
茹でた法蓮草から立ち上って サランラップで冷えた蒸気
打瓦人・だがじん
29・3・29
今朝のメッセージの映像は、私が「正しい」とされる「家・人・建物・言葉・理論・組織・・・」等を造ろうと、何度も何度も、挑戦する場面が映し出されて来て、結局は巧く行かないので、諦めて、其の世界から離脱し、自宅らしい家に帰る場面が映し出されて来た。
そして、家に帰り着いて、屋中に入ると、其の家の中は、床全面とベッドの上、其れにテーブルの上まで、まるで貝塚の様に、人間が食べて捨てた貝殻で、足の踏み場も無い状態と成っており、人間が住める様な状況ではなかった。
其れ等の、映像の意味に付いて考えて居ると、「だが人」との文字・言葉が映し出されて来たが、其の「だが」との二文字は、とても難しい漢字であり、黒くボケていたので、字型を確認する事が出来なかった。
だが、其の単語の意味は、「物事を全て打ち砕く人」との意味である事が、理解されて来た。
朝起きて、早速、其の意味に当たる「だ・が」の漢字を漢語林で調べてが、其の意味に当たる様な漢字が見当たらないので、摂り合えず、打撃の「打」と、瓦解の「瓦」で、「打瓦人・だがじん」として見た。
・瓦解[名](スル)
一部の瓦(かわら)のくずれ落ちることが屋根全体に及ぶように、ある一部の乱れ・破れ目が広がって組織全体がこわれること。「汚職から政権が瓦解する」
・打撃[名](スル)
1 物を激しく打つこと。「頭部に打撃を与える」
2 思いがけず、または突然に心の痛手や物の損害を与えること。「父の死で大きな打撃を受ける」「台風は農作物に打撃を与えた」「仮令(よし)此の戦争が露西亜の専制を―する上に」〈木下尚江 ...
・撃破[名](スル)
攻撃して敵をうちやぶること。うち負かすこと。「各個撃破する」
此の漢字の意味からすると、今朝示されて来た「打瓦人・だがじん」との言葉は、正しい御世を創造する為には、古い物を全て、一度壊さなければ成らないので、其の事を行う人の呼び名であると言う事に成る。
其れは、インドのシバ神が、破壊と創造の神である事に通じ、新しい世界を創造する為には、一度古い世界を根こそぎ破壊して、場・グランドを新地(さらち)にしなければ成らないと言う理・ことなのであろう。
其の事と、私が帰った家の中が、貝塚の様に成っていた事の関係を考えると、今朝の最初の映像場面で、私が正しい人間社会を構築する為に、何度挑戦しても実現しなかった事の原因が、人間社会は余りにも多くの情報を取り込み・食べ過ぎ・貯えて来たので、真実の世界・本来あるべき正しい世界を、見失っていると言うか、認識できない様に成っていると言う事である。
其れは、現在の近代社会・先進国の在り様を視れば、一目瞭然(いちもくりょうぜん)であり、現代人の意識は、あらゆる情報に、朝から晩まで・年中浸されているので、本来の自分・自己に一度も戻れない・リフレッシュ出来ない状態に陥ってしまっている事に成る。
其れこそが、法華経の中に有る「業火の家の中に居る人達を どの様にしたら救えるか」の課題なのであろう。
【一目瞭然】
[形動][文][ナリ]ひと目見ただけではっきりとわかるさま。
【リフレッシュ】
[名](スル)元気を回復すること。また、生き生きとよみがえらせること。
今朝のメッセージから、私に想起される事は、旧約聖書で、神が創造した最初の人間である「アダム・男」と「イブ・女」が、エデンの園を追放された原因が、蛇に唆されて「禁断の実」である「林檎(知識・言葉情報)」を食べた所為であるとされている事が、其の儘現代まで、増幅されながら続いていると言う事である。
そして、其の事に気付いた「老子(道院殿老祖様)」は、「庶民に学問を与えると 賢しらが増える」と謂って居り、仏陀釈迦は「出家」と「覚醒」を薦めているのである。
そして、我が日本国では、其の事の為に「禊ぎ祓い」の必要性が説かれているのである。
今朝のメッセージの状況からすると、誰か・何者かが、近代社会の積み穢れを祓う為に、「打瓦人・だがじん」と成らなければ成らない様である。
其れが、出来なければ、アフリカの草原の民であるケニアの人々の様に、同じ民族が武器を手にして戦う様な状況が、世界の隅々まで広がって行き、世の中は良い方向に向かう所か、増す増す不幸に成って行くと言う事である。
其れは、安定している様に見える、近代国家・世界システムは、人口増加と食料供給のバランスが崩れた時に、一気に瓦解する事で明らかと成るであろう。
そう成らない為にも、一人でも多くの人々が、何が真実であるかに目覚めて、正しい生き方に、意識を振り向けなければ成らないのである。
其れは、世界一の先進国であるアメリカが、トランプ大統領の登場で逆向きの方向に進み出しているので、其のトランプ大統領が「打瓦人・だがじん」の役割を担っている人間であると、言う事に成るのかも知れない。
一昨日の「牟尼・むに・muni・寂黙」の意味からすると、説法に明け暮れて死んでしまった「ゴータマ・シッダッタ、瞿曇悉達多」は、寂黙の人ではないので「釈迦牟尼佛」との呼び方は止めて、是からは「仏陀釈迦」とする事にした。
其れに、弟子達に「私の教訓を広めなさい」と、謂った「イエスキリスト」は最初から「牟尼・むに・muni・寂黙」の人ではなかったと言う事に成る。
今朝のメッセージの内容からすると、私が幾ら世直しをしようと考えても、「くたびれもうけ」にしか成らないとの事の様なので、私はやはり「老子(道院殿老祖様)」の様に、人々と接する事は止めて、自分自身の考えを纏めて行く事が重要なのであろう。
其れこそが、エジプトの「トト神」の化身としての「書記長」の役割であり、其の立場が、私に一番似合っていると言う事に成るのかも知れない。
2008/9/28・・老子の言葉に「自分の事を 一番心配している人に 国を預けなさい。そうすれば国は潰れる事は無い。国の事を心配して 走り回っている人に国を任すと 直ぐに 其の国は潰れてしまう。」とある。
今朝は、明け方「素人が わたしを愛している」との言葉が告げられて来た。
其れは、現在・いまの宗教家は、真実の「神・存在」を、正しく理解していないとの意味であろう。
そして、素人の方が、神の存在を理解しているとの事ではないだろうか。
其の「あたし・存在」とは、地球生命全体の「いのち」の基である、「DNA・遺伝子」の二重螺旋から発せられている意識である。
釈迦牟尼佛は、其の「存在・あたし」を「ほとけ・生命」として感じとり、「頼れるモノは 此の自分の肉体だけである。
だから 「精進が一番大事である」と説いたのである。
一休宗純禅師の言葉には、「昔 釈迦と言う悪戯者が居て 余計な事を云ったので 現在の様な 迷い人が多い世の中に成ったのだ。」とある。
其の一休宗純禅師の「想い・念い」が、私の「憶い・思念」と成って、私の「おもい・重い・おもし」と成っているのだろう。・・・
「素人が私を愛している」http://green.ap.teacup.com/20060818/897.html
2008/8/30・・今朝は、メッセージらしき雰囲気の無い侭、明け方に「バットを置く」との言葉が告げられて来た。
「バットを置く」とは、野球の世界の言葉であり、ユニホームを脱ぐとかの言葉と同じく、野球選手が引退する時に使う言葉で、手にする道具を手放す事で、自分の行為を止める事を意味する。
何故、スポーツに全く縁の無い私に、其の世界の言葉を、告げて来たのだろうか。
私が、其の言葉で頭に浮かぶ事は、漢字の「知・チ」の文字の意味である。
漢字の「知」は「矢+口」の組み合わせで、「手にしている 矢を神に預けて 無為で神の言葉を受ける。知らせを待つ。」の意味である。
其れは、ヤクザ言葉で「足を洗う」と言う言葉と同じ意味であり、釈迦牟尼佛の謂う「出家・シュッケ(入寺ではない)」とも同じ意味を持っている。
つまり、自分の全行為を止めて、神の言葉に従うとの意味である。
バットとは、球を打ち返す為の道具である。
其れを止めると言う事は、打撃を止める事を意味し、自分が壁に向い、球を投げてキャッチボールをする事は、構わないとの理・ことではないだろうか。
其れも駄目なら、ボールとかグローブを置けと、告げて来るだろう。
其れは、自分が、言葉に付いて筆を進める事は良いが、他人に向けて、其れを打ち放つ事が、いけない行為であるとの理・ことかもしれない。
イエスは「自分の訓えを 拡大しなさい。」と謂って居るが、中国の老子は、其れとは全く反対で、「精神的な理を 他人に話してはいけない。」と謂っている。
其れが、イエスの訓えと、老子の訓えの大きな違いである。
日本には「理屈を云うな」との諺が有る。
其れは、老子の訓えの方に合っている。・・・
「バットを置く」http://star.ap.teacup.com/2007313/523.html
2011/12/29・・今朝のメッセージには、「容認するな」「排除するな」との、対に成る様な言葉が、告げられて来た。
其れは、何かを受け入れてもいけないし、排除してもならない理・ことを、意味している。
そして、夜明けには「ただ 受ける」との言葉が告げられて来た。
其の言葉は、私の行為が、制限されて来ている事を意味し、此れからの私の行動は、ただ受けるだけで、自分から、何かの行動を起たり、自分から何かを云っては、成らない事を意味しているのではないだろうか。
其れは、老子の謂う「雄の立場を知った上で 雌の立場に身を置け」との言葉を、私自身が実践するとの事なのかも知れない。・・・
「ただ 受けるだけ」http://green.ap.teacup.com/20060818/2166.html
今朝のメッセージからすると、私自身が貝塚を作り出す事を、止めなければ成らないと言う理・ことなのではないだろうか。
「そうではなく 正しい食べ方を 指導しなければ成らないと言う事である」
9時57分(救護名)
平成29年3月29日
礒邉自適