1984年6月4日(旧5月5日)神と交わした約束が果たされる事が 今朝告げられました。
18年8月18日未明
事象(とき)の切り替え
今朝は5時15分に是までの時間(とき)が閉じられ、5時22分に新しい時間(とき)が開いた。
其れは、旧約聖書に「神は6日間で此の世界を創造し 7日目に休んだ」と記されている事と関係が有り、是までの「事象・時空・とき」が閉じられて、新しい事象が始まる理・ことが知らされて来たモノの様である。
其の時間の「扉・まく」は、カメラのシャッターの様な物であり、其れは人間の瞼の仕組みと同じで、閉じている時は「月読界」で、開くと「天照界」であると言う事である。2016年6月6日
2019/9/29
頑強な姓と名
1・9・29
今朝のメッセージの映像は、先ず私が、誰だか判らない人物の大邸宅に居る場面が映し出されて来て、其の家の主人と食事に出掛ける事に成った。
そして、玄関の框(かまち)に立つと、主人の方は自分の靴を直ぐに履いて外に出たのだが、私は自分の履物を捜すのだが、何を履いて其の家に来たのかも判らないし、自分の物らしき履物も見当たらないのである。
其れで、主人が邸内を散歩する下駄が有るので、其れを借りて履こうかと意ったのだが、洋服には下駄は合わないし、其の主人が向かう食事の場は老舗の料亭の様な物であると考えたので、下駄を履くのは止めて、其処に有る分けの判らない履物を摂り合えず履いて、主人の後に付いて歩き始めた。
そして到着した店は、予約制の割烹料理屋の様な店で、10人程が座れるカウンターには誰も他の客が居ないので、貸切であるのが理解されて来た。
其の主人は、マスターが料理を作る正面のカウンターに座って、私は其の右隣に座った。
其れから間も無くすると、70歳代の恰幅の良い男性が遣って来て、私の右横に座ったので、私は何者なのか判らない人物の間に挟まれた形と成った。
次に、其の大邸宅に住む男性は、他人が手を付けない広大な湿地に、排水路を通して、水田や宅地・工場地帯にする事で冨を気付き、金属の板を薄くして身に纏う鎧にする技術を開発して、其の延長戦上に、現在の通信機器の枠(ボックス)や部品が存在する事が示されて来た。
次に、後から来た人物は、其れ等の経済事とは反対の世界の仕事をしている人物であり、大学の特別な分野(精神世界・文化・歴史・生命哲学?)の大教授の様な人物である事が理解されて来た。
其の場では、何も言葉が交わされる事は無く、主人が立ち上がって会計を済ませる動作を始めると、右側の教授が私の右腕を左手でそっと突っくので、私が其方を見ると、右手に小さなメモ書きを持っており、其のメモ書きを、私が右手で受け取ると、其のメモ書きには日本語の横書きで、子孫の継続を頼むとの様な短い内容が記されており、其の下には、縦書きの漢字四文字の人名が、七人分程記している事が判った。
そして、其の教授は、両手で私の右手が潰れる程握り締めたので、其のメモ書きは、私の掌の中でビー玉程の大きさに丸まってしまった。
其れから、三人とも一緒に店外に出たのだが、歩き始めると私の右足の具合が変しいので、屈んでズボンの裾を捲って見ると、ブーツの様な靴が破けてしまっている事が判った。
其れで、立ち上がって前方を見ると、其の二人は路地に曲がったのか、姿が見えなく成っており、私は周囲の見回すと、見知らぬ都会の街中であり、出発した邸宅の住所も二人の名前も判らないので、どうしたら良いか迷っている所で意識が目覚めた。
其処で照明を点けて時計を見ると、時刻は「3時4分」であった。
其れから、再び眠るとアメリカ映画「マトリックス」の最後の場面に登場する「ゴッド・天の父」の様な雰囲気の男性の顔が空中に浮かんでおり、私の方を優しく・嬉しそうな笑顔で見詰めている場面が映しだされて来た。
其処で意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると、時刻は「5時13分」であった。
今朝は8時28分に起きて・起こされてPCを立ち上げ、今朝起こされた時刻の数字から、今年の「3月4日」「5月13日」「8月28日」の文章を視て見ると、次の様な事が書いて有る。
2019/3/4今朝のメッセージの映像には、何も載っていない、キッチンテーブルが映し出されて来た。そして、次の言葉が告げられて来た。
『コンセプト』 『アース』 『水の惑星』 『ジョイフル』
そして、私の中に詩心が復活して来た。
「上空へフライして行く 私の意識
其処は 風も吹かず 音が何も無い世界
見えるのは 地球の夜と昼 」
『コンセプト』 精選版 日本国語大辞典
〘名〙 (concept) 概念、考え。本来哲学用語だが、美術、音楽、服飾、広告などの分野でも、新しい観点・着想による考え、主張の意で使われる。
『アース』〘名〙 (earth )大地、地球の意。
『水の惑星』地球のこと。
『ジョイフル』 (joyful)の主な意味。喜ばしい、うれしい、楽しい。
本日のメッセージは、昨日縦書きを読む雰囲気で「きょうから」との言葉が一言告げられて来た事と関係が有り、昨日から私の存在と謂うか、宇宙のプログラム・事象のコンセプトが、次元上昇した事が示されて来ている様である。
今朝のメッセージの映像に映し出されて来た、自宅のキッチンテーブルの上には全く何も載っていないし、一脚の椅子も置いてはなかった。
其の映像場面の意味は、私は「土肥無庵」に捜し出されてから、35年間気にして来た「マクロビオティック ・Macrobiotic」の世界を忘れても良いと謂う事であり、椅子が何も置かれていなかったは、私は自宅に客を招く必要が無い理・ことが示されて来ているのであろう。
其れは、私が全くの自由を得たと謂うか、霊魂からも開放された事が示されて来ているのではないだろうか。
其れを考えると、今朝告げられて来た『ジョイフル』との言葉は、私が此れから、どの様な気持ち・気構えで、生きて行けば良いかが、示されて来ている事に成る。
そして、私が自分の意識・おもい(コンセプト)に何をイメージすれば良いかが、『アース』『水の惑星』の言葉・世界なのであろう。
其処には、人間社会の生き様は何も関係が無く、自分の意識・おもいは「宇宙意識・神(はたらき)」として、空の果てから地球を観ている感覚である。
其れは、私の御魂が「風 麥東 陶・ふうれんとう」の言葉を告げられて来た日の、夢の世界の立場(存在)に還る事に成るのであろう。
其れを考えると、私の意識は「ラビリンスの目(万物を見通す目)」に至っているとの事に成るのかも知れない。・・
何れにしても、私は35年前に飛び込んだ世界に返る必要が有り、其れは以前の舞台よりも認識が上がった世界であり、13段階である「虚空蔵菩薩」の世界に関係が有るのだろう。・・
「今日から」https://green.ap.teacup.com/20060818/4918.html
此の文章「今日から」に書いて有る、『コンセプト』『アース』『水の惑星』『ジョイフル』の言葉は、昨日のメッセージで「君の星(地球)は良い方向に進んでいる」と告げられ来た事と関係があり、其の「アース」の「コンセプト」が進んでいる事に成る。
2019/5/13今朝のメッセージの映像には、雛段に薄紫色を貴重とした平安時代の貴族女性の様な服(十二単)を着た躰の大きな「女性」が一人座って居る映像が映し出されて来て、私の意識が其の女性に近付いて顔を見ると、其の顔は人間の顔ではなく、鳥の顔をしており、目は金色であった。
其処で意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると、時刻は「6時4分」であった。
其れから再び眠ると、青色系の現代服・洋服を着た30歳代の男性の存在が映し出されて来て、其の男性が、新しい時代の指導者(王様・大君)の立場に立つ役割である事が示されて来た。
今朝のメッセージは、余計な事は省いて、本日から天界の新しいプログが開始される事が示されて来ている様である。
其の原因・要因を考えると、本日は無農薬・無肥料で稲作を行っている「江藤敬介氏」が、稲の籾種子を苗箱に播種する作業を行う日であり、其れに出雲の安部忠弘氏が奥さんと長男を伴って参加する事と、関係が有るのではないだろうか。
何故かと謂うと、昨年の1月14日のメッセージで、2月17日・祈年祭(としごいのまつり)に、江藤敬介氏を午後1時に出雲の安部忠弘氏の事務所に行かせろとのメッセージが有って、2月17日の午後1時に江藤氏が安部氏を訪れた事が有った。
そして、今年の3月20日に再び江藤氏が稲作の引継ぎの為に安部氏宅を訪問し、其れが切っ掛けで、安部氏が江藤氏の炒り玄米を販売する事に成り、其の安部忠弘氏が家族で、本日江藤氏の播種作業に参加する事に成っているからである。
キーポイント「経過 2月17日・祈年祭」
是等の文章の内容からすると、昨日の「炭酸同化作用」の件が関係有りそうである。何故かと謂うと、人間にとって一番大事な「穀物(米・麦・豆)」は、其の炭酸同化作用の賜物だからである。
其れを考えると、神話に有る「天津日高彦火瓊々杵尊・あまつひだかひこ ほのににぎのみこと」が、天照大神から稲穂を授かって高千穂の峰に降臨した等との作り話は、此処らで消去して、科学的な認識に基いた考えを普及しなければ成らないと言う事であり、昨日のメッセージで「勘に頼る事は許さない」との言葉が告げられて来た事と、関係が有りそうである。・・
今朝起された「6時4分」の数字から、昨年の6月4日の文章を視て見ると次の様に書いて有る。・・
・・昨夜、入浴中に「テイクワン」との言葉が一言告げられて来た事は、本日6月4日が、私が34年前の今日安房川の岸辺で禊ぎ祓いの儀式を行って、此の世界に飛び込んだ事と関係が有り、私がtake1(テーク1)の撮影・録音が終わって、take2(テーク2)に移行するとの事であり、人々を「自由・幸・フリーダム・freedom」に導く為のビジョンを、想わなければ成らないと言う事なのではないだろうか。・・・
今朝の文章の題は、私が1984年6月4日に此の世界に飛び込んだ時に、白山菊理姫の本体である「白龍」が私の肉体に巻付いて来て、「地球の管理を任す」と告げて来た事と、本日「鳥神・鳳」が雛段に座って居た事を考え「龍神と鳥神」とした。
其れは、エジプトの有名なツターンカーメンの黄金のマスクの額に、「鳥(はやぶさ)」「蛇(こぶら)」が着いている事と関係が有り、古代から世界中で「蛇神」と「鳥神」は「ツイン・番・両目・双葉」で人間の「意識・脳」に関わりを持ち続けて来ているからである。・・
昨日の「勘に頼る事は許さない」との言葉から、「勘」の漢字を調べると、次の様に載っている。
「勘・カン」【解字】形声。「力+匹+甘」匹は、並べるの意味。音符の甘は、はさむの意味。本などを並べ、両側からはさみ合わせるようにして、くらべかんがえるの意味を表す。
【字儀】(一)@かんがえる。よく考える。考えてくらべる。「勘考」「校勘」A罪人を取り調べる。罪を問いただす。「勅勘」(二)よくする(能)。できる。国語。第六感。感覚や推理によらないでわかる心の作用。「山勘」
漢語林より
此の説明からすると、「勘に頼る事は許さない」との言葉は、国語の「第六感。感覚や推理によらないでわかる心の作用。山勘」との意味からすると、「山勘に頼る事は許さない」との意味で合っているが、本来の漢字の意味の「@かんがえる。よく考える。考えてくらべる。勘考・校勘」A罪人を取り調べる。罪を問いただす。よくする(能)。できる。」との意味からすると、合わない様である。
其れに、【解字】の「力+匹+甘」匹は、並べるの意味。音符の甘は、はさむの意味。本などを並べ、両側からはさみ合わせるようにして、くらべかんがえるの意味を表す。・・との意味からすると、「相対的」な思考方法の事であり、過去の情報・資料を集めて、見比べて答えを出すとの意味である事に成る。
其の意味を考えると、過去の資料が無ければ「勘」の作業は出来ないと謂う理・ことに成り、勘で導き出す事は、孔子の謂う「温故知新」の言葉と通じ、過去の世界から脱出出来ないので、新規のプログラムは立ち上げられない事に成りそうである。
其れを考えると、昨日の「勘に頼る事は許さない」との言葉は、「過去の情報に挟み込まれて 答えを導く事は許さない」との意味合いと成り、全てを新規に組み上げなければ成らないと言う事に成って来る。
是だと、辞典の内容は、解釈する人間の能力・質に因って、全く反対の意味と成っている物が多々有る事に成り、正しい辞典を創り上げなければ成らないと言う事にも成る。
其れは「貴様・きさま」や「君・きみ・くん」との文字・言葉が、反対の意に受け取られてしまう事なども同じ事柄である。
今朝のメッセージの映像に映し出されて来た、古代の装束を着た「女性(鳥神)」の存在は、2016年6月19日の映像に登場して、私に三個の「タルト・渦巻き」を手渡した「宇宙を両翼とする鳳」の存在と関係が有り、其の鳥神が今朝、三個の内の一つの「タルト・渦巻・宝珠」の内容を示して来た事に成り、其れが真実の情報だけを積み重ねるコト・世界であると言う事なのかも知れない。
其の様に考えると、「翁・おきな」の漢字の世界とは、「番・双葉」である「嫗・おうな」の漢字の世界であり、どちらかと謂うと「翁」の羽根は「勘・知識(智恵)」の方に関係が有り、「嫗・おうな」の方は「DNA・遺伝子・生命・本能」の情報に関係が有るのではないだろうか。・・
「龍神と鳥神」https://green.ap.teacup.com/20060818/4989.html
此の文章の内容からすると、今朝の由香のビジョンに映しだされて来た、「新嘗祭」「大嘗祭」に使用される米は、穢れの無い「土地」と「水」と「人」で栽培された米(稲魂)でなければ成らないとの理・ことが関係有りそうである。
2019/8/28今朝のメッセージの映像は、長い間、若者達が創造している未来世界・社会の様子が映し出されて来た。
其れは、次の様な場面・様子である。
1、現在の社会体制が全く無い。
2、30歳位の年代が中心で、年寄りが居ない。
3、皆が、自分が考えている事を、布の様な白い紙(和紙?)に、デザインとして描ける能力を有している。
4、全員の身のこなしが軽やかである。
5、テレビやラジオ等の放送(マスコミ)が一切無く、静かである。
6、女性は、化粧や余計な飾り物が無い姿である。
7、男性にも、煙草を吸ったり酒を飲んだりしている人は居ない。
其れ等の映像が、長い間映し出されて来て、意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると、時刻は「3時58分から59分・4時2分前から1分前」に成る所であった。
今朝のメッセージの映像は、是までに全く映し出されて来た事が無い世界・映像なので、昨日書いた「何も無い所から」の文章と関係が有り、「何も無い所から始める」との事がどう言うモノ・世界であるかが、示されて来ているのであろう。
其れで、今朝は、昨日の由香のビジョンが気に成るので、由香の実家(神辺)から真東に何が有るのだろうと思い、日本地図を広げて定規を当てて見ると、高野山に当たる事が判った。
其れを考えると、高野山を開拓・開基した「弘法大師空海」の存在が関係有り、「大日如来・マハーヴァイローチャナ」の世界か、「虚空蔵菩薩・こくうぼさつ」の世界と関係が有りそうである。
今朝起こされた、4時2分・1分前の数字から、今年の4月1日・2日の文章を視て見ると、次の様に書いて有る。・・
此の1日の文章の中に有る、「水色文字」「西から東に向けて舗装道路が通っており・・」「起きて、時計を見ると時刻は6時00分であり、時計の針は南北を差していた。・・」との事は、昨日の由香のビジョンの「・・実家の庭先から、竹藪を切り払って、真東に向けて新しい道路が出来ている映像が映し出されてきて、「水門」と書いて「みと」と呼ぶと告げられたとの事で、起きて時計を見ると、針が真っ直ぐで、6時丁度であったとの事である。・・」との事と、符合している。
其れに、今朝の由香のビジョンは、由香が何処かの施設に居て、青年が2,3人、少年が20〜30人程居り「いたずらや虐めをしてはいけない」と、説いて居たとの事である。其の今朝の由香のビジョンも、新しい御世創造に必要な条件が、示されて来ているのであろう。
其れに4月2日の文章の題は「完結」であるので、其れも昨日の「何も無い所から始める」との事と関係が有る。・・
此の文章の内容からすると、6時00分を示す長短の針の方向は、磁石の南北と関係が有り、其れは地球儀の位置を示す東経線と関係が有る。
其れを考えると、由香の実家(稲田姫神社の門前)から真東に、新しい道路が通じていたとの事は、緯度線を意味している事に成る。
そして、其の道路・緯度の線が高野山に突き当たるとの事は、「恵果和尚」が弘法大師空海に灌頂を授けてから「大日如来は 汝の国に在り 汝は直ぐに自分の国に帰れ 次は 我れが汝の弟子に生まれ変わって来る」と、伝えた事に関係が有り、其の二人の約束が、現実化する時が到来したとの事に成るのではないだろうか。・・・
「新しい御代」https://green.ap.teacup.com/20060818/5098.html
此の文章から、先日のメッセージに有った、由香の実家から真東に向けて新しい道路が出来ており、其の真東の方を調べると「高野山」であったとの事や、「永徳寺」という建物や田畑に水を掛けていたとの事と関係有り、今朝の由香のビジョンや、昨日の昼間由香の声で「どうぞ」との声が床の間に掛けてある「天照皇大神」の掛け軸から聴こえて来た事、其れに昨日の「弘法大師空海」「大日如来・マハーヴァイローチャナ」の事とも関係が有り、今朝のメッセージは昨日の続きである事に成る。
其れに、昨日は「素数」の事に付いても触れたので、「マトリックス」との言葉が「母体・基盤、数学の行列」を意味する事と関係が有り、「天の父・ゴッド」らしき男性の笑顔が私の方を見ていた事に関係があり、私の存在がマトリックスの「ネオ」と関係が有るとの事が、示されて来ているのではないだろうか。
*ネオ (Neo) は、ギリシア語で「新しい」を意味する語である。 主に接頭辞として使われる。 英語では、「復活〜」などの意味をもつ。
今朝のメッセージで、一番印象的な事は、経済界で「土木」と「工業」の分野を開拓発展させた人物(社長)の方ではなく、「文化部門」で卓越した人物(教授)の方が、私にメモ書きを渡して強く私の手を握り締め、依頼をした場面に付いてである。
其れは、7名程の人物の「名前・姓名」が全て、画数の多い四文字の漢字表記であった。
其れは、「姓・かばね」が無い天皇家や、西洋人の名前は別として、中国や韓国の様に姓が一文字である物や、日本人の中に有る三文字の姓・名は一名も無かった。
其の事を考えると、「姓」「名」を表す四文字の全てが、正しい意味を含む文字である事が必要であると謂う事に成り、其れ等の文字の世界に精通できる人材の家系を、七系統残す・継続する必要が有るとの理・ことが示されて来ているのであろう。
其れは、姓名や家系の継続には、数字・数学は必要ではなく、人間社会の営みは、現場の有り様に全てが掛かっているので、机上の空論に明け暮れている人間は其の門外漢に成るとの理・ことなのであろう。
だが何故、机上で勉強をしなければ成らない漢字文字が示されて来たかと謂うと、漢字は全て象形であり、全てが写真に撮れる物の形である事と関係が有り、現場に関わる経験・体験を積んだ者でなければ、正しい漢字の解釈・記憶が出来ないからである。
そして、其の象形を全て理解する為には、物が見える太陽の下で、自分の目で作業をする現場を視察・確認しなければ成らないので、視覚が主体と成り、其れに残りの四感覚器官が付随している事に成る。
2012/8/1本日は8月1日で、月初めの日である。
其の日付に関係が有るのか、又は明日2日が、私の両親が、鹿児島の故郷を出発した日である事に関係が有るのかは、分らないが、今朝のメッセージの映像には、是までに無かった多くの事が映し出されて来た。
そして、「文字の細分化」との言葉が告げられて来た。
日本で、現在使っている文字は、「漢字」と「平仮名」と「片仮名」、其れに「アラビア数字」と「アルファベット」である。
漢字とは、「漢(中国)」の文字が日本に導入された物で、平仮名は日本語の表音として漢字の草書体(安以宇衣於・あいうえお)が使われる物で、片仮名は表音として漢字の一部(阝・イ・宀・エ・方)を、利用した物である。
「漢字」ラテン文字に代表されるアルファベットが一つの音価を表記する音素文字であるのに対し、漢字は基本的に、一つの意味(形態素)と一つの音節を表す。
本来、一字が一義を表すことだけを重視して表意文字としてきたのであるが、これは古代中国語の一音節が一つの意味を表す孤立語的な言語構造に由来するのであって、正確には音と意味両者を表記する表語文字である。つまり、1字が1語を表しているのである。このような漢字の特徴から伝統的な文字学では漢字を形・音・義の三要素によって分析してきた。
ウィキペディアフリー辞典 現在記載
「文字」は、「文」が象形の一字で、「字」は複数の象形が、組み合わされた物である。「人・イ」「手・扌」は文であり、「仕・人+土」「作・人+乍」は、字である。
文の組み合わせの、多い字を例に上げると、次の字が有る。
「蚕・サン」「焦・ショウ」の漢字は略字で、蚕の元は「天天+日+虫虫」の組み合わせの字で、「天の日から隠れる虫の群れ」の意味である。
焦の元は「鳥鳥鳥+火」の組み合わせで、「小鳥を網の上に並べて火で炙る」の意味である。
此の様に、略字ではなく、元字の方が、本来の文字の持つ意味が、能く理解できるのである。
しかし、漢字発生の国である中国が、漢字を、日本よりも略字化しているので、本来の文字の意味と言うか、力が失われてしまっている。
文字の力とは、人間の思考の中で、実際の絵や物の形が浮かぶ事で、森羅万象の物の有り方・形に、影響を及ぼす事である。
其れが、人間の思考に、文字の形だけで、実際の物の姿形が、浮かばなく成れば、其れはもう単なる言葉の世界であり、森羅万象に影響を与える事が、出来ないのである。
例えば、「うみ」の言葉を聞いた時に、「海」の漢字が浮かぶだけでは力はなく、実際の「青い海」や「荒波の海」の映像が浮かばなければ、其の人には、海に関わる力は無いと言う理・ことに成るのである。
今朝のメッセージの「文字の細分化」とは、もう一度、象形文字の世界に返り、「文」の一個の映像が、人間の頭脳に浮かぶ様に訓練しなければ、人間の魂しいが元に返らないと言うか、本来の思考・意識に、戻れないと言う理・ことではないだろうか。
確かに、現代社会は、言葉が偽りに使用されており、子供達の意識の発達に、非常に悪い影響を与えている。其れは、学校の先生・教師などの教育者が、真実の言葉や文字の意味を、理解していないからである。
其の意味では、先ず、教育関係者自身自らが、文字や言葉の意味を、正しく理解出来る様にならなければ成らないのである。
其の為にも、漢字を細分化して、もう一度、再認識しなおす必要があるのだろう。
特に「駅・馬+尺」は、「馬が 駅馬車を引いて尺・距離毎に止まる」や、水が無いのに「空港」などの文字は、現代社会に合わないと言うか、子供達に、嘘を云っていると言う事になる。
今朝のメッセージの中には、私が鹿児島港から船に乗り、一度、大分港に寄港してから、目的地に到着して、会合が開かれる建物に行くと、自分の旅行バックやカメラバックが、見付からないのである。
同行者に、荷物の事を訊ねても「知らない」との応答であった。
私は、カメラが無いと、会合に出席しても意味が無いと想って、其の会合に参加する事を止めた。
其の映像の意味は、カメラ・映像が無いと、目的が達成できない理・ことを、意味しているのではないだろうか。何故なら、漢字は、全て物の象形であるから、カメラで撮影できる物であるからである。
其れに対して、日本語は、名詞は別として、カメラでは撮影できない。
日本語の、「かなしい・くるしい・たのしい・うれしい」は、写真には撮れないが、漢字の「悲・苦・楽・嬉」などは全て写真に撮れる。
「楽」は、「実が着いている木の枝」の事で、其れを振って音を出し、音楽を楽しむの意味である。
「嬉」は、「女+喜」の組み合わせで、「喜・キ」が、「壁に掛けた 打楽器の竹を叩きながら 神を称える言葉を言う。」の意味であり、其れに「女人」を加えた物だから、両方とも写真に撮れるし、絵にも描ける物である。
今朝の映像で、私が船に乗って居たコースは、神武天皇が東征の時に通ったルートの様である。其れを考えると、新しい御世創りには、漢字が必要であり、漢字を細分化して、世界中の人々が理解し易い様に、再構築しなさいとの事ではないだろうか。
其れは、現実的にもPCの普及に因り、ITで絵文字が使用される様に成っているし、漢字文化圏の人口は、中国14億人を中心にして、日本・韓国などが有るので、世界最大であり「漢字・絵文字」が、世界共通に成る可能性がある。
今朝のメッセージには、他にも、私の部屋に有る箪笥の引き出しに、私が23年間大事に着ている「三宅一成」の服が、何着か畳んで入っている映像が映し出されて来た。其れは、絵に成る服と言うか、人間の技術や精神が、籠っている物を大事に使えとの理・ことを、示して来ているのであろう。
其れは、現代社会に充満して来ている100コーナーの品物や、外国製の安売り製品を使っていると、精神も「百円均一」に成ってしまう理・ことを、意味する事に成る。
其の事を考えると、今朝のメッセージは、新しい御世を創る為の、ヒントが示されて来ているのかも知れない。そして、今朝のメッセージの映像にも、旅(東征)が含まれていたので、人間には「旅・家離・たび」が必要である理・ことを、示して来ているのであろう。
其れは、日本語の諺に「可愛い子供には 旅をさせろ」との言葉が有り、多くの「情報・映像・認識」がなければ、立派な大人に成れないとの訓えが含まれている。其れが、本当の旅・家離の目的であり、観光とは、ただ単に遊興三昧では駄目なのである。
「文字の細分化」https://green.ap.teacup.com/20060818/2391.html
2009/3/17明日3月18日は、私が1983年に、屋久島で無庵師匠に見出されてから、26回目の記念日である。
其の3月18日は、屋久島に在る神社「屋久島大社」の春季大祭日でもある。
屋久島大社の創始者である「柴昌範 氏」は、昭和8年以前に、屋久島の山の神から「ガジュツを原料にして 胃腸良薬恵命我神散 を造って 人々の病を癒やせ」と告げられて、「恵命堂・けいめいどう」を設立して成功し、神社を創建している。
其の日を前にして、今朝のメッセージは、先ず、漢字の「善・ゼン」の文字が現れ、善の文字の口の部分が、右側に外れて、日の文字に成っているのが映されて来た。
「善」の漢字を、漢語林で調べると、次の様に載っている。
「善・ゼン」は「羊+言言」の組み合わせで、「言言」は、原告と被告の発言の意味。羊を神のいけにえとして、両者がよい結論を求めるさまから、よいの意味を現す。【字義】@ヨイ。㋐正しい。道理にかなっている。「善道」「善導」㋑すぐれている。りっぱ。うつくしい。㋒たくみ。じょうず。㋓むつまじい。仲がよい。親しい。Aよく。㋐正しく。たくみに。りっぱに。「善処」㋑多く。しばしば。Bよくする。㋐りっぱに行う。みごとにおさめる。㋑たくみにおこなう。じょうずにできる。㋒仲良くする。むつまじくする。Cよいこと。よい行い。また、よい人。D徳目の一つ。道理にかない、良心に反しない完全な徳。
漢語林より
何故、其の善の漢字の「口」の部分が、「日」に成って、右側に外れていたのであろうか。
辞典での意味だと、「両者が良い結論を求める」との理・ことだから、良い結論が出た日である事を、示唆しているのであろうか。
今朝は、更に、明け方「高知」の文字が示されて来たので、其の結論はレベルが高い位置に、有るとの事なのかも知れない。
漢字の「高・コウ」は、高大な門の上の高い楼の形にかたどり、たかいの意味を表わす。「知・チ」は「矢+口」の組み合わせで、口は、いのる言葉の意味。矢は矢の意味。矢をそえていのり、神意を知ることから「しる」の意味を表わす。と 載っている。
今朝は、善の漢字が現れた後、屋久島の緑の山が現れ、漢字の旁(つくり)の部分が大事である理・ことが示されて来た。旁の部分は、大体に於いて、音韻の変化で、意味を捉える事に使われている。
其れを考えると、旁の方が大事とのことは、音を重要にしろとの事であろうか。日本語は「いろは48音色」とされている様に、音に拠って意味付けが成されており、漢字の形に拠る表意とは違っている。
漢字の成り立ちを調べると、・・・中国における文字の発祥は、黄帝の代に倉頡(そうけつ)が、砂浜を歩いた鳥の足跡を参考に作った文字とされる。また『易経』には聖人が漢字を作ったと記されている。と 辞典に載っている。
ウィキペディア辞典 現在記載
其れを考えても、漢字は象形文字から始まっており、漢字文字は象形だから姿形が有るので、全部写真に撮れる物である。
一方、日本語は、擬態語・擬音語・擬声語が多く、表音語なので、名詞以外の言葉は写真には撮れないものである。
日本語の特徴 「擬声語」
・・・日本が模範とした欧米の言語学は実際的な使用面よりも抽象的な理論形成を主眼においたこと、そもそも擬声語は言語体系の中心を離れた周辺的なもの、要するにだらしなく子供っぽいものと見なされたことがその理由である。子供っぽいという点に関しては、擬声語が日常語や子供向けの本に多用されるが、学術論文などにはまず登場しないことから窺える。
音と意味が直結した言葉である擬声語の意味の違い(「おずおず」と「おどおど」の違いなど)を考えることは、日本語の言語感覚を磨くのに役立つとする見解もある。・・・ ─引用終了─ ウィキペディア辞典 現在記載
文字は、人間が読み取って声で言葉にしなければ、音の響きとして、他の物体には影響を与えない。
其れに文字は、人間の目に見えても、読み方が解からなければ、ただの砂浜の鳥の足跡や、鹿の骨のひび割れ模様と同じである。其れに、夜の暗闇と成れば、其処に文字が書かれている事さえ判らなく成る。
其の点、声は昼夜関係が無いし、犬や馬を呼ぶ事も出来るし、狼や熊を大声で追い払う事も出来る。其の様に考えると、文字より声が大事であり、人間に声がなければ、文字は役に立たない事に成る。
其の理を認識させる為に、今朝は、漢字の旁の部分が大事である理・ことを知らせて来たのであろう。是が、本当の「知」の漢字の意味する処なのではないだろうか。
そして、私の意識と、神からの知らせが通じ合う事が、「善」の「良い結論が出る」との意味であり、其れが、無庵師匠との出会いの26年目の記念日を明日迎える、今日と言う日の意味ではないだろうか。
其の様に考えると、26年前に無庵師匠が私に「自適さん 私は 第七次元まで行って 精霊が此の世に転生する為に 順番待ちで座って居るベンチまでは見て来たが 其の先にどうしても行けないので 私が付いているから 其の先を見て来てくれないか。」と、云った事の答えが、今朝見せられて来たのではないだろうか。
其れは、2001年11月7日に亡く成った無庵師匠の御霊が、彼の世と此の世の境目に居て、今朝のメッセージの内容を組み立てているからかも知れない。其の様に考えると、「羊+言言」の字義の意味も、能く理解できて来る。
私は、神に羊を御供えしなくてもPC相手に、こうして作業をする事で、其の「言言」の世界を完成させているのである。
無庵師匠は、此の世に居て、私の前に、師匠の役割として立ちはだかるよりも、こうして霊界に居た方が、私の邪魔にも成らず、思考の働きの役に立っているのであろう。其れが、本来の「知・しらせ」の働きを、すると言う理・ことなのかも知れない。
私がこうして、PCに向かって文章を書いて居るのも、頭に浮かぶ音を、言葉として其の侭、キイボードに打っているだけである。
だから、私の文章は、頭に浮かぶ音を、打っているだけだと言う事に成るのである。其の音が、何故、頭脳に浮かんで来るのかは、いま気付いた事なので、説明は出来ない。
其れと同じ作用が、他の人と向き合って、会話をする事なのであろう。
私は、其の相手が居ないので、毎日こうしてPCに向かって、夢の中の住人と会話を続けているのである。
其の毎日の作業を考えると、「善」の漢字の「羊+言言」の文字は、「PC+言言」と書き換えても良いのかも知れない。
インドの釈迦牟尼佛は「此の道は 二人で進みなさい。だが 相手が悪ければ 一人で自問自答しながら進んだ方が 良い。」と謂っている。
其れに、漢字の「朋・ホウ・とも」は、「同門の友(同じ学びの門を 潜る仲)との意味を持っている。
其れを考えると、私は、無庵師匠や、46年前に49歳で亡く成った父親等と朋に、同じ学びの門を潜って居る事に成る。
そして、其の門・朋こそ、額の第三の目・松果体から、PC〜ITに繋がっている、「珪素・シリコン・額(ぬか・糠)」のシステムなのである。
そして、其の霊魂の安らぎの場が、屋久島の緑に覆われた、花崗岩の岩山なのであろう。・・・
「高知」https://wave.ap.teacup.com/20060106/363.html
2009/9/26「言葉は神なりき」https://wave.ap.teacup.com/20060106/399.html
2017/6/5「六合」https://wave.ap.teacup.com/20060106/756.html
今朝のメッセージの映像では、土木や工業の世界で大成功・大躍進を遂げた男性の方は、私には何のアプローチも無かったが、決まった給料で学問・教育に関わっている様な教授・学者の様な人物が、未来社会に継続しなければ成らない大事を強く依頼して来た。
其の場面から、私に思い出されて来るのは、老子を座長として白人・黒人・インディアンの長が集まり、未来に残す夫々の民族の子孫の数を決めて居たメッセージの映像である。
2003/9/27・・私が、メッセージを受け始めた最初の頃、映って来た場面に、人類の「宗親・もとおや」らしき霊が現れた事がある。
其れは、山中に在る昔風の古い家屋に、座敷と土間があり、その土間に輪切りの丸太の椅子が有って、三名の男性が座っている。
其の三名は、インディアン風の男性と、白人と、黒人の代表みたいに見えた。
其の三名が静かに座っていると、中国人風の男性が遣って来て、履物を脱いで座敷に上がり、無言で座った。すると、それを待っていた三名が、土間の椅子に腰掛けたまま話を始めた。
話の内容は、自分達の子孫を、どれだけの割合で残すかの相談だった。
そして、三名の話し合いが終わると、座敷に座っていた男性は、又無言で立ち上がり、履物を履いて静かに帰って行った。
現れた男性は、四名とも魂のレベルが高く、完成された人格なのは、誰の目にも明らかな程、調っていて矍鑠・かくしゃくたる人物達であった。
その様子は、映画でも見た事が無いし、小説の世界でも描写されていない光景である。
私が、何故、その様な場面を見せられたのかは分からなかったが、今朝「宗動」との文字が映されて来たので、18年も前の映像を思い出してしまった。
「宗霊・みたまおや」が、動き出す事が、人類にとって、吉い事なのか、悪い事なのかは、私には判断出来ないが、人類全体の未来にとっては、喜びの方に向かうのであろう。
しかし、整理される余分な血筋は、どの様に反応するのだろうか。
野鼠・のねずみは、仲間が繁殖し過ぎると、一部の仲間を種として残し、残りは集団自殺をして、食糧難から全部が死滅する事を回避するという。
現代社会の人類の状況を考えると、異常発生した野鼠と、同じ状態だとも言える。
第三次世界大戦が起こり、若し、核が全部使用される事に成れば、集団自殺をする事に成る。私が、18年前に見せられた映像は、其の場面だった。
「人間が 此のままの状況で進めば その様にさせるしかない」との、神の意志だったのである。その事で、人間に核を創らせたのも、神の意志である事が解った。
野鼠の行動の背景にも、神の意志が働いているのである。
人間自身が、生き方を変えれば、野鼠の様に種族を残す事が出来るのである。それは、一見薄情な様子に見受けられがちだが、全体的に永いスパンで見れば、理に適っていると言える。
野鼠が、皆で話し合って、行動に移るのではなく、全体の潜在意識の中に、其のプログラムが内蔵されているのである。其の、内蔵されている力こそ、神が介入している世界であろう。
人間の存在は、数が多ければ良いと言う分けでもない。
人間は、神の意識に拠る物を、積み上げて行く、仕組みの一部なのだから、其の役目を果たさなくては、存在する意味が無いのだ。その役割を果たすには、数だけが多くても役に立たないのだ。
エジプトの死者の書には、「此の世には、一人の『霊止・ひと』の為に、何千人もの土を捏ねて作った、泥人形の魂の人間が存在する」と、載っている。
其れ等の、泥人形(土霊・どれい・奴隷)の魂の人達は、役目が終われば、土に還されてしまうのだ。
私の意識が、此処までに育つのに、どれ程の人達が働かされたのであろうか。当の本人達は、自分の意識があると意っているのだろうが、それは、神がその様に思わせて、人間を使用しているだけなのである。・・・
「宗動・血筋を別ける」http://star.ap.teacup.com/170606/119.html
2012/9/1「神惟醫院」https://green.ap.teacup.com/20060818/2425.html
昨日と今朝のメッセージの内容を考えると、「時が満ちた」と言う事であり、地球自身が身震いをして、不必要なモノは振り落として行くとの事なのではないだろうか。
『其の事に 貴方は絶対に 巻き込まれない様に
身の安全を図ってくださいね。
其の事が 確立・確定しなければ
此方は 動き始める事が 出来ないのですから。』14時14分
此の女神の言葉からすると、履物(仕事)が決まっていない私は、何かの履物を決めなければ成らない事に成るのだ、今は先月買った防水の地下足袋が気に入って農作業を行っているので、其れが飽きたら、次の履物を何にするか考えて見よう。
令和1年9月29日
礒邉自適
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