今日の日中は,野鳥の会の会報を見た。
江戸時代の鳥の絵の小特集なのだが,写真機の普及していない昔は,珍しい動植物については,絵で描写していた。
つまり,アートとしての絵画という部分と記録としての絵画という部分が併存していた。
今は,写真にビデオにと,より精密に記録ができるから,記録としての絵画という部分の重要性はかなり低下している(写真撮影の禁止された国会の委員会や法廷の描画くらいになっている)。
しかし,絵画という作法は,電気的媒体とは異なり,人間の認識を通す。また,その表現は人間が行う。
だから,そこには自ずとその人の認識が作用する。
そういうことに気付かせてくれる小特集だった。
ある人は,静物画的に描写し,ある人は動きをもって描写し,あるいは注記すべき特徴(羽の模様や足のくびれなど)を抜き出して描写するなど。
その表現には,その人のフィルターが通されている。
これって,意外に重要だと思った。
最近は,情報がとにかく情報として伝えられることが増えてきた。
そのほとんどが電気的媒体を通したように無機質なものが多い。
でも,そんなことってありえない。
もちろん,ここで言いたいのは,報道の客観性という問題ではない。
(これは,事実の伝え方が異なりうるという問題で,これも重要なテーマであるが。)
無機質な情報には,情熱が感じられない。
やや詩的な表現かもしれないが,情報を伝える姿勢にその人の姿が見えない。
まあ,見えなくてもいい場合も多いけれど,拙くてもいいからその人のフィルターを通す,このことが表現の一要素ではないだろうか。
例えば,ブログでもニュースの切り貼りだけのブログがある。
こんなニュースあり,あんなニュースあり。
ちょっと,コメント。
って,あまりに傍観すぎやしないか。
対象を把握するためには,踏み込まなくてはいけないと思う。偏見でもいい,とにかく踏み込むことが必要ではないか。
(ここまで述べてくると,批判精神をもって読めといっているのと同じに見えるかもしれない。)
また,そのように踏み込んだ表現は,それを読んだ人間に一定のメッセージを伝えることができる。
あくまで表現主体が主で,情報は2次的なものにすぎない。
なぜなら情報を扱っているのは,ぼくらであって,情報には追体験がない以上,自分の経験以上の実像(実体験)を与えてはくれないからだ。
だから,江戸時代の鳥類描写に惹かれる。例えば鳥の顔について,黒目の部分は,描かれている目より広い場合もあれば狭い場合もあるなどという描写を見ると,ああそんな目にまで画家は目を向けたのだと分かる。
そういう対話,これこそが刺激的だ。

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