今日突然安部総理大臣が辞意を表明した。昨日臨時国会が始まったばかりなのになぜ?と思う。こうなるのなら、先の参議院選挙で大敗したときに潔く辞任していたほうがよかったのではないだろうか。なにわともあれこの時期政治の空白はよくない。早く次の総理大臣を決めてほしいものである。
さて、長崎くんちまで一ヶ月をきり、早くもくんちモードになっている管理人であるが、今日は各踊り町の「傘鉾」を紹介したい。
まず、「傘鉾」とは、踊り町の町印となるもので、プラカードみたいなものとおもってよいであろう。長崎くんち初期のころは、簡素なものが多かったそうだが次第に派手なものになっていったそうだ。中には市の有形文化財に指定されているものもある。傘鉾の重量は、130sから150sもあり、これを一人で傘鉾持ちが担ぐわけである。上下の重さのバランスをとるために心棒の最下部には2500から3000枚の一文銭が結わえられている。
では、各町の傘鉾を紹介したい。なお、傘鉾の画像は諏訪神社前の国道の下にある地下道に描かれているものである。
最初に八幡町の傘鉾。長崎にある傘鉾の中で一番高さがあるもので、約4.5mもある。飾物(だし)は八幡神社ゆかりの弓と矢立てで、八幡さまの使いである白鳩が三羽止まる。丸輪はしめ飾りである。垂幕(たれ)は八幡さまの本宮である京都・男山八幡の風景を描いたものに白鳩が羽ばたく様子が描かれている。
次に、万才町の傘鉾。飾物は朱杯と神鈴、御幣である。垂幕は亀甲形の模様に鶴の刺しゅうが施されている。なお、朱杯の萬歳の文字は故・北村西望氏の100歳の時の文字だそうだ。地下道の絵には現在の傘鉾のものはなかったが、失われた以前の傘鉾が描かれていた(下の画像)。
次に、麹屋町の傘鉾。飾物は紅梅である。町名が記されている麹ぶたは文久2年(1862)に造られたものである。垂幕はつづれ織りの三社紋ちらしとなっている。地下道に絵がなかったのでご勘弁いただきたい。(見逃したのかもしれないが)
銀屋町のHPに各踊り町の傘鉾の絵葉書が掲載されているのでこちらを参照いただきたい。
次に、五島町の傘鉾。飾物は菊とススキの中にナツメ形と六角の虫籠を置いたものである。約150年前に作られたものだそうだ。垂幕は日本三景を描いたもので約120年前に作られたという。ミヤコギクを描いた約100年前の垂幕もある。今年は両方の垂幕を前日と後日に替える予定もあるという。

日本三景を描いたもの

ミヤコギクを描いたもの
次は西浜町の傘鉾。文化文政の頃(1804年)に作られたものといわれている。大名が御殿で遊具として使った貝桶に、貝合わせを模ったものを紅葉の下に置いたものである。垂幕は中国姑蘇十八景図と三社紋のものとの二つがあり、前日と後日で替わる。中国姑蘇十八景図の描かれてある垂幕の生地は、当時としては珍しい白ラシャが使われている。黒ラシャの丸輪には、ローマ字で町名が書かれている。残念ながら、地下道に描かれていなかったので、
西浜町のHPに傘鉾の詳細な説明と画像がされているので、参照されたい。
次に興善町の傘鉾。飾物は、白木八ツ脚の台に烏帽子と神楽鈴をおき、紅葉を配したものである。垂幕はすそから緋の隅取り、上に五彩の雲で、三社の紋を金糸で刺しゅうしてある。
最後に銀屋町。文政3年に製作されたといわれている。飾りは、金色の出世鯉が水面より天に昇ろうとするところであり、丸輪はビードロが用いられている。飾りは、銀屋町が尾張藩に銀細工を献上したことから、金の鯱にちなんで鯱を飾りにしたかったそうだが、尾張藩に遠慮して、「出世鯉」と呼んだそうだ。胸鰭は、可動式になっており、傘鉾の動きに合わせて、胸鰭が動くようになっている。垂れには、男波が描かれている。
長崎くんちになくてはならない傘鉾。飾りや垂れによって町の特徴を表し、くんちの町のプラカードとしたことは、昔の長崎人はなんと粋であったことであろう。
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