1984年6月4日(旧5月5日)神と交わした約束が果たされる事が 今朝告げられました。
18年8月18日未明
事象(とき)の切り替え
今朝は5時15分に是までの時間(とき)が閉じられ、5時22分に新しい時間(とき)が開いた。
其れは、旧約聖書に「神は6日間で此の世界を創造し 7日目に休んだ」と記されている事と関係が有り、是までの「事象・時空・とき」が閉じられて、新しい事象が始まる理・ことが知らされて来たモノの様である。
其の時間の「扉・まく」は、カメラのシャッターの様な物であり、其れは人間の瞼の仕組みと同じで、閉じている時は「月読界」で、開くと「天照界」であると言う事である。2016年6月6日
2017/12/31
煩悩は情報過多から
29・12・31
本日12月31日は大晦日で、0時には寺院で除夜の鐘が108回撞き鳴らされる日である。
其の事に関係が有るのか、今朝のメッセージの映像には、現在の世の中は余りにも情報過多である理・ことが示されて来た。
今朝の映像は先ず、昨日のメッセージで示されて来た、新しい世の中の仕組みと関係が有り、天空を覆う鵬(ほうおう)の翼は、人間の意識・おもいを受ける「受け手」と成る理・ことが示されて来た。
次の映像は、60歳代の女性が、自分の家に置いて有る大きなテレビに録画してある情報を、コピーして知人に渡す為に取り出そうとするのだが、取り出せないので、私に取り出してくれと頼む場面が映し出されて来た。
其れで私が、其れを取り出そうとして、ボタンを押す操作をしていると、どうやら其の大型テレビは、内部が加熱している事が判ったので、早く電源を切らなければ成らないと意い、裏側に廻って見たが、どのスイッチが其のテレビ用の物なのか、判らないのである。
そうしている間に、テレビや部屋の床が茶色に焦げて来たので、私は庭に出て水道の蛇口にホースを繋いで水を掛け始めた。
だが、一斉に部屋中に炎が上がったので、一本のホースの水では消せないのである。
すると、家の女主人が知り合いの男性と一緒に車で帰って来た。
其れで皆で協力して、消火作業を行うと、部屋の中は真っ黒に焦げてしまったが、何とか建物の全焼は免れた。
次の映像には、横書きの漢字文字が、テロップの様に10文字程並んでいるのが映し出されて来たので、私が其の漢字を読み始めたが、意味が判らないので「何の意味が書いて有るのか」と思うと、其の書かれている文字は「人から人に傳っている良書を読む」との意味である事が告げられて来た。
私は108の数字は、「12×7=8万4千の宝塔」と同じ様に「12月×9(苦)=108(苦悩・煩悩)」と簡単に考えているが、辞典には次の様に載っている。
【除夜の鐘】(じょやのかね)は、日本仏教にて年末年始に行われる年中行事の一つ。12月31日の除夜(大晦日の夜)の深夜0時を挟む時間帯に、寺院の梵鐘を撞(つ)くことである。除夜の鐘は多くの寺で108回撞かれる。
108つの由来
除夜の鐘は多くの寺で108回撞かれる。この「108」という数の由来については、次のような複数の説がある。格別にどれが正しいということはないが、一般には煩悩説が有名である。
煩悩の数
眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)の六根のそれぞれに好(こう:気持ちが好い)・悪(あく:気持ちが悪い)・平(へい:どうでもよい)があって18類、この18類それぞれに浄(じょう)・染(せん:きたない)の2類があって36類、この36類を前世・今世・来世の三世に配当して108となり、人間の煩悩の数を表す。
1年間
月の数の12、二十四節気の数の24、七十二候の数の72を足した数が108となり、1年間を表す。
なお、寺によって撞く回数は108回と決まらず、200以上の場合などがある。
ウィキペディアフリー百科辞典 2017/12/31現在
今朝のメッセージは、其の仏教の行事・風習とも関係が有り、人間が創り出した様々な行事・事柄は、殆ど有益な物ではなく、人間の悪い癖の現れであり、正しい意識を汚す物であると言う理・ことが、示されて来ているのではないだろうか。
何故なら、寺の鐘を撞いたり、音を聴いたりするだけで、自分の煩悩が消えるのであれば、とっくに人間の意識は清浄な物と成っている筈だが、他の宗教や国の人々と差が有る様には思えないからである。
其れに、クリスマスを始め、バレンタインデーや、日本の鯉幟や雛祭りの行事も、特に必要な物とも思われないし、私の両親は、私を神社やお寺に連れて行った事も無い。
そして父親から「勉強をしろ」と謂われた事も、一度も無いのである。
其れ等の事を考えると、私が此の様な意識に到達する事が出来たのは、余計な事を知らずに生きて来たからであると言う事にも成る。
今朝のメッセージの映像では、親切心の有る年配女性が、自分が良いと思ったテレビ番組を録画して、其れを他人に渡そうと言う行為が、火事を引き起こしてしまう場面が映し出されて来た。
其の場面の意味は、テレビ番組の情報を他人に押し付ける行為自体が、余計なお世話であると言うか、煩悩である理・ことが、示されて来ているのであろう。
其れを考えると、現在の世の中はテレビ放送だけではなく、様々な手段に拠って、情報が垂れ流されているので、それ自体が最大の煩悩の製造機関であると言う事なのであろう。
其の様に考えると、今朝の映像に映し出されて来た、横書の漢字文字の意味が「人から人に傳っている良書を読む」であった事が、能く理解されて来る。
良書とは、辞典に「よい書物。ためになる書物。 ⇔ 悪書」と載っている。
其れに「人から人に傳っている」との事は、昔から人々に傳っているとの意味だから、伝統的な人の道の意味も有る事に成る。
其の様に考えると、私の脳裏に直ぐ浮かぶのは老子の道徳経である。
其れは、王様の図書館に勤務していた老子が、老齢に達してから自分の考えを、自分で5000字に纏めた物であり、他の宗教本・経典の様に、後の人間が自分の考えを通して書き残した物ではないからである。
其の老子の文章には、「天は大なり 地は大なり 人もまた大なり」と有り、天や地だけが偉大ではなく、人間も同じ様に偉大であると謂っているので、人間が天地に平伏す必要がなく、天地の存在を支えているのが、人間であるとの意味合いにも成るので、今朝のメッセージで天空を翼とする鵬・ほうおうの両翼が、人間の意識・気持ちの受け手であると言う事も、理解されてくる。
老子「道徳経」第二十五章
2013/4/23・・天は大なり 地は大なり 人もまた大なり
域中に四大あり 而して人は其の一に居る
人は 地に法(のっと)りて 地は 天に法りて
天は 道に法りて 道は 自然に法る・・・
「天・地・人」http://moon.ap.teacup.com/20061116/43.html
2011/4/13「最高のタイミング」http://green.ap.teacup.com/20060818/1896.html
2013/4/24「帝京」http://wave.ap.teacup.com/20060106/516.html
其の様な理・ことを考えると、除夜の鐘を撞く仏教の風習も、人間の煩悩そのモノであると言う事に成り、止めた方が良いと言う事に成るのであろう。
何故なら、仏教の祖である釈迦牟尼佛の教訓には、其れ等の事は全く残されていないので、後の人々の創作であると言う事に成るからである。
釈迦牟尼佛の訓えは、一切の行為を止めて宇宙の「ダルマ・法」に覚醒する理・ことであるから、瞑想・座禅の他の行為は一切ご法度であり、現在の葬式の儀式も釈迦牟尼佛の教訓には無いモノである。
「法華経の十二因縁起」http://wave.ap.teacup.com/20060106/
今朝のメッセージの様子からすると、私に告げられて来るメッセージの本は、老子の意識の次元に近い所に有り、其れは、老子の表現では「古の人々はすばらしい」との事であり、釈迦牟尼佛の言葉では「私が悟ったのは今世ではなく 何代も前である」であり、イエスキリストの言葉では「永遠の命に入る為には・・云々」である所なのであろう。
其れを考えると、現在の人間社会に存在する情報や行事・習慣・風習は、殆ど必要では無く、寧ろ人間の意識を曇らすと言うか、煩悩を生み出す原因であり、人間が幸福(しあわせ)に成る事を妨げている要因でしかないと言う事に成るであろう。
「吾は いま 仕合せ」http://moon.ap.teacup.com/20061108/586.html?rev=1
我が家では、実家・故郷に帰る事もなく、子供達が訪ねて来るでもないので、のんびりと過ごして居る。
其れに、正月の気持ちの切り替えは、冬至の日に済んでしまっている様で、特別な感覚も湧いて来ない。
「これで良いのだ」との感想だけである。
今年のPC作業も、是で終わる事にする。12時8分
平成29年12月31日
礒邉自適
2017/12/30
新バージョン
29・12・30
今朝のメッセージは、昨日女神が告げて来た「・・是からは 未来社会創造の為に 動き出す人々のアドバイザーとしての役割が 貴方に生じて来ますので 其の心の準備をして措きなさいね・・」との言葉と関係が有りそうで、早速新しい御世造りに関して、是までとは雰囲気が異なる、幾つもの場面が映し出されて来た。
今朝のメッセージの映像は、PCがアップデートされる様に、人間社会の有りようが 新バージョンに切り換わると言うか、アップデートされ場面が映し出されて来た。
先ず、鵬(ほうおう)の様な赤い瞼をした目を持つ、黒い服を着た50歳代の女性の存在が映し出されて来て、其の女性が造り上げて来た、組織図・仕組みが解体されて消えて行く場面が映し出されて来た。
そして、其の理由として、是からの人間社会は、全ての人々が自由に情報が得られるので、統率者と言うか支配者が必要ではなく、正しい情報を皆が入手できるので、夫々が其の正しい情報に拠って、自由な生き方が出来ると言う事である。
従って、是までの様な、宗教の組織は必要ではないし、また信者をつくっては成らないと言う理・ことであった。
次の映像は、若者男性が集まって、大きな家を建築する場面が映し出されて来て、骨組みと屋根が出来上がってから、キッチン・台所の設備が整えられる場面が映し出されて来た。
其れ等のキッチンのシステムが運び込まれて、並べられた後に、中に石臼程の大きさの石でも入っているのか、数人でなければ動かせない物置き台・収納ケースが運び込まれて来て、其の中の物は判らないのだが、其の収納ケースには冷蔵庫や洗濯機の様に、地面にアースする電線が付いており、其のアース線を必ず大地に設置させなければ成らない理・ことが示されて来た。
次に、其の建物は男性の精神修行道場と成る物なので、其の建物にはOAの機材は一切置いては成らない事が示されて来て、携帯電話やスマホなどの通信機器を使用して、人間社会の情報に接触しては成らない理・ことが示されて来た。
そして、植物を乾燥させる為に使用する、竹製の笊が何枚も重ねられている場面が映し出されて来た。
其れ等の映像場面が続いた後に、小学生の子供達が、男女それぞれ4〜5人一組みずつで登場して、子供の時から仲間にて、自由に冒険をさせなければ成らない理・ことが示されて来た。
今朝のメッセージは、最初に、鵬(ほうおう)の様な赤い瞼をした目を持つ、黒い服を着た50歳代の女性の存在が映し出されて来て、其の女性が造り上げて来た、組織図・仕組みが解体されて消えて行く場面が映し出されて来たのは、是まで、人類を導くと言うか、育てて来た「鳥神」が、人類の意識が此処まで進化して来た事で、是までの仕組みを全て解体・解除して、人間自身の能力に全てを委ねると言う事が、示されて来ているのであろう。
其れは、是まで人間が信仰の対象として来た、天神(てんのはたらき)の存在が消えると謂う事であり、是から人間は何物にも頼る事なく、自分自身の責任・能力に拠って、全てを行なって行かなければ成らないと言う事である。
其れは、是まで人類が見えない相手を求めると言うか、存在に頼って、「神頼み」をして来た事を、止めなければ成らないと言う事であり、全ての事柄を「神の所為にしては成らない」と言う事である。
其の条件と謂うか、環境造りに付いて、今朝幾つもの場面が、映し出されて来たのであろう。
其れは、昨年6月19日の映像で、天空を自分の両翼とする大鵬が、皿に載せられて三個の「タルト・渦巻き」を、私に差し出して来た事と関係が有り、全ての事象の運営が、人間サイドに渡されると言う事であり、此の地球の管理を、人間自身が自分の責任能力にて、行なわなければ成らないと言う事なのであろう。
「自らの仕掛けで滅びる」http://green.ap.teacup.com/20060818/3891.html
そして、其の事に対して、先ず実行しなければ成らない事と、指導者と成るべき男性の修行道場を建設しなければ成らないと言う事である。
そして、最も大事であるのが、台所であると言う事なので、其れは「食国の政(おすくにのまつりごと)」の復活に有ると言う理・ことに成る。
其れに、収納ケースに入っている石臼の様な重い石の存在は、出雲の熊野大社の「亀太夫神事」と「保食神・うけもちのかみ・受け餅の神」の儀式に関係が有り、其の収納ケースから、大地にアース線を設置しなければ成らないとの事は、昨日のメッセージの「人間の肉體と地球磁場」の課題と関係が有るのだろう。
2012/8/13「正しい生活」http://green.ap.teacup.com/20060818/2403.html
そして、電子機器を一切持ち込まない・使用しては成らないとの事は、其れ等の人工的な電子機器が存在すれば、地球の地場・電磁気の存在に、影響を与えるので、修行道場のシステムが稼動しないと言う理・ことなのであろう。
其れから、食べ物(植物)を干す竹製の笊が何枚も重ねられていた場面は、其の修行道場では、食べ物を自給自足しなければ成らないと言う理・ことであり、其れが竹笊であったのは、道元禅師が中国で悟りを開く場面の「いま やらなければ いつやる。私がやらなければ 誰がやる。」と、関係が有るのだろう。
2002/11/18・・私が18年前、全ての事を止めて、この世界に入った動機は、此の侭では、子供達の未来が無い事が解ったからであり、18年の旅の結果として、未来社会の創造には自信が持て、子供達に対して、責任が取れたとの思いも有る。その事も、私の精神の充足に繋がっているのだろう。
このくらいの文章で、「静寂と動機」のテーマに合っているのだろうか。
「静寂と動機」のテーマは、もっと深い意味が有るだろう。
道元禅師が、悟る原因となった場面には、シイタケを干している老人の「典座・てんぞ」の言葉が有る。
「今 やらなければ いつやれる」「私が やらなければ 誰がやる」
其の二つの言葉が、道元禅師の一生の支えと、成っていた事は間違いない。
「禅」とは、「静寂の環境の中に 身を置いて 瞑想をする事である」と、一般的には考えられているが、「禅」とは「自分の人生の 動機を探る事が 一番の大事」とされているのだ。
「一大事因縁」と「時節一縁」が、禅のテーマである。
私は、時の節目を捉えて、自分の一大事因縁に生きているのだろうか。
その答えは、本日のテーマである「静寂と動機」が、ヒントなのであろう。
「静寂と動機」http://wave.ap.teacup.com/20060106/435.html
其れに、電気と人間の肉體の関係に付いては、以前に書いて有る
2008/7/16・・昨日、停電に成った時に、私が書いて居た文章は、電気の発電とアースに付いてだったので、私の頭には発電機のコイルが浮かんでいたのである。
其れを、現実の出来事と結び付けるのは、科学的ではないのだが、神の世界が全部電磁気信号の周波数・振動数で動いている理・ことを考えれば、私の脳波と地球のアース(マイナス電気・粒子)が繋がって共鳴を起せば、発電機の周りのアースに影響が現れて、モーターのコイルの磁気に影響が出るか、管理しているIT機器の磁気に影響を与える事も、考えられない事ではないのである。其れは、私が修行中に起きた事柄を考えると、大した事ではないのである。
私が、荒野で修行をして居る時は、屋久島の花崗岩を走っている石英の道筋の上で瞑想をして、第三の目である松果体(珪素・シリコン)と、其の石英の道の周波数・波動が共鳴した時に、岩が弾け飛んだり、其の石英の道筋に生えている草が焼け焦げたり、天気が急激に変わったりしたのである。
其れは、100円ライターに火が着く事で、科学的に理論は証明されている。 石英に電子を送り込むと、何万倍にも増幅するので火が着くのである。其の理で考えれば、人間の生体電気で、額の松果体から磁気を発すれば、花崗岩を走る石英の線上で増幅され、島中の花崗岩に影響を与えて、島の磁気波動が変り、天気に影響が出るのは不可思議な事ではないのである。
其れに、私が此の世界に入った時には、大地の情報が赤龍と成って、私の身体に情報を送り込んで来たのである。
そして、私は、安房川の発電所から、宮之浦の工場に電気を送っている高圧電線の下に行って、高圧電線から大地にアースされている粒子を、身体に直接充電して、時空を操り、新しい時間軸を創造したのである。
其の時、時空に穴を空けて、4311体の霊魂を現在の時間軸の中に集合させたのである。其の時と同じ事が、昨日起きたのかもしれない。・・・
「蜂鳥の左足・ウィツィロポチトリ」http://green.ap.teacup.com/20060818/819.html
2014/6/26・・聞いた話では、ヨーロッパの有名な霊能者シュタイナーが死んだ時、庭のイチョウの木に落雷が有ったとの事である。其れは、人間の御魂と雷とは、電気的に繋がっているからであろう。
其れを考えると、日本の神社に植えられる「御神木・神籬・ひもろぎ」の存在も理解出来て来る。・・・
「最後の祷り」http://green.ap.teacup.com/20060818/3111.html
2017/3/28「大地と人の関係」http://green.ap.teacup.com/20060818/4189.html
最後の「子供達の旅」に付いては、現在の子供達の生活環境と関係が有り、私達の子供の頃の様に年かさが異なる子供達が集まって、遊びで技を学習し、人間関係を築いて行く事が無く、幼児の頃から机に座って、頭に知識を詰め込んでいる事の問題点が指摘されているのであろう。
其の環境では、私の様な人間が育つ事は無理であろう。
2006/10/16・・日本には「可愛いい子供には 旅をさせろ」との諺・ことわざが有るが、其れは、正に、人間は子供のうちに家を離れて旅をすれば、精神構造が大きく丈夫なモノに成る理・ことを謂い表している。
日本語の「たび」は「家を離れる」の意味だから、釈迦仏陀の教えの「出家」や、イエスキリストの「私に付いて来なさい。一緒に旅をしよう。」との謂いと、共通の世界である。
「ストリート」http://star.ap.teacup.com/170606/1074.html
2013/5/18・・今朝のメッセージの映像には、先ず、小学校高学年と中学生くらいの年頃の子供達が、30人程集まっている学習塾の様な室内が映し出されて来た。
次の映像は、30歳代から 40歳代くらいの男女が集まって、生活に関する事の、研修を受けている様子が映し出されて来た。
最後に、ユースホステルの様なシステムの、運営に付いての様子が映し出されて来て、私は、其のシステムの情報発信の内容や、食事の事などに付いて、様々なアドバイスを行っていた。
今朝のメッセージは、人間は、青少年の頃から、親元を離れて、広い世界を見る訓練が必要である理・ことを、示して来ている様である。
其れは、日本の諺・ことわざに「可愛い子には 旅をさせろ」と有る事と、関係が有りそうである。
「釈迦仏陀」や「イエスキリスト」が、何故「家離・たび」を勧めたのか。
其れは、人間は、人間社会の「柵・しがらみ」を捨てると言うか、古い体質や世間の煩わしさから一度離れて見なければ、本来の自分を見詰める事が出来ないからである。
そして、本当の自由・真実の自由・全くの解放状態に、成らなければ、精神が解き放たれないのである。
其れが、仏教で言う処の「解脱・げだつ」の目的でもある。
人間は、世間の柵から自由に成って、初めて精神が自由に成る。そして、其の完全な自由を得なければ、「帰命・ナーム」が起きないのである。
日本語の「いのり」とは、其の帰命・ナームの事であり、「いのる」とは「帰る」の意味である。・・・
「帰命の家離・たび」http://wave.ap.teacup.com/20060106/518.html
2003/7/29・・自分の精神的なたびを、「旅」と書くしかない事に、長らく不満を覚えていたが、ようやく日本語の、「たび」のイメージを捉えることが出来てきた。
漢字の「旅・リョ」の字は、軍隊が列を組んで旗を立てて行進している様子を表す象形文字である。
私の旅は、一人で 神の為に進む行為なので、「旅」の字は合わない。旗も立てていないし、行き先さえ確定していないのである。
普通の人であれば、「たび」の語を聞いても、旅行の事ぐらいにしか思わないだろうが、私は 心のたびまでを意識しているので、日本語の「たび」の意味を知りたかったのである。
それが、日吉眞夫さんにプレゼントされた古語林を調べて見て、「たび」とは家を離れることの意味であることが判明した。
家を離れることが「たび」であるなら、釈迦の教えである出家も旅であるし、イエスが「私に付いて来なさい」と言って、弟子を家から連れ出した事も、たびをさせる事と同じであることが分かる。
人間 悟る為には、家を離れる事が不可欠の様である。
日本語の「たび」を、漢字に置き換えるとすれば、「出家」か「家離」と成る様である。このことを基準として考えれば、家から遠くへ旅行に出かけることも、たびの一部であることには間違いない。・・・
「家離・たび」http://moon.ap.teacup.com/20061108/466.html
2016/8/6「天石門別とは断て別け」http://green.ap.teacup.com/20060818/3947.html
今朝のメッセージの内容から、私に考えられる事は、私が37歳の時に「土肥無庵」の下で丸三ヶ月間行なった修行が、指導者と成るべき男性達に必要な時が来ている事が示されている様である。
其の様に考えると、私は自分の体験で知り得た事柄を、同じ年頃を向かえている若者達に、伝授しなければ成らない時節が到来しているのかも知れない。
2008/4/28・・私は24年前、無庵師匠の家の仕事を手伝いながら、師の家族と、約半年間一緒に食事をした。其れは、1984年の3月5日からである。
私は、自宅に帰って寝泊まりをして居るのだが、一緒に食事を始めて数週間後から、私の自宅に、誰からか電話が掛かって来て話をすると、次の日無庵師匠の自宅に行って、師の横に私が座ると、私の様子を師匠が知っている筈は無いのだが、師匠が私の気を計って「又 誰かと電話で話をしたな」と云って怒るのである。
其の理由は、私の生態電気のエネルギーの量(電圧)が、電話機の電線を通して漏れ、下がっているのだと言う事であった。
其れは、人間の体も電気で動いているものであるから、電圧の高い人と、低い人が存在して、「エネルギーは 高い方から 低い方へ 流れる。」のエネルギーの法則通りに、高い者が低い者に接触すると、エネルギーを失うと言う理・ことを意味している。
其れは、何事に対しても、パワーが有る人の側に居れば、低い人も、其の波動を貰って元気に成る事の理由を、明らかにするものである。
だから、イエスキリストの弟子や、釈迦仏陀の弟子は、其のエネルギーを師から貰っていた事に成るのである。・・・
「同じ釜の飯を食う」http://green.ap.teacup.com/20060818/731.html
平成29年12月30日
礒邉自適
2017/12/28
御用納めの日
29・12・28
今朝のメッセージの映像は、私が深い山中に湧き水が有る場所を発見して、其れを麓の村の水道の取り込み口にする事にして、其の発見日を横の岩に刻む場面が映し出されて来た。
次の映像は、何物かは判らないのだが、大きな存在が、其の水源が永久に存続する為と、私が刻んだ年月日が風化しない為に、コンクリートで保護する工事を済ませている事が、映し出されて来た。
其処で意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると時刻は3時28分から29分に成る所であった。
そして、電気を消して再び眠ると、今度は、右側から左向きに置かれている自転車の後輪が、勝手にクルクルと回転している場面が映し出されて来た。
其れから、一本の綱が映し出されて来て、其の綱(ロープ)が終りの所で細く括られ(冬)ている様子・場面が映し出されて来て、其の細く絞られた部分の反対側から、新しい綱(ロープ)が編まれて行く様子が示されて来た。
そして其の後には、其の新しい綱(次元・事象)の物事を考えると言うか、判断する為の、切っ掛け・要因と成る様々な言葉・単語や記号が、次々に映し出されて来た。
其れに付いて考えて居ると、意識が目覚めたので照明を点けて時計を見ると、時刻は「6時22分」であった。
今朝起こされた時間の数字の日付の文章には、次の様な事が書いて有る。
2017/3/28朝のメッセージの映像は、先ず、私の自宅の玄関口に、故「岩山光清」が訪ねて着て、ビデオテープを一本私に渡し、「コピーをしてくれ」と依頼する場面が映し出されて来た。
私は、其のビデオテープと同じ物が有るかどうかを、靴箱の様に並んでいる棚を調べると、同じ物が無い事が解かり、渡されたテープを良く見ると、其のテープには、「此のテープの内容は 規格外(レベルが高い)なので ダビング出来ません」と書いてあった。
そして再び眠りに入ると、私が、茶色の砂岩の岩が並んでいる、何処かの海岸に居て、其の海岸の岩を見て歩くと、所々に、岩が風化して、堅い部分だけが四角な墓石・石碑の様に残って立っており、其の石には昔の人が、経文や禱りの言葉を書いた一部分が残っている物や、現代の旅人や、キャンプに着た人達が書き残した、名前等の落書きが残されていた。
其れから、私は自分好みの石柱が見付かったので、其れを抱きかかえる様にして空中に浮き上がり、其の石柱を立てる場所を捜し始めた。
そして、気に入った場所が見付かったので、其処に石柱を立てて、禱りを始めると言うか、瞑想状態で自分のイメージを始めると、私のイメージ通りに地面の岩が変形し始めて、石柱の周りが祭壇の様に成り、其の祭壇・基壇を中心として、私の周囲を取り囲む様に、長方形の欄干が出来始め、更に、広く大きな神殿が建設されるべき庭園の建設用地へと、規模が拡大して行った。
私の意識は、其の様子を当然の事の様に、とても気持ち良く認識して居た。
すると其処に、様々な植物を育て、庭造りを行っている人の、奥さんと娘さんの二人の姿が登場して、其の敷地の庭園造りを請け負ってくれる事に成った。
次の映像は、200名程の人々が、何列かの長いテーブルに着いて、食事を始める場面が映し出されて来て、私が自分で料理した木耳(きくらげ)の煮物が、皿に盛られて、其処の全員に分配される場面が映し出されて来た。
そして最後に、黒色系のメタリック塗装された、エレキギターの「鞘・ネック」が一本映し出されて来て、其のネックには糸が張られていないで、音階を現す為に、丸い「マーク・印・絵柄」が前面に沢山着いていた。
今朝の映像に映し出されて来た、岩場の場面は、私が33年前に此の世界に飛び込んだ時に、半年間屋久島の荒野を彷徨い、島中の岩石と戯れると言うか、自分の肉体の波動(生体電気)と、岩石が有する磁気情報の繋がりを体験した時の「電気力場 エレクトロ・ダイナミック・フィールド」の世界と関係が深いので、文章の題は「大地と人の関係」とした。
其れに、最初の場面で、私の自宅に故「岩山光清」がビデオテープを一本持って来て、其れが収録されている内容のレベルが高すぎて、他の情報機器にはダビング不可能であると言うのは、岩山光清の名前にヒントが有り、「岩山が有する清い光情報は 現場で其の事に直接ふれて 体感しなければ 入力・理解・体得できない」との理・ことが、示されて来ているのであろう。・・・
「大地と人の関係」http://green.ap.teacup.com/20060818/4189.html
2017/3/29今朝のメッセージの映像は、私が「正しい」とされる「家・人・建物・言葉・理論・組織・・・」等を造ろうと、何度も何度も、挑戦する場面が映し出されて来て、結局は巧く行かないので、諦めて、其の世界から離脱し、自宅らしい家に帰る場面が映し出されて来た。
そして、家に帰り着いて、屋中に入ると、其の家の中は、床全面とベッドの上、其れにテーブルの上まで、まるで貝塚の様に、人間が食べて捨てた貝殻で、足の踏み場も無い状態と成っており、人間が住める様な状況ではなかった。
其れ等の、映像の意味に付いて考えて居ると、「だが人」との文字・言葉が映し出されて来たが、其の「だが」との二文字は、とても難しい漢字であり、黒くボケていたので、字型を確認する事が出来なかった。
だが、其の単語の意味は、「物事を全て打ち砕く人」との意味である事が、理解されて来た。
此の漢字の意味からすると、今朝示されて来た「打瓦人・だがじん」との言葉は、正しい御世を創造する為には、古い物を全て、一度壊さなければ成らないので、其の事を行う人の呼び名であると言う事に成る。
其れは、インドのシバ神が、破壊と創造の神である事に通じ、新しい世界を創造する為には、一度古い世界を根こそぎ破壊して、場・グランドを新地(さらち)にしなければ成らないと言う理・ことなのであろう。
其の事と、私が帰った家の中が、貝塚の様に成っていた事の関係を考えると、今朝の最初の映像場面で、私が正しい人間社会を構築する為に、何度挑戦しても実現しなかった事の原因が、人間社会は余りにも多くの情報を取り込み・食べ過ぎ・貯えて来たので、真実の世界・本来あるべき正しい世界を、見失っていると言うか、認識できない様に成っていると言う事である。
其れは、現在の近代社会・先進国の在り様を視れば、一目瞭然(いちもくりょうぜん)であり、現代人の意識は、あらゆる情報に、朝から晩まで・年中浸されているので、本来の自分・自己に一度も戻れない・リフレッシュ出来ない状態に陥ってしまっている事に成る。
其れこそが、法華経の中に有る「業火の家の中に居る人達を どの様にしたら救えるか」の課題なのであろう。
今朝のメッセージの状況からすると、誰か・何者かが、近代社会の積み穢れを祓う為に、「打瓦人・だがじん」と成らなければ成らない様である。
其れが、出来なければ、アフリカの草原の民であるケニアの人々の様に、同じ民族が武器を手にして戦う様な状況が、世界の隅々まで広がって行き、世の中は良い方向に向かう所か、増す増す不幸に成って行くと言う事である。
其れは、安定している様に見える、近代国家・世界システムは、人口増加と食料供給のバランスが崩れた時に、一気に瓦解する事で明らかと成るであろう。
そう成らない為にも、一人でも多くの人々が、何が真実であるかに目覚めて、正しい生き方に、意識を振り向けなければ成らないのである。・・・
「打瓦人・だがじん」http://green.ap.teacup.com/20060818/4190.html
2017/6/22・・今朝のメッセージの映像は、先ず、大型商業施設の様な、複合店舗の存在が映し出されて来て、どの店舗の商品も良品が並んでおり、働いて居る人々も皆「良い。優秀。(品行方正・ひんこうほうせい)」な人々である事が示されて来た。
次に、テレビドラマの様な物語の映像が映し出されて来て、其の物語の内容も俳優も優良なモノであって、子供達が観ても、意識・こころに害が無いモノである事が理解されて来た。
其の他にも、幾つかの人間社会に関する映像が映し出されて来て、私の存在も其の社会改革の先頭に立って活動をして居た。
そして最後に、文部省唱歌の「汽車」の歌、「今は山中 今は浜 今は鉄橋渡るぞと 思う間も無く トンネルの 闇を通って広野原(ひろのはら)」の曲が聞こえて来た。
今朝のメッセージの内容は、昨日のメッセージ「正しい文字で綴る」とのテーマと関係が有り、正しい言葉・正しい文字が使用される世の中と成れば、人間の精神・こころ・意識も正しいモノと成る理・ことが、示されて来ているのであろう。
そして、其の正しい精神の人々に拠って、世の中の有り様が正しいモノと成り、流通する様々な品物が良質・良心的な物と成って、人々の生活が幸福・しあわせに成ると言う理・ことが、示されて来ている様である。
そして、汽車の歌が聞こえて来たのは「・・思う間も無く トンネルの 闇を通って広野原」との言葉が関係が有り、人間社会の闇・無明が、闇の期間を過ぎて、明るいモノと成る時が近付いて来ている理・ことが、示されて来ているのであろう。
私を捜し出して此の神の世界に送り込んだ「土肥無庵」は、「自適さん 豊な心の持ち主が良い品物を創り出し 良い品物は人間の心を豊にするのだ。」と謂って居た。
今朝のメッセージの内容は、其の「土肥無庵」の想いが、漸く叶う時節が巡って来たと言う事に成るのかも知れない。・・・
「正しい世の中」http://green.ap.teacup.com/20060818/4279.html
今朝のメッセージは、本日が「官庁御用納めの日」である事と関係が有り、公けの機関(おかみ)と言うか総合システムが、冬(結び)を行なう事が示されて来ている様である。
今朝の初めの映像は、私が人間の意識の源(水元)に辿り着いた事が示されて来ており、其の源流の存在と、私が其処を発見した日付が、永久保存される理・ことが、示されて来ている様である。
其の映像の意味に付いて、私に考えられる事は、近代社会(都会)の人間は煩悩(欲望・柵)の大海に溺れそうに成っており、其の煩悩から逃げ出す事に成功した私は、意識(川)の源流に辿り着いたので、其の事が宇宙意識・天神にとって掛け替えの無い事なので、永久保存される事に成ったと言う事が、示されて来ているのであろう。
其れは、是までの人間が行い続けて来た、神に対する「禱り(帰命・ナーム・リリジョン・religion)」の有り方が間違いであり、「覚醒・成仏」の対象が何処か(外側)に有るモノではなく、自分自身の「内側・内面」に有ると謂う理・ことであり、其れに成功したのが釈迦牟尼佛だったと言う事に成るのであろう。
次の、自転車の後輪が勝手に回転していた場面は、「チャクラ-ヴルティーン・転輪聖王」の世界を示唆しており、転輪聖王(時の歯車)の働きは「前輪駆動」で人々を導くのではなく、後輪を回してはくれるが、進む先は、其の自転車を運転する人間自身が決めなければ成らない理・ことが、示されて来ているのであろう。
2008/1/8「大日如来の節間」http://star.ap.teacup.com/2007313/287.html
2016/6/3「主の代理」http://green.ap.teacup.com/20060818/3873.html
次の映像の、是までの綱の端が細く結ばれ、其処から新しい綱が結ばれて伸びて行く場面は、事象の終焉と再生の理(ことわり)に付いて示されて来ており、人間の行為(カルマ・業)が絞られて来る事が示されて来ており、其の細く絞られた後に、新しい世界が結ばれて行く事が示されて来ているのであろう。
其れは、イエスキリストが謂う「其の時には 一番前の者が 一番後に成る」との事と関係が有り、其のイエスが謂う「そのとき」が到来したと言う事に成るのであろう。
2016/2/28「どん尻からの復活劇」http://green.ap.teacup.com/20060818/3771.html
1995/5/17「新しい暦を考える会」http://moon.ap.teacup.com/20061108/395.html
2010/7/29「仕切り直し」http://green.ap.teacup.com/20060818/1620.html
2017/4/27「層なる世界」http://wave.ap.teacup.com/20060106/740.html
そして、日本の神道の「結び」の概念が真価を発揮すると言う事であり、其の為には、個人だけではなく、社会全体の「禊ぎ祓い」が必要に成ると言う理・ことである。
2003/4/28「ほどく」http://moon.ap.teacup.com/20061108/320.html
2013/10/1「結びと智慧」http://green.ap.teacup.com/20060818/2826.html
2017/7/16「禊ぎ祓いの必要性」http://green.ap.teacup.com/20060818/4306.html
2001/6/28「神惟道は他力でも自力でもない」http://moon.ap.teacup.com/20061108/36.html
2014/10/9「本格的なアセンションの時」http://green.ap.teacup.com/20060818/3223.html
2000/10/9「血迷う」http://moon.ap.teacup.com/20061108/10.html
今朝のメッセージの内容から、私に考えられる理・ことは、現代社会の大部分の人間は「何かをやる事が正しい」と考えており、釈迦牟尼佛の様に何もしない人間は怠け者として扱われ、評価を受け難い仕組みであり、其の結果が多くの国で発生している借金地獄である。
其れは「自転車操業」其の物であり、何れ倒れてしまう事は間違い無い事である。そして其れは、近代文明(消費型社会)の終焉でもある。
そして、其の時には、既存の宗教は、殆ど救いの手立てには成らないであろう。
其れは、近代社会の崩壊は「食料供給」や「ライフライン」の停止を招くからである。
其れを考えると、人間は早急に、現在の文化文明を見直さなければ成らないのである。
其の事が、一昨日の「放送部どうぞ」とのメッセージと関係が有るのだろう。
昨日は、「何も無い」との題で文章を書いたが、今朝は、新しい時代を紡ぐ為のヒントと謂うか、課題を意味・示唆する情報が、立て続けに映し出されて来た。
其れは、孔子の謂う「温故知新」の言葉にも関係が有り、現代人は人間の本質と言うか、原点の所を、見詰め直す必要が有る理・ことが、示されて来ているのであろう。
「温故知新」デジタル大辞泉
《「論語」為政から》過去の事実を研究し、そこから新しい知識や見解をひらくこと。[補説]「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る...
そして、私は、其の意識の「源流・みなもと」に辿り着いたと言う事であり、私の「意識・みたま・魂しい」は、永久保存される事に成ったと言う事に成るのであろう。
其れは、イエスキリストの謂う「永遠の命の世界」に、私が「帰命・ナーム・リリジョン・religion」したと言う事にも成るのであろう。
平成29年12月28日
礒邉自適
2017/12/27
何も無い
29・12・27
明日12月28日は「御用納め」の日であり、本日が最後の有仕事日である。
今朝のメッセージの映像は、其の事に関係が有るのか、「何も無い」との言葉が告げられて来て意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると時刻は「3時59分・4時1分前」であった。
今朝のメッセージの映像は、私自身の母親ではないが、一人の母親の姿が映し出されて来て、子育てに大変苦労をして居る様子が映し出されて来た。
私は其の様子を見て、私達がこうして存在して居るのは、全て母親が産みの苦しみや、子育て苦労をしているからである理・ことを、改めて理解して居た。
其れは人類だけではなく、殆どの動物が同じ様なシステム・仕組みで存在しているのである。
そして、告げられて来た言葉は「何も無い」である。
其の言葉は、私自身にする事が何も無いと言う事なのか、老後の男性には何も無いとの事なのか、能くは判らない。
今朝は、4時に電気を消して再び寝たのだが、自分の母親の事を思い出して、眠れなく成ったので、4時50分に起きて、PCを立ち上げた。
私は1984年6月4日(母親の64歳の誕生日)に、此の世界に飛び込んで、自分が存在して居るのは、母親の存在のお陰だと思って、涙が溢れ出し、実家の座敷の襖一枚全体に「母さんありがとう」と筆で大書した事が有る。
其れから、早33年半が経過しており、其の時37歳だった私は、現在70歳で3年半後には、此の世界に行ってから、其れまでの歳と同じ37年が経過する事に成る。
今朝告げられて来た「何も無い」との言葉が、私自身の意識の事(世界)であれば、私自身の「海馬」には、「悩みが何も無い」と言う事なのかも知れない。
確かに、私には、悩みが何も無い状態であると謂えない事もない。
何故なら、7人の子供は全て成人しているし、由香のお陰で自分の生活の心配も無いのである。
其れに、子供の頃から「何故」と疑問に感じて居た事も、大方謎解きが済んでいるので、「何故」と謂う疑問も湧いては来ない状態に有る。
不思議な理・ことに、毎日欠かさず霊夢(神のメッセージ)は見ているのだが、日常の事は一切出て来ないのである。
其れを考えると、私の意識状態は、個人的な三次元世界・現実界は夢に影響を与えていない事に成り、私には、自分の行為が、夢に影響を与えていない理・ことにも成る。
其れを考えると、私自身の人生は既に「御用納め」が済んでいる事に成るのかも知れない。
キー「母さん ありがとう」
2002/12/17・・今朝の霊夢は、場面も多く、嘗て無いほど意味深そうなので、紙面を替える事にして、先ず、今朝の感動を記す事にする。
朝起きて、顔を洗い、外に出て安房川を眺め、河口に昇る太陽を拝してから、定位置の机に向かい、タンポポコーヒーを飲みながら、先月来島したキム・シンさんから、留守中に届いていたCD『まほろば』の音楽を聴きながら、昨日、日吉眞夫さんに頂いた雑誌「生命の島」の自分の文章を読んでいて、何故か涙が流れて来て「ありがとう」の言葉が、実感として湧いて来た。
自分の存在が、自分の勝手で在るのではなく、世界全体の調和として発生している理・ことに気付いたのである。
私の考えや発想は、決して自分で独り占め出来るものではなく、神の働きに因って創造されている現象・ものなのである。
18年前、神の世界に触れた時、感謝の念が湧いて来て、実家の部屋の襖に「かあさん ありがとう」と、襖一枚に筆で大きく書いて、家族に、変に想われる原因と成ったが、その文字は、今でも実家の襖に残っている。
その時の“ありがとう”は、今朝の“ありがとう”とは、少しニュアンスが違う様である。
18年前の“ありがとう”は、自分の存在感が身・からだの方に有り、私を産んでくれた母親と、育ててくれた屋久島の自然とに関した、感謝ではなかっただろうか。
しかし、今朝の“ありがとう”は、自分の心・魂が、喜んでの事の様な気がする。
自分の気持ちが、文字に表され、自分の好きな人に拠って本に成り、その文章を自分で再確認しながら、キム・シンさんの作曲及び演奏を耳にしていると、魂そのものが打ち震えて来るのである。
是は、私の感情ではなく、18年間、私と旅を共にした4311体の霊魂が目的を果し、其の成果を喜んでいる様な気がする。
私が、私一人ではなく、全ての総合体として、存在しているのだと言う事である。
此の考えで行けば、西洋式の特許権の存在は、神の掟には反している事になって来る。
自分の肉体を始め、自分が創造する物事の一切は、社会全体のバランス(和魂・にぎたま)から産み出されるものであり、自分にも権利は無いのである。
だから、自分の功績に対して、何も威張る事は出来ない。
昔から、日本では「いえ お蔭様なのですよ」という挨拶が伝えられている。是は、他人から個人に対しての、賞賛に対しての応えである。
西洋の「私の力でやった」との自慢とは、反対に位置している。
其れは、東洋に伝えられている“徳の世界”の文化なのかも知れないが、日本ではそれよりも、もう一段深い位置が、認識されていたのではないだろうか。
島根県出雲地方には、「ありがとう」の事は「だんだん」と言う言葉で伝わっている。何事に対しても「だんだん だんだん」なのである。
「ありがとう」の感謝の表現ではなく、人間の認識段階の進歩を示唆する、何かを含んでいる。
神々の故里「出雲」ならではの方言であり、古代の人々が、神社を岡や山頂に造り、階段を設(しつら)えて、その段を一歩一歩上がって行く。
其の肉体の作業が、新たな自分の意識の覚醒を齎すのだとの考えがあり、又その階段は日常の社会生活の中にも、存在するのだとの考え方ではないだろうか。
私の、37年間の屋久島での生活体験と、18年間の心の旅、そして又屋久島での生活、其れ等の事を他人に説明しようとすれば、階段の存在は便利なものであり、出雲の方言「だんだん」は、用を得ていると想わざるをえない。
私は、新たな段を上り出さなければならない様である。
安房区長の日高雲平さんに、1月1日の新年会に町長「日高十七郎さん」の挨拶の後、20分くらい話をするよう依頼があった。
「一年の計は元旦に有り」との諺が有る。
私に、新たな門出が始まろうとしている。
両親が、屋久島に移住して57年目である。
屋久島の島民二世として、私がこれから、故郷の為に何が出来るか、その事が、是からの私の新たな課題であろう。
第三回目の「ありがとう」の期節が、何歳の時に体験出来るか未だ分からないが、新たな次元へと向って、一歩一歩「だんだん」の言葉を、胸の「文(あや、おもい)」として進んで行かなければならない。
文化の本来の意味も、其処にあるのだと想われる。・・・
「ありがとう だんだん」http://moon.ap.teacup.com/20061108/220.html
2017/9/17・・そして、眠ってからの映像は、人間の存在・人類の総体の世界が示されて来て、肉体の生命情報は繋がったが、精神状態が未だ全然繋がっていない理・ことが示されて来た。
其処で、時間が気に成ったので、照明を点けて時計を見ると時刻は「2時25分」であった。
其れから再び眠ると、「チョイス」との言葉が告げられて来て、其の正しい「チョイス・選択」の為には、穢れの無い純粋な情報の野菜を、摂取する必要が有る理・ことが示されて来た。
私は、其の理・ことを理解すると、是までの女神の声よりも落ち着いた声(女神の母親か?)で「あらためて ありがとう」と一言告げられて来た。・・
今朝は文章の題は「隹が発動する」にしようと意って居たのだが、此処まで私の見守って来た「おおとり・鳳凰」に敬意を表す為に、今朝告げられて来た母神の声「あらためてありがとう」とした。
私が33年前の6月4日(母親64歳誕生日)に此の世界に飛び込んで、此の宇宙の神秘を認知した時に、感謝の気持ちが心の底から湧き上がって来て、涙が溢れて止まらなく成り、母親が居る実家に帰って、部屋の襖一枚全体に「母さん ありがとう」と筆書きした事が、今朝反対に、宇宙の母神から「あらためて ありがとう」と告げられて来た事は、天界の物語りが一周したと言う事にもなりそうである。
其れに、今朝のメッセージの映像で「永遠の命」である「ダイナミック・コスモス・インフォメーション」が新しい次元で稼動を始めた事は、日本語の「たまちはえませ・霊生ませ」との言葉が、人類全体に認識され、宇宙意識とのコラボレーションが開始される事に成ると謂う事なのではないだろう。・・・
「あらためてありがとう」http://green.ap.teacup.com/20060818/4371.html
何れにしても、私は此の世界に入ってから33年半で、二度目の大掃除が終わったと謂う事であり、来年1月29日で71歳を迎える私は、新しい意識状態を体験できる事に成るのかも知れない。
其れは、私を此処まで育てて来た、宇宙神である「高天原」の母親と、意識の「Collaboration・コラボレーション」が、新しい次元を迎えると謂う事である。
そして、其れは、釈迦牟尼佛の教訓である法華経の「十二因縁起」を超えて行く事でもある。
「十二因縁起」http://wave.ap.teacup.com/20060106/
平成29年12月27日6時27分
礒邉自適
1 2 3 4 5 | 《前のページ |
次のページ》