中森明夫は「おたく」と表記したかも知れないが、わたしがなりたいのはオタクであるような気がする。
岡田斗司夫『オタク学入門』を読んで、自分は単なる「熱烈なファン」に過ぎないことを痛感。本物のオタクになりたい! と思った。
おっもしろ〜い。こりゃぁあと4回くらい読んですっかり頭に入れないといけない。何せ入門書だもんな。ご存知、東大「オタク文化論ゼミ」公認テキスト、である。だが、もともとは太田出版で出た本のはずなのに新潮OH!文庫とはこれいかに?
岡田さんは説明が巧いので、おたく寄りの人間としても、読んでいて気持ちが良い。感じてはいたもののうまく表現できなかったものがずばりと命名される心地よさ。すとん、と胸のつかえが取れるんだよな。
大塚英志は評論家寄りというか、作り手である以前に批評家であるというか、プロデューサー的な冷めた視点で対象を見ているので(本当に評論家なんだから仕方ないか)、読者側としても「なるほど、そういう見方があるのか」という感じで読んでしまうのだけれども、岡田さんの本を読むとアツくなれる。彼は作り手でもあると同時にオタクだからだ。線引きのこちら側、という親近感を感じるのだ。もちろん彼はキングレベルで、わたしは庶民レベルであるわけだが。
話は逸れるが、東浩紀にいたっては、あくまでおたく、あるいはオタク文化に詳しい批評家であって冷徹な観察者の気がする。勉強にはなるなあと思うけれども警戒せずにはいられない嫌な匂いがするのだ。
さて、『オタク学入門』に話を戻すと、10年前の本とはいえ、アニメ・ゲーム・漫画界が激動した50年代末〜80年代のエポックメイキングな出来事が整理されているから入門書としては今でも充分な価値を持つのではないかと思う。宮崎勤事件以降、「おたく」は実際の内容とはレッテルを貼られてしまった。まず、おたくといえば社交性が無い、という風に思われがちだ。おたくのなかにも周囲が見えない人間はいるが、どの世界においても何かに夢中になりすぎて狭量になる人間は存在する。多くのおたくは社交的だ。情報を交換し合うために。文庫版のあとがきにある、
僕たちオタクが常に持っていた「オレは○○が好きなんだよ。どうせ、フツーのヤツラにはわかんねぇだろうけどさ」という、劣等感と優越感の入り交じった気分をもつ、初代オタク世代は急激に減りつつある。ゲーム世代以降の、「『戦国魔神ゴーショーグン』かっこいいっス。サイコーッスよ!」と素直に喜ぶ新生代オタクが、若者たちの中に急増している。
という部分を読んで、「そう、
劣等感と
優越感だよ!」と思った。わたしの中にも、それがある。マイノリティであること、自分の好きなものが一般的には知名度が低かったり子どもが見るものだと思われていること、メインカルチャーではなくサブカルチャーとして低く見られていること、そういったもろもろの劣等感と、「てめえらの中にわたしより詳しいヤツがいるか?分かったような口をきくなよ」という優越感が常にせめぎ合う。わたしだけでなく、「こちら側」の人間には常にその雰囲気があった。それが、いまやなんかちょっと変わった趣味やこだわりを持っている人っぽい軽い意味になっちゃってさー。わたしから見れば相当「フツー」な人でもメイドカフェに来たりしてねえ。これも一種の「浸透と拡散」だわね。
オタクというのは、作品論ではない。何をどう見るか、という視点の問題なのだ。
という切り口はかなり正しいと思う。わたしが一番好きなのは漫画であるが、他の色々なものに手を出すのは、ジャンルクロスして影響(パクリ、パロディ)を見つける楽しみがあるからだもんなあ。

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