1984年6月4日(旧5月5日)神と交わした約束が果たされる事が 今朝告げられました。
18年8月18日未明
事象(とき)の切り替え
今朝は5時15分に是までの時間(とき)が閉じられ、5時22分に新しい時間(とき)が開いた。
其れは、旧約聖書に「神は6日間で此の世界を創造し 7日目に休んだ」と記されている事と関係が有り、是までの「事象・時空・とき」が閉じられて、新しい事象が始まる理・ことが知らされて来たモノの様である。
其の時間の「扉・まく」は、カメラのシャッターの様な物であり、其れは人間の瞼の仕組みと同じで、閉じている時は「月読界」で、開くと「天照界」であると言う事である。2016年6月6日
2017/11/29
終り方
29・11・29
本日の日付は「29・11・29」でバランスの良い数字であり、唯今の時刻は「4時44分」である。
昨日は、3時15分に起きて、5時8分までPCに向かい再び眠った。
すると、朱色の空間全体に、エネルギーが動いている様子が映し出されて来て、其の空間中に、一体の龍神の意思が潜んで居る様子が感じられて来て、「螺旋の底」との言葉が一言告げられて来た。
私は、其の場面と謂うか、メッセージの内容から、一日中、螺旋は蛇がトグロを巻いた姿と共通しており、蛇は敵対する時は、相手に飛び掛る為にトグロを巻いて、尻尾を土台として、ばね仕掛けで飛び掛って来るので、「螺旋の底」との言葉は、頭を動かす為の土台を示唆しており、「尻・尾」の方が安定すると謂うか、土台を確りと固定して居なければ、言葉を発してはいけないとの事ではないかと考えて居た。
今朝のメッセージの映像内容は、私が、会社の土地を横領した池田保との裁判の和解が成立して、私が1600万円を池田保に支払えば、池田保が其の土地を明け渡すとの事であった。
私は、其の様なお金は持っていないし、其の金額は、その土地を買った時の金額とほぼ同じ金額であり、私は二度買う事に成ってしまうので、相手の弁護士に「何故 私が1600万円も支払う必要があるのか」と、其の根拠を示す様に迫ると、其の人の良さそうな弁護士は、穏やかに微笑んだまま何も答えないのである。
どうやら、様子を伺うと、池田保は自分の財産を、其の土地に全て注ぎ込んでいるので、他に行く所がなく、アパートに引越さなければ成らないので、池田保が其の土地に建設した地上物件の保障と言うか、今後の生活資金を渡せと言う事らしい。
私は、支払うお金が無いし、其の金額を借金してまで買い戻しても、其の土地で今有る施設を利用して、商売を続ける気も無いので、其の土地を取り返す事は止めにして、其の儘池田保が事業を続ける事に成った。
次の映像には、50歳位の立派な東洋系の夫妻が、記念写真を撮る様な感じで、立っている場面が映し出されて来た。
其れは、左側に気品の有る、スラリとして背の高い男性が白い服を着て立って居り、右側には健康そうな中肉中背の女性が青い服を着て立って居るモノで、似合いの夫婦と言うか、釣り合いのとれたペアーである。
私は其の二人の存在から、其れは、理想的な男女の組み合わせが表現されており、其れが真実の「天皇」と「皇后」の姿であると想い、其れは「魂魄・こんぱく」との言葉と関係が有って、「魂」は、叡智を蓄えた清廉潔白な男性の御魂(たましい)・精神性を意味し、「魄」は、水(水素・物質)の世界を司り、子孫を産み育てる健康な女性存在を示唆していると想った。
そして、其の夫婦の存在は、人類・人間の理想的な完成度を現しており、記念写真を撮影する事は、凄く大事な行為・出来事であると考えて居た。
其の様に考えて居ると、私の潜在意識から「こんなものですかね」と声が出ると、其れに対して「土肥無庵」の声色の感じで、「そうだね」と一言聞こえてきた。
其の声の遣り取りと言うか、雰囲気で、私は自分の役割と謂うか、使命(みこともち)が無事に終わった事を感じて居た。
其処で、私の左耳の中が急に痛く成って来たので、私は意識が目覚め、照明を点けて時計を見ると時刻は「3時41分」であったので、私は其の数字を「341・さんよい・三良い」と記憶した。
そして、左耳の痛みが消えたので、再び電気を消して横に成った。
すると、今朝のメッセージの映像に付いて、色々と考えが巡り始めた。
其れは、今朝の映像に登場した男女のペアーの存在は、此の宇宙の目的が何であるかが示されて来ている物であり、此の地球上の生命は、全て「男女・雌雄・陰陽」の仕組みで成り立っており、究極の進化の形が人類のペアーであると謂う理・ことである。
其れは、磔に成って殺された「イエスキリスト」や、一人で説法の旅を続けて最後には食中毒が原因で死んだ「釈迦牟尼佛」、其れに、老後は一人で国を出て行方不明に成った「老子」などの聖者の存在は、本筋と言うか正道の生き方ではないと言う理・ことに成る。
其れから、日本語の「かみ」の言葉の本当の意味を考えて居ると、「ガミガミ謂う」の言葉が頭に浮かんで来た。
「がみがみ」とは「かみ」の言葉に濁点を付した言葉であるので、日本語の「かみ」とは「モノ・言葉を告げる・告げて来る物」の存在を意味しているのではないかと言う事である。
其れは、漢字の「神」が「示(祭壇)+申(雷)」の組み合わせで、意味は「祭壇の前で 天神の言葉(お告げ・情報)を受け取る」との理であり、其れが「知」の漢字であり、其のお告げを他人に伝えるのが「智」であり、其れを行なう者の立場が「聖」の漢字の意味である事と通じて来る。
其れを考えると、「君・きみ・すめらのみこと」言葉や「天皇」の存在の意味が理解されて来るし、「詔勅・みことのり」の本来の行為が何であるかも、理解されて来る。
其れ等の事を考えて居て、眠れないので起きて、台所に行き時計を見ると時刻は「4時25分」であった。
其れから、蓬団子を食べながら穀物コーヒーを飲んで、PCを立ち上げ4月25日の文章に目を通すと次の様に書いて有る。
2017/4/25今朝のメッセージには、先ず、人間なのか、「ゴリラ」なのか「熊」なのか判らない様な、黒い生き物の姿が、右側から左の方に歩いて行く映像が映し出されて来た。
次に、村の広場で、祭りの様な事が行われており、私は其の広場の垣根の外から、其の様子を一人で眺めて居た。
そして、人々の様子が楽しそうなので、私も其の雰囲気に思わずつられて、両手を上に挙げて踊りの様に動かし始めた。
すると、上天気で青空なのに、雨が降って来たので、私は不思議に思い手を休めると、其の雨は止んだ。
其れで、私がもう一度両手を挙げて動かすと、再び雨が降って来たので、私は自分の手の動きと、雨が降って来る事に関係が有る事が判った。
集まって来て居た人々にも、其の出来事が見付かった様で、私の所に其の人達が集まって来た。
其れから、其の事の噂が村中に広まって行くと、私が此の世界に入る切っ掛けを作った「土肥無庵」が、奥さんと子供を連れて遣って来た。
私は、其の「土肥無庵」と久し振りに話を始めると、広場の中に集まって来ている人々の中に、運動用のジャージを来た大柄の40歳位の女性が、相撲の四股を踏む様な格好を始めたので、私は女性が解放される時代が来たのだと思った。
其れから、私は土肥無庵が故人であった事を思い出し、意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると、時刻は4時15分であった。
私は、其の数字を「415・世一期」と記憶して、再び眠った。
すると今度は、ジャマイカのレゲエミユージシャンの様な服装をした、45歳位の男性が一人登場して、金箔を作る叩き台を作っている様子が映し出されて来て、其の男性は、台の上に張る材料の硬さを整える為に、敷物の材料を取替えながら、金槌で叩いて、音で硬さが適しているかを確かめて居た。
私は、其の男性の様子から、人間にとって一番大事なことは、自分の手で音を確かめる事であり、其れは本を呼んだり、他人に訊ねたりしても、理解できない世界である理・ことを理解していた。
今朝のメッセージの映像から、私は、自分が33年前に此の世界に飛び込んだ時に、自分の身に起きた出来事を思い出し、私は、自分の意識と言うか、記憶が元の所に還っている事を思った。
今朝のメッセージの内容から考えると、音の一部として、発展進化して来た物が、人間の言葉であり、人間が言葉を使用する源に、音(振動・波動)があると言う事に成るのであろう。
其れを考えると、我々人間が電話で相手の声を聴いただけで、相手の様子が判断出来る事の意味が理解出来て来る。
我々は、其の音の原点を考えると、現代社会の騒音から身を引いて、本来の音の世界に復帰しなければ成らないのでないだろうか。
何故なら、其の次元に還らなければ、神の世界に繋がれないからである。
其れは、ゴリラが自分の胸をドラムの様に叩いていて、自分の意思を示す事と同じ次元であり、人間もゴリラの様に音を穢れの無い純粋なモノとしなければ成らないと言う事である。
「音と神」http://green.ap.teacup.com/20060818/4219.html
此の文章の中の「・・音の一部として、発展進化して来た物が、人間の言葉であり、人間が言葉を使用する源に、音(振動・波動)があると言う事に成るのであろう。其れを考えると、我々人間が電話で相手の声を聴いただけで、相手の様子が判断出来る事の意味が理解出来て来る。」との事は、今朝私の頭の中に「ガミガミいう」との言葉が浮かんで来たのも、其の「音の神・言葉の神」の存在が関わって来ている事に成りそうである。
更に、其の神の仕業として、今朝「3時41分」に起こされた原因が、私の左耳の中が急に痛く成って来た事に有るので、左耳の聴覚の働きが「かみ・神」に関係が有ると言う事に成りそうである。
そして、其の「3時41分」の時刻を、私が「341・さんよい・三良い」と記憶したのは、インドで言うところの、此の世は「見る物と 見られる物と 其の関係性」との言葉と関係が有り、今朝の映像に登場した男女の存在は「見られる物」であり、私が「見る物」であって、「其の関係性」こそが、「神の仕組み」であると謂う理・ことに成りそうである。
其れに、三の数字は、昨年の6月19日「自らの仕掛けで滅びる」の「Tritarte fur・トライタルトファー(天蓋の内側に定着している 女神の働きから生まれる 三個の螺旋の宝珠)」のビジョンとも繋がって来るし、矢追日聖法主が謂う「数字の三は 神の数字で 一人歩きをする」との事とも関係が有り、三の数字は、是までの私のビジョンに幾度となく登場して来てもいる。
2017/8/3「三・3がテーマの文章」http://green.ap.teacup.com/20060818/4325.html
昨日のメッセージでは、水田の中に立って居ると、何処からか、テレビかラジオ放送の音が微かに聴こえて来た後、自分の右手の中指が、実際に痛く成って来た為に意識が目覚めた。
そして、今朝は左耳の中が痛く成って目覚めた。其れに、三日前の26日は、胃の痛みで起こされてもいる。
此の痛みで起こされる出来事は、どの様な仕組みと言うか、現象なのであろうか。
其れに、昨年の11月9日(119・救急車の日)には、初めてスズメ蜂に頭頂(百会)刺され、今月15日15時にはムカデ(百足)に左手の小指を噛まれている。
其れに今(7時)は、赤家蚊が目の前を飛んだので、両手で叩くと血を一杯吸っており、左耳の後ろが痒いので、自分の血を吸われた事が判った。
私に、其れ等の虫の存在から考えられる事は、私が此の世界に入った時に、不如帰や鳶などの鳥類だけではなく、虻や蝶の蛹などの昆虫が、様々な現象を起こして、私を此の世界に導いた事が有るので、最後に、再び、其の虫達が神の役割り・使いを果たしているのだと謂う事である。
其れは、人間の肉体を構成している細胞と、昆虫達の命が、生命システムとして繋がっていると謂う理・ことを示して来ており、其れが生命全体の仕組み・はたらきの基礎・基盤に成っているので、其れが生命(いのち)の世界全体の「螺旋のそこ(底盤)」であると言う理・ことなのかも知れない。
今朝の文章の題は、「こんなものですかね」と「そうだね」との会話から「終り方」とした。
12月4日を五日後に控えて、私が背負って来た役割りと言うか肩の荷が、本日を持って降ろされた様な気がする。
其れは、私「こんなものですかね」 無庵師匠「そうだね」との会話の雰囲気から、そう感じたからである。
平成29年11月29日7時16分
礒邉自適
2016/5/19
此処にこうして在る事
28・5・19
今朝のメッセージは、人間社会は、お互いの気持ち次第で、平和で穏やかな暮らしが出来る事が、現場の映像にて映し出されて来た。
不思議な事に、其の平和で穏やかな暮らしの様子は、言葉にする事が出来ないと言うか、平和とは、特別な言葉が必要でない理・ことが、理解されて来た。
其れは、ニュースの多くが、何等かの事件の報道である事でも判る様に、平和で穏やかな暮らしは、言葉に出来ないと言うか、言葉にする必要が無い世界であると言う事に、成るのかも知れない。
だが、今朝の映像自体には、土地の境界問題や、車の駐車などに付いても、関係者がお互いに仲良く話し合いながら、結論を出して居たので、生活の現場では、其の言葉・会話が一番大事である理・ことが理解されて来た。
【ニュース】
1 新しく一般にはまだ知られていないできごとや情報。「ニュースが入る」「ビッグニュース」2 新聞・ラジオ・テレビなどでの報道。「ローカルニュース」
デジタル大辞泉
今朝は起きて、縁側の椅子に座り、庭を眺めて居ると「此処にこうして在る事」との言葉が、内側から頭に響いて来た。
其れは、自分自身の「こころ」が、何等かの状況を感じて、判断を下して来た様な感じの言葉である。
今朝の私の意識状態からすると、三日前の16日の「48時間制度」との言葉と関係が有り、私の意識段階にて、48時間・二泊三日で何等かの変化と言うか、決断が出来た事が示されて来ているのかも知れない。
其れは、16日の映像が、山中の川の流れの両岸に、緑色の四角い物が配置された事と関係が有り、何等かのプログラムが「水」と「緑」の世界・環境の中で、成立したとの事で、其れが私の潜在意識に、影響を与えていると言う事に成るのかも知れない。
そして、其の事が、今朝の「此処にこうして在る事」との言葉と関係が有り、世界自然遺産に登録された屋久島で産まれ育った私が、屋久島の自然環境とは正反対に、地下は石炭が掘られてモグラ穴が澤山有り、周囲の山はセメントの材料と成る石灰岩が採掘され、剥き出しと成っている環境の中で、暮らして居る事の意味が、示されて来ているのではないだろうか。
其の事は、此の世界で32年間生きて来た私自身にも、不可思議な事であり、其の理由が未だハッキリとは解からないのである。
だが、今朝のメッセージの内容を考えると、人間の幸福な生活・くらしは、環境条件よりも本人の努力と言うか、物の考えた方や、価値判断の仕方で、左右されると言う事であり、自分自身の「意識・こころ」を冷静に見詰めながら、言葉を紡いで行けば、自づから安定を得られると言う事なのではないだろうか。
何故、今朝此の様な内容の文章を綴っているかを考えると、私が来年70歳を迎える年齢である事も関係有るだろうが、私が現在住んでいる地域には、懇意にしている人物が一人も無く、自給自足体制を採っているので、他からの影響が無いので、意識に漣(さざなみ)も起きない事に、要因が有るのではないだろうか。
其れに、自宅にはテレビが無く、新聞雑誌も購入していないし、本屋や図書館にも出掛けていないのである。
そして、七人の子供や五人の孫、其れに母親・兄弟・親戚とも接触が無いので、人間的な営み等の因縁が無いのである。
其れ等の事を考えると、私は市街に住みながら、仙人や聖者の様な暮らしをして居る事に成るのではないだろうか。
私は、32年間、神の求めに対して、従って来た。
其の結果が、今朝の心境である。
其れに、今朝の此の自分の穏やかさの様子からすると、一昨日母親に電話を掛けて話して居る時に、母親が「勲と結婚してから 様々な事が有り 苦しい時も有ったが いまは息子に優しく世話をして貰っているので 幸せであり 勲と結婚した事も 良かったと意う」と謂ったので、私は、母親が人生を振り返る余裕も生まれ、自分の人生に後悔していない事を理解したので、散々心配を掛けた自分の母親が、幸せである事を知り、其の事で、私は許されている事が確認できて、安堵感が浸みて来ている事も、要因と成っているのであろう。
私が此の世界に入った時は、安房川での禊ぎ祓いの直後に4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」が起きて、自分の心身は自由が利かなく成り、神霊の操り人形の様に成って、長年過ごして来たので、其の体制が骨身に沁み込んでいるので、現在の意識が自分本人のモノであるのか、神霊に操られているのかの区別も付かない状態である。
其れが、本来の日本語の「霊留・ひと」の状態であると謂えるモノであり、私の肉体は「空蝉・うつせみ」であると言う事に成るのかも知れない。
だが、こうして文章を打って居る私は、誰が見ても、神憑りの状態ではなく、正真正銘の私自身であると謂えるだろう。
しかし、33年前・36歳の時の「礒邉自適」其の儘では無い事は顕かであり、其の頃の自分に復帰する事は不可能な事でもある。
今朝の、自分自身の「意識・こころ」の状態から考えると、私は人間の在り方と言うかプロセスが、一応終了したと言う事であり、一切の社会的出来事とは縁が切れており、70億人居ると言う人間社会とは、一応関係が無く成ったと言う事であり、後は、人々の話し合いの中で、未来構築をして貰わなければ成らないと言う事なのかも知れない。
だが其れは、三次元世界である此の人間社会に対しての事であり、四次元世界・天神(てんのはたらき)に対しては、昨日のメッセージの映像に示されて来た、長い縁側・廊下のキーボードの起動に対しては、意識を向けて行かなければ成らないのであろう。
其れは、見えない世界に存在する「アカシックレコード・記録盤」に情報を刻む事であり、「すめらのみこと」として「御稜威・みいつ」を行う事である。
いま暦で日付を確かめると、本日は旧暦の4月13日である。
其の日付を考えると、今朝の私の意識は「月讀界」にて、弘法大師空海の謂う「虚空蔵菩薩求聞持法」が掛かっているのかも知れない。
其れは、私が「黄泉戸の大神」と告げられて来た事と関係があり、私自身には本番が訪れたと言う事に成るのではないだろうか。
2002/10/24・・10月9日には、小田原氏に福岡市内に在る「熊野神社」に案内して貰い、社の前に立つと「名前を与える」と告げられ、私が怪訝(けげん)にしていると、「他の人間に 与える事は 出来ないから」と、重ねて告げられた。
私は、神名などを欲して、これ迄続けて来たのではなく、体を借りに来た4311体の霊界人が、早く成佛してくれれば良いと、それだけを想って来たので、今更、名前など貰っても全然嬉しくはない。
それでも、神社の祭神が困っている様なので、由緒書きを読んで見ると、熊野神社の祭神は「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」だが、合祀させられたのが「道祖神社」で、本々は道祖神が祭られていた場所らしい。祭神の名は「クナドの神」で、又の名を「道反大神」「黄泉大神」と言うと説明されている。
此の神は、現世と、あの世(黄泉の国)の間に存在する神らしい。
有名な「猿田彦神」も、高天原と現世の間に位置する神で、道祖神とされているので、同じ働きの者だろう。
由緒書きの中には、「此の神は 巨石を以って 象徴され、街路坐(みちにま)して悪霊を防ぐとされ、『船戸神』『久那斗神』とも呼ばれている」とある。
この神の働きは、この世とあの世の間を司るもので、サイの河原を牛耳るサイの神であり、名前を書き出すと「道祖神」「道反大神」「塞其黄泉大神(さいにますよみどのおおかみ)」「黄戸の大神」「岐神(ふなどのかみ)」「久那斗神」「船戸神」、そして、人間としては「猿田彦の神」と成るようである。
1984年の夏、北九州市小倉の「瑜伽神社」の境内に有る「猿田彦神」の石碑に、御手洗(みてらい)の水を掬って掛けたら、「猿」の文字の窪みに、5円玉と1円玉が二個現出した事があった。
私は、其の金額が合計6円に成るので、「あの世への 渡し賃の6文銭かな?」と思っていたが、18年間の私の旅には、この神の働きが付いて回っていた事に成る。・・・
「よみどの大神」http://star.ap.teacup.com/170606/303.html
2008/11/7「新しき道」http://green.ap.teacup.com/20060818/942.html
2006/4/1「猿田彦の神」http://star.ap.teacup.com/170606/1079.html
5月26日まで残り七日である。
何等かの詰めが、起きて来るのかも知れない。
其れは、昨日のメッセージの「崖淵の国家」と関係が有り、通常の生活をしている人達には、覚悟が必要な出来事であると言う事なのではないだろうか。
平成28年5月19日
礒邉自適