国富論もいよいよ
第4巻
。最終巻まで来ました。やはり中身が濃いので時間がかかりますね。
第4巻
は,冒頭「青少年教育のための施設の経費について」と題して,教育について論じています。
アダム・スミスの考えからすると,基本は生徒から受け取る学費によって教職を維持するような制度の方が教師のモチベーションは高いということになります。確かに,予備校の名物教師の授業は,学校の授業のレベルを超えていますからね。
同書では,「ほんとうに出席するに値する講義には,出席を強制する規律など必要ではないし,それはそうした講義が行われているところではどこでも,よく知られているとおりである。」(22頁)となっていますが,確かに予備校の名物教師の場合には,出欠どころか立ち見でも聞きたいという状態になりますよね。
ところで,いわゆる啓蒙思想は,ギリシャ,ローマについての深い洞察に基づくことが多いことが改めて思い知らされました。こうなると,必然的に,ギリシャ,ローマの文献についても読みたい衝動に駆られますね。 ギリシャ,ローマに対する洞察は,現状に対する批判に連なる訳です。 たとえば,哲学の状況についても,スミスは,それが神学の付属物とされてしまい,言い方は悪いですがどうでもいい学問になってしまい,宗教が現世よりも来世の幸福を考えるという傾向を有するため,現世の人間の幸福と完成について,真剣に学問されることがないと批判しています。
また,分業化の進展によって,社会は複雑になり,他方で多くの個人の生活(仕事)は単純になるから,社会の大部分の人たちの教育のために,公共の配慮が必要である,つまり公教育の必要性が説かれています。
「自由な国ぐにでは,政府の安泰は,国民が政府の行動にたいしてくだす好意的な判断に依存するところがきわめて大きいから,それについて彼らが性急に,あるいは気まぐれに判断する気にならないようにすることは,たしかに最高に重要であるにちがいない。」(60頁)との指摘は,現代にも通じますよね。
批判能力のある国民を生み出すということは,一見政権党には不利に見えるのですが,実は安定的な世論を作り出すためには不可欠なのです。そうでなくては,マスコミの論調やメディア操作で,あっちへいったりこっちへいったりと迷走することになりかねません。政権党は,多くの場合,コントロールできる世論を大事にしたいので,批判的な国民の養成を嫌がりますが,これが思わぬ方向に飛んでくると今度はメディア批判をする訳です。
しかし,国としての将来を考えるなら,批判能力のある国民の養成は重要ですし,民主制の根幹でもあるだろうと思います。でも,政治教育って政府としては嫌がるでしょうね。

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