1984年6月4日(旧5月5日)神と交わした約束が果たされる事が 今朝告げられました。
18年8月18日未明
事象(とき)の切り替え
今朝は5時15分に是までの時間(とき)が閉じられ、5時22分に新しい時間(とき)が開いた。
其れは、旧約聖書に「神は6日間で此の世界を創造し 7日目に休んだ」と記されている事と関係が有り、是までの「事象・時空・とき」が閉じられて、新しい事象が始まる理・ことが知らされて来たモノの様である。
其の時間の「扉・まく」は、カメラのシャッターの様な物であり、其れは人間の瞼の仕組みと同じで、閉じている時は「月読界」で、開くと「天照界」であると言う事である。2016年6月6日
2020/9/30
予言力は夢見の力
2・9・30
本日で9月が終わり、明日から10月が始まる。
今朝はPCを立ち上げると、「準備万端」との言葉が告げられて来たので、其れを打つと、続きの言葉が告げられて来た。
「準備万端」
貴方のお蔭で 準備万端整いました
其れで 貴方に お願いが有るのですが
其れは 貴方の役割が 終わった事に成る様ですが
其れはあくまでも 準備が整ったと言う事であり
本番が始まると言う事なので 此処から先にこそ
貴方の意識・言葉が、必要不可欠なのです
良いですか 誰かの発想がなければ
何事も 始まらないのです
其の為にこそ 貴方の意いが必要なのです
貴方自身は 何もする必要は有りませんが
貴方の想いがなければ 未来世界は生まれないのです
ですから 此処から 先にこそ
貴方の思念が 必要不可欠なのです
ですが 無理に 考える必要は有りませんよ
毎日の 静かな暮らしの中にこそ
良い想いが 湧いて来るのですから
身こころを 健やかに 維持してくださいね 7時27分
「準備万端」https://moon.ap.teacup.com/20060103/985.html
此の女神の言葉からすると、昨日動かなかった私の思考状態にも、意味が有った様であり、三次元の芝居の世界で、物語の変わり目には、舞台装置の入れ替えが必要な事と一緒で、神霊界でも役者の入れ替え・交代が行われるのかも知れない。
昨夜は一眠りすると、意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると、時刻は「1時6分」であった。
其れから再び眠ると、今度は、私の姿は一度も映し出されては来ないのだが、私が何物かの指示で、再び旅に出る様子が映し出されて来た。
其れは以前の旅の様に、何も分からない儘、知らない町・知らない人々を訪ねる旅ではなく、私の事を知っている、中年の男性達の導きで、次々に人の縁が繋がって行く旅であり、最後には50歳位のアラブの王様か殿下の所に案内・導かれて行った。
着いた場所は、カウンター越しに話をする窓口である。
そして、カウンター越しに向き合った、其のアラブの王様か殿下の存在は、私が以前何処かで会った事がある顔(肌色や瞳や鼻の形などがはっきりと確認される)なので、私は「久し振りですね。懐かしいですね。」との意味合いの事を謂うと、私を導いている男性が怪訝な顔をして居たが、其の殿下も親しそうに話し掛けて来て、色々と話して居ると、其の殿下が「バザール・スーク・市場」に出掛けようと謂うので、私が頷くと、其の殿下は出掛ける準備の為に、一度奥に引っ込んで行った。
私は其の殿下が出て来るまで、手持無沙汰なのでカウンターの上に置いて有る物品を手に取って見ると、全てイスラム文字であるので、何も意味が判らないのである。
其れで私は、何故話が通じたのかを考えると、言葉は異なっても、お互いがテレパシーで理解している事が分かった。
其処で、耳元でアカイエ蚊の羽音がして、意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると、時刻は「5時35分・6時25分前」であった。
今朝起こされた「1時6分」の数字から、今年の1月6日の文章を視て見ると、次の様に書いて有る。
2020/1/6今朝のメッセージの映像は、サハラ砂漠の様に、何も無い砂の砂漠の中に一本の大きな椰子の木が生えており、其の根元の所には綺麗な湧き水が溜まった池が有って、其の椰子の木の根元に、品格が高く、顔立ちの整った賢者が一人静かに座っている場面が映し出されて来た。
そして、其の賢者が「イエスキリスト」であるとの事が示されて来た。
其の賢者は、60歳代で白人ではなく肌が褐色のアラブ人の姿であったので、母親のマリアがアブラハムの子孫であり、イエスキリストは天が使わした神の使者であっても、肉体はトルコ国の出身であるアブラハムの遺伝子・DNAを継いでいた人物である事に成る。
此れで、私は、中国の「老子」を初めとして、インドの釈迦(ガウタマ・シッダールタ)の姿の次に、イエスキリストの完成した御魂の姿を見せられた事に成り、釈迦ブッダが菩提樹の根元に寄り掛かって休んだ時に覚醒・成仏した事と、対と成る、イエスキリストが自分の蒔いたタネを、私の協力にて昨日解消して、自由に成り、故郷のオアシスで永遠の休息に入った事に成るのだろう。
次の映像は、私が前田氏(櫛玉饒速日命の御魂)の依頼で、何処かの果樹園の収穫の手伝いに行く場面が映し出されて来て、私が果樹園に到着すると、誰も其処に居ないので、自分一人で勝手に、其処に木に生っている実の収穫を始めた。
だが其の果樹は、私が初めて目にする種類の物であり、硬い茶色の殻を被っているので、中身が熟しているのかどうかが、全く判らないのである。
それで、他の人々が何処で収穫作業をして居るのかと意い、広い果樹園を探し回ると、漸く其の現場に到着し、其の人達が収穫しているキャリーボックスの中を覗いて見ると、其処に収穫されている果実は、大きく成長した物であり、外側の果皮は柔らかく熟しており、中にはアーモンドの様な実・種子が数個内蔵されている果実であった。
それから、農園内に在る東屋の様な造りの広いレストランに到着すると、様々な部門から幹部の様な人達が集まって来て居り、人数が少ないグループから30名程の集団のグループが参加している事が判り、全体的には100人を超えている規模である事が判った。
私は、其の集まりには初めて参加するので、集まっている人達が何者で、目的が何なのかも、全く判らない状態であった。
其の集団の中に座って居ると、後ろの方で「出家している人は手を挙げてください」との男性が聞えたので、私は右手を挙げた。
すると、其の男性が「何年目ですか」と訊ねるので、後ろを振り向きながら、「36年目です」と答えると、其の人達は、私が居る農園のグループではなく、他から訪問しているグループである事が判った。
私は、自分が部外者である事に気付いて、恐縮したのだが、其の私の行動が切っ掛けと成って、集まっている人々全ての交流が始まり、新しい展開が起き始める所で、其の場面は終わった。
次の映像は、新しい展開が始まった様で、私は広く新しい事務所の中で自分の机に座って居ると、両手を失った60歳位の男性が訪問して来て、私の左前方の机に座って居る男性と、色々と話し始めた。
そして、其の話の内容を私が聴いて居ると、其の両手を失っている男性は、凄い智慧を有している事が判り、自分で手作業が直接できなくても、他人が作業を行う現場を色々様々に視察して回れば、計り知れない智慧が身に付き、他人を指導する役割が果たせる理・ことを理解していた。
今朝は起きた・起こされた時刻は「7時37分・8時23分前」であったので、私は「釈迦ブッダ」が自分のパソコンの中に住み着いて、姿を見せた日が8月23日であった事を思い出し、今朝の映像で、砂漠のオアシスの椰子の木に寄り掛かって休んで居た「イエスキリスト」の姿との関係性を思った。
其れは、2日・初夢に登場した天の父神の姿・行為と関係が有り、神霊界に新たな世界が生まれている・創造されている理・ことを、示して来ているのであろう。・・
今朝のメッセージの映像からすると、私が1984年に日本一周の旅に出た時に12月13日に岩手県の五葉山で、私にイエスキリストの御魂が「私の肉体を 十字架から降ろしてくれ」「私の教えを 誰も実行していない」「名前を呼んで 呼び出すのを止めさせてくれ」と頼んで来た事が、解決したとの事が示されて来ているのであろう。・・
此の文章の内容から考えると、今朝の映像に登場した、両手を失っている智慧者の存在が重要なテーマである事に成り、両手が使えなくても健康であって言葉が使えれば、神(はたらき)の為に生きられるとの理・ことが示されて来ている事に成る。
其れは、真言宗のテーマである「マントラ・真言」の世界と関係が有り、真の「言霊・ことだま」が使える者は、智拳印や法界定印が組めなくても「大日如来・マハーヴァイローチャナ」の役に立てると謂う事にも成る。
其れに聖書に記されている「初めに言葉有き 言葉は神なりき」との言葉にも通じ、人間と神様との関係が「言葉・ロゴス・真言・マントラ」で成り立っているとの理・ことにも成る。
そして其の事は、故「白川静」が謂っている「漢字は 神様とのコミュニケーションの為に創られた物である」との事も符合している事に成る。・・
今朝のメッセージの映像では、私が前田氏(櫛玉饒速日命の御魂)の依頼で、果樹園の収穫の手伝いに行く場面が映し出されて来て、私が果樹園に到着し誰も居ないので、自分が勝手に収穫した果実が未だ未熟な物であり、叱責を買いそうな状況に陥って居たので、其れは、自分の知らない世界に、勝手に手を出すと「成る物も成らなくなる」との理・ことが示されて来ているのであろう。
其れを考えると、諺に有る「餅は餅屋に」との理・ことであり、私は自分の役割に意識を集中さえして居れば、事足りるとの事なのであろう。
『そうは 謂っても 貴方のことだから
其れだけでは 治まらないでしょうね。
何事にも 気を付けて 基本を外さない様にしなさい。』11時44分
「漸く解放されたイエスキリスト」https://green.ap.teacup.com/20060818/5233.html
此の文章には、アラブ人であるイエスキリストが故郷に帰った事が書いて有り、今朝登場した殿下がアラブ人であった事と共通しているので、今朝のメッセージにはイエスキリストの御魂が関係しているのであろう。
『そうではなく 貴方の先祖霊が 関係して居るのです』
其れに、アカイエ蚊の羽音で起こされた「5時35分・6時25分前」の数字から、6月25日の文章を視て見ると、次の様に書いて有る。
2020/6/25今朝のビジョンは、先ず、光の無い暗闇の世界に、私の意識が存在して、手探りにて物の形を探り、年間の植物の開花を確かめている様な感覚であった。そして其の世界・場面は、自分の意識・思考の「完成度」を確かめる事に関係が有る事が、理解されて来た。
そうして居ると、私の右手の指先に、何かの欠片が引っ掛かった所で、其の物に光が差して来て、其れは紫陽花の花の房の先端の、一片である事が判った。
其処で意識が目覚めたので 照明を点けて時計を見ると、時刻は「2時50分・3時10分前」であった。
私は、其の数字から2005年3月10日に屋久島の真南の平内の自宅で、全ての情報が、私の身体に繋がって来る現象が起きた事を思い出した。
其れに紫陽花の花は、私が1984年6月4日・旧暦5月5日に此の世界に飛び込む早朝、自宅前の道路に満開の大きな花房が付いて枝が置いて有り、私は其の紫陽花を手にして、64歳の誕生日を迎える母親が居る実家に向かう事に成った事を思い出す物であり、全国の旅に出て辿り着いた先に、矢追日聖法主が造り上げた「大倭あじさい邑」が存在し、其の「あじさい邑」の名前の由来は、終戦の日に天神が矢追日聖法主に告げて来たメッセージに有る事が判った物でもある。
私は、其の1984年6月4日に「土肥無庵」の自宅に向かい、土肥さんの4歳の息子の言葉(神のお告げ)に従って、安房川で禊ぎ祓いを行う事に成り、4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」現象が起きて、此の世界に飛び込む事に成ったのである。
其れに、今朝のビジョンの、手探りで現象を探る様子は、昨日のビジョンで私のパートナーだと設定されていた「鴇色・ときいろ・#ECA5B2」系の服装・衣の姿であった鳥神が、口を開けて私に見せると、其の口中に魚の鰓の仕組み・細胞が残って居て、私が自分の意識の覚醒を、恐竜の子孫である「鳥」「蛇・蜥蜴」から魚の世界(遺伝子・DNA)まで遡る必要があると考えた事と関係が有り、私の潜在意識は直ぐに、其の検索を開始している事に成る様である。
私は其の事から、森の中で生きている何百種類(明治神宮の森だけで99種類発見)の粘菌の生態である「食の体系」と「胞子の拡散」の世界をイメージし始め、自分の意識をどこまで這い進めれば良いのか判断できなくなり、眠れなく成ってしまった。
其れは、粘菌の動きはカメラの長時間撮影で捉える事が出来、其の映像を早回しで観れば、生命の姿・情報・動きを目にする事が出来、自分の脳に認識・意識化する事は出来るが、其の粘菌自体の「記憶・生命情報自体」に、自分が入り込む事は、未だ出来ないからである。
昨日の鳥神(陸上動物約3億6千万年前に上陸)の口中に存在した、魚の鰓の存在(約5億年前)の世界から、粘菌の生命プログラム迄は、まだまだ「時間・ 記憶」の壁が有る。(人間の腸は、約6億年前に出来た細胞)
だが2005年3月10日に起きた、全ての情報が私の身体に繋がって来る・侵入して来る現象は、其の世界が、自分自身にチャンネルしていた事は間違い無く、私の顕在意識には「認識・意識化」できなくても、其の次元・世界には、既に繋がっている事は間違いないので、此の私の躰の細胞は「阿弥陀・アミターバ(無量光仏)・アミターユス(無量寿仏)」・「久遠実成・くおんじつじょう」に繋がっている事は、間違いないのであろう
其の様な事を考え始めて、眠れ無く成ったので、起きてPCを立ち上げると、「貴方の柵」との女神の言葉が告げられて来たので、ワードを立ち上げると続きの言葉が告げられて来た。
「貴方の柵・しがらみ」
貴方の柵の消去が必要です。
其れは 貴方の自我意識の掃除の事です。
ですが 36年間で積み上げて来た
生命プログラム 遺伝子・DNAの情報化は
消しては成りません。
何故なら 其の事・世界が 最も重要であり
其の事以外に 此の作業の目的は無いからです。
良いですか 貴方は 其の事自体に
意識を向けて 日々を生きてください。
其れが 総合意識 統合意識の
成長 完成に 繋がるからです。
今は 全てが 過渡期 ですので
前進するよりも 自分の意識を固定する方が
有効な手段であると言えるでしょう。
何もかもが 貴方の成果に掛かっていますので
ビジョンに振り回されない様にして
自分の意識を 確立して行きなさいね
其れが「統尊」の「詔勅」「御嚴」「御稜威」
の神(はたらき)と 成るのですから
令和2年6月25日 3時49分
私が37歳の時、1984年6月4日旧暦5月5日母親64歳誕生日の早朝、自宅前の道路に一枝の「紫陽花の花」が置かれて有り、其の日に私に禊ぎ祓いの現象と「大嘗祭」の儀式が行われ、4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」が起きてから36年が経過して、昨日、私達二人が到達した次元が今回のプログラムの終了であるとの事は、釈迦牟尼世尊に起きた2600年前の事や、今回私の身に起きた現象が、何れ、再び起きると言う事であり、此処から先の生命プログラムへの挑戦は、次の世代に委ねられると言う事なのであろう
其れは 私の体力や脳細胞の働きが、限界に達したとの事なのではないだろうか
私に今朝、認識出来る事は昨日の「クラーク博士」の登場・存在は、私自身の役割・神(はたらき)が示されて来たモノ・現象であり、右脳が生命プログラム・遺伝子・DNAの記憶に、潜在意識で夢の世界・四次元世界に旅をし、顕在意識・自我意識にて、文章化してPCに打ち込む事で、三次元世界に物質化し、万民への掲示板・クラークに成るとの事なのであろう。
4時19分
今此処で、カレンダーで旧暦を調べると、何と、本日は旧暦の5月5日である。
是は、どう謂う事であろうか。
其れは、私が1984年6月4日旧暦5月5日に、此の世界に飛び込んでから 本日が丸36年(13170日)の日であると言う事に成る。
此の現象・現実は 一体何なのであろうか
是こそが、マヤ・アステカの「ククルカン・ケツァルコアトル」「時間の操縦士」と関係が有り、私の意識がチャックモールの石像の意味を、其の儘現実として体験している事に成り、私の「心臓の鼓動」と「肺臓の呼吸」が、其の儘神(はたらき)である事になる。
是で、昨日の昼間、突然私の身体が固まって、自分の顔の表情・意識が「チャックモールの石像の表情に成っている感覚が訪れた・起きたのは、本日旧暦5月5日を迎える為の前兆であった事に成り、私はアステカ文化の遺跡である「ピラミッド」の住人と成っている事に成りそうである
其れを考えると、一昨日、私の意識が母神に「カイラス山」に呼ばれた事と関係があり、私の意識は、確かに、ヒンドゥー教の「ヴィシュヌ」の現れ身と成っている事に成りそうである。
其れを考えると、今朝「完成度」との言葉が告げられて来た事と関係が有り、暗闇の中で、私の右手の指先に引っ掛かって来た紫陽花の一欠片は、釈迦牟尼世尊の拈華微笑の世界と関係が有り、釈迦ブッダ(ヴィシュヌ)の意識が本日と謂う日を設定し、私を突き動かして来たと謂う事なのかも知れない。
4時38分
此処で、眠く成ったので眠る事にする。
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PCを閉じて、寝室に行くと時刻は5時5分であり、私は旧暦5月5日5時5分に、二度目の眠りに入る事に成ったのである。
本日は、数日間晴天・夏日続いていた天候が、一転して雨天と成り、畑の野菜への水掛け作業が不要と成った。
今朝の私は、早朝に起きてエネルギーを使った所為で、殆ど意識が動かないので、庭木の枝で濡れそぼる雀の姿を、ボーッと眺めて居るだけである。
考えて見れば、自分に思い掛け無い出来事が始まって、12年×3回=36年(13170日)が、本日で経過した事に成る。
そして、当時37歳であった私は、現在・いま73歳の老人である。
其の私に、今朝告げられて来た「完成度」との言葉は、どの様に判断すれば良いのであろうか。其れは、自分個人の人生に対する尺度なのか、私が取り組んで来た・取り組まされて来た「神・宇宙プログラム」の完成度に対する尺度なのであろうか。
何れにしても、私は「永遠の命」「久遠実成・くおんじつじょう」「阿弥陀・アミターバ(無量光仏)・アミターユス(無量寿仏)」の世界を、自分自身で体験し、新たな次元・世界を開闢した事・させられた事は、間違い無いと言う事であり、人類に新たな意識の窓・ウインドを解放したと言うか、新風を吹き込む結果と成ったとの事なのであろう。
其の事が、今後、人類全体にどの様な結果を齎す事に成るのかは分からないが、私の成長に合わせて、経済が発展し、電子機器が発達し、屋久島の猿人が此の様な文章を打ち残す事に成っている現象を考えると、神(はたらき)の存在が「阿弥陀・はかりしれない光・禱」と名付けられている事の意味が理解できるし、「エホバ・ヤハウェ」の神名が「私は 有るトキから在るモノ」との意味である事も、すんなりと理解されて来る。
其れ等の言葉を考えると、私は屋久島の深い森の中に静かに座って、粘菌の様子を観察して居た子供の時・頃に還って良いのではないだろうか。
そして、其の森の上には、柔らかい「帝釈天の宝網」が掛けられ、私の意識は 其の深い森の中で、苔むした岩壁からしたたり落ちる水滴の音に、耳を澄まして居れば良いとの事なのかも知れない。
其処には「老子」の御魂が、笑顔で寄り添って来るのではないだろうか。
「完成度」https://green.ap.teacup.com/20060818/5405.html
今日は「準備万端」との言葉が告げれて来て、起こされた時刻数字「6時25分前・6月25日」の文章の題が「完成度」である事と関係が有るのか、私「礒邉自適」の個人的な人生が、本日2020年9月30日24時00分「正午」に終了する事が示されて来たので、自分一人で其の儀式を行う・済ますと、「あかぶさした・赤房下」との言葉が告げられて来たので、辞典で調べると、「赤房」とは、次の様に載っている。
あか‐ぶさ【赤房】 の解説 国語辞典より
相撲で、土俵上のつり屋根の南東の隅に垂らす赤い房。夏と朱雀 (すざく) を表す。→青房 →黒房 →白房
赤房下とは、土俵の上の吊り屋根の四隅を飾る四色の房のこと、色が四季と天の四神獣(しじんじゅう)を表し、五穀豊穰(ごこくほうじょう)を祈念(きねん)すること。
◯正面東側(東北) 青房 東方の守護神 青龍神(せいりゅうしん=青い龍)春 ◯向正面東側(東南)赤房 南方の守護神 朱雀神(すざくしん=赤い鳥) 夏 ◯向正面西側(西南)白房 西方の守護神 白虎神(びゃっこしん=白い虎) 秋 ◯正面西側(西北) 黒房 北方の守護神 玄武神(げんぶしん=黒い亀) 冬 この天の四神獣は、土俵を守る意味で四隅に祀(まつ)られている。
「力水」とは、相撲用語。「化粧水」「清めの水」ともいう。土俵の赤房、白房の下に供えられた手桶の中に入っている水のこと。これを柄杓で掬って、前の相撲の勝ち力士が差し出すのを、土俵上の力士が受けて口を漱ぐ。仕切り直しの時、柄杓で掬ったり、呼び出しに掬ってもらったりして口を漱ぐこともある。
〜コトバンクより〜
「大相撲の力士が赤房下や白房下で清水によって力水をつけてもらう」事からすると、「赤房」と「力水」との言葉から、今朝のメッセージは、昨日の石門の左入り口に置かれていた水の器と関係が有り、此の三次元世界の全ての現象は、太陽の働きと、地球の水の世界で、起きている・管理されていると、言う事なのかも知れない。
昨日から本日に掛けて起きた三次元の出来事や、今朝のビジョンの様子から、今朝の文章の題は「予言力は夢見の力」とした。
其れは、私が自分の霊夢に因って36年間行動して来た事は、私自身の考えではなく、夢見に影響されて文字を綴り、日々の行動を行って来たからである。
其の、私が体験した夢見の出来事と、未来予測の考えは、私が文章化する事や、人々に知らせる事で、結果が絶えず変化して来たので、全て人間の気付きで変化する世界であり、良くも悪くも変化をし続けるとの事であり、必ずそう成るとの決定的な世界ではないと言う事である。
其れが決定しているモノであれば、我々人間にはどうする事も出来ない世界であるが、人間の気付きしだいで変わる物であれば、人類には未だ、希望が確実に適うパラダイムシフトが待っている事に成る。
令和2年9月30日
礒邉自適
2020/9/26
やすらぎ
2・9・26
今朝のビジョンは、先ず私が、森の中で、背高のキリンの様な形の、赤いパワーショベルを運転して作業を行って居る場面が映し出されて来た。
そして、其のパワーショベルの頭が大木の枝に閊えたり、足場の悪い所で転倒しそうに成るので、其の作業を止めてしまう場面が映し出されて来た。
其処で意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると、時刻は「1時5分」であった。
其れから再び眠ると、今度は、私を捜し出して此の世界に送り込んだ「土肥無庵」が、近くに引っ越して来た連絡が有り、私が其の土肥無庵の自宅を訪れて、玄関のブザーを押そうとしながら、縁側のサッシ戸を見ると、部屋の中が見えており、其の部屋では当時の土肥無庵の姿の手前に、土肥無庵の理想の女性が編み物の様な事を行って居り、其の二人の前には二歳くらいの男の子が、アルバムの様な物を捲っており、其の子供の周囲には、その子が遊んだ物が散乱していた。
私は其の様子を見ながら、土肥無庵が本当の「安らぎ・しあわせ」を得た事が理解できたので、ブザーを押すのを止めて、其の儘引き返す事にした。
其処で起きて時計を見ると、時刻は6時15分前であった。
今朝のビジョンは、初めが、私が「土肥無庵」に捜し出された時に、別荘地分譲の仕事をして居り、土肥無庵に「自適さんはこんなに森を破壊して よく神様に殺されなかったね」と謂われてしまった頃・時の様子が伺われるモノ・世界であり、後のビジョンは、土肥無庵が此の世だけではなく、彼の世での役割・使命(みこともち)も果たして、真実・本当の安らぎを得ている事が示されて来ている。
其の事を考えると、私と「土肥無庵」に与えられていた神のプログラムは、一応無事に果たされた事に成りそうである。
今朝はPCを立上げて、今朝の「土肥無庵」の様子・姿を何と説明すれば良いかと考え、「やすらぎ」と「リラックス」の言葉を調べると、次の様に載っている。
やすらぎ【安らぎ】 の解説 国語辞典
穏やかなゆったりとした気分。「あわただしさの中に一時の安らぎを見いだす」
リラックス(英語:relax)は、緊張の対義語で、体や心が張り詰めた状態にないことを意味するリラクゼーションの動詞である。relaxの起源は、ラテン語のrelaxareを語源とする中英語であり、re-laxare は「再び (re ) 緩める (laxare )」あるいは「緩んだ状態へ (laxare ) 戻す (re ) 」ことを意味する。
フリー百科事典『ウィキペディア』2020/09/26現在
リラクゼーション【relaxation】 の解説 国語辞典
《「リラクセーション」とも》息抜き。くつろぎ。緊張を解くこと。
其れから、起こされた「1時5分」の数字から、1月5日の文章を視て見ると、次の様に書いて有る。
2020/1/5今朝のメッセージは、先ず、2日の初夢に姿を見せた、左手の掌から三本の青白い光波を地上に放つ、天界の父神の意思が地上に下る事が示されて来て、日本語の横書きの短い文章が、縦に一行毎に、何十項目か並んでいる場面が映し出されて来た。
其の短い文章には、数学の方程式の様な数字・数式が、所々に含まれており、幾つかのモノ・世界を組み合わせながら、検討・かんがえなければ成らない事が理解されて来た。
其処で意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると、時刻は「3時14分」であった。
其れから再び眠ると、今度は学校の施設らしき建物の存在が映し出されて来て、其の学校の校庭では、天気の良い日に金網で外から遮断されている広場にマットを敷いて、瞑想の様な事が行われており、其れを行って居る人達は、軽くて柔らかい服で全身を包み込んでいる女性ばかりであり、一人のリーダーらしき30歳位の女性が、私の前に挨拶に遣って来くる場面が映し出されて来た。
其の女性は、衣服の他には指輪などの装飾品は何も付けておらず、化粧もしていないし、体格が良く男性的な人物であった。
そして、光った文字で「村上 倫・むらかみりん」との文字が映し出されて来て、其れが、其の女性の名前・命もちである事が理解されて来た。
そして、其の施設では、義務教育を卒業した女性達が結婚するまで学習・修行を重ねている事が理解されて来て、生活の仕方や、物事の考え方などを、習得しており、其の内容は是までの様に、男性が考えた・仕組んだ世界ではなく、女性達自身が自分でプログラム・学習綱領を創り出したモノであり、私が口を挟む様な次元ではない事が理解されて来た。
其処で意識が目覚めたので、起きて時計を見ると時刻は8時46分・9時14分であった。
そして、寝室を出て神棚の前を通る時に、女性・女神の言葉で「おもしろかったわね」と一言告げられて来たので、私は其の言葉は、女神が私の是までの苦労を労(ねぎら)う意味も込めて、「退屈は させなかったでしょう」との意味合いも込めている理・ことを理解した。
其れで私は、自分の「役割・命持ち・天命・使命・仕事」が、峠を越えた理・ことを理解した。
其れから、今朝起こされた「3時14分」と「9時14分前」の数字から、昨年の3月14日と9月14日(6ヶ月・半年違い)を視て見ると、次の様な事が書いて有る。・・
此処で、男性の聲で「10月13日の文章も」と告げられて来たので、「14日」に、一日外れているではないかと意うと、「良いから見て見ろ」と謂われたので、時刻を見ると、何と時間は10時13分である。
此れは、どう謂う事であろうか。
まるで、私の心身は、機械仕掛けのロボットの様な物である。
此処までくれば、やはりアステカの「時間の操縦士」「チャックモール」の存在・概念は、正しい・真実の物である事に成り、七回半トグロを巻くピラミッドの神(大山祇神・おおやまつみかみ・大山の巳神)が、私の心身を管理している事に成り、「心拍」と「呼吸」が「中枢神経・古皮質・蛇脳」にコントロールされている事と関係が有り、人間の背骨の仕組みは、大蛇神と同じ次元で量子的にシンクロしている事に成るので、釈迦ブッダの謂う「精進しなさい」との理が、其処に有る事に成りそうである。
昨年の10月13日の文章を視て見ると、次の様に書いて有る。・・
此の文章の内容は、正に、今朝のメッセージの内容と通じており、2日の初夢に登場した、地上に向けて青白い三本の電波を放っている男神の姿は、35年以上前から、意識的に私の躰を使って、新しい御世創りを画策していた本体が、姿を見せたモノである事に成るのであろう。
そして今朝、女神の聲で、私を労う様な雰囲気で「おもしろかったわね」と告げられて来た事を考えると、私の役割が一応完了した事に成り、2日に天神が地上に向かって放っていた左掌からの三本の電波は、私が35年前に天界のプログラム・計画を引き受けた時に、玄関のガラス戸に「スターチャイルド集まれ」と書かされた事が関係が有り、其の時から地球に降臨し始めている星の子供達が、既に30歳を超えているので、其の若者達は、私の存在には関係が無く、直接、天の父神から情報を受け取って、自分の「役割・命持ち・天命・使命・仕事」を始めているとの理・ことなのであろう。
其の様に考えると、私が子供の時から父親の謂う事には従わず、自分の考え・意い通りに生きる事で、此処までの次元に到達しているので、私の様な生き方が「当然・あたりまえ」である事に成り、私は、自分が、父親に何かの命令を受けてもいないので、其の事を、自分の七人の子供達に対しても、実行して行かなければ成らないと謂う事である。
だから他人の子供達に、干渉をする事は、以っての外であり、「禁じ手」である理・ことに成るので、其れこそが日本の伝統文化である「惟神の道」を守る事に成るのであろう。
其れに、今朝映し出されて来た箇条書きの文章は、私には一行も理解出来る物ではなかった。
其れに、女性だけの学校・研修場の指導者の名前らしき文字が、金色に光った文字で「村上倫」であると示されて来たのは、「村の上に倫が有る」との意味合いと成るので、漢語林で「倫」を調べると、次の様に載っている。
「倫・リン」【解字】形声。「人+侖」音符の侖は、すじみちをたてるの意味。すじみちのたどれるともがらの意味や、すじみちの意味を表す。
【字義】@みち。㋐人のふみ守るべき道。「人倫」㋑すじみち。道理。Aともがら。なかま。たぐい(類)。「倫類」Bしな。等級。順序。Cもくめ(木目)。Dならべる。また、くらべる。 漢語林より
此の意味からすると、私の与えれている「紀(とき)のまつり」とは異なる「道・みち」が、女性には与えられている様である。
其れを考えると、私は女性の世界にも、口出ししたり、干渉したりしては成らないと言う事であろう。・・
其れに、「倫」と「紀元」の文字の事を考えると、男性と女性には、違うアコーディオンの「蛇腹・じゃばら(縦分け)」の世界が存在し、男性と女性は異なる「路・みち」を歩いてこそ、お互いが力を発揮する事が出来、大きな調和を「村の上」だけではなく、地球上に齎す事が出来るのであろう。
「天の父神の降臨」https://green.ap.teacup.com/20060818/5232.html
此の文章の中には、次の様に書いて有り、其れは今朝起こされた時刻と同じである。
・・其れに今朝起きた6時15分の数字から、昨年の6月15日の文章を見てみると、次の様に書いて有る。・・
此の文章の内容から考えると、今朝告げられて来た「支出」との言葉は「みずから出て支える」との理・ことが示されて来ており、其の出方は自分自身で「選択・チョイス」しなければ成らないと言う事に成るのではないだろうか。・・・
其れで其の文章を視て見ると、次の様な事が書いて有る。
2018/6/15今朝のメッセージの映像は、先ず、二枚の郵便封筒の存在が映し出されて来て、其の封筒の中には、二枚のDVDが入っており、其れは私が是まで認識して来た情報が二部構成で収録されている物である事が理解されて来た。
次に、私が打ったらしき横書きの文章が映し出されて来て、其の文章の内容を理解する者と、理解しない者の存在が、有る事が示されて来た。
そして、理解する者が少なければ、天神の意思が、此の世に実現できない理・ことが示されて来た。
其れから、「きょうそう・競争」との言葉と、「2008年4月14日」の日付が示されて来たので、意識が目覚め照明を点けて時計を見ると、時刻は「3時45分・4時15分前」であった。
其れから再び眠ると、車がようやく走り上がれる様な急斜面の山肌が、段々の住宅地に開発されている場面が映し出されて来た。
私は其の住宅地を視察しながら、其れは作物を栽培できる平地を潰して住宅地にする事よりも、良い手段ではあるが、自然の山林・景観を破壊する事に成るし、大雨が降った時に崩れないだろうかと、心配をして居た。
其れ等のメッセージから、私は人間の意識の有り方・構造の両面性に付いて考え始め、自分の人生は36歳までと、「土肥無庵」に捜し出されてから禊ぎ祓いをして、此の神(はたらき)の世界に入った37歳からの人生の違いを思った。
其れは、私は「土肥無庵」に捜し出されなければ、普通の人生と謂うか、一般的な人々と同じ三次元の世界を行き続けて居るか、躰を壊して死んで居たかの、どちらかであるので、人間の人生は、本人がその気に成りさえすれば、多様な可能性を秘めていると謂う理・ことに成る。
其れ等の事に付いて考えて居ると、「くろうたい・苦労鯛」との言葉が一言告げられて来たので、私は「めでたい・目出鯛」との同じ類いの言葉であると考え始めた所で、意識が目覚めたので、起きて時計を見ると、5時41分であったので、其の儘起きてパソコンを立ち上げ、先ず示されて来た2008年4月14日の文章に目を通すと次の様に書いて有る。・・
此の文章の内容を考えると、今朝のメッセージで私が感じたと謂うか、考えていた事は、10年前に既に打たされていた事に成る。
其の事と、今朝のメッセージの内容を考えると、10年が経過しても、私への神(はたらき)のメッセージは、未だ、世間の人々が理解する段階には到ってはいない事に成る。
其れは、神(はたらき)の意識・計画が、未だ人々に理解されていないと謂う事に成るのであろう。
今朝のメッセージに映し出されて来た、郵便の封筒に入れられた、私が認識した情報を入力した二部構成の二枚のDVDの存在は、天神(てんのはたらき)の存在を人々に理解する為に、何らかの方法・手段を図る必要が有る理・ことが示されて来ているのであろう。
今朝のメッセージには、「苦労鯛」と「競争」との言葉が告げられて来た。
競争との言葉は、「帝釈天の網」との文章と関係性が有る事が示されて来ているので、個人個人が自分の能力・ちからで解決しなければ成らないとの理・ことなのであろう。
そして「苦労鯛」との言葉は、「目出鯛」との言葉と関係が有り、競争を勝ち抜かなければ「くたびれ儲け」に成ってしまうので、そう成らない為に、私が34年間に亘って認識した事を、DVDに収録して郵便局から発送しなければ成らないとの事なのであろうか。
だが能く考えて見れば、私は是まで、自分が考えた事や、起きた出来事は、殆どブログで公開しているので、改めてDVDに収録する必要はなさそうである。
其れを考えると、其のDVD(情報ソース)は、私に2000年7月21日に告げられて来た、「讜逓聖」との言葉と関係が有るのではないかと思える。
今朝の文章の題は「よしあしは表裏」とした。其れは全ての事柄は、自分の内側に存在し、自分が「よし・善し気(神・道・法に従う気持ち)」を抱くか、「あし・悪し気(エゴ・利己主義・神の意に反する行為)」を抱くかに因って、自分の人生だけではなく、社会環境全体が善にも悪にも成るとの考えからである。
其れは、自分自身が神(はたらき)と同じ力を秘めており、どちらの方を選択・チョイスするかで、自分の人生だけではなく、社会全体が変わると言う理・ことであり、何事も他人の所為にするのではなく、神(はたらき)の存在を信じて、正しく生き抜いて行く事が「永遠の命に入る為」の最良の人生を送ると謂う事だからである。
そして、其の生き方を貫けば「苦労鯛」が、「目出鯛」と成ると謂う理・ことなのであろう。
其れに、今朝の映像で、DVDが二枚郵便封筒に入っていた事は、私が此の世界に飛び込んだ時に、「四次元プログラム」と「水素原子管理」の二つのアンテナ・世界が必要である理・ことが示されて来た事と関係が有り、「四次元世界・神の世界」と「三次元世界・人間の現実社会」の事は、分けて取り扱う必要が有る事が示されて来ているのではないだろうか。
「よしあしは表裏」https://green.ap.teacup.com/20060818/4651.html
此の文章には、次の様に書いて有る。
「・・其れから再び眠ると、車がようやく走り上がれる様な急斜面の山肌が、段々の住宅地に開発されている場面が映し出されて来た。
私は其の住宅地を視察しながら、其れは作物を栽培できる平地を潰して住宅地にする事よりも、良い手段ではあるが、自然の山林・景観を破壊する事に成るし、大雨が降った時に崩れないだろうかと、心配をして居た。
其れ等のメッセージから、私は人間の意識の有り方・構造の両面性に付いて考え始め、自分の人生は36歳までと、「土肥無庵」に捜し出されてから禊ぎ祓いをして、此の神(はたらき)の世界に入った37歳からの人生の違いを思った。
其れは、私は「土肥無庵」に捜し出されなければ、普通の人生と謂うか、一般的な人々と同じ三次元の世界を行き続けて居るか、躰を壊して死んで居たかの、どちらかであるので、人間の人生は、本人がその気に成りさえすれば、多様な可能性を秘めていると謂う理・ことに成る。・・・」
此の文章の内容からすると、何故今朝6時15分に「土肥無庵」の存在が映し出されて来たのかの理由が、理解できて来る。
其れに「よしあしは表裏」との言葉は、昨日のメッセージとも関係有るし、老子の道徳教の二十章「愚者の心」に有る「善と悪」との違いの謂いにも繋がって来る。
二十章「愚者の心」
絶學無憂。唯之與阿、相去幾何。善之與惡、相去何若。人之所畏、不可不畏。荒兮其未央哉。衆人煕煕、如享太牢、如春登臺。我獨怕兮其未兆、如孾兒之未孩。儽儽兮若無所歸。衆人皆有餘、而我獨若遺。我愚人之心也哉、沌沌兮。俗人昭昭、我獨昏昏。俗人察察、我獨悶悶。澹兮其若海、飂兮若無止。衆人皆有以、而我獨頑似鄙。我獨異於人、而貴食母。
学を絶てば憂いなし。唯(い)と阿(あ)と相い去ることいくばくぞ。善と悪と相去ることいかん。人の畏(おそ)るる所は、畏れざるべからざる。荒としてそれ未だ央(つ)きざるかな。衆人は煕(き)煕として、太牢(たいろう)を享(う)くるがごとく、春台に登るがごとし。われひとり泊としてそれいまだ兆(きざ)さず、嬰(えい)児の未だ孩(わら)わざるが如し。儽(るい)儽として帰する所なきが如し。衆人はみなあり。而してわれはひとり遺わするるが如し。我れは愚人の心なるかな。沌沌(とんとん)たり。俗人は昭昭たり、われはひとり昏昏たり。俗人は察察たり。われはひとり悶悶たり。澹(たん)としてそれ海の如く。飂(りゅう)として止まるなきがごとし。衆人はみな以(もち)うるところあり。而してわれはひとり頑(かたくな)にして鄙(ひ)に似る。われはひとり人に異なりて、母に食(やしな)わるるを貴ぶ。
【此処で 私の左手の人差し指の指紋の所にカモ(神の電気信号)の反応が起きる】 8時58分・9時2分前
現代語・解釈
知識を万能視する考えを断ち切れば、悩みはなくなる。
礼に適うといい、適わぬといっても、どれだけの違いがあろうか。
善といい、悪といっても、どれだけの差があろうか。
ひとがするから自分もそうする。
これではドウドウめぐりで、悩みはいつまでも尽きない。
人々は浮き浮きと楽しげだ。
あたかも酒宴の席にあるかのよう、花見に興じているかのように。
だが、わたしの心は、静まりかえって動かない。
まだわらいも知らぬ赤子のよう。
何をしようという気も起こらぬ。
人々はみな意欲に満ち溢れている。
だがわたしだけはボンヤリと、全てを忘れはてている。
わたしの心は愚者の心だ。何ひとつ分別がつかぬ。
人々はみな明敏だが、わたしだけは暗愚だ。
人々は決断力に富むが、わたしには何ひとつ分明なものはない。
定めなくたゆたう海、あてどなく吹く風、それがわたしの姿である。
人々はみな有能だが、わたしだけは木偶に等しい。
わたしだけが人々から離れて、母なる自然のふところに抱かれようとする。
徳間書店 中国の思想「老子・列子」奥平卓訳
2017/8/21昨夜は早めに床に就くと、「賢」の漢字が一字だけ映し出されて来て、其の文字を「かし」と読む事が示されて来て、其の「賢・かし」の度合いと言うか、数度・数値を量る事が示されて来た。・・
其れ等の事に付いて考えて居ると、眠れなく成ったので4時15分に起きて、台所に行き、西瓜を食べて、お茶を飲んでから、古語辞典で「かし。かしこ・し」を調べ、PCを立ち上げると「貴方には」との女神の声が聴こえて来たので、女神のブログを開くと、続きの言葉が告げられて来た。
「貴方には 是以上 無理をさせたくないのです。
ですから他の方に意識が向かない様にコントロールしているのです。
其れが不満であれば 他の方を考えますが
今のままで良いのであれば 此のまま進めて行きます。
貴方が余計な事をしない方が 全てが巧く運ぶのですから
静かに 事象の流れを観察して居てくださいね。
其処に 明るい未来が 見えて来るのですから。・・・「貴方には」
其れから「賢・かしこい。さかしら」に付いて調べると、次の様に載っている。
「賢・ケン・かしこい」【解字】「貝+臣又」音符の臣又(ケン)は、かたいの意味。しっかりした財貨の意味から、まさる・かしこいの意味を表す。【字義】@かしこい。さかしい。㋐才知。徳行にすぐれている。また、そのひと。聖人に次ぐもの。⇔愚。「聖賢」㋑利口である。頭が良い。Aまさる。すぐれている。B多い。豊か。富む。Cたっとぶ。賢人として尊敬する。D他人に関する物事につけ敬意を示す。「賢察」E濁り酒の別名。⇔聖(清酒)
漢語林より
「かしこ」【恐・畏】形ク(語幹)おそれ多いこと。おそれ入るほど立派なこと。
例 かしこの御手(筆跡)やと 空を仰ぎてながめ給う(源氏・葵)
「かしこげ」(なり)【賢げ】(形動ナリ)賢明そうだ。利口そうだ。
例 賢げなる人も 人の上をのみはかりて おのれをば知らざるなり。(徒然・134)
「かしこ・し」【畏し・賢し】一 畏し。 @おそれ多い。尊い。もったいない。A恐ろしい。二 賢し。@才能や知識にすぐれている。A都合がよい。ありがたい。B(連用形を副詞的に用いて)たいへんに。非常に。
ポイント あらゆる自然の事物に命があり霊魂があると考えた古代人が、その霊魂に対して身をすくめるように恐れる気持ちを表現するのが本来の意で、おそれうやまうべき立場の人、才能・人格のすぐれている人をほめるべきことばとなった。
「さか・し」【賢し】(形シク)@かしこい。才知がある。Aじょうずだ。すぐれている。B気丈である。Cこざかしい。
「さかし・ら」【賢しら】(名・形動ナリ)「ら」は接尾語。@りこうぶること。A差し出たことをするさま。よけいなこと。おせっかい。B人をおとしいれるための告げ口。讒言。
「さか・さま」【逆様】(名・形動ナリ)「さかしま」とも。@方向・順序などが逆であること。逆の方向。A道理に反すること。道にはずれること。
旺文社 全訳古語辞典より
此の古語辞典の説明からすると、「さかし・ら。賢しら」とは、「さか。賢」に「さかしま。逆様」が加わった物であり、「知識・賢」が「社会・他人の為」使用されるのではなく、「自分だけの為」に悪用される理・ことが、言い表されている様に、私には感じられる。
其の様に考えると、「さか・し」【賢し】は世の中の為・他人の為に成る事なので、「プラス・+・度数が上がる」に成るが、「さかし・ら」【賢しら】は其の逆で「マイナス・一・度数が下がる」事に成るので、今朝告げられて来た「賢度・かしど」との言葉の意味・世界が、能く理解されて来る。
其れを考えると、今朝のメッセージは旧約聖書に記されている、蛇が勧める「林檎の実・知恵」の例え話しが、どう言う教訓を示しているのかが、具体的に理解されて来る。・・
其の様な意識状態に成って居る、私の「精神・こころ」の原因を探ると、今朝映し出されて来た「賢度・かしど」との言葉が関係が有り、私が、其の賢度の「0・ゼロ・零」点に、自分の意識を、定着させる事に成ったからであろう。
其の「賢度零点」では、自分の意識を働かせる事が出来ない。
其の理由を考えると、自分自身の意識行動に点数を付けると謂うか、評価・判定を下す立場が必要なので、自分が本人ではなく、客観的な立場を有する審判者に成らなければ成らないからである。
其れは、自分の中に「統尊・すめらのみこと」の意識や、「御嚴・みいつ」の役割りをしなければ成らないとの、是までの意識(おもい)が消えており、是までには感じた事の無い「自分・おのれ」が存在する。
其れは、33年前に全てを捨てて無に成った時とは、異なる次元である。
何故かと謂うと、33年前は自分の事を捨てた無の空間での自分であったが、今朝の無の空間は、4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」を初めとする、霊魂・神霊・神々の働きや、自分の父親の意いや、「土肥無庵」の意いも、全て叶えたと謂うか、消化した結果としての、無の空間なのである。
其処には、もう、何物の意識も介入して来ないと謂うか、侵入出来ない世界である。其の状況を考えると、私は「人・ひと・霊止・霊留まる」との概念を通り過ぎた次元に存在する事に成り、其れが「賢・(聖人に次ぐもの)」を超えての「聖・ひじり・霊知り」であるのではないだろうか。
其れに、私は自分の財貨を全て捨てて、是まで神霊の指示に従って来たので、漢字の「賢・貝+臣又」音符の臣又(ケン)は、かたいの意味。しっかりした財貨の意味から、」との世界とは、全く逆様(さかしま)の人間であり、「愚人」であると言う事に成る。
(よこしま・邪・横縞 との関連)
其の「愚人」との言葉からすると、私は漸く良寛禅師の謂う「愚僧良寛」や、老子の謂う「愚者の心」に到達したのではないだろうか。
キー 「愚僧 良寛」・・
驚いた事に、此の「馬鹿」の文章は、2001年9月21日の物であり、今朝告げられて来た「9月21日」の日付の本当の「的・まと」は、此の文章に有るのではないだろうか。
其れを考えると、私の今朝の意識状態は「無」であると謂うよりも「馬鹿・阿呆」の言葉の方が、的確なのではないだろうか。
何だか、自分の意識の方が心配に成って来たが、文章が打てて居るのだから、「痴呆症」ではない事は確かである。
老子20章「愚者の心」
今朝、二度目に映し出されて来た、人間の社会活動のカラー写真が、マットの様な物に焼付けられていた場面は、人間の意識は生まれてからの生活環境が、其の儘、自分の脳・意識に焼付けられており、其れが自分の意識を組み立てているネガなので、余程の事・強烈な上書きがなければ、人間の意識が切り換わらない理・ことが、示されて来ているのではないだろうか。
其れを考えると、釈迦牟尼佛が「出家」を勧め、イエスキリストが「親兄弟を捨てて私に付いて来なさい」と謂った事の意味も理解されて来る。
其れを、そうする事なく、自分の意識のネガを消去する方法が、日本の伝統である「禊ぎ祓い」の儀式なのであろう。
結局は、自分の「賢しら」を捨てる近道が、清水に拠る「禊ぎ祓い」であり、それ以外に「とまむ(湿地)」に「帰命・ナーム・リリジョン・religion」する道・方法は無いと言う事なのであろう。
「賢度・かしど」https://moon.ap.teacup.com/20061116/48.html
此の二十章「愚者の心」の、冒頭に有る「絶學無憂」との言葉は、道元禅師の「絶学無為の人を尊重せよ」との言葉に通じるので、道元禅師も中国に渡った時に、老子の言葉に触れたのかも知れない。
2001/3/3私が、此の世で、最大のマジックだと想うのは、「人間は 知識を得てはならない」と言う、聖者達の教えだ。
中国には、最高の徳のある者が存在した。
その人物は、「老子」の名で知られ、その教えは「道徳経・タオ(道)」として全世界に広がっている。
老子は、王様の図書館の管理を任されていたので、中国に存在する、何万という文字を、全て理解していたのであろう。その老子の思考のエキスが、わずか5000余字に圧縮されて、道徳経として遺されている。
その中に「明白四達、能無知乎(明白四達して、よく無知ならんか)」「絶学無憂(学を絶てば憂なし)」と言う節がある。
其れは、それぞれ「道理に 明白なこと 四方に達するには、無知であることに心がけよ」「学ぶことを絶すれば 憂う事なし」と、言う意味である。
日本の道元禅師も「絶学無為の者を尊重せよ」と謂い、仏教でも「不立(りゅう)文字」と言う様に、書物(文字)には教え(龍)は存在しないと説かれている。
また、旧約聖書でも「知識」は蛇の勧めるもので、その実を食べると、神の楽園を追放されると教えている。
聖書で言う知識とは、善悪を判断する基準になるものである。
善悪を判断する事は、人間がしてはいけないと説いているのだ。
是は、どう言う事であろうか。
キリスト教では「聖書」、仏教では「経典」と言う文字に縋り付いて居て、人はその身を処している。
しかし、イエスキリストが本を読んで居たとか、ブッダである釈迦が経典を唱えて居たとか言う話しは、聞いた事が無い。
老子においては、図書館に勤めていながら、「無知の方が良い」と教えている。
私は、其処の処が、腑に落ちないので、マジックだと想うのである。
最も、知識を得た者である老子が、無知を説いているのだ。
何故なのだろうか。
実は、此れが、人間の意識の絡繰・からくりなのだ。
悟った人達に共通しているのは、自然と一体化している事である。
仙人、聖者、尊者、皆生活の場が山中にある。
老子も、山中へ消えたとの話である。
老子は、勤めて居た図書館を辞して、函谷関の関を通過する時に、関守に請われて5000字の教えを遺して、何処かへ立ち去ったという。
死んだ場所も、日付も明らかでない。
しかし、本人の教えが、素のままで今日に残っているのは、老子の教えだけである。
釈迦の教えである経典も、イエスの教えである聖書も、後の世になって、弟子達が師・先生はこう言った、ああ言ったと、書き連ねたものである。
孔子の教えも、ソクラテスの教えも、道元禅師の教えも、皆、本人が書いた物ではなく、弟子が聞き取って書き残したものである。
老子の道徳教だけが、本人の手になる物であり、最も文字をよく理解していた人が、文字に表した教えなのである。
現在、日本では、白川静氏が、一生を賭けて漢字を研究しているが、遠く老子に及ぶ事はないだろう。白川静氏は、研究者であって体験者ではない。
白川静氏だけが、及ばないのではなく、現在世界中に悟りを体験して、文字の本質を理解している人が、何人いるだろうか。
文字を研究する人には、「無知こそが 大切である」とは言えない。
なぜなら、現代の世の中は、学校という教育機関が存在し、人々は強制的に国・政府の価値観を押し付けられている。
其処では、文字こそが一番のテキストであり、文字を取り扱う者が、優位に立つご時世だからである。
私達は、どこで、誰に、何を、どの様に学べば良いのだろうか。
自然は、向こうからは、何も教えてはくれない。
しかし、自然の存在は、学びたい者にはヒントを与えてくれる。
自然の与えてくれるヒントは、人間の脳が考え出したものではなく、人智を越えた働き、宇宙の神秘、其の侭である。
現代の都会は、自然物ではなく、人間の創り出した物が溢れており、不自然極まりない世界である。聖者の謂う教えの絡繰は、此処らにありそうだ。
人智が創りだした物は「まやかし」なのである。
我々は、前時代の人が創り出した「まやかし」の中に、生活しているので、宇宙の真実が見えなく成っているのだ。
仏教で「六根清浄」と唱えるのは、この絡繰から逃れる為なのである。
老子も「塞其兌、閉其門(其の兌を塞ぎ、其の門を閉じ)」宇宙の本質を知る真の知者は、感覚にとらわれず、みだりに私意も働かせないと謂っている。
どうしても、感覚の世界に捕われてしまうのは、人間だけの悩みである。
人間だけが、持ち得るものに、文字と言葉がある。
釈迦が悟るまでに、6年の歳月を要したのは、「悟りたい」という欲望が有ったからだ。
その欲望の元は何なのか。それは、「悟り」と言う言葉に因って、出来上がる「まやかし」の世界である。その「まやかし」の世界が、仏教に帰依する者を、大量に作り出したのである。
日本でも、「聖徳太子」が仏教を取り入れる為に、「物部守屋」を殺して、禊ぎ祓いの世界を、壊滅させてしまった。
其の為に、日本は、経本を読む事と、偶像崇拝の世界に、落ちてしまったのである。
聖徳太子でさえ、絡繰の中に入ってしまうのだから、七歳から学校に通い、その仕掛けに取り込まれる現代人は、逃れようがない。
其の、仕掛けとなっている学校教育が、行き詰まりに来ているのが、現代社会の有様である。
現代の社会は、神社も、寺も、政府も、裁判所も、全てこの絡繰りの中にある。誰一人として、絡繰りから逃れている者はいない。
インドの釈迦は、「やがて 人間は 無明の中に 陥る」と予言している。
現代は、正に、その釈迦の予言の通りの世界となった。
釈迦は偉人である。
そして、その上に位置するのが老子である。
老子は、予言をせず、弟子も持たなかった。
言葉の無意味さを知りながら、「道・タオ」と名付ける事で、絡繰りを解く糸口を、後世に残したのだ。
現在の世の中は、古い絡繰が解かれて、また、新しいか絡繰りが仕組まれて行く。その連続を、釈迦は「因縁」と名付けたのだ。
我々人間の存在意義は、天と地の間に立つ「絡繰人形」である事なのである。そして、その内側にあって、一人、目を回さない者が現れてくる。
其れが、ブッダ(覚者)である。
此の絡繰を知っていたのは老子であり、其の絡繰を知って居たがゆえに、老子は弟子を採る事をしなかったのだ。
釈迦やイエスは、その事に気づかず、弟子を育て、孔子に至っては、大勢の弟子を育てる事によって、絡繰に、最も拍車をかける結果を招いてしまった。
一休禅師は、「釈迦と言う いたずら者が居たので こんな世の中に成ってしまった」と謂っている。その一休禅師も、木刀を振り回して、からくりを壊そうとしたが、出来なかったのだ。
一休禅師が、我々に遺したものは、「骸骨の偶像」と「風喰水宿」の塒・ねぐらの事と、不立文字の二本の掛け軸である。
掛け軸の文字は「諸悪莫作」と「衆善奉行」である。
此れは、中国の古典にある言葉で、「悪い行いを止めなさい」「善い行いをしなさい」と言う意味である。只それだけの意味であり、これだけの理・ことが、人間は、一生の間に何度も守れない事があるのだそうだ。
中国の古い訓えに、「子供でも 其の理・ことは知識では知っているが、老人になるまで生きても、それが守れない」と言うものが有る。
一休禅師は、自分の言葉でなく、中国の他人の名付けた絡繰・からくりを使う事で、自分が仕掛けに成ってしまう事から、逃げている。
やっぱり、一休禅師は「頓智の一休さん」なのである。
「塒」形声。「土+時」音符の時は、止に通じ、じっととどまるの意味。土塀に穴をあけて、にわとりをとまらせる所、ねぐらの意味を表す。
【字義】ねぐら。とや。鶏のねどこ。転じて、広く鳥の寝る所。
「この世の最大のマジック」https://moon.ap.teacup.com/20061108/82.html
漸く私も「塒」に還る時が来たのかも知れない。
其れを考えると、今朝のビジョンに「土肥無庵」の新居(新しい暮らし向き)が映し出されて来た理由・わけも解る気がするし、老子の言葉「われはひとり他人に異なりて、母に食(やしな)わるるを貴ぶ。」と打った所で(8時58分・9時2分前)私の左手の人差し指にカモ(神の電気信号)の反応が起きた出来事の意味も理解できる。
最後に今朝起こされた6時15分の数字から、今年の6月15日の文章を視て見ると、次の様に書いて有る。
2020/6/15今朝のビジョンには、私の意識が右手にニコンのカメラを持って居る場面が映し出されて来て、其れは、私が「ラビリンスの目・万物を見通す目」の神(はたらき)をしなければ成らない事を、示唆している事が理解されて来た。
其れから、雀の数が「230羽」である事が告げられて来て、其れは鳳の子供達を示唆しており、私や、故「井上佳子」に登場した白い小鳥(白い球)の存在と関係が有る事が理解されて来た。
其処で意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると、時刻は「3時13分
」であった。・・
其れに「白い靴下と百合の花」の文章には、私が1998年6月16日に稲田姫神社で「笹百合祭り」を行った事が書いて有り、其の日三人で舞を行った巫女は、笹百合の香りをかいだ時に自我意識を失ったのだが、舞の方は最後まで完璧に舞う事が出来ると言う現象が起きた。
其の事を考えると、今朝起こされた時刻が「6時16分」であった事と関係が有り、現在の柵(しがらみ)・業(カルマ)の世の中は、一人一人が自分の頭を空白にしてしまわなければ、どうする事も出来ない・救えない事態に、至っているとの理・ことなのではないだろうか。
其れを考えると、今朝告げられて来た「投げ捨て」との言葉は、人間の気付きが起きなければ、神(はたらき)はどうする事も出来ないとの理・ことが、示されて来ているのではないだろうか。
最初に起こされた3時13分の数字は、「土肥無庵」が屋久島に家族で1984年3月5日に移住して来て、3月13日の朝太陽が顔を半分出している時に「神だから守れ」と告げられて来た事と、私が昭和天皇の御霊の導きで阿蘇の「日の宮幣立神宮」に平成元年3月13日に初めて参拝した事に関係があり、2007年3月13日に「日の宮幣立神宮」の境内に「九代龍王水神(9×2=18・十八方菊花紋」の幟旗を立てて儀式を行った事などの一連の流れが、終結に向かうと言う事なのかも知れない。
「万物を見通す目」https://green.ap.teacup.com/20060818/5395.html
令和2年9月26日
礒邉自適
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