前に,
避けるべきは思考停止と題して,単純な割り切りに注意しようと書いたことがある。最近,教育基本法の改正問題や憲法の改正問題について,一種のイデオロギー的思考を批判することによって,改正を肯定しようとする立論がそこそこあることに気がついた。
これは,前に書いたことの逆バージョンといえるだろう。
どういうことかというと,改正反対論の一部を取り上げて,例えば今時教育基本法を改正したからといって,反対派の想定するような事態にはならないとか,憲法でいえば自衛隊を軍隊に格上げしたからといって戦前の軍国主義のような状態にはならない,という批判を加え,今までの日本はイデオロギーに捕らわれてきたんだ,と高らかに宣言するというパターン。
先に述べた思考停止的な反対論ばかりでは,こういう反撃を受ける可能性があるということは取りあえず置いておいて,この議論のパターンは実は軸足を大きく間違えていることを指摘しておきたいと思います。
まず,こういうことを言う人たちは,変な楽観論がある訳です。楽観的アプローチか悲観的アプローチかとか分類も可能だけれど,国家の施策を考える上では,楽観的アプローチというのは単純バカみたいなものです。
仮に,悲観的アプローチに対して,反論するのであれば,備えがあることを論証して,悲観するような結果が生じないことを説得的に論じなくてはならない訳です。例えば,原発は危険ではないかという批判に対して,そんな事故はこの技術力の社会で起きるはずがないという個人の認識を示すだけということです。結果が起きても,こういうことを言う人たちは自分が渦中にいる訳ではないし,という安心感を持ち,結果に対し責任を取ろうという気概もないわけです。
また,日本はイデオロギーに捕らわれていたという批判もズレがあります。人権や個人主義に対する批判でも,日本では人権,個人主義ばかりが強調され,などと批判されたりします。
しかし,そもそもこの国では,人権,個人主義ばかりが強調された歴史などほとんどなく,左翼的なイデオロギーが国の主流を占めた時代もない訳です。そういう非主流派なものを,あたかも主流派であるかのように持ち上げた上攻撃するということについても,歴史を見ていないなーと思わされます。
少数派を攻撃しているのに,そういう認識がない(誰でも多数派に立っている方が気持ちはいいものです。)ということに,この病理の深さを感じます。とはいえ,こういう人たちは軸足を間違っているので,立論が弱く,論客ぶっていますが足腰が弱いという弱点があります。
したがって,こういう人たちとは違った角度から論争していくと,事の本質が見えてきて有効です。

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