2015/2/14  22:58

「会」(かい)  篆刻



高校時代、弓道部に所属していた私は、関東大会出場という晴舞台を目前にして、ある不治の病に冒されレギュラー降板という不運に見舞われた。
病名は「早気」(はやけ)という。

「早気」とは弓道特有の重篤な精神疾患で、弓に矢をつがえ、引き分けてくるうちに、つがえた矢先が狙った的に重なった瞬間に自動的に右手が弦を離し矢を発射させてしまう病気だ。

弓道に触れたことのない方は、それがどうして病とされるのか怪訝に思うだろう。狙いが定まった瞬間に矢を放てば、狂いなく当たるだろう?と。
そう。当たるのだ、最初は…

弓道は現在、基本的には洋弓(アーチェリー)のように、何本的中させたかという競技、スポーツとして行われている。
しかし「道」という名が示すように、もともと「真・善・美」たらん事を目的としたいわば「禅」のようなものである。
さて弓道の「形」には射法八節という物があり、それぞれ、
一、足踏み(あしぶみ)
二、胴造り(どうづくり)
三、弓構え(ゆがまえ)
四、打越し(うちおこし)
五、引分け(ひきわけ)
六、会(かい)
七、離れ(はなれ)
八、残心(ざんしん)
となる。

上に挙げた動画ではこの「打越」しから「残心」まで撮られているが、動画のどの部分が八節がどの部分に当たるのかは詳しく説明しにくいのでここでは割愛する。

この射法八節の中で尤も重要とされる一節が六節目の「会」である。

「会」とは弓と矢を完全に引き分けて矢の側面が唇の横のラインに重なった状態、矢が射られる瞬間までの静止している状態をいう。

この「会」がなぜ大事かといえば、体の根幹である丹田を中心とし、
重力による自己の位置固定に働く力、それに拮抗した身幹が上へと伸び行く力、
そして両の手が左右に弓弦を引き分けて行く力、それらが渾然一体となり、
どれか一つでもバランスを欠き突出することなく、
上下左右縦横無尽にあらゆる力学的作用が拮抗している状態だからで、
一見静寂を保ち微動だにしない静止した状態だが、
途轍もないあらゆる力がバランスを保ち同時進行して、
伸び行き続けている特出すべき状態だからだ。
そして、この「会」の縦横無尽に延び続ける力が臨界点に達した時、
「離れ」という事象が自然に与えられ、同時に全ての力が一瞬にして矢一本に集約され、前方に放たれて逝くのである。
「離れ」とはまさに自然に「離れ」てしまうのであり、
「離す」(放つ)ではないのだ。

さてここまで書けば「早気」がなぜ病なのか、
そしてその原因は何か、想像に難くはないであろう。

「会」はその気が臨界まで満ち、「離れ」が与えられるまで静かに保たなくてはならない。
保つという意思さえなく無心にしてその状態で居るのであり、
矢を放とうとか、ましてや的中させてやろうなどという考えは不粋であり邪念である。
精神的には『心経』の「空」に似て、身体的実存的には『老子』の「無為自然」に近いのではないかと思う。
的に当たることは目的ではなく、真・善・美たらんことに身を委ね、滅私すれば自然に当り、また当たることはオマケなのだ。
ここに的中させたいという欲望、邪念が入ればどうなるか…。
「会」の気の満ちるまでもなく的中ポイントに狙いが入った瞬間に自らの意志で当てようと矢を放ちてしまえば、実は結構な確立で的中させることが出来るのだ。
これを「当て射」と言う。当たるのは最初だけだが。

しかしほどなくそれは砂上の楼閣のように崩れ落ち、真・善・美からは程遠い射品の全くない、形の歪んだ醜い姿を人前に晒す事になるのだ。
そして一度「当たる」という快感と、
狙いに入った瞬間に放つという動作が脳に固定されてしまうと、
それはどんなに自分で治そうと思っても、
自力でも他力でも完治できない重篤な精神疾患となり弓道人生に終焉を齎すのだ。

さて長々と弓道の病について書いたが、
私は当てたいという邪念により続けるうちに「早気」という不治の病に冒された。今は弓を持っていないが、今でもその病を抱えたままだと思う。
要は弓道という求道において、
「会」という無為自然の美しく、佳い、誠の状態を終ぞ体現出来なかったのだ。その悔いは未だに抱えている。
そしてその代償作用として己の篆刻のなかに「会」の状態、無為自然の状態を体現しようとして今まで必死に石を刻み続けてきたのではないのだろうか?と感じたのだ。

私は山岳民族のような生活をして居るため日々、木こりの仕事などもするのだが、木を伐っているとハッとすることが多い。
例えば雑木のような横に太い幹枝を出す木を切るとき、
太い横枝を切れば忽ちバランスを失い、枝を斬ったほうの横根が地面を押し上げ、跳ね上がったりするのだ。
片方に劇的な重みがかかり、均衡を破られるからだ。
それは理屈で考えれば当たり前の話だが、これを現場で経験すると、
私の枝を切るという動作一つが、私自身の身に危険が及ぶほどの途轍もない大きな力がそこに具現化してしまうということに大きな衝撃を受けたのだ。
其処此処に静かに自然に鎮座しているように見える木々は、
この弓道の「会」如くに何十年もかけて万有引力に確実に影響を受けながら、勝負けなくそこに存在してきた。春には花を咲かせ、梅雨に萌葉を潤し、秋風に紅葉を乗せ、木枯らしに静かに眠る、一見静寂そのものの大木は見事に独りそこに在るのである。
しかしそれはあらゆるエネルギーを秘めた途方もない存在なのだ。
我々が観る木々の存在は、キレイな花や葉、風にそよぐ枝や重厚な幹の姿形のほんの一時一片であり、
重力に従いまた逆らい続けてきたその確固たる「存在」は何時も見落として来ているのだ。
その証拠に一本枝を私が截っただけで、私の命をも危うくする刃を現す「存在」であることを悟るのだ。
この世の中全ての物は、それら万物が逃れられない重力に従い続け、
また逆らい続けてきた奇跡の証であり、実は我々人間を含め、地球上の万物はその「存在」自体が、重力(万有引力)の証明なのだ。
林檎が落ちたからではなく、その存在自体が。
そして自然物である万物は過不足なく無為自然な普遍的美であり「会」であり、
普遍美それが存在証明であると…
人はよく、存在理由とか存在意義とか存在証明とかいうが、
木も石も水も動物も人間も全てが莫大なエネルギーを内包させつつ無為自然に無意識にバランスを保ちながら存在している。
そしてその事自体がこの上のない存在であり、意義、理由、証明などは余計な邪念であり、単なるでっち上げなのだ。
『老子』は「学絶てば憂い無し」と言った。
若い頃は随分無茶な衝撃的なことを告白するものだと思った。
それじゃ阿呆で居ろと言うのかと。
しかし今、言葉で以ってでっち上げをすることがいかに愚かしいことかと改めて理解は出来る。
「学ぶに如かず」と論語は言ったが、「大道廃れて仁義あり」、ここからでっち上げが始まったのではないのだろうか?

「無為自然」のごくごく当たり前の「存在」は同時に既に「会」であり、
確実に真・善・美、の普遍美を内包している。
私は、これら大いなる当たり前の「会」を、自分の作品にいかにして内包させられるか。作品それ自体が「会」で居られるか、
それが私が高校時代に終ぞ体現出来なかった「会」の愉しみに、
静かに鎮み込める瞬間なんだろうなと…
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