ばれている」とある。・・・
「よみどの大神」http://star.ap.teacup.com/applet/170606/303/trackback
平成28年5月31日
礒邉自適
2016/5/30
新しい道(タオ)
28・5・30
今朝は6時9分に起こされて、文章を打ち始め、10時頃には書き上げたが、ブログにアップする時に、パソコンが動かなく成り、完全に壊れてしまった。
是で、PCから離れる事に成るのかと思ったが、夕方に成って、今朝のメッセージを記録して措かなければ、其れが気になって、頭が空に成らない事が判って来たので、由香のPCを借りて書き留める事にした。
今朝のメッセージの映像には、先ず、道路や鉄道などの道に関する世界が、新しい物と成る事が示されて来た。
其れから、私が愛媛県伊予市の山中に住んで居る時に、懇意にしていた芳賀美光氏が登場して、私を車で彼方此方に案内し、知らない人達に紹介をする場面が映し出されて来た。
そして、其れ等の人々は「八百萬神」の世界と関係が有る事が示されて来た。
次の映像は、私が何処かの岩盤を掘ると、地下に続く空洞が開いているのが判明した。
そして、其れは、各地で神のお告げが有って、其のお告げにより岩盤を掘ると、私と同じ様に、地下に向かう穴が空いているとの事であり、其れは弘法大師空海に関係が有る事が示されて来た。
其れ等の事を考えて居ると、時刻が気に成ったので証明を点けて時計を見ると「6時9分」であったので、私は其の数字は「69」で道・タオのマークと関係が有ると思った。
其処で、起きる事にして寝室から出ようとすると「忘れているものがある」との言葉が告げられて来たので、何を忘れているのかと思って、一応寝室を見回して見たが、何も無いので何を忘れているのかと思うと、「手力男命」の事が頭に浮かんで来て、今朝の岩盤の穴の世界は「岩戸開き」に関係が有ると思われて来て、其れで一応意識が治まって、PCに向かう事が出来た。
今朝のメッセージは、最初の道路や鉄道の世界は道案内の神(はたらき)である「猿田彦神」と関係が有り、次の芳我氏が私を彼方此方に案内したのも、道案内の役割である事が解る。
其の芳我氏は、以前「全国青年会議所 会頭」の付き人を務めていた方なので、私の意識が芳我氏に案内されて人々に会って居たのは、商工業の人々が「八百萬神・やおよろずのかみ・矢尾羽諸々の神(はたらき)」の一部である事を、示唆して来ているのであろう。
其れに、岩盤の空洞の存在は、「岩戸開き」には多数の役割の神(はたらき)が手伝った事に成っているので、其れも八百萬神の世界と関係が有る。
其れに、其の岩盤の空洞の世界に弘法大師空海が関係あると言うのは、空海が室戸岬の岩穴に籠って「虚空蔵菩薩求聞持法」を取得した事や真言(マントラ)と関係が有り大日如来の世界にも関係が有るのかも知れない。
其れに、空海は旅人の為に水飲み場の井戸・泉を準備して、其の泉の畔に岩石を設置して、其の岩石に文字を彫刻し、自分の情報をインプットしてあるので、岩石の波動にも認識が有ったので、密教の世界にも関係が有る。
何故、私が其の様な事を謂うかと言うと、私が其れ等の空海の石碑に手を翳(かざ)すと、空海が入力した情報・波道を読み取る事が出来たからである。
其れに、道案内の神である「猿田彦神」の神の存在でも、私には奇跡が起きた事が有る。
・・1984年の夏には、小倉に有る「田川ホテル」から、朝「無庵師匠」の家に向かう途中、道を間違えて「瑜伽神社」の前に出たので、お参りをして「猿田彦神」と彫られている石に、清めの水を一度掛け、二度目を掛け様とすると、一番上に彫られている「猿」の文字の所に、新しい5円玉と1円玉が突然に現れた。
私は、其の二枚の硬貨を三途の川の渡し賃である「6文銭」だなと想い、其の6円を手に取り、前日に買ったばかりの、新しい車のキーホルダーの小銭入れに入れて、再び無庵師匠の家に向かった。
そして、其のキーホルダーを無庵師匠の自宅居間の応接台の上に置き、食堂のテーブルで朝食を摂っていると、又、目の前に5円玉が出て来た。
私が、変だなあーと想っていると、又、続いて1円玉がテーブルの上に出て来た。
私が、其の出来事に変だなと想い、襖を開けて、隣の部屋の応接台の上に置いて有る、キーホルダーの中を見ると、神社で入れたお金は消えて、ホルダーの小銭入れの中は、空に成っている。・・・
「猿田彦の神」http://star.ap.teacup.com/170606/1079.html
「猿田彦神社」http://star.ap.teacup.com/applet/170606/303/trackback
「人間の深層心理」http://moon.ap.teacup.com/20061108/390.html
其れ等の事を考えると、私が今朝6時9分に起こされたのは、新しい世界に人々を導く準備が天神界で整った事を示唆しており、老子の言う「道・タオ」の世界が、新しい形で始まると言う事なのではないだろうか。
其れが、来月6月9日と関係が有るのなら、残り10日間である。
平成28年5月30日
礒邉自適
2016/5/29
修業の世界
28・5・29
今朝のメッセージの映像は、昨日の「彷徨える魂」の続きの様で、人間は自分の意識の安定を図る為には、何等かの心の拠り所と成るモノ(世界)を見付けて、その事に意識を向けて措く必要がある理・ことが示されて来た。
私は、其れは「修業」の世界であると思ったので、今朝の文章の題は「修業の世界」とした。
修業との言葉は、検索すると次の様に載っている。
しゅぎょう【修業】( 名 ) スル
学問・技芸などをならい修めること。しゅうぎょう。 「師について−する」 〔同音語の「修行」は仏道に励むことを主にいうが,それに対して「修業」は学問・技芸などをならい身につけることをいう。なお,「修行」は「修業」とほぼ同等の意で用いられる場合もある〕
今朝のメッセージの映像は、先ず、数人の人達が、道らしき道が無い山岳地帯に踏み込んで行き、探索を終えてから、ようやく元の場所まで帰って来る様子映し出されて来た。
次に、何処かの山裾が開発されて、広い空き地に成っており、其の土地を利用して、簡単な建物が建てられており、其の建物を基地として、各個人が地形を生かして、思い思いに瞑想や尺八演奏等の修行を行っている場面が、映し出されて来た。
次の映像は、人家の無い地域の、河川や池沼で、鰻や鯉等を捕まえる、籠や罠を仕掛けている人達の存在が、示されて来た。
其れ等の場面は、個人個人が自分の手段で、自分の行いを確かめる為の行為であり、現代社会でシステム化されている、資格を取る為の修行・修練ではなく、教師の存在が無く、文字を必要とはしない世界であった。
そして最後に、私が建物の世話をした、創価学会の幹部の自宅が映し出されて来て、其の家の周囲に暴風が吹き荒れている様子が映し出されて来た。
其の映像の意味は、現在最大の宗教組織であり、政治的にも大きな力を発揮している創価学会の人達には、暴風が吹き荒れる事態が近づいていると言う事なのであろう。
今朝のメッセージは、個人個人のオリジナルな生き方が必要である理・ことが示されて来ており、「寄らば大樹の陰」の様な生き方をしている人達には、先行きが判らない事態が訪れると言う事なのではないだろうか。
其れを考えると、何かに依存した生活態度を、出来るだけ早く止めて、自分自身の生き方を始めなければ、崩壊して行く社会の流れに飲み込まれて、人生を棒に振る事に成るとの理・ことではないだろうか。
其れは、自分自身の行き方を探す事であり、他人の真似をするのではなく、独自の人生・行き方を確立する事である。
其れは、「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿の世界や、「随神・かんながら」の世界に通じており、他人の真似をするのではなく、自分自身のオリジナルを築いて行く世界であると言えるであろう。
其れに似た概念として、禅の言葉に「不立文字教外別伝」と有り、其の意味は、学校や本で知識を学習するではなく、自分自身の体験を通して身体に覚えて行く世界であり、人真似では成功しない世界である。
何故、今朝その様な映像が映し出されて来たかを考えると、現在の社会構造は、大きな政府、大きな組織(宗教・会社・流通)に拠って、情報がコントロールされているので、其れ等の組織が崩壊した時には、個人の意識や行動がパニック状態に陥り、生きる手段を失ってしまう事に成るからである。
其の為にも、自分なりの生き方を模索する必要があると言う事になるのだろう。
平成28年5月29日
礒邉自適
2016/5/28
彷徨える魂しい
28・5・28
今朝のメッセージの映像は、先ず未明に、私の所(道場)に、弟子の様な若い男性が五名入門して居て、三人を買い物に行かせると、持たせたお金で買い物をせず、自分達が好きな物を飲み食いしてしまい、其の内の一人は悪戯を始め、他人の物を壊したり、所構わず糞尿をしたりし始めた。
明け方の映像には、仏像等を制作している50歳代の工芸家の男性が登場して、注文されていない自分の作品を、勝手に販売店に運んで店内に設置したり、帰り道では、通りの店舗の店先に車寄せをしたり、見知らぬ婦人に声を掛けたりして、情緒不安定な症状を起こしている場面が、映し出されて来た。
今朝のメッセージの映像から、私が感じ取った事は、昨日で、神(はたらき)の方向と言うか、体勢が切り替わった事で、本日から、人間の精神界に変化が起きると言う事である。
其れは、人間の精神・みたま・意識が、是から解き放たれると言う事であり、其の解放に耐えられない者・拠り所の無い者が、パニックを起こして、社会が混乱すると言う事の様である。
だが、其れは、近代社会の中に身を置く人間の精神に起きる事であり、昔ながらの暮らしを、自然環境の中で続けている者達には、関係が無い事である。
何故なら、自然環境の中で暮らして居る者達の精神は、自然の働きと共に在るので、其の自然は変わる事無く安定しており、其の自然の掟と言うか流れは変わる事が無いので、其の自然の法則に従って生きて居る者達には、近代社会の崩壊は何等関係が無いからである。
一方、近代社会の中で、産まれ育った人々は、生活環境だけではなく、教育・学習の場が、全て人間が頭で創り出した物であるので、其の条件と言うか、仕組みが崩壊した時には、自分の意識状態を保持出来なく成るので、心の拠り所を失って、パニック状態に陥り、情緒不安定に成ってしまうのである。
其の事は、現代社会で、政治家や芸能界だけではなく、あらゆる場で発生して来ているので、既に兆候が表れていると言える事でもある。
今朝のメッセージの映像を分析すると、次の様な事柄が見えて来る。
最初の映像で、五人の男性が私の道場・ところに来ており、二人は道場に留まり、三人が破門される様な行いを起こして、其の内の一人は精神病院に入れられる状態であったので、道理に従える者は五人中二人であり、二人は道理に準じられない者であり、一人は精神病院に入れなければ成らない人物であると言う事に成る。
其れは、比率で言うなら道理が解かる者は全体の40%であり、自分の都合だけで生きる者が40%で、20%は情緒不安定か、精神病院に隔離しなければ成らない状態の人間であると言う事に成るであろう。
そして、仏像彫刻をしている男性が、精神を病んでいる場面は、神仏の像を制作していても、其れは生活の為・お金を稼ぐ為に行っている行為であり、信仰心から行っていない事を示唆しており、作品が売れなければ、生活に行き詰って精神病状態に陥ってしまう理・ことを示している。
其れに、始めの場面で、悪戯をしたり、糞尿を所構わずして居た男性は、思想家の一人息子であり、父親コンプレックスに陥っている若者であった。
其れは、父親の生き方が、息子に影響を与える理・ことを示しており、其れが思想家の息子であったのは、人間の生き方は、現実に伴った生き方をする事が大事であり、思想・イデオロギーに嵌ってしまう男性は、子供よりも、自分の思想の方を重要と考えるので、父親としては、失格である理・ことが示されて来ているのであろう。
其れを考えると、精神的な生き方をする聖者や仙人・僧侶・神父が結婚をしないで、後継者としての息子を作らない事の理由も理解出来て来る。
其れを考えると、「天津日継・天津日嗣」の役割である「すめらのみこと・天皇・皇帝・みかど・大君」は、結婚をして後継者である男子を育てる必要が有り、聖者・仙人・僧侶・神父とは、異なる生き方を、しなければ成らないと言う事に成るであろう。
其れは、「天津日継・天津日嗣」とは精神世界・思想的な生き方をする人間の役割と言うより、現実的な生き方をする人間の存在に関係があり、其の生き方は臣民の手本と成るか、心の拠り所と成らなければ成らない、存在であると言う事になる。
現代社会では、其の存在が明確ではなく、人間社会を席巻している情報が、貨幣経済中心であり、何事もお金儲け第一主義に成っているので、其の経済システムに拠って、一部の人間だけに富が集中しており、全体のバランスが壊れた時に、中心軸を失って精神が崩壊して行く事に成るのである。
其の様な事を防ぐ為にこそ、是まで「神社仏閣」其れに「教会」の様な存在が必要であり、道士・神主・神父・僧侶などの存在が、必要とされて来たのである。
しかし、現在の神社や寺院の多くは、人々の精神を癒し導く所ではなく成り、商売繁盛や合格祈願などの、現世利益を願う場所に成り下がっているので、本来の役割を果たしていない事になる。
今朝のメッセージは、昨日の「タイトチャッピー(tight chappie)」と関係が有り、是から始まる近代社会の改革開放の波乱に対応する為の、心構えが示されて来ており、其れは5月18日のメッセージの「崖淵の国家」とも関係が有って、此処の所の一連のメッセージが、現代社会が「末法」の時代に至っている理・ことを、示して来ているのであろう。
以前に「末法」に関して文章を書いた記憶があるので、検索して見ると次の様な文章が有った。
2006/9/27・・私は22年前、禊ぎ祓いの後、海岸の山に生えている椎の木に寄りかかって、海を眺めていたら、突然太平洋に火柱が立ち、其の火柱の中に「末法」との文字が現われた。そして、大地から赤い龍が出て来て、私の身体に巻き付いたのである。
其の現象こそ、マグマの意志ではなかったのだろうか。・・・
「最後の警告」http://green.ap.teacup.com/20060818/37.html
2000/8/9・・釈迦牟尼佛は、教団を作ることを許可していませんし、イエスキリストも「神は 建物には住まない」と謂って、旅を続けて教えを伝える事だけを云っています。
老子は、天の働き・道の徳を説明して、天の徳・道の働きに、身を処す理だけを伝えています。
これ等のことから考えると、現在の人々は、「皆 頭が変しい」と言うしかありません。世の中に、積み気枯れが充満しきったのでしょう。
釈迦牟尼佛が謂う様に、末法の世の中と成って、衆生皆が「無明」に陥ったとしか言えないでしょう。
今こそ、大祓祝詞に伝えられているように、祝詞を唱えるのではなく、祝詞に書かれて有る通りに、実行すべき時節に到っているのです。
それが、今朝現われた「卩+芰」の文字の意味でしょう。
「みんな頭がおかしい」http://moon.ap.teacup.com/20061108/265.html
2010/9/4・・今朝のメッセージの映像は、学校の様な敷地の中に存在する、大きな倉庫が映し出されて来て、「請負人」との言葉が告げられて来た。
どうやら、其の場面の意味は、是から、多くの会社や工場が倒産するので、其の始末と言うか、後片付けを請負いなさいとの事の様である。
其れは、人材の斡旋や、物品のリサイクル等が、関係あるのだろう。
我々は、是まで「岩戸開き」との言葉から、岩戸が開けば、何か良い事が起きると思い込んで来ている。
しかし、岩戸が開いた時に、人間に都合の良い事だけが起きるとは、限らないのである。
其れを考えると、確かに、人間のカルマ・業の清算と言うか、社会全体の禊ぎ祓いの時節が、来ているのかも知れないのである。
其れに対して、私が何をすれば良いのか、まだ明確な答えは得てはいない。・・・
「請負人」http://green.ap.teacup.com/20060818/1657.html
2002/12/24「195」神の伝言http://wave.ap.teacup.com/20060106/91.html
2000/12/16「人は自分に都合のよい情報を選んでしまう」
http://moon.ap.teacup.com/20061108/277.html?rev=1
2005/8/16「別け御霊」http://star.ap.teacup.com/170606/549.html
2006/8/19「本当の自分」http://star.ap.teacup.com/170606/1014.html
2005/11/21「見えた」http://star.ap.teacup.com/170606/645.html
これ等の内容に目を通すと、釈迦牟尼佛が予言した「末法の世・無明の世界」や、イエスキリストの謂う「そのとき」が、本格的に始まると言う事に成るのかも知れない。
平成28年5月28日
礒邉自適
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