2009/3/9  20:36

『墨』誌評論大賞投稿没原稿  篆刻

『墨』誌評論大賞投稿原稿

 「現代の書」の危機


   

                 篆刻工房 希夷斎  岩浪健一 

はじめに

私がこれから述べることは、「現代の書」を考える上で、こと「書は芸術である」という立場の御仁には到底受け入れることのできぬものではないだろうかと推察する。

しかし、あえて「現代の書」という枠組により、「書は今後どうあるべきなのか」を私の偏見に満ちた持論により考察していきたい。

途中で気分を害し、不愉快な思いをする方もおられるかとは思うが、終章まで目を通して頂ければ幸いである。



「現代の書」という幻想

「現代の書」とは一体何だろう?一番大まかに言えば「現今行われている多くの書活動そのもの」であろう。もともと机上のものであった書を、某大規模公募展などでは壁面芸術として、漢字や仮名の大型作品を展示するのもまた「現代の書」といっても過言ではないだろう。

しかしその中で、いわゆる「現代書」として衆知されるカテゴリーに細分する事が出来るものがある。例えば、非文字性表現にて造形美を究めていく「前衛書」といわれるグループであったり、現代の大衆にはなかなか不理解な古文、漢文を題材としない、現代文を以って表現する、「詩文書」といわれるグループ。また、可読性を重視し、漢字と仮名を違和感なく表現する「調和体」。さらに、昨今テレビなどでも活躍する作家が増えた、巨大な筆でもって大書し、アートパフォーマンスとして表現していこうとする「書道パフォーマー」のグループもあろうか。これらのグループが「現代書」の中のかなりのパーセンテージを占めていることに異論はないと思われる。

さて、それら現代書というものが常に求められている「ある衆意」に、私は長年にわたり疑問符を取り去る事ができないでいる。
それは「個性」や「新しさ」という、「芸術」に係わるものが金科玉条のごとく大切にしている理念ともいうべきものである。

私事で恐縮だが、小学校一年生から書に携り、かれこれ三十余年が経とうとしている私自身も、書道科学生時代から「書」は「芸術」であり、常に新しくあり続けなければならず、そこには独創的な己の「個性」が宿ってなければならぬという、ある種の強迫観念を自らに刷り込むことに余念がなかった。時々刻々と世間が西洋化していく中で、もともと東洋芸術である書が、戦後昭和の時代に辿った道筋は、輸入された西洋芸術の理念との狭間で、片一方で古典を糧として摂取しながら、また一方で、作家個人の個性や独創性の有無を試され、右往左往しながら歩んできた。
現代書とは一体何だろう。芸術とは一体何だろう。個性とは一体何だろう。今だに答えが出ないからこそ「現代の書」などというお題目も頂戴できるのかもしれない。

私は「現代の書」というものは実は未来の書のあり方を模索するための礎であり、またそれとは矛盾して幻想でもあるのではないかと思っている。戦後西洋芸術の理念に触発された書家たちは、それこそ「書の可能性」を拡大しようと模索した。上田桑鳩の『愛』や比田井南谷の『雷のバリエーション』など後世に残る問題作も書に係わる者なら知らぬものはないだろう。井上有一にしても然りだ。
しかし。現行の前衛書なり近代詩文書も昨今は形骸化し、新しさはおろか、大規模公募展などは、さながら連合社中展の様相を呈し、師匠系列の類似品ばかりが所狭しと犇めく没個性的な空間になっている。またアートパフォーマンスとしての大書も、豊道春海の昔から行われており、実は何らの新しさもないのである。

では現代書とは一体なんなのであろう?余計に判らなくなってくるではないか。



「個性」というまやかし


現代書には、まさしく「今現在の書」という意味と、明治大正の書とは明らかに質を異にする多くの道を分岐させた戦後昭和からの書に分けられることと思うが、本稿ではまさしく今「現在の書」また「未来において書はどうあるべきか」を述べていきたい。

 
前章では現代の書には、常に求められている「ある衆意」があると書いた。それは「個性」や「新しさ」や「自由」という、「芸術」に係わるものが金科玉条のごとく大切にしている理念ともいうべきものだ。これは戦後民主主義の公教育の中、個性を尊重する教育がもてはやされたおかげで、「芸術=個や個性の表現」であるという西洋伝来の概念がいつの間にか大義となり、一人歩きしている状況のような気がしてならない。

いったい「個性」とはなんなのであろう。「自由」な表現とはどんなものであろう。芸術は常に「新しく」あるべきというのは本当なのだろうか?昨今巷に溢れ、またメディアに頻繁に顔を出すような似非?とも感じとれる「自称書道家の芸術作品?」を目の当たりにするにつけて、いったい我々が当然のことのように思わされてきた芸術の条件とは何だったのか。それらを今ひとたび問い直すことで、「現在の書」あるいは「書の未来のあるべき姿」が薄らと見えてくるのではないか、と私は考えるのである。

「個性」とはその人や物の特有の性質のことである。性質というのは人に限っていえば、考え方や振る舞いを言うものではなく、顔や体の違いというような生まれつきのもの、つまり個性とは遺伝的な他者との相違であり個体差というべきものである。考え方や振る舞いなどの、われわれが一般に認識しているいわゆる性質というものは、実は後天的に生活環境により重み付けされた刷り込みの一部であろう。これら性質というものはDNAの遺伝情報により決定されるため、医学的には別としても、人為では到底自由に出来るものではない。昨今、『バカの壁』で著名な養老猛司氏も、「個性とは心に宿るものではない。身体にやどるもの。」と脳科学的見地から言及されている。
 よく「彼は個性的な人だ」などと、あまり常識に拘らない人を指していう時があるが、「個性」とは「個体差」であるとするならば、全ての人間が「個性的」「個性派」なのであって、常人と比較してエキセントリックな人間を指し示す表現とすると、どうやら可笑しなことになってくるようだ。

 さて、では書作品に「個性」を乗せるというのはどういうことなのか?

 昨今は「書作において個性が反映されていなければ価値がない」、といわれているかのような脅迫的な思い込みや擦り込みが蔓延しているような気さえする。「臨書はするべきだが、臨書のための臨書になってはならない」だの「ただ綺麗に書くだけが書ではない。」など、書に携る御仁であれば耳にするのは一度や二度の事ではないだろう。

 しかし、屁理屈のように聞こえるかもしれないが、「個性」というものが、顔や身体の個体差であるならば、たとえば顔の違いや、背の高さの違いを、書に反映させることが可能だろうか?出来るはずもない。実は「個性」などはじめから書作品に人為的に反映させることなど不可能なことなのだ。

 ではあまた残る書の古典達はなぜ、個性的に見えてしまうのだろうか。

 それは、作者の筆の運動の軌跡の癖が見えるからである。つまり癖字といわれるものだからだ。癖字というとネガティブなイメージを抱く方が殆どであろうが、癖字にも良い物もあれば悪いものもある。人は「なくて七癖」などというが、癖自体が悪いのではない。癖字であってもそれが美しくあれば問題はないのだ。悠久の歴史の審査を潜り抜け、淘汰されずに残ってきた古典は皆、美しい癖字達であり、そこには普遍美とも言うべき美の本質が宿り、尚かつほのかな人間味である筆捌きの癖が相乗効果をなし、歴代に名声を轟かせる古典となり得えてきたのだ。癖というのは、決して作為的に書に乗せられるものではない。あくまで出てしまうもの。例えば九成宮醴泉銘を寸分違わず精密に臨書したとしよう。書に明るくないいわゆる素人が臨書すれば、そこには癖というよりも、むしろ筆使いの粗さや未熟さ、細部にまで行き届かぬ神経だけが露見する事となる。しかし毎日毎日稽古しているうちに、筆使いも安定し次第にそっくりに書けるようになってくる。もう寸分違わぬように書けると思うほどになった時でも、やはり最後の最後で、同じにならない。それこそがその個人の筆を操る運動神経の癖、九成宮醴泉銘に宿る普遍美を身に付けて尚かつ、奥ゆかしくにじみ出てくる癖、それこそが「個性」なのだ。

 個性とは決して無理矢理ひねり出したり捏造したりするものではない。ほんのりと薫ってくる癖、非常に微妙な世界のことであり、そこにはまた「品」というものも宿るのである。書において、個性を表出させるための最良の方法。それはただただ善い古典に向かい、ひたすら没個性的に稽古を繰り返すことによってしか道はないのである。

「臨書のための臨書になってはいけない」「臨書に捕らわれてはならぬ」などの言は、書というものの本質を根本から理解していない輩の戯言であり、個性を捩じり出すために臨書を利用するなど、その程度の小賢しい根性で古典に臨むという事がどれ程、書を愚弄しているかを知るべきである。

 さて次に「自由に表現する」ということについてだ。「表現の自由」などというが基本的人権のうちに入るが、これは表現することを束縛されないということで、「書」においてももちろん表現の自由は保障されているはずだ。戦時統制下でもない限り言論をはじめ書作品を作ることに不自由であろうはずがない。「自由」に表現するというのは、昨今どうやら筆法や書法の制約に拘らずに自由気ままに表現すること、いい換えれば「型」にはまらない、体裁よくいうならば「型破り」というような受け止められ方をされているようだ。

「守破離」という言葉があるが、型より入り、型を守り、その型を破り、そして型から離れるといった意味だが、現今の型破りというのはこの「守」の部分が抜けてしまっているように感じる。まともな書の稽古もせずに「型」を守ることを怠り、型を身に付けていないから「破」ることすら出来ない。やっていることは「型」を破っているのではなく無視しているだけ。「離」は別れを告げるということであり、型を無視した者には当然のごとく「型」への惜別もないのである。「自由」な表現というものは型を無視したデタラメを書き殴るというのではなく、ひたすら没個性的に型を身に付けんと習い、守破離をもってすれば、そこには「自由自在」に表現できる境地が出来上がってくるのだ。「自由」とは「自由自在」でなければならないのである。

 さて、最後に「新しい」という価値観だが、新らしいということは「それまでにない」ということだ。常に古との比較により成り立つ概念である。温故知新という言葉は古いものを尋ね、その中に新しいものを見出すというような使われ方が支配できだが、新しいものを創造するには古いもの全てを知り尽くして初めて、己が行いや、己が作品が新しいものだと認識する事が出来る。つまり新しいものを創造したければ、膨大な過去を洗い出し、類似するものがないことを熟知して初めて新しいものと判断する事が出来るのだ。途方もない時間を過去に費やし続ければ、いつか新しい己だけの世界がわずかながら出来るかもしれない。しかし、そんなことよりも多くの古典に触れたことのほうが遥かに自分の力になっていた、と気づくのにそう時間はかからないのではないだろうか。過去の遺産に首を垂れずに井の中の蛙のごとくに新しがっている恥ずかしい輩も昨今メディアに登場しているようだが、あまたある偉大な過去に触れもみで、寂しからずや道を説く君といったところか。

 ここまで「個性」「自由」「新らしさ」について言及してきたが、非常に保守的な論に陥っている感もあるが、私自身はこれを「書」だけの問題ではなく、芸術全般、あるいはその他の事柄においても、ことの本質を貫く真理であると捉えている。



感動した、癒されたという社会病理


 もう数年前の事になろうか、大相撲千秋楽で怪我で足を引きずりながら、優勝した貴乃花関に「感動したーっ!」と叫ぶように巨大なトロフィーを渡した小泉純一郎元首相の姿は記憶に新しいであろう。また毎年夏の終りに放映される24時間テレビなどは、これでもかというほど感涙に咽ぶようなドラマを作り上げ「感動」の大盤振る舞いをやってのけている。少し退いてみるとなにやら作為的な世界が垣間見えてしまい、薄ら寒い気持ちになってくるのは私だけであろうか。私が幼少の頃にこれだけ感動というアイテムが氾濫していただろうかと考えると、定かではないにしろ、現今の異常なほどの「感動ブーム」の加熱振りにはいささか閉口してしまう。

 また、「癒し」というアイテムも、「感動」同様によく耳にする言葉である。「癒」という文字の字源は本来、傷口にたまった膿血を切開して、のう盆のような器に流し出し快癒させるという、一見グロテスクなほど能動的な字義である。あるいは病が癒えるという意味でもある。現今の「癒し」のように「癒された」とか「癒して欲しい」などの受動的な意味を持つ文字ではない。何時の頃からか、「癒し」という造語が氾濫してパソコンでも「いやす」と入れれば「癒す」で変換できるが、本来は「いえる」と訓ずるべき文字である。この「癒し」には「傷ついた心が癒されました」とか「激務に疲労困憊した精神状態が癒されました」のようにダメージを受けた精神に何らのかたちで潤いを与え、立ち直らせてくれる、というイメージが支配的になってきているような気がする。そして、巷には「癒し」にかこつけた、いわゆる癒しグッズが所狭しと溢れ返り、猫も杓子も「癒し」「癒され」で大騒ぎである。

 さて、この「感動」「癒し」はご多分に漏れず「書」の世界にも導入され、「つまづいたっていいじゃないかにんげんだもの」でもおなじみのように、そのような分野の書で癒し癒されしている人々が多く存在するのもまた事実である。現代でいち早くこの「癒し」を取り入れて大衆を感動の渦に巻き込んだのは言わずと知れた相田みつを氏であり、美術館も建つほどの大盛況振りで、学校の校長室や地方旅館の廊下やラーメン屋など、そこかしこにカレンダーや印刷物がかけられて人々を癒し続けている。仏道修行をした経験による氏の言葉に嘘はなく、その言霊に癒されたという人が多くいても不思議はないが、こと書に限って言えば、癒し言葉をより強くするために、いわゆるヘタウマ的技法を巧みなまでに用い、鑑賞者に媚びるあざとさがどうしても見え隠れするので私自身はあまり好まない。しかし、この「癒しの書」に目をつけ更にその亜流を垂れ流す自称書道家すら出てきている。

 このように、「感動」や「癒し」というキーワードを使い、メディアをはじめとして巧みに消費者を巻き込んだかたちで、新たな産業が生み出されてきている。まさに一億総感動時代、癒し時代である。現代社会の閉塞感からか、人々は恒常的に感動したがり、癒されたがり、水戸黄門の印籠を待っているがごとく、いつも心が「感動」待機状態になっているような気さえする。携帯電話の爆発的な普及からか、生のコミュニケーション不足に拍車がかかり、勢い語彙も少なくなる。人々は口を開けば「感動するぅ〜」などバカの一つ覚えのように言い、常に誰かによって不安定な心を癒されたがっているようだ。これはもう「感動したい症候群」「癒されたい症候群」という名の社会病理として認識してもよいのではないかとさえ思う。人々は老いも若きも「感動」や「癒し」に対して常に飢餓状態であり、ちょっとしたことにもすぐ感動できるほど敏感になっているようだ。もっと穿った見方をすれば、ちょっとしたことに感動できる自分はなんて素敵なんだろう、と自己陶酔でもしているかのようだ。
 人は歳を経るごとに感動することも少なくなる。それは老化により感情や感覚が鈍麻しているととる向きもあるだろうが、決してそうではない。歳とともに上がっていく経験値が感動を抑制しているのだ。人は最初に感動した事象について二度目の感動は当然薄れる。この繰り返しにより経年による感動の希薄状態が起こるのである。したがって些細なことに劇的に感動してしまうということは、感受性が豊かであるのではなく、むしろその逆で、経験値が低く、感受性が鈍い状態にあると考えられるのだ。こういった感受性の鈍い人々を取り込み、そこに新たなマーケットを展開して感動産業や癒し産業が日夜繰り広げられている。あまたある新興宗教などもその一つであろう。
 電子的なコミュニケーションばかりが横行し、それにつられて生の人とのふれあいが減る中、液晶画面の文字ばかりを追い、日夜親指ばかりで文字を叩き出す作業の連続は、どう考えても尋常な世の日常とは思えない。感受性が鈍くなっても全く不思議ではない。自分の足元を見ずに、己が主人公である筈の感動まで人任せ、メディア任せ。自分の思考の基準をメディアに置き、テレビで流れた事が唯一の真実と思い込んだその先に、某「世界的天才書道家」が大きな手を広げて待っていたのである。


メディアの功罪


 私が某「世界的天才書道家」を始めて知ったのは某国営放送の教育番組であり、著名人が母校である小学校に赴き、児童生徒に授業をするという主旨の番組であった。氏は子供達に筆と墨と半紙とで好きなように自分の個性を活かしきって作品を書けという。子供達はどんぐりの帽子に墨を入れブランコに乗りそれを垂らしながら文字を書いたり、思い思いの方法で作品を作る。次に「楽」いう字を楽しそうに書けと出題され、また、様々に面白い作品を作る。中には文字を踊る人に見立てて絵文字を書く子供達もいた。しかし氏は「絵文字に逃げるな!書線で勝負しろ!」などといきなりいいはじめ、子どもたちは「今までのはなんだったの?」とあっけにとられている。そして最後に君達は遊びすぎだとばかりに体育館で正座黙想させて再び「楽」という字を書かせて、出てきたのはどれも皆、四角い紙面に四角く配置したただけの、それはそれは見事に没個性的な文字ばかりだった。
 私は視ていて失笑してしまったが、当のご本人はしたり顔で「書」を説いていた。これからの書の文化を少なからず担ってもらわなくてはならぬ子どもたちに、なんと愚かな教育を施してくれたのだろうかと憤りを禁じえなかった。そしてこれを何の問題もなく公の電波に乗せてしまうメディアの神経を疑ったのだ。

さて、これは何も現代に限った事ではないようだ。ここに同じような例として、40年近く前に発行された、当時、東京学芸大学教授であつた田邊萬平氏の『書について』という著書の「個性について」という論考から抜粋させていただく。以下原文。



「或る高校の書道の授業を参観した時のことである。教師は何を考へたか、「今日は大いに個性を生かして、自分の思ふやうに書きなさい」と言った。
すると男生徒は得意になって、わざとひっくりかへるやうな字を紙いっぱいに書いて、互いに大笑ひしてゐた。女生徒はそれを見て何を書いてよいかわからず、困った困ったと言ってゐた。教師はそれを見ながらさっぱりわからなくなったと言った。笑い話にもならぬ教育惨事である。
 藝術で個性を貴ぶのは当然である。個性を否定する藝術などあり得ない。書も藝術である以上個性をいかさねばならぬ。ところが何が個性かといふと、人によってその理解がまちまちである。高等学校の指導要領でも、個性を活かすといふことは示してあるが、何が個性かについては一言も触れていない。
 手本を臨書するのに、そっくりそのまま書けといふ。ところが少しずれる。そのずれた部分に対して、或るときは朱で直し、或るときは個性だといって褒める。もしずれが個性だとしたら、下手な人ほど個性が強く、知能の低い者ほど個性に恵まれてゐることになる。果たしてさうだらうか。個性とはそんな薄弱な人間に与するものだらうか。そんな無気力なものではないはずだ。
 また、個性とは風船玉みたいに、ちょっとした思ひつきで、膨らましたり萎ましたりできるものだらうか。手品みたいに出したり引っこめたりできるものだらうか。いったい個性とは何なのか。私は思ふ。個性とは創造の主体である。言ひかへれば創造力そのものである。想像力の働く方向に二つあり、一つは受け入れる力、もう一つは打ち出す力、即ち受容力と発現力である。創造はこの二つの力、実は一つの力の二方向によって行はれる。一般には発現力のみを創造力と思ひ、受容力も創造力であることは見遁してゐる。すべて受容して後に発現し、発現するために受容する。書の場合、臨書して他人の手法を学ぶのは受容である。鑑賞して他人の心情と造形に共感するのも受容である。
 受容は食ひ求めることであるが、何を食ひもとめるかはそのひとによって皆ちがふ。同じ法帖を同じ指導者に就いて研究してゐても、おのおの食ひもとめるものはちがふのである。Aは己の軽薄を矯めようとして、沈着を求めてゐるのに、Bは己の鈍重を矯めようとして、筆勢を求めようとしてゐる。同一の法帖が相異なる目的のために使用されてゐると言ふことは、AとBの受容の態勢が異なるからである。そこに個性がある。それが創造の一つの方向である。言ひかへるならば、まず何を求めてゐるかといふことが個性の創造作業である。求めておのれの身につける、それも個性の創造作業である。
この受容の創造作業を充分に為し遂げなければ発現作業即ち個性の表現活動ができないといふわけではない。受容が乏しければ乏しいままに発現はできる。だから小学校の一年生でも書の個性的表現は出来るのである。何にも受容してゐなくては表現できぬけれども、何か受容していれば、必ず或る個性的な表現はできる。なぜならば受容の方向や態度に個性があるからだ。
 つぎに表現における個性であるが、それはむしろ無心、無意識の下に活動する。己の身についたものが意識の下で活動することはかへって困難である。意識は己の身から離れやすいものだ。無心、無意識の下に個性は創造の作業を遂げる。したがって個性を活かさうとする作業からは個性は去り、ただ全力を打ち込んで字を書く無心の中に個性は遺憾なく正体を現す。いのちを打ち込んで作業するといふこと自体が自然の意志であり、自然の意志が創造であり、それが個性だからである。精一杯いのちを打ち込めば無心、無意識になる。書にいのちを打ち込めば、己と書と一つになるからだ。一つになるといふことは己が無心になることである。己と書が対立して、己のはからいでいろいろに書けるといふ間は、ああ書かうかかう書かうかと考へられる。個性を活かさうか殺さうかと考へられる。考へられる間は、観念の遊戯である。観念の遊戯は個性の創造ではない。個性は遊戯をゆるさない。真剣に創造の一本槍である。
 書かれた作品が、いかに創造を為し遂げてゐるかどうかかといふことは、作品の個々について見なければわからぬ。臨書のずれなどは少しも個性を説明してはゐない。また個性を活かさうとしたり、出さうとしたりする遊戯は個性とは無関係である。個性とは創造力そのものである。



 要するに、個性というものは創造力そのものであり、創造力というのは入力、出力の両方にベクトルが向いていなければならない。入力もしていないものが何の出力が出来ようか。個性個性と言う前に入力する力をつけ、悪戯に表現主義ばかりを標榜することなく、絶え間ない研鑽を積めば無意識のうちに自ずと個性は表出されているものだ、ということだろう。
 よく考えなくとも、こんなことは当たり前の事である。にもかかわらず、金銭至上主義のみが横行し、やらせ番組などが露見する倫理観を失ったメディアの中には、これとは明らかに逆行する態度の某「世界的天才書道家」を起用し、氏がパーソナリティーを勤める番組まで制作する局まで出てきた。しかも癒しや感動など耳に心地好い言葉ばかりを単純に寄せ集めただけで、天才書道家などと言いつのりつつ、感受性の鈍くなった人々に巧言令色を弄し、教祖を気取りながら書まで愚弄する様を見ると、これは犯罪に等しいとさえ思う。また子ども番組にも登場し、『かっこいいで書』などというコーナーで、およそ、子どもたちが身につけるに相応しくない劣悪な字を、惜しげもなく披露しているのは許すまじ暴力である。

 さて、メディアを含めたこうした状況の中、我々「書」を愛するものは、「現代の書」をこれからどのように考えていけばよいのだろうか。



「現代の書」を美しく未来に繋げる方策


 ここまで、「個性」「自由」「新しさ」「感動」など書が藝術であるための必須条件のように思われてきた概念の矛盾について述べてきた。我々はなぜかこれらを金科玉条にして「書」をそこにすり合わせてきたような気がする。その結果、メディアをはじめとした大衆の中に降りていった「書」が、加速度的に頽廃を極めていく姿が浮き彫りとなり、一抹どころか絶望的な不安感を抱くに至っている。今一度、これらの事柄を見つめ直してみてはどうだろうか。

たとえば、

○「書」において、師弟関係にある場合師匠を超える必要が果たしてあるのか?

○古典を臨書しそのエキスをもらいうけ、そこから脱却する必要が本当にあるのか?

また脱却とはなにか?

○創作のための臨書にならず、臨書のための臨書をしてしまうことが果たして本当にいけないか?

○また臨書している時に、果たして創作のためなどと本当に考えて書いているか?

○書を藝術とするなら、常に新しくある必要が果たしてあるのか?

○書家であるならば、つねにオリジナルであり、前人未到の世界を創造しなければならない必要性は本当にあるのか?

○師匠の真似ばかりして何になる。古典を忠実に再現するだけで何になる。オリジナリティがなくて何が書か。というもっともらしいメッセージは本当なのか?

というようなことをだ。


 こんな事は私も学生時代から既に大前提にして現在に至るまで信じてきた。
しかし昨今の書の世界を見渡すと、一般大衆が読めないものを書いて何になると、可読性ばかりを強調した幼稚な作品や、前述した癒されたい症候群とも思える社会病理にあざとく寄り添った調子の低いもの、古典に縛られるな!と似非自由を謳歌したがる表現至上主義による稚劣な作品群が、メディアの力によって跋扈している。
 こういう作品群に総じて共通する部分はなにか。それは「美しくない」ということだ。「美醜」というものは人それぞれの感覚によってまちまちであり一概に決定付けられないという向きもあろう。しかし、実はそうではない。悠久の歴史を掻い潜って来た古典は、必ず古典美といわれる「普遍美」を内在させている。初見で古典美が理解できなくとも、その古典自体に滅私奉公し、ひたすら繰り返し寄り添えば、必ずやその普遍美の恩恵を誰もがいただけるのだ。たとえ師匠に縛られたとしても、古典は人を縛ったりはしない。縛られていると言ったり思ったりするのは常に無責任な他人であり、本人は古典に魅了されているだけであったりする。
 無軌道に表現主義に走り、汚れた、下劣で低俗なものを公害のごとく世の中に垂れ流すより、むしろたとえ何かに縛られたとしても「美しいもの」を残すべきではないのか。そもそも書は一代で一家を成すことが果たして必要か?学校教育でさえ、ありのままの個性を全認し、誰もが藝術家に成れるかのごとく根拠のない全能感を植え付けたり、「子供は天才だ」などと称し、なんでもかんでもデタラメを褒めちぎり、その気にさせるようなスクールまで開いて、子供の生まれもった個性の種を開花させてやるのだと高額の料金をとってビジネスする輩も多い。いわゆるオンリーワン思考である。皆がみんな書家になる必要などない。日本で百年に一人逸材が出るか出ないかで充分である。杉や檜を育てるように、お爺さんが苗を植えて、息子、孫の世代で材になる如く、微細な変化のすえに良いものが脈々と続いてゆく。そんな遅々とした変化のもとに美しいものが花開いて行く…そのぐらいの大きなスタンスでよいのではなかろうか?なにも、師匠を超えよ、古典を脱却せよなどと声高に言わなくても、DNAが違えば同じことなど絶対に出来るはずがない。ならば何十年か後の新しい息吹をもった「未来の書」に、ほんの少しアシストできるくらいの役割を我々の「現代の書」が担えればよいのではないだろうか。
 創造力がないにもかかわらず無闇に新しそうなものを捏造しようと無理矢理ひねり出し、醜悪極まりないものを世に晒すのなら、時代を経てきた美しいものにひたすら身体を摺り寄せ共鳴すべく、新しくなくても少しでも清く正しく美しいものを残す事の方がどれほど素晴らしいことか。それが「書」に親しむという事ではないのか。

 よく「綺麗なだけのつまらない書」などという批評を見るにつけ、綺麗ですらないものの多さに辟易する。



おわりに



 人は共感することで繋がって行く。吉田兼好法師も「同じ心ならむ人」といっている。「書」において師匠というものを通すも通さずも、常に古典に向い、己が個性などどこかに捨て置き、ひたすら没個性的にその普遍美に身を摺り寄せることにより、古典と共鳴できるようになるのだ。そしてその後、無意識下に微細だが個性と思しきわずかな薫香が心地好く響き渡る。個性など大げさに取沙汰するようなものでなく、まずは普遍美に共鳴し己を磨くことが何より大切なのだ。「個性の表現」などは雑念と思うべきである。「書」とはそういうものだ。

いわゆるアート思考の御仁には、こういう後退的な考え方は全く理解されないだろうが、敢えて言わせていただいた。乞い願わくば忌憚なきご意見を頂戴したい。

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