1984年6月4日(旧5月5日)神と交わした約束が果たされる事が 今朝告げられました。
18年8月18日未明
事象(とき)の切り替え
今朝は5時15分に是までの時間(とき)が閉じられ、5時22分に新しい時間(とき)が開いた。
其れは、旧約聖書に「神は6日間で此の世界を創造し 7日目に休んだ」と記されている事と関係が有り、是までの「事象・時空・とき」が閉じられて、新しい事象が始まる理・ことが知らされて来たモノの様である。
其の時間の「扉・まく」は、カメラのシャッターの様な物であり、其れは人間の瞼の仕組みと同じで、閉じている時は「月読界」で、開くと「天照界」であると言う事である。2016年6月6日
2018/2/28
真理は固定したものではない
30・2・28
今朝のメッセージは、私の知り合いで、善良な人間だと思っている人物が、私の嫌っている強欲な人物から、私が困っているからと謂って10万円を借りて、行方不明に成ってしまう様子が映し出されて来た。
次に、春夏秋冬の景色の移ろいと謂うか、歳時記の様な世界が映し出されて来た。
其れは、初めの映像・物語は「人の道」に付いて示されて来ており、後の場面は「自然の道」に付いて、示されて来ているモノであると感じたので、今朝のメッセージは、昨日告げられて来た「名前を知らない」との言葉と関係が有り、私は何も無いところから、物事を考え始めなければ成らないとの事の様である。
其処には「統尊・すめらのみこと」や「御嚴・みいつ」の言葉も関係が無く、赤子の意識から此の世界を観察する事である。
其の様に考えると、昨日の「名前を知らない」との言葉は、老子の謂う「名前を与えなければ 認識する事が出来ないので 仕方なく道と名付けよう。だが、道と名付けた時から もう道ではない。」と、関係が有る様である。
どうやら、私の意識の世界と謂うか、私の人生の物語は、新たな次元へと進み始めている様であり、1984年6月4日に禊ぎ祓いを行った事で、4311体の聖霊に満たされて起きた「御霊の思頼・みたまのふゆ」から、自分自身の生き方に振り子の揺れが変わったらしい。
其れを考えると、私はPCとITの存在の御蔭で「トト神の書記長」の役割を果たし、自分自身の意識で、新しい世界に踏み出して行かなければ成らないと謂う事に成る。
老子の道徳経の第一章には、次の様に書いて有る。
「真理は固定したものではない」
これこそ真の道(原理)であるといえる「道」は、絶対不変の固定した道ではない。これこそ真の名(ことば)であるといえる「名」は、絶対不変の固定した名ではない。
「無」とは、天地の始め、つまり物が現象する以前の状態を指すことばであり、「有」とは万物の母、つまり万物が万物として現象する状態を指すことばである。・・・
道の道とすべきは、常の道にあらず。
名の名とすべきは、常の名にあらず
無は天地の始に名づけ 有は万物の母に名づく
故に常に無は以ってその妙を観(シメ)さんと欲し、
常に有は以ってその徼(キョウ)を観(シメ)さんと欲す
この両者は同出にして、名を異にする
同じく之を玄と謂う 玄の又玄、衆妙の門なり
道可道、非常道 名可名、非常名
無名天地之始 有名万物之母
故常無欲以観其妙 常有欲以観其徼 此両者同出而異名
同謂之玄 玄之又玄衆妙之門
「中国の思想 老子 徳間書店 奥平卓訳」より
キー「仕方なく道と名付けよう」
2003/4/30今朝は、午前3時頃、床に入って眠ろうとすると「トータリティ」と出て来て、次に「はんぎゃくせい」と出て来た。
「トータリティ」とは、統一性か全体性の意味なのだろう。
それに対して、反対の言葉が「反逆性」との事だろうか。
「トータリティ」と、英語の名詞で出て来る原因は、日本語に同じ意味を表現する言葉が無いか、私が有っても知らないからなのだろう。
その意味を、私に知らせる為に、反対の意味の「反逆性」との言葉を、補足してきたものと考えられる。
「トータリティ」の言葉で、私が現在・いまの意識で浮かぶモノは、全宇宙のシステムとか、大自然の法則とか、生命の本質とかの理・ことである。
もう一歩、踏み込んで言うならば、「トータリティ」とは「神の意識」「神意」と考えても良いのではないだろうか。
神意に逆らって、「エゴ・利己主義」に走る人が、反逆性の有る人と考えられるのではないだろうか。
「はんぎゃくせい」が「犯逆性」であれば、「法律や 道徳を犯して 逆らう性質」となるので、自然の法則や神意に逆らう事は、犯罪と言う事にも成って来る。
私の「トータリティ」の解釈に、間違いが無ければ、老子の「タオ・道」の概念や、釈迦仏陀の「ダルマ・法」」や、イエスキリストの「永遠のいのち」も、其の理の意味と考えられるし、仏教用語の「マハーヴァイローチャナ」や「阿弥陀」も、同じ概念の範疇・はんちゅうに入るのではないだろうか。
「マハーヴァイローチャナ」は、日本語では「大日如来」で「宇宙の真理の本体」の意味だし、「アミダ・阿弥陀」は「人間の意識では 計り知れない 光であり 慈悲」との意味である。
神の、意志や働きは、人間には計り知る事が出来ないとの意味であれば、私の考えは間違っているとは想えないし、宇宙の仕組や、生命の本質の不思議さは、未だ人間には、しっかりと解明されていないと言える。
近年「ガイア」との言葉が使用されているが、「ガイア・Gaia」とはギリシャ神話の「大地の女神」の名で「大地」を意味し、「カオス・混沌」から生まれた物との事である。
其れは、老子の謂う「混沌から生じたものに 名前を与えなければ 認識出来ないので、仕方なく道と名付けよう。だが 道と名付けたらもう道にあらず。」と似ており、ギリシャ神話を考えた者と、老子の考え方が、同じ様なものである事が分かる。
何も無い、カオスから生じたモノ、其れに、どの様な名を与えるか、それに因って、人間の意識は方向性を持つ事が出来る。
地球・大地が、最初から有った訳ではないし、「阿弥陀仏」や「大日如来」が、宇宙に仏像の姿として存在する訳でもない。
仏像や、十字架や、様々な物に名を与える事で、人間の意識は、其れ等に振り回され、根本の処から外れてしまっている。
カオスとは、未だ何物も生じてはいないが、無と言う訳ではなく、何かが生じようとしている場面を、表現する言葉である。
カオスから生じ、現在の森羅万象の姿と成って来たモノに、どの様な名を与えるか、其れが一番の問題である。
世界の戦争などの不幸事は、此のモノの呼び名が、宗教毎に異なる事から、起きていると言っても、過言ではない。
「トータリティ」とは、全体の調和も意味しているのだろう。
全体の調和を崩す者が在れば、それが反逆者と言う事に成る。
現在、ガイアの調和を崩している者と言えば、私たち人間がそうである。
人間以外の地球生物は、生活に必要以外の事は遣らないが、人間は、不必要な事を休み無く続けている、存在と謂える。それも、神仏の名を使用しながらである。・・・
「トータリティ」http://wave.ap.teacup.com/20060106/144.html
2008/4/15昨日は、自然の景色を背景にして、帝釈天の網が張られている映像が映し出されて来たが、今朝の映像は、其れに続いて、此の世界の成り立ちが示されて来た。
其の世界は、是まで「スメラノの命・シャーマン」にだけ、力として与えられて来た世界であり、一般人には迷いの原因に成るので、秘されて来た世界である。
しかし、其の世界も、奥の院が堅固に成って、壊れる心配が無いので、理論としてだけ、一般に公開して良い事に成ったのであろう。
其れは、是までに、八回失敗した人類の「アセッション・次元上昇」が、ようやく成功する段取りが、出来たと言う事でもある。
今朝の映像は、先ず始めに、二人の男性の兄弟が、明るい世界に、立って現れ、古い言葉から自由に成って開放され、光に包まれる場面が映されて来た。
そして場面が変わり、馬の首星雲の様に、宇宙の中に、赤いタツノオトシゴの様な形の、エネルギーの固まりである龍体が在って、其の龍体からエネルギーの塊りが爆発して、此方側に向けて円く拡がりながら、押し寄せて来るのが見えた。
其の、拡がりながら此方に向って来るエネルギーの輪は、光源が背後に有るので、此方側からは、影の部分しか見えないので、真っ黒に見えた。
そして、其の後「事代主神・ことしろぬしかみ」の存在が、伝えられて来た。
いま事務所に出て来て「事代主神・八重言代主神」をITで検索すると、次の様に載っている。
名前の「コトシロ」は「言知る」の意で、託宣を司る神である。
言とも事とも書くのは、古代において言(言葉)と事(出来事)とを区別していなかったためである。
大国主の子とされているが、元々は出雲ではなく大和の神とされ、国譲り神話の中で出雲の神とされるようになったとされる。元々は葛城の田の神で、一言主の神格の一部を引き継ぎ、託宣の神の格も持つようになった。このため、葛城王朝において事代主は重要な地位を占めており、現在でも宮中の御巫八神の一つになっている。 引用終了 ウィキペディア辞典 現在記載
是に拠ると、日本語では「言葉」と「出来事」は同類の概念であり、「言葉」が「事場」を生み出す要因である理・ことを現している。
だからこそ、日本では、スメラの命が政(まつりごと)を行なう事を、「治しめす・代示す・しろしめす」と言うのであろう。
其の為に、「スメラの命」に成る者は、若い時「饒速日命・にぎはやひのみこと」や「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」の様に、諸国を巡る旅をして、国の様子を知り、様々な体験をして場数を踏む必要があるのだ。
今朝の映像に現れた男性二人は、国造りをした「大国主命」の息子達ではなかったのだろうか。其れは、「事代主命」と「建御名方神(たけみなかたのかみ)の兄弟の怨念が、晴れた事を意味しているのかもしれない。
古事記の物語に拠ると、大国主命は、息子が何と答えるかを重要に考えているので、兄の「事代主命」が政(まつりごと)の言葉を司る働きを担い、弟の「建御名方神」は力が強く軍神の役割を担っていた事になる。
今朝の映像は、其の二人が、自分の父親である大国主命が造った国を、天津神である「饒速日命」に取られた事を恨んでいたのだが、日本から世界に向けて、新しく大きな国造りが行なわれる事に成って来たので、其の怨念から、開放された事を、意味しているのではないだろうか。
其の事を考えると、日本の国土に溜まっていた、あらゆる因縁が、古代まで遡って解けた事を意味している。
時代を遡って行くと、「西郷隆盛」や「坂本龍馬」等の明治維新に拠る挫折者を始め、戦国時代の「織田信長」や「明智光秀」、平安時代の「平将門」や「平家一門」、神武時代の「長髄彦・ながすねひこ」など、政(まつりごと)の為に、志し中場で挫折した者は数知れず存在する。
其れは、此の日本国だけではなく、磔で殺されたイエスや、スペイン人に滅ぼされたアステカ・インカの人達等、世界中に存在するのである。
其の者達の怨念が、霊界に、是まで溜まっていて、人間の潜在意識を暗いモノにしていたのである。
今朝の映像は、其れ等の者達の霊魂が払拭され、霊界が晴れたとの事ではないだろうか。其れが、岡本天命氏の日月神示にある、「富士は 晴れたり 日本晴れ」の言葉の意味なのかもしれない。
今朝のメッセージで大事なコトは、宇宙の中心から、新しいエネルギーの波動が、此方に向けて遣って来ると言う事である。
其の波動を、善きモノとして受け取るには、私達人類も、其の波動を善きモノ・現象として迎える事が出来る様に、波動調整をして措かなければ成らないのである。
其の為には、自分の魂しいの拠り所・住みかである、此の肉体を、浄化して於かなければ成らないのだ。
其れを、物が大事であると考え、お金や財産を大事にし、会社や宗教等の組織にしがみ付いていると、身体の方がアセンションに失敗し、生き残る事が出来なく成ると言うことであろう。
生き残れなければ、幾ら財産が有って、権力を持って居ても、何にも成らないのである。其れが、イエスの謂う「其の時には 一番前の者が 一番後に成る。」の教えの意味なのである。
今朝の「ことしろぬし」の意味が、「事を 知ろ」であれば、他人に云われる前に、其の理・ことを自覚しろとの意味に解釈できる。
古代社会では、文字が無いので新聞も無いし、テレビ放送や携帯電話も無いので「一言主・ひとことぬし」の様に、言葉で「もの申す存在の人」が必要であったのだろう。しかし現代社会は、是だけの情報網が発達しているので、其の様な役割の人間は必要ないのである。
今朝の映像場面では、新しいエネルギー波動の輪は、此方側からは黒く見えた。其れは、光からのエネルギー波であっても、人間の視覚で見れば、陰に成っている部分は、黒く見えると言う事である。
其れは、空の雲が、太陽光線が当っていると、人間の目には真っ白に見えるが、嵐の時には、同じ雲が黒雲に見えるのと、同じ理屈である。
其れは、飛行機に乗って、雨天の空港から1万mの上空に上がれば、雨を降らしている雨雲が、真っ白な雲海と成って見える事で、理解出来る。
其の理を考えれば、単純に、物事を片面から見る事は、危険である事を意味している。
我々人間の視覚は、ついつい光が当っている部分しか見ようとしない。
其れは、人間の感覚器官である五感が、相対世界に拠って発達して来ているからである。しかし、其れは、昼の世界の、行動パターンに拠って、磨かれて来た能力である。
人間の身体は、胎児の時から死ぬまで、夜の眠りの世界で、保たれているのである。其れは、宇宙は全域、夜の世界で成り立っているからである。
其れは、人間は昼活動するエネルギーは、夜寝て居る時に、蓄えられる事から明らかである。
地球上に起きている昼の世界は、奇跡的な世界であり、全宇宙から見れば、無きに等しい世界なのである。
其の理を、しっかりと考えれば・悟れば、老子の謂う「玄の世界」が理解出来、古典にある「玄の響きが聞こえ始める時 禽鳥類が騒ぎ出す。」との意味も、理解されるのである。
今朝の映像に現れた、二人の男性神は、言葉から開放される事で、自由を得ていた。其の意味は、過去のどんな言葉からも、自由に成らなければならない事を、意味している。
其れは、宗教の言葉や、イデオロギーの概念を、全て、一度捨て去らなければ成らない事を意味している。
其れは、釈迦牟尼佛の謂う十二因縁起の訓えの内容に有るし、老子の言葉にも「玄から生じたモノに 名を与えないと認識出来ないので 仕方なく 名を道と名付けるが、道と名付けたら もう道にあらず。」と有る。
だから、アセンションの為には、一度、言葉を全部外さなければ成らないのである。其れが、日本の神社で行う、禊ぎ祓いの儀式の意味である。
そして、真っ白に成った身心で、新しい事象の「風・ルン・エナジー」を受け、未来世界・御代を創造して行かなければ成らないのである。
其れが、日月神示にある「日本から神一厘の仕組みが始まる。」と言う事であり、矢追日聖氏の謂う「世界維新が日本から起きる。」との事である。
今朝のメッセージは、其の事の始まりを、伝えて来たのであろう。
其れは、昨日の文章の続きの世界である。
是が「天津日嗣・あまつひつぎ」の本来の姿なのであろう。
こうして、私が、森羅万象の流転の様子を、毎日言葉に変換する事で、事象が変化しているのである。だからこそ、古代から呪詛や政(まつりごと)に、言葉が使用されて来たのである。
其れだけ、言葉の世界が重要であり、言葉に拠って政(まつりごと)が始まる事を示してもいる。だからこそ、旧約聖書に「始めに言葉ありき 言葉は神なりき」と謳われているのであろう。
其の始まりの世界が、ようやく今、始まろうとしているのである。
其れこそが、此の日本列島の国土に秘められている「敷島・和歌」の世界なのである。
中国の青龍寺の「恵果和尚」が、「弘法大師空海」に秘儀を授けた後に、「汝は早く日本に帰れ 大日如来は日本の国土に在る。今度は私が 汝の弟子として生まれ変わる。」と告げたとされている。
其れが、真実と成る日が、近づいているのである。・・・
「事代主の神」http://green.ap.teacup.com/20060818/712.html
2008/10/2「キリストの意識3」http://green.ap.teacup.com/20060818/901.html
2016/8/3「火・食・風・水・人・文字」http://green.ap.teacup.com/20060818/3944.html
此の「事代主の神」の文章には『・・元々は葛城の田の神で、一言主の神格の一部を引き継ぎ、託宣の神の格も持つようになった。・・・』と書いて有り、「田の神」であると謂う事なので、1月14日のメッセージで「三輪が動く」との事と、「江藤敬介氏を祈年祭(としごいのまつり)である2月17日午後1時に出雲の安部忠弘氏に会わせろ」と示されて来た事と関係が有りそうである。
其れに、2008年4月15日の文章の内容からすると、1月16日のメッセージの「八重事代主の名の意味」の内容は、以前から折込済みの事であり、今年の4月15日で丸10年目を迎える事にも成る。
其れに、一昨年の「火・食・風・水・人・文字」の文章の内容は、今朝示されて来た「人間が四季の移り変わりの中で暮らす歳時記の様な世界」と関係が有りそうである。
キー「歳時記」
2013/5/29昨夜は、床に就いて目を閉じていると、瞼に、月下美人の様な、大きな白い花が、一輪満開に成っているのが映し出されて来た。其の花は、四弁か五弁の一重で、長めの花弁の重さで花の向きが少し垂れ下がっており、日の光は射していなかった。
其の、花の意味が判らないまま眠ると、朝方「自分で咲きなさい」との言葉が告げられて来た。其れは、何時もの女神の言葉よりも、強い口調のものであったので、私の気持ちも力強く感じた。
そして、明け方に「歳時記」の事が頭に浮かんで来て、人々の日々の暮らしの中の仕草が、一番美しいモノ・世界である理・ことがイメージされて来た。
それから、「自分で花開く」との言葉と「オープン・ザ・ロード」との言葉が関係有る事が示されて来た。
「さいじき」を検索すると、次の様に載っている。
歳時記(さいじき)は、「歳事記」とも書き、もともと四季の事物や年中行事などをまとめた書物のことであったが、江戸時代以降の日本では主として俳諧・俳句の季語を集めて分類し、季語ごとに解説と例句を加えた書物のことを指す。現存する最古の歳時記は6世紀の中国・荊楚地方の年中行事を月ごとにまとめた『荊楚歳時記』であり、これが奈良時代に日本に伝来し「歳時記」という呼称が知られるようになった。日本独自の歳時記としては貝原益軒による『日本歳時記』(1688年)が始まりとされる。
一方、季語を収集した「季寄せ」や四季別の類題集句集は連歌のころから存在していたが、両者の要素を組み合わせたものとしては北村季吟の『山の井』(1647年)が最初であった。この種の書物で「歳時記」の名を最初に使ったのは滝沢馬琴の『俳諧歳時記』(1803年)で、明治になっても増補版が翻刻されていた。1872年12月より日本に太陽暦が導入され、歳時記の内容に大きな混乱をもたらした。1874年の『俳諧貝合』(香夢)が陽暦による最初の歳時記であり、同年序の『ねぶりのひま』(四睡庵公壷編)では四季とは別に新年の部を立て、立春を2月において陰暦から1ヶ月遅れで調整しており、現在の歳時記の多くがこの方法を引き継いでいる。その後改造社の『俳諧歳時記』(1933年、全5巻)が出て近代の歳時記の体裁が整えられた。
〜引用終了〜 ウィキペディア辞典
今朝のメッセージのテーマは、「白い花」と、「歳時記」と、「道・ロード」がテーマなので、人間の生きる為の指針が示されて来ているのであろう。
「歳時記」の「歳」は、漢語林に次の様に載っている。
「歳・サイ」は、「歩+戌」の組み合わせ。歩は、あゆむの意味。音符の「戌・シュツ」は、まさかりの象形。まさかりでいけにえを裂いて一年ごとに祭る儀式から、みのり・としの意味を表す。歩は、一年が終わって次の年へと歩むの意味から付された。
今朝の「歳時記」の言葉の背景には、ミレーの晩鐘の絵画の風景が有った。其れは、人間が、他人の手に頼らずに生活しており、夫婦の調和に満ちた祷りの姿を表現している。其処には、教会の時を知らせる鐘の音は聞こえていても、権力に因る圧迫感は無い。其の絵には、言葉は無くても、詩の言葉が感じられる。
其れを考えると、歳時記の言葉に、相応しい絵であると言えるのではないだろうか。
昨夜、映し出されて来た、花が「月下美人」か、「ドラゴンフルーツ」の花であれば、太陽の光には関係無く、夜に咲く花であり、香りで蛾を呼ぶシステムなので、月読界の世界を意味しているのかも知れない。
其れは、「向日葵」の花とは、対照的な存在である。
そして、「自分で花開く」との言葉は、神の力を求めるのではなく、自分の内側を見詰めて、自分の内側の生命力を、開花させる理・ことを示唆しているのであろう。
其れは、「岩戸開き」の言葉と概念が合わない事に成り、外側に有る物の世界である岩戸から、自分の意識を切り離して、目に見えない自分の内側の光に、目を向けなければ成らないと言う理・ことに成ってくる。
其れは、釈迦仏陀が、手に花を一輪持って、静かに座って居た事と関係が有り、覚醒は岩戸に有るのではなく、自分の内側に存在する理を示唆している。
其れに、仏陀の台座は蓮の花であり「蓮華台」と呼ばれているので、「ブッダ・仏陀」とは自分の生命に目覚め、「いのちの花」を咲かせた人物であると言えるのではないだろうか。
しかし、釈迦仏陀は、托鉢で命を繋ぎながら、瞑想や説法を続けた人物であり、自分の手で農作業をしたり、食器を制作したり、料理をしたりはしていない。其の事を考えると、単なる宗教者と成って、他人に食わせて貰うのは、美しい生活者であるとは言えないのであろう。
其の点で言えば、日本人である、農業で村興しに成功した「二宮尊徳」「大原幽学」、搾取者を戒めた「安藤昌益」、日本歳時記を著した「貝原益軒」等は、「釈迦仏陀」や「イエスキリスト」とは違う意味で、救世者であると言えるだろう。
今朝のメッセージの全体的な様子からすると「オープン・ザ・ロード」とは、東経130度30分の「御稜威ライン」と関係が有り、愈々救世の道がオープンに成るとの事なのかも知れない。
そして、私自身も、自分の「使命・みこともち」をオープン・開花させなければ成らないとの事なのではないだろうか。
「歳時記」http://wave.ap.teacup.com/20060106/519.html
2015/11/19「最高理会得人記文」http://green.ap.teacup.com/20060818/3664.html
2017/11/13「退化して行く人間の能力」http://green.ap.teacup.com/20060818/4431.html
此の文章の内容からすると、日本の神話で「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」の禊ぎ祓いで「右目」から誕生した「天照神」は、人間の顕在意識の世界(はたらき)であり、「左目」から誕生した「月読尊」は潜在意識の世界であり、「鼻」から誕生した「須佐之男尊」は生命(いのち・肉体)の世界であると謂う事に成りそうである。
昭和19年6月10日(時の記念日)に、麻賀多神社の境内に在る、「天之日津久神社」の祠の前で岡本天命に始まった「日月神示・天津日嗣神事」には「老子(道院殿老祖様)だけを中に祀り 他の神は外に」と有る。
其の事を考えると、愈々其の老子の世界が理解されると謂うか、花開く時節が到来したと謂う事に成るのかも知れない。
2014/10/8・・千葉県成田市台方の麻賀多神社の境内に在る、「天之日津久神社」の祠の前で、昭和19年6月10日に「岡本天明」に始まった「日月神示・天津日嗣神事」には、「老子(道院殿老祖様)」だけを中に祀り 他の神は全て外に祀れ」と有る。
其れを考えると、今朝の映像で、私と一緒に長いトンネルを抜けた御魂の存在は、其の老子の意識体であり、私と伴に、新しい世界に抜けた事を、意味しているのかも知れない。
だとすれば、今朝の映像に現れた長い文章は、老子の意識体と関係が有り、新しい「タオ・道」の世界が、是から開かれる事に成るとの事ではないだろうか。
昨日「太元尊神」を検索すると、下記のブログが有り、「太元尊神・中国の老子の大元の節に基づくもので、天地に先立ち、陰陽を超え、始めも終わりもなく、宇宙のすべてに顕現する。」と載っているので、老子の「タオ・道」や、一昨日の「カオス」にも関わりが有り、老子の謂う「玄・道」の世界が開いて来ている様な気がする。・・・
「善良な人々の暮らし」http://green.ap.teacup.com/20060818/3222.html
2008/4/13「老子の気持ち」http://green.ap.teacup.com/20060818/707.html
2014/10/7「太元尊神」http://green.ap.teacup.com/20060818/3221.html
2014/10/6・・昨日は、「大切な事」との言葉が告げられて来て、其の単語の意味は「大きく切り分けること。また、その切り身。」である事が判った。
其れで、私が是まで「大切に」と使っていた言葉が、正しい物ではなかった事を知った。
昨日は、文章をアップした後、前の文章の校正に移ろうとすると「ゼロからの改革」との言葉が有ったので、女神のブログを開くと、続きの言葉が告げられて来た。
「貴方に 求められているのはゼロからの改革です。
貴方にとって 最も必要なのは
ゼロから全てを考え直す事です。
何故なら 貴方の他には
ゼロから物事を考える事ができる人が居ないからです
他の学問を積んだ人達は 誰かが思考した事を
土台としているので 其の土台を外してしまうと
物事を考える事が 出来なく成ってしまうからです。
其の事にこそ 禊ぎ祓いの儀式が必要なのです。
何故 禊ぎ祓いが必要なのか
其れは 頭を空にする必要があるからです。
人間の頭が 空に成らなければ
此方の情報を受け入れる事が出来ません。
其れに 此方の情報こそが進化を齎す物であり
人間の考えは 自分の脳で考える事ですから
宇宙との チャンネルとは成らないのです。
其の意味でも 貴方は常に 無心で在る事が求められているのです。
良いですか 新しい次元の始まりですから
余計な事を 考えてはなりませんよ。 」
「人間」との言葉は、「時間」「空間」と同じく、老子の言う「二」の世界であり、何も無い「一」の世界から、複数・多次元に成る事で、物事が発生する事を示唆している。
其れを考えると、「人類」との言葉と「人間」との言葉には、大きな意味の差があり、「人・霊留・ひと」と言う言葉とも、意味が違って来る。
此処まで打って来ると、自分の存在・立場が明確に成らなければ、宇宙との関係性や、未来創造の思索も儘ならない事が、判って来る。
今朝の「宇宙の裂け目・カオス」の言葉で、中沢新一氏の著書に書かれていた「ソレが 未だ顔を出さない」との言葉を思い出した。
今朝は、「ソレ」は顔を出すのではなく、自分が顔と成らなければならないのだと想えて来た。
何故なら、私が30年間・一世を掛けて取り組んで来ても、其れは、何処にも存在しないからである。
今朝の「天界・神界」の様子からすると、人間自身が「天・宇宙・コスモス・事象」に対して、大鉈を振るって、大切を入れなければ成らないと言う事である。・・・
「カオス(裂け目の中)の人間」http://green.ap.teacup.com/20060818/3220.html
平成30年2月28日
礒邉自適
2018/2/27
名前を知らない
30・2・27
昨夜は、10時頃に暫くウトウト眠ってから起きると、自分の頭が赤子の様に、空白に成った状態で、何も考えられないと謂うか、すっきりした状態に成っている事を自覚した。
今朝のメッセージの映像は、私が、使用されなく成った学校の様な教室の中で行われている集まりに、招かれて居る場面が映し出されて来た。
其の学校の施設では、複数の教室で夫々異なるテーマで、学習が行われている事が示されて来た。
私が招かれた教室は、人間の生活に付いての様々な事が、検討されている部屋で、20人程の人達が参加して居る様な雰囲気であった。
私は、其の教室に参加して居る細身で小柄な40歳代の「山本」と言う名の男性に、質問を受けて話を続けて居た。
そして暫くすると、其の教室の担当者である中年の小柄で細身の女性が来て、私に「良い内容の文章が出来ていますね」と謂うので、私は「山本さんが 優秀で聞き上手だからです」と答えて居た。
其れから、最後に、其の女性が私の所に来て、「何とか 旅費として渡せるお金が6万円準備できました」と謂うので、其の学校の運営はボランティア的に行われており、金儲けの為ではなく、純粋に人類の未来に付いて、叡智が集められているモノである事が理解された。
其れに、私が関わりを持った教室の山本と言う名の男性と、担当の女性は、二人とも小柄な細身の人間であったが、隣の教室の教壇に立って話をして居る女性は大柄で背が高い人間であった。
其の違いを考えると、私が関わりを持った教室の人達は、大和系であり、隣の教室の背の高い人間は渡来系であり、文化的に違いが有るとの事が示唆されているのかも知れない。
其れ等場面に付いて、長らく考えて居て、起きようとすると「名前を知らない」との言葉が、一言、頭に響いて来た。
私は、其の「名前を知らない」との言葉で、昨夜私の頭が赤子の様に、空白状態に成っていた事を思い出し、其れは、昨日のメッセージの映像に、太陽の光が当たり、真っ白に輝く「白洲・斎庭・さにわ」が映し出されて来た事と関係が有り、私は自分の意識の旅が完了したのではないかと意った。
其れは、釈迦仏陀の言葉に有る法華経の「十二因縁起」の内容が、自分の心身に現実として起きたと謂う事であり、老子の謂う「賢しら」が消えたと謂う事である。
「十二因縁起」
1)無明(本来根源的な無知)は、行(形成力)の
縁(原因となるもの)である。
2)行は 識(認識作用)の縁である。
3)識は 名色(名称と形態)の縁である。
4)名色は 六入(眼・耳・鼻・舌・身・意 の六つの領域)
の縁である。
5)六入は 触・そく(接触)の縁である。
6)触は 受(感受)の縁である。
7)受は 愛(妄執・耽溺)の縁である。
8)愛は 取(執著)の縁である。
9)取は 有・う(生存)の縁である。
10)有は 生(生まれること)の縁である。
11)生は 老・死・憂・悲・苦・悩の縁である。
12)したがって
無明が滅すれば、行が滅する。
行が滅すれば、識が滅する。
識が滅すれば、名色が滅する。
名色が滅すれば、六入が滅する。
六入が滅すれば、触が滅する。
触が滅すれば、受が滅する。
受が滅すれば、愛が滅する。
愛が滅すれば、取が滅する。
取が滅すれば、有が滅する。
有が滅すれば、生が滅する。
生が滅すれば、
すなわち 老・死・憂・悲・苦・悩が滅するのである。
訳者・著書・著者 不明
キー「老子 賢しら」
2003/5/4今朝は、何も無く、机に座ってタンポポコーヒーを飲んでいると、「さかしら」との言葉が頭に浮かんで来た。
辞典で「さかしら」を調べて見ると、「さかしら・賢しら」【@かしこそうにふるまうこと。利口ぶること。A自分から進んで行動するさま。B差し出たふるまい。お節介。また、差し出口。】 (広辞苑)
と有り、此処のところ続いて出て来ている、自分から行動する事を、戒める内容と同じ事の様だ。
私が、自分から、何かを遣らなければとの気持ちが出て来ているので、それを止めようと、霊界がしているのだろう。と言う事は、私のする事は、霊界や神霊がもう決めているとの事だろうか。
神霊界が、私のする事を既に決めているのであれば、私は其の事が始まるのを、ただ待つしかない事に成る。
其れがどう言う形で始まるのかは、私には分からない。動く事なのか、動かない事なのか。動くとすればどう動くのか、それさえも未だ知らされて来ないのである。
此処のところ知らされて来る事は、私が自分から行動を起さない様にとの事だけである。
私は、老子の本を座右の書としているので、今「老子」を手に取って一ヶ所を開けて見ると、六章の「母なるもの」の箇所が開いた。
六章は「うつろなものは、無限の創造力を持つ。谷を見よ。谷は「母なるもの」である。母なるものの門、それが天地の根本なのだ。永遠に滅びることなく、生めども生めども疲れを知らない。」
これは、奥平卓氏の訳だが、原文の訳は「谷神は死なず。これを玄牝と謂う。玄牝の門、これを天地の根と謂う。緜緜(めんめん)として存するごとく、これを用いて勤せず。」で、原文は「谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地之根。緜緜若在、用之不勤。」と 載っている。
「用之不勤。」(これを用いて勤せず)の「勤」は、【力をこめて粘土を塗りこむさまからつとめるの意味を表す】とある。(漢語林)
この事からすると、つとめて何かの作業をする事を止めて、玄牝の門に我が身を置くとの事に成る。私は、何も作為せず、玄牝の門に身をおけば、無限の創造力の根本に成れるとの事だろうか。・・・
「さかしら」http://moon.ap.teacup.com/20061108/397.html
2009/4/16・・今朝のメッセージで、私が感じる事は、心の在り方を訓えるのが一番の教育であり、心が定まらなければ、教育は、弊害以外の何物でもないと言う理・ことである。
中国の、老子の道徳経の65章には、・・・人民のさかしらが過ぎるから、政治がやりにくくなる。したがって、さかしらに頼って政治をとれば、国は乱れる。賢しらを捨てて無為の政治を行えば、国は栄える。これが政治の法則である。・・・云々 と有り、知識は害毒に成る理・ことを訓えている。
其れに、西洋の旧約聖書にも「蛇の勧める 智恵の実を食べた者は 神の楽園から追放される」との理・ことが、アダムとイブの物語で記されている。
そして、日本語の言葉にも、同じ様な意味で「へ理屈を云うな」と有り、理屈が邪魔に成る理・ことを言っている。・・・
「完璧な文化人」http://green.ap.teacup.com/20060818/1110.html
2018/2/16「賢しらではない人々」http://green.ap.teacup.com/20060818/4529.html
今朝のメッセージの映像で、私から聴き取り書きをした優秀な男性の名前が「山本」であったのは、「純粋な思考体系を組み上げるのは 山岳の麓に限る」との意味が含まれているのではないだろうか。
其の様に考えると、私が生まれ育った場所が「矢本嶽」の麓であった事が関係有り、私の意識は昨夜眠った時に、其の次元に還ったと謂う事に成るのかも知れない。
何故かと謂うと、私は子供の頃から、其の矢本嶽(明星岳)と船行岳が連なる峰の谷間の水場に、男性の神々が集まる様子を、夢に見ていたからである。
今朝のメッセージの内容から考えると、私の意識の背景には、「中央制御室」のシステムが完成したので、私はもう何も自分で考える必要が無くなったと謂う事であり、是からは、質問者に対して応答するだけで良いとの事なのではないだろうか。
其の様に考えると、確かに私は、自分の意識の旅が終わったと謂う事に成る。
平成30年2月27日9時29分
礒邉自適
2018/2/26
中央制御室
30・2・26
今朝のメッセージの映像は、先ず、地震体験を行う実験施設の様に、大地を意味する台の様な物が映し出されて来て、其の台の上に七層程の、列車の客車の様な部屋が積み重ねられている場面が映し出されて来た。
そして激しい揺れが起きると、最上階の部屋は其の儘なのだが、下の階は全て破壊されて崩れ落ちてしまい、上から二番目の階は、中央から折れて分離して重なってしまっていた。
だが、最上階の部屋は其の儘何事も無かったかの様に、一番先の地面に着地しており、其の部屋の中から60歳代に見える、明るく優しい顔をした女性(女神)が顔を見せた。
私が、其の女性が何者であるのかを意うと、「八千草かおる」の名前が告げられて来た。
次の映像は、昨日のメッセージの映像で示されて来た、「言葉の世界に精通する男性」の存在と「中央制御室」との言葉と関係が有るのか、新しい漢字が使用されている横書きの文章が映し出されて来て、「33」の数字の世界が始まる事が示されて来た。
そして、其の情報が建物程の大きさの有る「ブラックボックス」の様な物の中で「管理・制御」される事が示されて来た。
そして、其の世界は今月19日のメッセージ(主の言葉は和文にて)で示されて来た、天津金木・魔方陣の中央が「な・名」と「か(神(かみ)の力)」であった事と関係が有り、其の事が現実として動き出すとの事であり、表の数字は「10月23日」に関係が有って、裏側に秘されている記号数字は、とても小さい文字で、縦に「s96s」である事が示されて来た。
そして、其の情報の中で「3・11」の数字が大きな位置を占めている事が示されて来た。
其れから、私が暮らしている住居なのか、日当たりの良い庭先の地面は、塀垣の所まで、真っ白い砂が敷き詰められている場面が映し出されて来た。
其れから最後に「残念ですが 彼岸とは存在しません」との言葉が告げられて来たので、其の意味に付いて考え始めると、意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると時刻は「3時39分」であった。
今朝のメッセージから、私に考えられるのは、次の様な事である。
*「3・11」の数字は、東日本大震災が起きた3月11日の数字と同じであり、今朝の映像が地震の場面・被害の事であった事と関係がある。
*其れが「中央制御室」との言葉・世界と関係が有るのは、地震を発生させるモノの意識が、存在すると言う事。
2003/4/7・・私が、日聖氏に「私が大事な人に出会うと 地球が喜んで 何かを起こすのです」と云うと、突然、日聖氏が「あんた 今日の新聞を読んだか」と訊くので、私が「いいえ」と応えると、「今日の新聞に 昨日 長野で山崩れが起きた記事が載っている」と云う。
時間を聞くと、其れは、私が気に成って、時計を見た頃の時刻であった。・・・
「正傳矢追日聖」http://moon.ap.teacup.com/20061108/568.html
*大地震が起きて、人間が創り出した建物・施設は破壊されても、太陽に近い最上階の世界には、何も影響が無いと言うのは、「大地に生える八千種の草々は 何事も無かった様に 花咲きかおる」と言う事。
其れは「南」に付いて3日間続けて示されて来ている事になる。
*10月23日の日付は、私の父親「礒邉勲」の誕生日であるので、1984年6月4日に4311体の聖霊を連れて、20年振りに此の世に帰って来た父親の「石部の勲・クン」が生かされていると謂う事。
「私に何が起きたか」http://moon.ap.teacup.com/20061108/246.html
*中央制御室の存在に「33」の数字が関係すると言うのは其の数字が「33・みみ・耳」と読めるので、天意を聴き取る事と関係が有り、「聖・神・知・夢・寢・廳」の漢字や「大君・皇帝・斎宮・巫女」等の働きと関係が有る。
「夢を見ると言う事」http://green.ap.teacup.com/20060818/4022.html
「聖神知書智」http://green.ap.teacup.com/20060818/4275.html
*ブラックボックスの裏側に秘められた「96」の数字が、69や96の横並びではなく、縦に記されていた事には、大きな意味が有りそうだが、其の意味に付いては能く判らない。
若しかしたら「寿命」の世界に関係が有るのかも知れない。
2009/8/28・・壽は解字の金文では「S+口+手」の組み合わせで、S・ジュは長くつらなるの意味である。「S」の二重渦巻きは、世界中の古代遺跡に描かれている図形で、宇宙誕生の時の様子を現したマークであり、永遠(ひさしい)の意味を持っている。其れを、「言葉・文字」にする手を意味しているのが、口と手の組み合わせであろう。
其れに、「祷り」の漢字の「祷」は「示+寿・壽」の組み合わせで、壽は「老人」と「S字マーク(永遠)」の組み合わせであり、永遠の生命を祭壇で「祷り・いのり」の意味である。其れは、単なる自分個人の長寿を祷るモノではなく、先祖から子孫に伝わる永遠のいのちに対する祷りであり、其れは人類だけではなく、人間の存在を支えている全ての生命にも連なる祷りである。・・・
「社会を動かしているのは」http://green.ap.teacup.com/20060818/1254.html
「壽」http://green.ap.teacup.com/20060818/2618.html
「天国と薬草」http://green.ap.teacup.com/20060818/3550.html
キー「ブラックボックス」
「本当の自分」http://star.ap.teacup.com/170606/1014.html
「魂の食べ物」http://green.ap.teacup.com/20060818/2231.html
「文字が行ったり来たり」http://wave.ap.teacup.com/20060106/63.html
「ヴィシュヌと少彦名神」http://star.ap.teacup.com/170606/1010.html
「剛の者」http://green.ap.teacup.com/20060818/4519.html
*私が暮らしている住居らしき日当たりの良い庭先の地面は、塀垣の所まで、真っ白い砂が敷き詰められている場面は、言葉を司る者は白洲・斎庭(さにわ)の有る家屋に、寝起きする必要が有る理・ことが示されて来ているのであろう。
白州」http://moon.ap.teacup.com/20061108/324.html
*「残念ですが 彼岸とは存在しません」との言葉と「3時39分」の数字は、
「3×3=9」の数学と関係が有り、此の世と言うか、宇宙のシステムは数学的なシステムで組み込まれているので、仏教的な「彼岸に渡る」との「三途の川」の存在が無いと言う事であり、其の様なイメージが脳内(潜在意識)に写し出されて来る現象は、人体の中を流れる血液と関係が有り、細胞(特に脳)のDNA・遺伝子から齎される生命誕生38億年の記憶内のイメージに因るモノである事。
「 三・3がテーマの文章」http://green.ap.teacup.com/20060818/4325.html
昨日のメッセージの映像に、「宣」の漢字の「宀・うかんむり」が「イ・にんべん」の頭の「ノ」に成っている文字が映し出されて来た事は、人間だけが「言葉・文字」を使用しているので、此の地球に存在する人類だけが、「天神(てんのはたらき)・宇宙意識」とコミュニケーションが可能であるとの事であり、其の世界が今朝「ブラックボックス」の様なモノとして映し出されて来たのであろう。
其れを考えると、我々人類が、宇宙全体にとって最も掛け替えの無い存在であると謂う事に成るので、我々は自分自身の意識と謂うか、口から出る言葉に、もっと真剣・真摯に取り組まなければ成らないと謂う事に成る。
其れは、釈迦仏陀の謂う「本当に頼れるモノは此の自分の肉体だけである。だから精進しなさい。」との理・ことや、旧約聖書に記されている「初めに言葉ありき 言葉は神なりき。」との意味を、今一度能く吟味しなければ成らないと謂う事に成るのであろう。
そして、今朝の「中央制御室」システムの表に、私の父親「石部勲」の誕生日の日付が有ると言うのは、日本の精神世界(文化)のモットーである「御祖神・みおやかみ」の概念が関係有り、「中央制御室」に直接関わりを持つ事が出来るのは「男系・Y染色体」の御魂のルーツであると言う理・ことなのであろう。
「祖父の61回忌」http://green.ap.teacup.com/20060818/1281.html
「天御中主は御祖神」http://green.ap.teacup.com/20060818/3414.html
大倭新聞今月号 http://www.ohyamato.jp/ohmotomiya/pdf/oymt201802.pdf
平成30年2月26日
礒邉自適
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