2011/12/31  18:49

大晦日  篆刻

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今年は本当にいろいろなことがありました。大きな出来事の殆どが良くないことばかりでした。

そんな中でしたが、本年も皆々様にはご愛顧頂き心より感謝申し上げます。

来年も何卒よしなにお願い申し上げます。

皆様のご多幸を心よりお祈り申し上げます。

希夷斎主人
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2011/12/25  11:56

辰の想い出  篆刻

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 来年は辰年。辰と言えばあれからもう二周りにもなるのかと思うと、歳もとる訳だな…と暗澹たる焦燥感が漂うのですが、同時に、まぁ良く今日までハンコなんぞ彫って暮らしてきたものだな…と些かの希望にも似た達成感もあったりしますが。。。。

 そう、あれは忘れもしない、1988年、昭和63年の2月14日の聖バレンタインデーの日曜日の午後1時5分。

 東京のとある大学書道科の当時専攻科にいたI駒氏にお世話頂き、言われるままに永田町にある、今は亡きある偉大な篆刻家のアトリエマンションのインターフォンのベルを、震える指で押し、そのチャイムの音を確かめていたのでした。

 中からお返事を頂くまで、おそらくはほんの数秒間だったと思いますが、そのなんと長かったことか・・・
 固唾を呑みながら震える足を一歩前に出した瞬間ドアが開き、20pほど開けられたドアの中から見えた顔は、その篆刻家先生でもお弟子さんでもなく、当時の榮寶斎の若旦那でした。

 名前を告げ取り次いで頂き、中から先生らしきお声で、「あぁ、はいはい、こっちへいらっしゃい」との声に促され、丁寧に靴を脱ぎ深々と一礼しながら、これまでの経緯に対するお礼に菓子折りを添え再び一礼した後に顔を上げると、あの本物の小林斗盦先生の艶の良いご尊顔が私の目前に燦然と輝いていたのでした。
 私はさらに緊張し、背筋の窪みに大粒の汗の滴り落ちる感触が嫌というほど幾度となく伝わるのでした。

 その日はお弟子さんの稽古日だったらしく、丁度その時、故加部寸撫氏が稽古をつけてもらっているところで、私はそんなやり取りを茫然自失の眼で眺めつつ、榮寶斎さんが持ち寄った、脂ぎった鄭板橋の竹図と、真黄色にしか映らなかった鮮烈な羅聘の虎図に目をやりつつ、稽古の時間が終わるのを、膝の上に置いた掌が汗でびっしょりになるのをズボンで拭いながら待ったのでありました。

 稽古も終盤に差し掛かったころ、お弟子さんであろう一人の若者に「○○君、今度私中国行くときにコレお土産に持って行くんですけど、粗彫りしといてください。」と巴林凍石らしき美材の紐の付いた4分程の二顆印をひょいと渡し、その青年は小さな声でハイと一言言って受け取り暫くその印材を掌中で暖めていました。今思うにその青年はかの日展特選作家綿引滔天氏ではなかったかと…

 その後今一人、お弟子さんらしきうら若き女性がバレンタインデーのチョコレートと一緒に、当時一斉を風靡した伊丹十三監督の『マルサの女U』のロードショーチケット二枚を弾むような声で、「先生!はいっ!コレ!」と二枚手渡していたのを昨日のことのように鮮明に覚えています。

 さてそもそも、私が小林先生に御目文字頂いた経緯は、今考えればご無礼至極笑止千万、思い起こせば冷汗一斗ですが、学生時分の若気の至り、不躾にも自刻印数十顆を捺した印譜を作り、批評してほしいとの手紙を添え郵送してしまったという、まぁなんとも無茶で恥知らずな行為からのことなのでした。

 そんなずうずうしいにも程がある学生に、「一度私のところに遊びにいらつしゃい」と丁寧な地図までお書き添えいただき、玉信を頂いてしまったわけなのです。
 私は天にも昇るような喜びと同時に、とてつもない大きな怪物に出会うような恐ろしさを同時に覚え、隙間風の通るような厳寒の木造アパートの夜を、当日までの数日間寝汗をかきながら魘されるのでした。

 「さて…岩浪君でしたっけ。ここにまずお名前書いて…」と芳名録につたない字を這わせ終わるか終わらないうちに、オレンジ色の鳥の子の表紙で作った私の印譜をぺらぺらとめくりつつ、見る見るうちに曇る顔色と、目の奥から発せられる鋭い視線に背筋の凍るような思いをしたのでした。そして次の瞬間小林先生から吐き捨てられるように発せられた言葉は…

「こんな印譜なんか作ってお遊びしてなくていいですから、もっと篆書を書きなさい。篆刻は書が先行してなくちゃ駄目なんです。こんなもの作って遊んでる暇があるならその分篆書を書き込みなさい。コレ差し上げますから全臨して来週また持って来なさい…」

 顔から火が出るような恥ずかしさの中で手渡された、書学院発刊の呉譲之「宋武帝勅」の法帖。

一週間でどれほど全臨したでしょうか。二十回以上は全臨したと思います。その中で一番良いものを選りすぐり、また叱責されぬよう糸綴じなどはせずにそのまま持っていこうと準備万端整えておりました。我ながらこの一週間で大分上手くなったなと思いつつ…

 しかし、私が小林先生に御目文字できたのは後にも先にも、この昭和63年の2月14日その一日だけ。そう、私はあの永田町のアトリエを再び訪れることができなかったのです。
 小林先生のあの得体の知れない大きなオーラに怯え、総てを見透かされるような鋭い眼光に恐れをなして怖くなり、当日になって自宅玄関から足を一歩踏み出すことが、全くできなくなってしまったのです。

 今、思うととてももったいないことをしたなとも思いますが、同時にこれでよかったのかもしれないとも思っています。
 ただ、自信をもって確実にいえることは、この経験があって今の私がある。あの後再び小林先生に会いに行けなかったからこそ、今日までこうして篆刻を生業として生きている。それはせっかく「また見てやるから来い」と仰ってくれた小林先生への罪滅ぼしでもあったりするのです。
 「あの時、怖くていけませんでした。でも今でも篆刻だけで生きてます。あくまで書を先行させた篆刻をして、今でも先生を心の師と仰いで生きています。」と…

まぁどこの馬の骨かもわからんような私になんぞ、心の師だなどと言われてもねぇ…あの世から

            「迷惑ですよ…」

と聞こえてきますが…

辰年は昭和から平成への前の歳。あの時が辰年だったという記憶が呼び起こす、青春のほろ苦い想い出と言うんでしょうかねぇ、こういうの…









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2011/12/13  23:38

干支印習作  篆刻

ここのところ干支印を数多く彫りましたが、干支となると字面的に単純なものが多く、なかなか個性的なバリエーションでもって表現できません。しかし逆に考えれば単純なものからどうやって個性的なものをひねり出すか、そういう練習材料にはもってこいです。
今回は、技術修練も兼ねて小印、極小印でどれだけ出来るか、また、金文甲骨文で「辰」字は比較的面白みのある文字構造ですが、小篆となるとあまり喜ばしい字面ともいえませんので、小篆でもどれだけ見られるものが作れるか。習作としてみました。
本年中に一顆でも雅印のご注文頂いた方には、下の印を一つプレゼントさせていただきます。お選びいただくこともできます。

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2.0×0.5 壬の初画に呼応させて辰を傾けて、枠のゆがみや太細によってバランスをとってみる。

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1.0×0.5 白文にて極小スペースの中でどれだけ張りのあるのびのびした線が切れるかやってみる

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0.9×0.9 小篆にて極細線でどれだけゆるぎない厳しい線が切れるかやってみる。

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0.9×0.9 金文細線にて限られた方寸中、どれだけ多様な方向性を持った線が切れるかやってみる。

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0.6×0.6 蠅頭印でどれだけ存在感のあるものができるかやってみる。何かゲームのキャラクターのようになってしまったw

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0.9×0.4小篆にて、狭い幅で、どれだけ強い精緻な線が切れるかやってみる。
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