1984年6月4日(旧5月5日)神と交わした約束が果たされる事が 今朝告げられました。
18年8月18日未明
事象(とき)の切り替え
今朝は5時15分に是までの時間(とき)が閉じられ、5時22分に新しい時間(とき)が開いた。
其れは、旧約聖書に「神は6日間で此の世界を創造し 7日目に休んだ」と記されている事と関係が有り、是までの「事象・時空・とき」が閉じられて、新しい事象が始まる理・ことが知らされて来たモノの様である。
其の時間の「扉・まく」は、カメラのシャッターの様な物であり、其れは人間の瞼の仕組みと同じで、閉じている時は「月読界」で、開くと「天照界」であると言う事である。2016年6月6日
2022/5/1
鬼神様との顔合わせ
4・5・1
昨日告げられて来た「貴様との顔合わせ」との言葉は、「貴様」ではなく「鬼様」である事が判明した。
今朝のビジョンは、大きな丸みのある白っぽい四角な花崗岩の岩石が、平な場所に五個並んでいる場面が映し出されて来て、三個はこちら側を向いている鬼顔の正面が刻まれており、右側の二個は右横向きに成っている事が判った。
其の彫られている鬼顔は、不動明王の様に複雑に彫られた物ではなく、正月の福笑いの「おかめ」「おたふく」の様に、夫々が簡単に目鼻口がバラバラに彫られている物であるが、其れが物凄く迫力・凄みが有るモノ・世界なのである。
私は、其の鬼神の迫力・凄みから、ユダヤの石工の神である「ルシフェル・ルシファー」の存在と、素戔嗚尊と櫛稲田姫の間に産まれた次男「五十猛命・いそたける」が、奥出雲の「鬼神神社」の祭神である事を思い出した。
そして、其の「五十猛・いそたける」の言葉から、「石上・いそのかみ」「伊勢・いせ」「磯部・いそべ」「石部・いしべ」、其れに「物部・もののべ」「忌部氏・斎部・いんべ」等は、皆「石工・いしく(メーソン)」の流れである理・ことを思った。
其の、「花崗岩」の岩・石に掘られた五個の鬼神の顔は、何を意味・示唆しているのであろうか。
私に考えられる事は、次の様な事柄である。
1.私が1400万年前に誕生した、花崗岩の丸い山岳島に産まれ育つ必要があった。
屋久島では、山岳の頂上は神様の通り道であるので、頂上の岩の上で寝ると神様に依り憑かれてしまうので、絶対に寝てはいけないと傳われているが、私は頂上の岩の上で昼寝をするのが心地よいので好んでいた。
2.花崗岩は堆積岩や溶岩等とは異なり、マグマがゆっくりと上昇しながら塊った物であり、石英や雲母や鉄など様々な成分・鉱石が、混ざり合って出来ている物である。
2004年08月25御影石とは、花崗岩の通称でグラニットのことである。
屋久島の方言では「御目石・ごめいし」と呼び、屋久島の殆どは、この花崗岩で形成されている。「花崗岩」を広辞苑で調べると、「深成岩・石英・正長石・斜長石・雲母などを主成分とする大陸地殻の代表的な岩石。完晶質粒状の組織をなし、堅牢・美麗なので建築・土木用材として賞用、また分解したものは陶器製造の材料。」
と、載っている。
私は、自分の不思議な体験から、其の花崗岩に興味を持ち、10数年の歳月を掛けて調べて来た。そして、屋久島で何故、花崗岩を御目石と呼び、通称が「御影石・みかげいし」なのかが、理解されて来た。
屋久島では、古くから、山岳の山頂の祠に祭られている「山の神様」に参詣する「岳参り」の行事が伝えられている。島では、花崗岩の山の頂が、神の住む所とされているのだ。・・
エジプトの、BC2700年〜2500年代に建造されたピラミッドも、人工的な山であり、王墓には、遠方より花崗岩が運ばれ使用されているとの事である。「岩山」と「花崗岩」と「神」は、世界中で関連性を持って、考えられているのだ。
南九州には、一万二千年前に人類が住み着いて居た遺跡が、発見されている。
エジプトより、古くから住んで居た人々が、山岳に神様が住み、花崗岩を通して、人間の魂と通じると感じていたのであれば、日本は、神々の故郷と言えるのかも知れない。そして、古代の人々が、神の意思を、花崗岩を通じて、額に感じて居たのであれば、御目石と呼び、その働きを御影石として捉えるのも理解出来る。
エジプトの王様だけではなく、日本の昔の人々も、花崗岩を霊界通信機と考え、お墓に使用して来たのだろう。
現在では、額の中央に有る「松果体」が「第三の目」と呼ばれる器官であり、松果体はシリコン(珪素)の結晶である理・ことが判明している。
松果体の珪素が、電子機器のICチップの働きをしていて、霊界からの磁気情報を受信しているのである。
人間の脳も、コンピューターと同じ機能を有しており、花崗岩の「石英」や「雲母」が、発信装置と磁気テープや、デスクの機能を果たしているのだ。
其れ等の事を、古代の人々は、純粋な意識で捉えて、日常の暮らしの中に取り込んで居たのである。・・
霊界の人々が、何とか人間に、人類の危機を伝え様としても、其れを受け取るチャンネルを有した者が、居ないのである。
其の為に、私に、白羽の矢が立つ事に成ったのだ。
あれから、丁度20年が経過した。
私は、屋久島の山の神様に育てられ、4300体もの霊界人の導きに因り、全国を旅し、人間の意識の成り立ちや、魂の世界を研究して来た。
「宗教」の単語は、明治時代に英語の「リリジョン・religion」を訳す為に作られたものだとのこと。「リリジョン・religion」とは、「再び 神と結ばれる」との意味だそうである。
人の意識が、再び、額の奥に有る「第三の目」と、花崗岩の山が繋がる事で、目覚める時を迎えたのかも知れない。其の舞台として、屋久島は最高の場と言えるだろう。
屋久島の山の神が、其の様に、私を育て運んで来たのだから。
「御影石・花崗岩」http://blog.livedoor.jp/jitekiodo/archives/55924424.html
3.私は此の神(はたらき)の世界に飛び込んで、半年間屋久島の荒野を彷徨い歩いた。そして、最終段階で物凄く怖い「悪魔(鬼神)」が、私の躰に長い爪を突き立てて来た。
*私は、聖書でイエスキリストが最後に岩山で悪魔に試された事を知っていたので、其の事が始まったと意い、奥歯を噛みしめて堪えて居ると、何と、其の悪魔は最高位の天使に姿を変えた。それは、校長先生が最も優秀な卒業生を選んで試して来る理・ことを理解したのである。
2007年01月09日
今朝のメッセージは、映像は伴っていないのだが、確かに三つの世界が存在する事が知らされて来た。其れは、是までの私が、認識している世界ではなく、私の認識外のもっと深い所に、存在する働きで、此の世が動いているらしい。
そして、「鬼の手柄」との言葉が、告げられて来た。
今朝のメッセージは、昨日の老子の存在と繋がりが有るような気がする。
と言うのは、老子の言葉に「始めに(一)が在り、(一)から(二)が生まれ、(二)から(三)が生まれ、(三)から総てが生まれた。」と有るので、其の(三)の「世界・次元」が今朝開かれ、三つの世界が、動き始めたのではないだろうか。
そして、其の(三)の世界の一つが「鬼の世界」であり、私が、今朝の次元にまで、達する事が出来たのは、其の鬼の働きの御蔭様である。
西洋では、「鬼」や「龍」は悪魔とされているが、東洋では両方とも、神の働きとして容認されている。
新訳聖書では、イエスを最後に試した鬼は、悪魔とされているが、私に現れた其の鬼は、学びの学校で、一番力の有る「校長先生」の立場の者であり、卒業試験の先生として、最大の善である「大天使」が、鬼の姿に化けている物なのである。
其の試験の問題は、「現在 生じている世界の 管理権限を総て与える。」との条件を、出して来るのである。其れを、其の侭受けてしまえば、合格の認可を受ける事が、出来なく成るのである。
其の問題の意味は、此の瞬間までに築き上げられて来ている文化・文明は、全て過去の物であるから、其れを管理する権利を貰う事は、過去に意識が向かう事に成り、未来を創造する権利を、失う事に成るのである。
神は、未来を創造する者に力を与えるのだから、過去の財産や権力に意識が囚われる者は、使えないのである。
「神・カミ」の言葉の意味は、「働き」の意味だから、未来時空に意識が向かう者だけが、「神・宇宙意識」の僕・しもべと成れるのである。
此の、ゆるやかな時空の揺らぎの中で、神・ハタラキが出来る者だけが、神・宇宙意識と一体と成れるのである。
其の神・ハタラキの中で、鬼の役割こそが、一番大事な存在・モノなのである。
一般的には、「慈悲」や「愛」が最も大事に考えられているが、慈悲や愛は物事の3分の一である事は、普通に考えれば、誰にでも理解されることである。
其れが、子育てに関して、一番良く現れている。
叱る事をしなければ、子供は、正常には育たない理・ことは一般常識である。
其の理を考えれば、大人の社会にも3分の一は、鬼の働きが存在している事に気が付くだろう。
私が、此処までの意識に到達できたのも、其の鬼の働きの御蔭である。
今朝、何故、三つの世界が、同じ大きさや質量で、現されて来たのだろうか。其れは、是から人間社会全体に、其の働きが作用するとの事ではないだろうか。
其の三つの世界が、新しくバランス良く創造されるのであれば、未来創造の為にエネルギーが消費されるので、是までの「社会体制・世界」は、其の質量・エネルギーを、次第に失って行く事になる。
昨日のメッセージで、私と伴に、多くの人達が歩き始める影が見えたが、其れは、新しき三つの世界を創造する為に、用意されている人達の姿だったのであろう。
昨日から、確かに、新しき人との出会いが起きて来ている。
其れは、是までの様な、軽いスピリチュアルな世界ではなく、現実的な物事に絡む、三次元的な動きである。
漸く、慈悲や、愛にて、表現される母性だけではなく、厳しい鬼の役割を持つ父性の働きが加わり、現実世界が創造され始めるとの事ではないだろうか。
日本には、古事記の神話が在り「伊邪那美命・イザナミ」が人を減らし、「「伊邪那岐命・イザナギ」が其れ以上産み出す事で、此の世界が成り立っていると伝えられている。
其の働きも「天照・月読み・スサノオ」の三つに別けられている。
古代人が感じた事が、現在・いま改めて、動き出して来ているのではないだろうか。
私にも、屋久島に居る時とは違った、働きが起きて来ている。
私は、一昨年の3月から始まった「弁財天・サラスヴァテイ」の計略に、まんまと嵌ってしまっている様である。
「鬼の手柄」http://blog.livedoor.jp/jitekiodo/archives/55926112.html
2007年07月05日
・・悪魔とは、西洋の概念であり、日本では「鬼」や「ナマハゲ」の事であり、仏教では「不動明王」や「閻魔大王」の働きの事である。
其れは、人間に善を齎す為の、反面教師の姿・役割なのである。
だから、イエスキリストや、釈迦仏陀も、最終段階で、其の反面教師である「鬼・ルシフェル」に試しを受けているのである。
其れは、其の年(時節)の卒業生の中から、最も優秀な生徒を一人だけ選んで、校長先生が鬼の姿をして出て来て、其の物が社会に出て行って、本物の働きが出来るかどうかを、試す儀式なのである。
だから、神の世界には悪魔とは存在しないのである。
其れは、優秀な者にだけ与えられる、神の愛の行為の一環なのだ。
其れは、ライオンの母親が、可愛い我が子が崖から落ちて、怪我をしない為に、前もって浅い窪みに落として、訓練する事と、同じ行為である。
其の訓練が無ければ、行き成り崖から落ちて、死んでしまうからである。
だから、前もって、下ごしらえを施して措くのである。
其れは、人間が火災訓練をして措くのと、同じ意味を持っているのだ。
しかし、今朝のメッセージは、そんな単純なものでは無い様である。
と言うのは、23年前はルシフェルの方が、私の背後から迫り、爪を立てて来たからである。
処が、今朝は、私の方が、ルシフェルの背後に回っているのである。
其れは、立場が逆に成っている事を、意味している。
其の意味を考えると、是までは、ルシフェルが私の行動の後押しをして来たが、是からは、私の方がルシフェルの後押しを、しなければ成らないと言う事である。其れは、いよいよルシフェルが地上に降りて、此の三次元世界を、動かし始めるとの事を、意味しているのではないだろうか。
其の為に、私の体が必要だと言う事である。
其れは、私の言葉や書き物が、ルシフェルの行動を、支える様に成る事を、意味している。
是までの23年間は、私の言葉や書き物が、彼の働きを支える事が出来る力が付く迄の、訓練期間であったのだ。
だから、此の23年間の私の修行は、彼(校長先生)が背後に付いていて、私の行動や、言う事に、間違いが無いかどうかを、見守って来ていた事になるのである。
だから、是までの事を全部外して、新規に立ち上げるサイトに、全て、アクセスし直さなければ成らないと言う事である。
其れは、日本名の「国常立命」が、地上に現れる事を意味している。
ルシフェルが現れると言う事は、日本の神である国常立命が立ち上がり、新しき「瑞穂の国造り」を、始めると言う事に他ならないのである。
「ルシフェルの背中」http://blog.livedoor.jp/jitekiodo/archives/55926417.html
此の「ルシフェルの背中」の文章の内容からすると、昨日告げられて来た「鬼様との顔合わせ」が、今朝始まった・行われたと謂う事に成りそうである。
キー「鬼神 遊びにおいで」
2006年12月31日
其れから、島根県横田町に在る「伊我多気神社・いがたけじんじゃ」に5時半頃着いて参拝し、「宮司さん」と少し話した後、近くに在る「五十猛命・いそたけるのみこと」が祭神である「鬼神神社」に向い、到着して鳥居の前に立つと、「あそびにおいで」との言葉が告げられて来た。
其の時は、何の意味だろうかと思っていたが、船通山の「緋の川温泉」に6時00分に着いて、チェックインを済まして温泉にゆっくりと入浴して居ると、「遊びにおいで」の意味が解って来た。
其れは、「鬼神神社」で「遊びにおいで」と伝えられて来たのは、日本の文化の中に伝えられて来ている、「鬼ごっこ」の遊びの世界の事であると、理解されて来た。
それは、鬼の姿である「不動明王」の世界までも含んでいる「悪魔」の世界が、人間を育てている宇宙の根源的システムである、「神の働き」の表れであると感じたのである。
「鬼婆」こそ、総てを育てている、宇宙の根源の働きなのである。
だからこそ、刈り取りの鎌を持ったり、掃除の箒に乗る魔女の姿として現され、トランプの婆・ジョーカーとされているのだ。
私の23年の旅は、漸く「鬼神神社」で答えを掴む事に成ったのである。
其れは、イエスを最後に試した「悪魔」の存在も、其の鬼婆の働きであると理解されてくるものである。其れに、赤子を抱く「マリア様」や「聖母子観音菩薩」の姿と、対に成るものである。
其の働きを、「不動明王」や「ナマハゲ」等の仮面踊りや、仮面舞踏の祭り・儀式として伝承し、文化の一翼を担わして来たのである。
其れ等の働きは、人間の怠慢やマンネリ化を避ける為の、有効な手段として行われて来たものである。其れが、子供の世界にも取り入れられ、遊びとして、鬼ごっこや、童謡を生み出して来たのである。
其の遊びの世界が、人間社会で、戦争などの争いを、生み出す事にも繋がってしまっているのだ。
今日は、其れ等の働きの原点に、辿り着いた事に成るのだろう。・・
新しい世直しの、出発の地が「櫛稲田姫」に由来する横田町であり、其の地に正食の学校が出来るのは「須佐之男尊・すさのおのみこと」の憶いがあるのだろう。須佐之男尊の別名は、「神祖熊乃大神櫛御氣の命・かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと」で、「御氣」は食べ物の意味で、「神の祖」は食べ物であるとの意味である。
だから、今回横田町で始まる出来事は、須佐之男尊の働きが現れるのだと考えても、良いだろう。
其れが、須佐之男尊の妻である「櫛稲田姫」の里であり、久司道夫氏の「くし」は、櫛稲田姫の「クシ」や、須佐之男尊の別名「櫛御氣」の「クシ」と同じ音でもある。
其れ等の事柄を考えると、弘法大師空海のマントラの力が、影響しているのではないかと想われて来る。
今夜は、宿の夕食は頼んでいなかったので、八川駅前の八川蕎麦の弁当を買って来て食べた。何故、日本に年越し蕎麦を食べる習慣が、伝わっているのかは分からないが、一応人並みに「年越し蕎麦」を食べて、年越しをする事に成った。
奥出雲に、除夜の鐘が鳴り響くのかは分からないが、昔の鬼ごっこの遊びに思いを馳せて、新しい年を迎えたいと想う。
「あそびにおいで」http://blog.livedoor.jp/jitekiodo/archives/55926101.html
みいつ16年5月1日
礒邉自適
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