1984年6月4日(旧5月5日)神と交わした約束が果たされる事が 今朝告げられました。
18年8月18日未明
事象(とき)の切り替え
今朝は5時15分に是までの時間(とき)が閉じられ、5時22分に新しい時間(とき)が開いた。
其れは、旧約聖書に「神は6日間で此の世界を創造し 7日目に休んだ」と記されている事と関係が有り、是までの「事象・時空・とき」が閉じられて、新しい事象が始まる理・ことが知らされて来たモノの様である。
其の時間の「扉・まく」は、カメラのシャッターの様な物であり、其れは人間の瞼の仕組みと同じで、閉じている時は「月読界」で、開くと「天照界」であると言う事である。2016年6月6日
2017/11/30
続
29・11・30
今朝のメッセージの映像は、先ず、私の意識が、人間社会に関わりを持って居る場面が映し出されて来て、其の世界が火が燃える様に赤く染まり、其の中で炎が「続」の漢字の形に成った。
次に、地面が深く削られて行く場面が映し出されて来て、断層が現れ、下から其の高い断層を見上げて居ると、其の中に、白いチーズの様な塊が有る層が有る事が映し出されて来た。
其れから場面が変わり、私が海岸の方に向かうと、海岸に面した森の中に、大きな平屋の建物が一棟有り、其の建物に近寄って見ると、其れは子供達が自然体験をする臨海学校の様な施設であり、運営は民間のNPO法人がしている事が判った。
私は、其の施設や運営が気に入ったので、自分も海に潜って見る事にして、自分の水中眼鏡を着けようとすると、とても古く成っているので、頭に掛けるバンドが直ぐ切れてしまい、海に入る事は出来なかった。
今朝起こされた時間は、7時5分である。
今朝のメッセージの映像に登場した人物には、私が知っている人間は一人も居なかったので、是までの私の行動とは、異なる世界が始まる事を意味している様である。
其れに、私が海に潜ろうとすると、自分の水中眼鏡のバンドが古くて、直ぐに切れてしまったのは、私の現場への対応は、もう時代遅れなので、必要ではないと言う理・ことが、示されて来ている様である。
今朝は、PCを立ち上げると「あきらかに」との女神の声が聴こえて来たので、女神のブログを開くと、続きの言葉が告げられて来た。
「貴方の努力のお陰様で 多くの事柄が
明らかに成って来ました
其れは 皆の無明が 晴れる事に繋がりますので
貴方の働きこそが 彌勒菩薩であると言う事にも成ります
ですが 其の事は 貴方の役割りの一部であり
未来創造に 直接繋がる事ではないのです
勿論 過去の情報が 正しく成る事は
未来社会を構築して行く為には 大変重要な事でもあります
其の事は 昨日で終了したと 考えてください
そうでなければ 貴方の意識が切り換わらないので
さきに進む事ができないのです
良いですか 未来世界を創造すると言う事は
全てが 新しい仕組みに成る事ですから
古い形や 人間関係に 拘って居ては
前進する事には 成りませんよ
ですから 貴方自身の意識が
全く新しいモノと 成らなければならないのです
其の事を 貴方自身が 強く感じなければ
切り換えを行なう事が 出来ません
其れは 貴方の意識・情報が
一度 リセットされる必要があると言う事です
其の事の為に スズメ蜂やムカデの協力が
必要だったのです
良いですか 貴方が関わっている世界は
人間社会の事だけではないのですよ
此の宇宙の仕組みは 一見して巨大に見えますが
小さな想いを 元にして 映し出されている
幻影の様な世界であり 中心の小さな核が崩壊すれば
全てが 無に帰す 危うい世界なのです
ですから 「神(はたらき)」の概念が 人間の無意識層に
継続されているのです
其れは 有る様に認識されていますが
無い世界でもあるのです
其の様な 不安定な世界だからこそ
統尊(すめらのみこと)の存在が 必要不可欠なのですよ
だからこそ 昨日貴方の潜在意識の中に
「こんなものですかね」「そうだね」との会話を 仕込んだのです
ですから 此処からが「事象の特異点」と
「新しい神の座標軸」の開始と言う事に成るのですよ
良いですか 改めて「天津日嗣・あまつひつぎ」との言葉が
どう言う意味であるのかを しっかりと考えるのですよ
其れは 貴方一人の事ではなく 宇宙全体の事なのですから 」
「あきらかに」http://moon.ap.teacup.com/20060103/887.html
今朝起こされた時間が「7時5分」であったので、7月5日の文章に目を通すと次の様な事が書いて有る。
2017/7/5今朝のメッセージには、「二通り」との言葉が告げられて来て、私には、是から、何等かの選択が必要である事が示されて来た。
其れが、何であるのかは、明確には示されて来なかったので、私自身が其の二つの世界を創造して、どちらかを、選らばなければ成らないと言う事の様である。
其れは、試験・テストを出して来る存在も、審査をする存在も居ない世界であり、自分で二者選択の課題・問題を提起して、其のどちらかの道を選んで、進んで行かなければ成らないと言う事である。
其れを考えると、一昨日の情報発信の岩山の存在と、経済を立ち上げる事務所が有る山の土地の存在が、気に成って来る。
そして、其の山に登るのは、どちらも同じ、右螺旋構造の道路を上がって行かなければ成らない世界である。
其れを考えると、二匹の蛇・陰陽の蛇が左螺旋と右螺旋で這い上がる、ヘルメスが手にする「ケリュケイオン杖」の構造・意味合いとは、同じではないので、二通りの世界とは、陰陽・左右の関係ではない様である。
其れに、兜頭の岩が有る山の電波塔は、人間界だけではなく、岩戸の世界である四次元にまで、情報を発信しなければ成らないとの事であり、新しい経世済民の政策を立ち上げる事務所の方は、人間社会の現場にだけに関わる事務所の機能である。
其れを考えると、今朝告げられて来た「二通り」との言葉は、其れ等の事とは関係が無く、何等かの別の世界を、考えなければ成らないと言う事に成る。
今朝の明け方の映像には、私の孫であると言う男の子が二人登場した。
兄の方は、14歳程の年頃で、健康で見掛けも良く勉強が出来る優秀な男子である事が、一目で判る存在であった。
其れは、両親にも誉であり、社会的にも健康優良児で100%欠点が無い存在である事が、理解されて来た。
一方、弟の方は、2〜3歳の元気な子供であり、両親の言う事を訊かない性格で、自由奔放な振る舞いをするので、両親が其の子をどう育てたら良いか、思案に暮れている様子であった。
其処で、私が登場して、「この子は 神の子供だから 普通の子供の様に育てたら 駄目に成る」との様な事を説明して、私が養育を引き受ける事に成った。
其れは、両親にとっては、兄と同じ様に育って欲しいのだが、弟の方はどの様に対処したら良いか、全く判らないと言うか、手が出せない理・ことを示していた。
私は、其の場面から、男子の役割りは大きく二つに分かれており、其の働きを明確に認識して、新しい時代の子供達を、育てて行かなければ成らない理・ことを自覚していた。
そして、其の二人の男児の存在から、私は人間世界の「生命・いのち」の仕組みを想い、其れは「天津日嗣・あまつひつぎ」にも関係が在り、「魂魄・こんぱく」の言葉が意味する世界を、根本的に究めなければ成らない事を実感して居た。
今朝は、6時36分に起きて、PCを立ち上げて、今朝の文章の題を何にしようかと想って居ると、毎度の様に、何等かのエネルギーが私の意識に覆い被さって来たので、女神の意識作用かと考えたが、女神のチャンネルも通じない、何等かのエナジー空間が、私の頭脳・脳裏を占有しており、言葉や文字が浮かんで来ないのである。
其れで、自分から外にチャンネルを求める事を止めると、自分の内側のチャンネルが開いて来て「何かを無くす」との言葉を想起するイメージが、脳内に広がって来たので、其れを打ち込むと、続きの言葉が自分の脳裏から湧き出して来た。
『何かを無くす』
人は 何かを無くした時に 変心する。
其れは 釈迦が王城を捨てた時 空海が公務員を辞めた時に似ており
私は37歳の時に 全てを捨てて
此の神の世界に飛び込んで 自由を得た。
其れこそが イエスが「親や兄弟を捨てて 私に付いて来なさい」
と謂った事や 釈迦が「出家」を勧める原因である。
私は一昨日 完熟した西瓜の内部の黒い種子を観て
其れとは違う感覚にて 私の中から何かのコトが
無くなって行った感覚がある。
其れが何であるのかは 私にも定かではないが
其の放出感には 神仏も手を出せない様である。
其の理由を考えると 神仏の意識が自分の中に入り込んで来るのは
自分の中に 其れを求める心が有るからであり
真実の自分が立ちあがった今 其れ等の現象は起きない。
起きないと謂うか 起き様が無いのである。
其処には 阿弥陀仏も観音菩薩も必要ではなく
自分の立ち位置さえも 必要ではないのである。
何故そう成るのか 其れは本来 人間とはそう言う物であり
自然の中で暮らす オランウータンと同類であるからである。
いまPCで 其のオランウータンの姿を見ると
私は子供の頃から森の中に行って大木の枝上に座って居ると
元気に成って居た事の原因が理解されて来た。
其れは 其の行動で私の意識が1400万年前の
分離の次元空間に タイムトラベルするからである。
其の世界は 父親や土肥無庵にも判らない世界なのではないだろうか。
何故かと謂えば 其れは小学生の時から
屋久島の原始の森の中に 一人で出かけていた
私の 肌感覚からのモノであるからである。
私が中学生の時に 初めて外泊して 翌朝家に帰った時に
母親から「夕べは 何処に泊ったの」と問われ
私が直ぐに「木の枝」と答えた事は
私の無意識界には 其の世界が 有るからなのであろう。」
今朝の、私の心境と謂うか、意識の在り方からすると、今朝のメッセージの映像に映し出されて来た、私が自分の孫の子育てに関わる場面は、私自身の想いや願望からのモノ・現象ではなく、私の父親「礒邉勲」の意識が、自分の魂魄(こんぱく)の継続を願っている事が、映し出されて来たモノの様である。
そして、今朝の私の意識の状態こそが、魂魄との言葉の概念を象徴するモノであり、今朝の私の意識の背景には、自分の父親の意識だけではなく、祖父の意識が繋がっており、其の根源には御祖神(みおやかみ)の存在が有るので、其の御祖神の意識に直接関係が有る「土肥無庵」の意識も、重なって来ているのであろう。
其れを考えると、御祖神(みおやかみ)を祭祈する天皇家の存在が、其の世界を伝承・継続する役割りを担っているモノであるので、天皇家の存続・系譜が男子一系である理・ことが基本原則である事の意味も、能く理解されて来る。
今朝のメッセージで、2〜3歳の弟の子の方が、親の謂う事に従わない場面は、其の男の子に御祖神の霊魂が転生して来ているからであり、其の男の子には、世間一般の教育を施す事が厳禁であり、其の男の子に自主性を持たせた儘、現代社会に順応できる様に育て上げなければ成らないと言う理・ことである。
其の最も重要な理が、現在の天皇家や宮内庁で守られていないからこそ、私に4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」が起きたのであり、神武天皇・天智天皇・後醍醐天皇・昭和天皇の御魂が、私に頼み事をして来たのである。
其れを考えると、岡本天命に千葉県成田市台方の麻賀多神社の境内に在る「天之日津久神社・あめのひつくかみやしろ」の前で「日月神示・天津日嗣神事」が始まり、「此の日本から 神一厘の仕組みが発動する」との事が示されて来ているのは、其の「魂魄」の言葉の世界を、全世界に伝えて、自分達の血筋のルーツである魂魄を蘇えさせる事を始めなければ成らないと言う事になる。
其れ等の、人間にとって最も重要な理・ことが忘れ去られているからこそ、現在の政治体制が「愚の骨頂」の有り様として、現象化しているのである。
其れを考えると、今朝示されて来た「二通り」との言葉は、未来創造に対して何等かの両立性・側面性が有り、其の向き合わせを創造して、其のどちらかの面に私が関わりを持って、両方の世界を盛り上げて行かなければ成らないと、言う事なのではないだろうか。
其れは、三次元世界である人間社会に直接関わると、四次元世界である「神界」とのコミュニケーションが出来なく成るので、どちらか一方に、私の意識を集中しなければ成らないと言う事ではないだろうか。
『そうではなく 二通りの世界を 立ち上げるのが お前の役目である。
だが 其のどちらかに お前が関わりを持たなければ 両方とも立ち上がる事は不可能である。其れが 此の世界の仕組み・構造であるのだ。』
此の言葉からすると、受信のアンテナを閉じて、自分の生命エネルギーの中から、何等かの世界を立ち上げなければ成らない様である。
其れがどう言う物であるのかは、生物が此処まで進化を遂げて来た、プログラムの中に目覚めの因が有るのだろうから、自分の潜在意識の中に潜り込んで行くしか、他に道は無い様である。
「魂魄の継続」http://green.ap.teacup.com/20060818/4295.html
此の「魂魄の継続」との文章は、昨日のメッセージに登場した、男女のペアーの存在と関係が有りそうである。
『・・私は其の二人の存在から、其れは、理想的な男女の組み合わせが表現されており、其れが真実の「天皇」と「皇后」の姿であると想い、其れは「魂魄・こんぱく」との言葉と関係が有って、「魂」は、叡智を蓄えた清廉潔白な男性の御魂(たましい)・精神性を意味し、「魄」は、水(水素・物質)の世界を司り、子孫を産み育てる健康な女性存在を示唆していると想った。
そして、其の夫婦の存在は、人類・人間の理想的な完成度を現しており、記念写真を撮影する事は、凄く大事な行為・出来事であると考えて居た。・・・』
其れを考えると、今朝の女神の言葉に有る、
『・・ですから 此処からが「事象の特異点」と「新しい神の座標軸」の開始と言う事に成るのですよ。良いですか 改めて「天津日嗣・あまつひつぎ」との言葉が どう言う意味であるのかを しっかりと考えるのですよ。其れは 貴方一人の事ではなく 宇宙全体の事なのですから・・・』
との事が、是から本格的に始まるとの事であるので、私は是までの出来事(記憶)を全て断ち切って、新しい気持ちで、再出発を考えなければ成らないと言う事であり、其れが「新しい人類史」と成ると言う事なのではないだろうか。
其の様に考えると、今朝の映像で、人間社会(生命の炎)が燃え上がって「続」の漢字と成った場面の意味が理解できるし、大地の深い所に「白いチーズ」の様な塊の層が有ったのは、地球の内部構造にも、人間と同じ様な「大脳」の仕組み・システムが存在する理・ことを、示唆して来ているのではないだろうか。
2007/10/28「地球の割れ目」http://star.ap.teacup.com/2007313/242.html
「続・ゾク・つづく・つづける」【解字】形声。「糸+売(賣)」音符の賣(ショク)は、属に通じ、つづくの意味。糸がつづくさまから、つぐ・つづくの意味を表す。
【字義】@つづく。つらなる。つながる。「継続」Aつづける。㋐つらねる。㋑つけ足す。㋒つなぐ。Bつぐ(継)。耐えた所をつぎ続ける。Cつづき。㋐つづくこと。㋑後につづくもの。二の舞。 漢語林より
キー「継続」
2014/7/24・・其れ等の事を考えると、今朝のメッセージの映像は、「天津日嗣・あまつひつぎ」の神髄と言うか、御魂の継続がテーマであり、「政・まつりごと」の中心には、自分の人生と言うか、魂しいの血脈・けちみゃくを図る事が、一番大事であると言う事に成る。
其の様に考えると、日本の天皇家が「男子継承(Y染色体)」でなければ成らないとされている事が、正しいと言う事に成る。
だが、其の天皇家の血脈は、神功皇后の時に、「仲哀天皇」の血脈から、「武内宿禰・たけのうちのすくね」の血脈である「誉田別尊・ほむたわけ のみこと(応神天皇)」に挿げ替えられているので、神武天皇のY染色体は途切れているのである。・・・
「御魂の継続」http://green.ap.teacup.com/20060818/3140.html
2001/3/14・・肉体を存続させているのは姉妹、心を継続させているのは兄弟。男は心をつなぎ、女は身をつなぐ。
イエスキリストは、弟子達に「女の体から生まれた物の 他のモノを伝える」と、謂っている。
宗教を興した人達は、皆 男性である。老子、孔子、釈迦、イエス、モーゼ、マホメット、一休、道元、良寛、日蓮、親鸞、空海、最澄など、心の理・ことを語るのは男性の役目である。
一方、女性でも天理教の「中山ミキ」や、大本教の「出口ナオ」の様に、女性が教祖と成っている例が有るが、これは心を繋いでいるのでなく、男の霊が女性の身体を借りて、言・モノを云っているのであって、悟っての事ではないのである。
悟った者の魂は、宗教的な活動を興す事は無い。何故なら、宗教は民の心を麻痺させるからである。
老子、釈迦、イエスは、宗教を止める理・ことを説いているのである。
何故かと謂うと、現代の宗教は、人間社会の事柄に関係しており、宇宙との関わりを言ってはいないからである。孔子は、社会と人間の事に付いて述べており、老子、釈迦、イエスとは次元が違うのだ。・・・
「男は心をつなぎ、女は身をつなぐ」http://moon.ap.teacup.com/20061108/89.html
2003/3/27・・現代は、女性が化粧をして、歌も唄うが、本来は化粧するのも、歌を唄うのも、雄・男性の働きであった筈である。
鳥は、雄の方が美しく身を飾り、様々な鳴声で囀る。
雌の方は、自然の色に合せて目立たない様にして、簡単な合図の声しか出さない。鳥だけではなく、他の動物も、雄の方が、雌を獲得し縄張りを護る為に、多大な努力を積み重ねている。
其の雄の行動が、創造性を生み出し、生物の進化を促して来たのである。
人間の文字文化も、言葉を記録する手段として、始まったものである。
言葉が、鳥と同じく、雄の行動から生み出された鳴き声の一種であるなら、人類の言葉も全て、雄が創り出したものと言う事が出来る。
其の証拠に、漢字を見ても、女偏は143数個も有るが、男偏は殆ど無い事からも分かる様に、男性が女性の行動を見て、漢字を創った事が明らかである。
衣食住を開発したのも、殆どが男性であり、女性がそれを維持する事で、文化を保って来ているのだ。
是等の事からも、男性・雄の方が、新しい情報を獲得し、遺伝子を変化させ、形態を進化させて来た理・ことは、間違い無いだろう。
何故、その様に謂えるかと言うと、女性・雌の方が変化して行くと、其の個体の情報が不安定と成り、種の滅亡を、引き起こしかねないからである。
植物を含め、全ての生命は、雌の方が源にあり、体(代謝系)を維持し継続させて来たからこそ、雄が新しい情報を集め、遺伝子を変化させ、環境に適合して来たのである。
私は、花の蜜のシステムも、雌花のシステムではなく、雄花のシステムだと思われる。雌が、花粉を欲しがって虫を寄せる為に、蜜を出すのではなく、雄花が自分の花粉を遠くへ運びたい為に蜜を出し、虫を呼んでいるのだと思うのである。
つまり、出来るだけ子孫を増やし、遺伝子を多く残そうとするのは、雄の本能だからである。
雌の方は、人間の女性もそうである様に、他人は関係なく、自分の子供だけが無事に育てば、それで良いのである。子供の成長競走の相手は、出来るだけ少ない方が良いので、数を増やす事には反対の筈である。
何故なら、仲間の数が増えれば、自分の子供の食糧も少なく成るし、縄張りも狭く成るので、子育てが難しくなるからである。
人間も、自分の夫が、他の女性に子供を沢山作れば、自分の子供の貰える資源が減るので、良い気はしないから不機嫌になる。
それも、本能から来る、自然な気持ちの現れだろう。
私が、今日言いたい事は、創造性は男性のものであり、男性が創造力を発揮しなければ、新しい世の中は、誕生しないとの理・ことである。・・・
「創造力は雄の本能から」http://moon.ap.teacup.com/20061108/317.html
2017/10/10本日の日付は10月10日であり、「10・10」は「とうとう・到頭」と読めるので、今朝のメッセージの映像には、私が請け負う分野の文章が「等々完結した」と謂える様な映像が、映し出されて来た。
「貴方が昔の事を 思い出して居ては
事が 前に進まないので ここらで昔の事に
意識が向かない様に 対策を図って行きたいとおもいます。
ですが 昔の事が 全く必要ではないと言う事ではなく
時間的に 前進する為の 邪魔に成ると言う事です。
貴方の意識が 前に進まなくては 何事も動き出しません。
其れは 此方が前に進んでも 貴方の意識が其れを認識して
言葉に表現しなければ 人間界が此方の働きを感知できないからです
良いですか 其れは貴方が 渡り鳥の群れの先端に居ると言う事であり
貴方の意識が向かう方に 全体が動くと言う事なのです。
貴方が 其の理をしっかり自覚して
トキを詰めて行かなければ 未来世界は創造できないのですよ。
其の事が 統尊の役割りであると言う事に成るのです。
何も 迷う必要はありません。
何故なら 貴方が願う方向に 事象が流転するのですから。 」
「完結した文章」http://green.ap.teacup.com/20060818/4396.html
2014/9/30「遺伝子・DNAのちから」http://green.ap.teacup.com/20060818/3214.html
2016/7/19「庶民の暮らしと皇統」http://wave.ap.teacup.com/20060106/677.html
2013/2/17「エンライテン」http://green.ap.teacup.com/20060818/2597.html
2016/5/22「意八」http://wave.ap.teacup.com/20060106/666.html
2015/7/9「生命の流れ」http://green.ap.teacup.com/20060818/3524.html
2013/9/8「完結」http://green.ap.teacup.com/20060818/2803.html
今朝のメッセージの映像から、私に理解出来る事は「天国・地獄」の言葉に象徴される、地中に「火炎地獄」とは無く、宇宙にも「天国」とは無いと謂う事であり、地球の大地を舞台とする地球生命の世界こそが、水素から始まるヘリウムの核融合反応を起こしている太陽の熱エネルギーと、水の循環に拠る環境システムで、永遠に継続されるべき「いのち・神」の世界であり、万物の霊長とされる我々人間は、此の地上の命のシステムから、決して意識を切り離しては成らないと謂う理・ことである。
そして、其の中心核と成るべき人間の役割り名が「統尊・すめらのみこと」であり、其の統尊の意識の根幹は、空中に坐すのではなく、大地に根着いていなければ成等無いと謂うことなのであろう。
其れこそが、「日月神示・天津日嗣神事」に記されている「百姓の魂」であり、塒(ねぐら)の漢字の意味なのであろう。
平成29年11月30日
礒邉自適
2017/11/29
終り方
29・11・29
本日の日付は「29・11・29」でバランスの良い数字であり、唯今の時刻は「4時44分」である。
昨日は、3時15分に起きて、5時8分までPCに向かい再び眠った。
すると、朱色の空間全体に、エネルギーが動いている様子が映し出されて来て、其の空間中に、一体の龍神の意思が潜んで居る様子が感じられて来て、「螺旋の底」との言葉が一言告げられて来た。
私は、其の場面と謂うか、メッセージの内容から、一日中、螺旋は蛇がトグロを巻いた姿と共通しており、蛇は敵対する時は、相手に飛び掛る為にトグロを巻いて、尻尾を土台として、ばね仕掛けで飛び掛って来るので、「螺旋の底」との言葉は、頭を動かす為の土台を示唆しており、「尻・尾」の方が安定すると謂うか、土台を確りと固定して居なければ、言葉を発してはいけないとの事ではないかと考えて居た。
今朝のメッセージの映像内容は、私が、会社の土地を横領した池田保との裁判の和解が成立して、私が1600万円を池田保に支払えば、池田保が其の土地を明け渡すとの事であった。
私は、其の様なお金は持っていないし、其の金額は、その土地を買った時の金額とほぼ同じ金額であり、私は二度買う事に成ってしまうので、相手の弁護士に「何故 私が1600万円も支払う必要があるのか」と、其の根拠を示す様に迫ると、其の人の良さそうな弁護士は、穏やかに微笑んだまま何も答えないのである。
どうやら、様子を伺うと、池田保は自分の財産を、其の土地に全て注ぎ込んでいるので、他に行く所がなく、アパートに引越さなければ成らないので、池田保が其の土地に建設した地上物件の保障と言うか、今後の生活資金を渡せと言う事らしい。
私は、支払うお金が無いし、其の金額を借金してまで買い戻しても、其の土地で今有る施設を利用して、商売を続ける気も無いので、其の土地を取り返す事は止めにして、其の儘池田保が事業を続ける事に成った。
次の映像には、50歳位の立派な東洋系の夫妻が、記念写真を撮る様な感じで、立っている場面が映し出されて来た。
其れは、左側に気品の有る、スラリとして背の高い男性が白い服を着て立って居り、右側には健康そうな中肉中背の女性が青い服を着て立って居るモノで、似合いの夫婦と言うか、釣り合いのとれたペアーである。
私は其の二人の存在から、其れは、理想的な男女の組み合わせが表現されており、其れが真実の「天皇」と「皇后」の姿であると想い、其れは「魂魄・こんぱく」との言葉と関係が有って、「魂」は、叡智を蓄えた清廉潔白な男性の御魂(たましい)・精神性を意味し、「魄」は、水(水素・物質)の世界を司り、子孫を産み育てる健康な女性存在を示唆していると想った。
そして、其の夫婦の存在は、人類・人間の理想的な完成度を現しており、記念写真を撮影する事は、凄く大事な行為・出来事であると考えて居た。
其の様に考えて居ると、私の潜在意識から「こんなものですかね」と声が出ると、其れに対して「土肥無庵」の声色の感じで、「そうだね」と一言聞こえてきた。
其の声の遣り取りと言うか、雰囲気で、私は自分の役割と謂うか、使命(みこともち)が無事に終わった事を感じて居た。
其処で、私の左耳の中が急に痛く成って来たので、私は意識が目覚め、照明を点けて時計を見ると時刻は「3時41分」であったので、私は其の数字を「341・さんよい・三良い」と記憶した。
そして、左耳の痛みが消えたので、再び電気を消して横に成った。
すると、今朝のメッセージの映像に付いて、色々と考えが巡り始めた。
其れは、今朝の映像に登場した男女のペアーの存在は、此の宇宙の目的が何であるかが示されて来ている物であり、此の地球上の生命は、全て「男女・雌雄・陰陽」の仕組みで成り立っており、究極の進化の形が人類のペアーであると謂う理・ことである。
其れは、磔に成って殺された「イエスキリスト」や、一人で説法の旅を続けて最後には食中毒が原因で死んだ「釈迦牟尼佛」、其れに、老後は一人で国を出て行方不明に成った「老子」などの聖者の存在は、本筋と言うか正道の生き方ではないと言う理・ことに成る。
其れから、日本語の「かみ」の言葉の本当の意味を考えて居ると、「ガミガミ謂う」の言葉が頭に浮かんで来た。
「がみがみ」とは「かみ」の言葉に濁点を付した言葉であるので、日本語の「かみ」とは「モノ・言葉を告げる・告げて来る物」の存在を意味しているのではないかと言う事である。
其れは、漢字の「神」が「示(祭壇)+申(雷)」の組み合わせで、意味は「祭壇の前で 天神の言葉(お告げ・情報)を受け取る」との理であり、其れが「知」の漢字であり、其のお告げを他人に伝えるのが「智」であり、其れを行なう者の立場が「聖」の漢字の意味である事と通じて来る。
其れを考えると、「君・きみ・すめらのみこと」言葉や「天皇」の存在の意味が理解されて来るし、「詔勅・みことのり」の本来の行為が何であるかも、理解されて来る。
其れ等の事を考えて居て、眠れないので起きて、台所に行き時計を見ると時刻は「4時25分」であった。
其れから、蓬団子を食べながら穀物コーヒーを飲んで、PCを立ち上げ4月25日の文章に目を通すと次の様に書いて有る。
2017/4/25今朝のメッセージには、先ず、人間なのか、「ゴリラ」なのか「熊」なのか判らない様な、黒い生き物の姿が、右側から左の方に歩いて行く映像が映し出されて来た。
次に、村の広場で、祭りの様な事が行われており、私は其の広場の垣根の外から、其の様子を一人で眺めて居た。
そして、人々の様子が楽しそうなので、私も其の雰囲気に思わずつられて、両手を上に挙げて踊りの様に動かし始めた。
すると、上天気で青空なのに、雨が降って来たので、私は不思議に思い手を休めると、其の雨は止んだ。
其れで、私がもう一度両手を挙げて動かすと、再び雨が降って来たので、私は自分の手の動きと、雨が降って来る事に関係が有る事が判った。
集まって来て居た人々にも、其の出来事が見付かった様で、私の所に其の人達が集まって来た。
其れから、其の事の噂が村中に広まって行くと、私が此の世界に入る切っ掛けを作った「土肥無庵」が、奥さんと子供を連れて遣って来た。
私は、其の「土肥無庵」と久し振りに話を始めると、広場の中に集まって来ている人々の中に、運動用のジャージを来た大柄の40歳位の女性が、相撲の四股を踏む様な格好を始めたので、私は女性が解放される時代が来たのだと思った。
其れから、私は土肥無庵が故人であった事を思い出し、意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると、時刻は4時15分であった。
私は、其の数字を「415・世一期」と記憶して、再び眠った。
すると今度は、ジャマイカのレゲエミユージシャンの様な服装をした、45歳位の男性が一人登場して、金箔を作る叩き台を作っている様子が映し出されて来て、其の男性は、台の上に張る材料の硬さを整える為に、敷物の材料を取替えながら、金槌で叩いて、音で硬さが適しているかを確かめて居た。
私は、其の男性の様子から、人間にとって一番大事なことは、自分の手で音を確かめる事であり、其れは本を呼んだり、他人に訊ねたりしても、理解できない世界である理・ことを理解していた。
今朝のメッセージの映像から、私は、自分が33年前に此の世界に飛び込んだ時に、自分の身に起きた出来事を思い出し、私は、自分の意識と言うか、記憶が元の所に還っている事を思った。
今朝のメッセージの内容から考えると、音の一部として、発展進化して来た物が、人間の言葉であり、人間が言葉を使用する源に、音(振動・波動)があると言う事に成るのであろう。
其れを考えると、我々人間が電話で相手の声を聴いただけで、相手の様子が判断出来る事の意味が理解出来て来る。
我々は、其の音の原点を考えると、現代社会の騒音から身を引いて、本来の音の世界に復帰しなければ成らないのでないだろうか。
何故なら、其の次元に還らなければ、神の世界に繋がれないからである。
其れは、ゴリラが自分の胸をドラムの様に叩いていて、自分の意思を示す事と同じ次元であり、人間もゴリラの様に音を穢れの無い純粋なモノとしなければ成らないと言う事である。
「音と神」http://green.ap.teacup.com/20060818/4219.html
此の文章の中の「・・音の一部として、発展進化して来た物が、人間の言葉であり、人間が言葉を使用する源に、音(振動・波動)があると言う事に成るのであろう。其れを考えると、我々人間が電話で相手の声を聴いただけで、相手の様子が判断出来る事の意味が理解出来て来る。」との事は、今朝私の頭の中に「ガミガミいう」との言葉が浮かんで来たのも、其の「音の神・言葉の神」の存在が関わって来ている事に成りそうである。
更に、其の神の仕業として、今朝「3時41分」に起こされた原因が、私の左耳の中が急に痛く成って来た事に有るので、左耳の聴覚の働きが「かみ・神」に関係が有ると言う事に成りそうである。
そして、其の「3時41分」の時刻を、私が「341・さんよい・三良い」と記憶したのは、インドで言うところの、此の世は「見る物と 見られる物と 其の関係性」との言葉と関係が有り、今朝の映像に登場した男女の存在は「見られる物」であり、私が「見る物」であって、「其の関係性」こそが、「神の仕組み」であると謂う理・ことに成りそうである。
其れに、三の数字は、昨年の6月19日「自らの仕掛けで滅びる」の「Tritarte fur・トライタルトファー(天蓋の内側に定着している 女神の働きから生まれる 三個の螺旋の宝珠)」のビジョンとも繋がって来るし、矢追日聖法主が謂う「数字の三は 神の数字で 一人歩きをする」との事とも関係が有り、三の数字は、是までの私のビジョンに幾度となく登場して来てもいる。
2017/8/3「三・3がテーマの文章」http://green.ap.teacup.com/20060818/4325.html
昨日のメッセージでは、水田の中に立って居ると、何処からか、テレビかラジオ放送の音が微かに聴こえて来た後、自分の右手の中指が、実際に痛く成って来た為に意識が目覚めた。
そして、今朝は左耳の中が痛く成って目覚めた。其れに、三日前の26日は、胃の痛みで起こされてもいる。
此の痛みで起こされる出来事は、どの様な仕組みと言うか、現象なのであろうか。
其れに、昨年の11月9日(119・救急車の日)には、初めてスズメ蜂に頭頂(百会)刺され、今月15日15時にはムカデ(百足)に左手の小指を噛まれている。
其れに今(7時)は、赤家蚊が目の前を飛んだので、両手で叩くと血を一杯吸っており、左耳の後ろが痒いので、自分の血を吸われた事が判った。
私に、其れ等の虫の存在から考えられる事は、私が此の世界に入った時に、不如帰や鳶などの鳥類だけではなく、虻や蝶の蛹などの昆虫が、様々な現象を起こして、私を此の世界に導いた事が有るので、最後に、再び、其の虫達が神の役割り・使いを果たしているのだと謂う事である。
其れは、人間の肉体を構成している細胞と、昆虫達の命が、生命システムとして繋がっていると謂う理・ことを示して来ており、其れが生命全体の仕組み・はたらきの基礎・基盤に成っているので、其れが生命(いのち)の世界全体の「螺旋のそこ(底盤)」であると言う理・ことなのかも知れない。
今朝の文章の題は、「こんなものですかね」と「そうだね」との会話から「終り方」とした。
12月4日を五日後に控えて、私が背負って来た役割りと言うか肩の荷が、本日を持って降ろされた様な気がする。
其れは、私「こんなものですかね」 無庵師匠「そうだね」との会話の雰囲気から、そう感じたからである。
平成29年11月29日7時16分
礒邉自適
2017/11/27
沙庭・さには
29・11・27
今朝のメッセージの映像には、建物施設の存在は、全く映し出されて来なかったが、施設の庭に生えた雑草を、私が一人で、抜く作業を始める場面が映し出されて来た。
其の庭は、珪石の様な岩石の粉を敷き詰めて、ローラーで鎮圧した様な舗装が為されている物であり、私は其の舗装が壊れない様に、気を使って草を抜いていた。
そして、周囲を眺めると、他には何も存在しない空間が広がっていた。
そして、其処で意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると時刻は「3時47分」であった。
私は其の数字を「347・みしな・三品」と記憶して、再び眠った。
今朝は7時過ぎに起きて、先ず「さにわ」で検索すると、次の様に載っている。
審神者(さにわ)とは、古代の神道の祭祀において神託を受け、神意を解釈して伝える者のことである。後には祭祀の際に琴を弾く者を指すようにもなった。
「さにわ」(歴史的仮名遣いでは「さには」)は、元は「清庭」(さやにわ)の意味で、神を祭り神託を受けるために忌み清めた庭(場所)のことを指したとする説が有力である。
『古事記』の仲哀天皇の段に、天皇が琴を弾き、武内宿禰が沙庭(さにわ)に居て神の命を請うたという記述がある。ここで沙庭は場所の意味であるが、宿禰が審神者を務めたということになる。その後の記述では、神が神功皇后に乗り移り、神託を述べている。『日本書紀』の神功皇后9年(209年)3月には、皇后が自ら神主となり、宿禰に琴を弾かせ、中臣氏の祖と伝えられる中臣烏賊津使主を審神者としたと記されており[1]、福岡県久山町の審神者神社が祭神として中臣烏賊津使主を祀っている。
後に、神楽で琴を弾く者のことを「さにわ」と称するようになった。平安時代の『政事要略』に「今琴弾之者を以て佐爾波(さにわ)と云、偏に以て神遊に供奉す」とある。
近現代の新宗教教団においては、人についた神や霊の正体を明かしたり、その発言の正邪を判断したりする者のことを審神者と称している。
ウィキペディアフリー百科辞典 2017/11/27現在
此の説明には、「沙庭で琴を弾く」と有るので、昨日のメッセージの映像にて、私は琴の様な弦楽器を演奏して居たので、今朝のメッセージは昨日の続きである様である。
だが、今朝の映像には、雑草が生えている庭が映し出されて来ただけで、施設は何も無いし、人間も他には居ないし、周りの景色も見えないし、私は道具が何も無い状態で、草を抜く作業を始めたので、他に何の意味も見出せないままである。
今朝のメッセージを理解するヒントは、珪石の様な岩石の粉が硬く敷き詰められていた事と、起こされた時間の「347・みしな・三品」だけである。
三品は、「如意宝珠」の皿に盛られた三個の丸い宝珠や、昨年の6月19日のメッセージの映像に映し出されて来た、天空を両翼にする鳳が私に手渡した「Tritarte fur・トライタルトファー(天蓋の内側に定着している 女神の働きから生まれる 三個の螺旋の宝珠)」が関係が有りそうである。
2016/6/19「自らの仕掛けで滅びる」http://green.ap.teacup.com/20060818/3891.html
其れに、昨日のメッセージが屋久島の山岳に関係が有った事を考えると、私が以前、書いた文章の「白洲」の内容に、関係が有るのかも知れない。
2004/7/6・・さて話しを元に戻すと、当夜の話は、山の神様に関する事だった。
或るとき、「佐々木吹義」爺さんは、仲間の猟師と三人で、奥岳の投石岳から栗生岳の山稜へ、夏鹿を撃ちに登った。
2000m近い峰々は、ヤクザサに被われている。
7、8月は、その笹の竹の子が伸びて葉を広げている季節で、島中の鹿が、其の竹の子や竹の新芽を食べに、集まって来るのだそうである。
この時期には、早朝か夕方、物陰に隠れて静かに待っていれば2、3頭は簡単に撃つ事が出来たとのことである。
夕刻、吹義爺さんは二人と別れて、鹿を捜しに出かけ、一頭の子鹿を見付けて撃ったが、手負いの鹿は、転びながら逃げて行った。
山頂は、太陽が海に沈んだ瞬間、真っ暗になり、道も分からなくなる。
吹義爺さんは、鹿を追うのを止めて引き返したが、間に合わず、闇の中を手探りしながら、ようやく仲間のいる待ち合わせ場所へ、辿り着いたのだそうである。其処には火が焚かれ、二人が火を囲んで座っていた。
場所は、砕けた花崗岩の砂が、水に流されて集まった、真っ白い砂洲で、傍らに美しく澄んだ水を湛えた、水深2m程の池が在った。
吹義爺さんが二人に、「どうしてこんな場所で 火を焚いたのか」と訊ねると、「今日は西風が強く、狭い所で焚くと 火事になる恐れがあるので、此処にした」との返事だった。
獲物を得られなかった吹義爺さんは、火から少し離れたヤクザサの側で、持参の生味噌を舐めて水を飲み、明日の猟に期待して眠った。
翌朝、目覚めると、一人の仲間が騒いでいた。
聞けば、火傷をした覚えもないのに、右脚の膝から太腿へかけて、大きな水脹れが出来ているという。
猟どころではないと思った爺さんは、ズボンを脱がせ、笹竹を削って水脹れを破って水を出し、彼を背負って登山道まで下った。
登山道からは、本人を歩かせて、村まで帰った。
直ぐに医者に診せ、治療してもらったが、数日後、その仲間は亡くなり、もう一人の仲間の子供にも、同じ水脹れが出来て大騒ぎになった。
其れで、神様に伺いを立てると、水神様の祟りだとの事で、お祓いを受けたところ子供は治った。吹義爺さん本人も、40度近い熱が4日間続いて、5日目には船で鹿児島の病院へ運ばれた。
病気は、悪化した中耳炎に似ていたが、こめかみの骨が腐りだし、何度も手術を繰り返しながら、6ヶ月もの入院生活となった。
ある日、付添いの看護人が、街で、突然霊能者に呼び止められ、「あなたは大変なことに関っている。早くお祓いをしなければいけない」と云われ、奥岳の祟りを祓ってもらった。
すると、病気は急に回復に向かい、吹義爺さんは数日で、退院できるように成ったとの事である。
二人の仲間は、白洲で火を焚くとき、神様に決った挨拶をしなかったものらしい。この実話を聴いて、私はこんなことを思った。
白洲といえば、神社の拝殿の中庭には、白い砂や礫が敷き詰められている。
寺の墓地も、お盆には白い砂を運んで撒く。世俗でも、大岡越前守など、お奉行さまの裁きの庭は白洲だ。
白洲は、斎・いつき清められた場を意味するのである。
山頂近く、白砂と清らかな水の湛えられた中洲は、神霊が住処とする場所だったのだ。
二人の猟師は、火を焚く際に、山の神様へ祈りの儀式を行わず、不用意に神様の住処を汚し、祟りに遭った。
その儀式は、通常は吹義爺さんが行うので、他の人は、事の重要性を認識していなかったのだろう。
現在・いま屋久島では、吹義爺さんの生きていた頃とは違い、多くの島外者が山に登っている。
山の神様たちが、其れを嫌がって、島を逃げ出していなければ、今も奥岳のどこかで、人間の傍若無人ぶりを見ていない筈はない。・・
私達の子供の頃は、川に小便をするな、仕方なくするときには、「ごめんなさい、ごめんなさい」と唱えなければならないと訓えられ、真剣にそうしていた。
大人に成ってからも、木を伐って、伐った木が川に落ちたら、川は神様の通り道だから、全部取り出さないと罰が当ると訓わった。
小便をすれば、川が汚れて飲み水にならない。
木を、川に落した儘にして置けば、水害の原因になる。
考えれば、当たり前な理・ことだが、そこに神様の存在を意識することで、子供の心の奥に、深い世界が広がってゆく。
日常の暮しの中で、目に見えない世界を感じる、センサーが育てられたのである。
猟を生業とする人が居なくなり、どこの村でも、人慣れた鹿を見掛ける様になった。彼等の、透き通った眼から、神の意志を汲み取れないものかと想う、今日この頃である。
出来る事なら、重安氏のお話にあった白洲の場所へ、一晩、一人静かにお籠りをしてみたいものだ。自分の魂しいの、根源に触れる為にも。・・・
「白州」http://moon.ap.teacup.com/20061108/324.html?rev=1
キー「珪石」
2010/8/18・・何故、私が其の様に言うかと謂うと、「忌部・斎部・いんべ」の祖である「天日鷲命」を祭祀する「高越神社」の荒れ果てた境内には、大きなクォーツ・quartzの岩の塊が、裏山から転げ落ちて来ているからである。
其れに、剣山周辺にはイスラエル文字が伝えられており、「栗須戸(クリスト)神社」が存在して、其の社はイスラエルの聖なる青色で塗られている。
だから、石工・メイソンの秘儀に関わるクォーツの名が、石英・水晶の山に付けられていても、何等、違和感が無いからである。
其れに、水晶は日本国の「国石」と成ってもいるのである。・・・
「依存症からの脱出」http://green.ap.teacup.com/20060818/1640.html
2017/5/9・・今朝のメッセージは、人間の記憶が、水の霊威を通して、電気的に記録されている事が示されて来た。
其れは、次の様な場面である。
先ず、白い服を着た長身の女性が、五層に棚引いている雲の上にブッダの様に胡坐をかいて座っている場面。
次に、水を入れるタンクの様な物が、凸(乾電池の頭)の形が逆さに、上から下に向かって、五段の段違いに重なっている場面が映し出されて来て、一番上のタンクの上部は天空に溶け消えており、一番下の尖った部分が、地上の物・者と接触する部分である事が示されて来た。
其れは、地上にも同じ形の物(基壇)が向き合う形で存在し、其の乾電池の頭の様な部分で「天地・両方」が接触する物である事が、示されて来て、其れが天意(天帝)と、地上の「祭壇・皇帝の座」との接点であり、其の形の中の物(エネルギー・水の氣)が、外に漏れ出しては成らない理・ことが示されて来た。
「人類が古代から求めて止まなかった世界」http://green.ap.teacup.com/20060818/4234.html
2008/7/20・・其れは、人間の此の肉体は、地球の物質を材料として組み上がって来た物だから、物としての肉体の意志は、肉体其の物に在ると言う事である。
其れは、大地の珪素の周波数と、人間の身体の周波数が、切っても切れない間柄であると言うか、同調していると言う事である。
だから、古代から、人間は「祷り・帰命」の為に、「額・ヌカ」を大地に着けたり(額ずく)・跪いたりして、大地に接触しようとするのであろう。
其れは、珪素(珪石・石英・水晶・翡翠)の周波数とのアクセスだけではなく、マイナス電気である大地の気と、アースする事にも繋がる行為であるのだ。
だから、肉体からの声は、「地球・アース」の声であるとも言えるのではないだろうか。
其の様に考えれば、地球・大地の意志をガイヤ(ギリシャ神話の大地の女神の名)と呼ぶのも間違いではないだろう。・・・
「貴方の肉体はわたし」http://star.ap.teacup.com/2007313/482.html
2017/9/5・・人体中のシリカ
水溶性のシリカは人体にも微量ながら含まれており、毛髪・爪・血管・骨・関節などに含まれ、特に骨形成の細胞層に集中している。生体中には約29ppmが存在し、免疫力に影響を与えたり、肌の保湿、骨や髪、爪、コラーゲンの再生・構築・補強・維持を手助けしている[3]。成人1日あたり10〜40mgのシリカが消耗される。現在、1日あたりの摂取量は定められていない。通常はケイ素を多く含む食品(玄米、あわ、ほうれん草、バナナ、レーズンなど)を十分摂取することで補えるが、ミネラルウォーターや健康食品としても市販されている。
必須ミネラルとしてのシリカ(編集)
生体中の皮膚、髪、骨などに含まれる必須ミネラルとしてのシリカ(ケイ酸化合物)は、水溶性のものであり、鉱物由来の不溶性シリカとは異なる。人体には約1.8gの微量のケイ素が存在し、こうしたシリカはケイ酸などの水溶性シリカの形で食物から吸収される。
ウィキペディアフリー百科辞典 2017/9/5現在
其れは、私の守護霊が山岳に棲む「白龍」であるのか、太陽の化身である「朱雀」であるのかが、判らなくなるモノである。
其れを考えると、最初に告げられて来た「銀次」との言葉に意味が有りそうである。
何故、其の様に考えるかと言うと、昨日のメッセージの映像で、空が見える木々の間に水分子が黄金色の龍体の様に浮かんでいた事と関係が有り、其の水分子(水蒸気)が雨と成って大地に染み込んで、岩のミネラル分を溶かし、流れ出した水が、今朝の映像に映し出されて来た禊ぎ祓い用の水であると考えば、「銀次」とは、金の次は銀の世界であるとの意味に、受け取れるからである。
其れを考えると、山中から引かれて来ている少ない水量の水は「ミネラル(希少鉱物)」が多く含まれている物である事を示唆しており、水タンクが大木の根本の形をして磁器製であった事の意味も理解されて来る。
其れは、樹木が大きく育つには、水分と栄養の他に何種類かのミネラル分が必要である事や、磁器の材料が珪石(シリカ)である事と関係が有り、人間の體・からだ・躰にも、同じ様にミネラル分が欠かせないと言う理・ことが、示されて来ている事になる。
そして、其の条件が整わなければ、禊ぎ祓いを行なっても、岩戸の周波数にチャンネル(開眼)する事が出来ないと言う理・ことなのであろう。・・・
「真っ赤な朱雀の両足」http://angel.ap.teacup.com/20071208/1035.html
2013/1/23「高御座」」http://green.ap.teacup.com/20060818/2572.html
2008/5/6「4000人の仲間」http://moon.ap.teacup.com/20061124/48.html?rev=1
今朝のメッセージの映像に映し出されて来た、珪石の粉が固められた平坦な「清庭・さやにわ」と、其処に生えている雑草を抜く私の意識は、私の意識の最終的な舞台を示唆しており、其の清庭・さやにわの雑草を抜き終われば、私の意識は、本来の無垢の状態に還れると謂う事なのではないだろうか。
平成29年11月27日
礒邉自適
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