福島原発事故で、あれだけの被害を発生させながら、責任を問われるべき人は誰もいない。これは社会システムの問題です。
地震動評価式の無責任、それを判断するはずの規制委員会の無責任、事故を引き起こした場合の無責任、避難誘導の無責任。直接に作業に関係する人たちは、誰も責任を問われない。
異常な状況下での再稼働です。
立地地域で生活をしていますと、原発で生計を立てている人たちとのつながりが密にあります。一人一人を観ると、優秀で、責任感もあり、真面目で、好感を持てる人が多いですね。
その彼らが、原発の技術的な危険、事故への不安、被曝への不安、病気への不安については、外部へは堅く口を閉ざします。
語ると会社から厳しく指摘されることもあるでしょうが、実情を知る立場にあって、その実情が事故を引き起こす重要なファクターであっても、彼らは外部では口を閉ざします。
それは、危険を黙っていても、責任を問われないからです。だから、危険部分を報告しても、会社の上司の判断に従っていれば、個人的に何も問題は生じない、上司も社会的責任を問われない、という「組織従属」の構図なのです。
間違ったことをすれば、責任を問われる。他人に被害を与えることになれば、刑事責任を問われる。日本の社会システムの原則ですが、原発には適用されません。
私は、再稼働することで事故の責任を誰がとるのかを、しっかりと決めておかなければならないと考えています。「責任をとるシステム」こそが、原発の再稼働に求められるべきです。
原子力規制委員会の委員長が、再稼働の審査結果は「安全を保証しない」と言い続けています。これを報道するだけで、大きな問題にしないマスコミの姿勢が問われています。
マンションの耐震偽装が、マスコミで大きく取り上げられ、偽装した責任が問われました。原発ではそうしないのですね。
有権者は、マスコミを選別すべきです。「マスコミ」という「毒まんじゅう」を喰らい続けていることさえ自覚できないのでしょうか。
若い人たちは、脱マスコミで、ITにより情報を得ています。若い人たちは無意識にそうしているのでしょうね。問題も感じますが、共感も持ちます。

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