風刺画問題,ついにデンマーク大使館の放火,執筆漫画家が身の危険を感じ身を隠すなどの事態になっていますね。
思い返せば,1991年7月12日,イランのホメイニ師により死刑を宣告されたサルマン・ラシュディの『悪魔の詩』を翻訳した五十嵐一筑波大助教授が大学構内で暗殺されるという事件もありました。
昨日紹介した
小林恭子の英国メディア・ウオッチをじっくり読ませてもらい,いろいろと参考になりました。その中で,デモ参加者のプラカードの「批判は受けるが、侮辱は受けない」との言葉が印象に残りました。
イスラムの反発は,ここにあるんだろうなーと納得。
憲法の表現の自由の見地から言えば,表現の自由を制約すれば民主制の根幹を揺るがすから,そんなのは無理だ,で終わってしまい味も素っ気もないのですが,実際にこの問題が起きた現場では,これを維持するにしてもかなりの度胸がいりますね。
そういう悩みが,イギリスの状況からも伝わってきました。
デモの中での要求でもありましたが,やはり対話や侮辱されたとの感情を理解するようにする努力は必要でしょうね。
ところで,人種差別的な言論については取り締まるという法制を持っている場合には,場合によっては宗教を侮辱する表現という形で組み込むことも可能かもしれません。
いわゆる戦う民主主義と言われれますが,ドイツではワイマール憲法の下でナチスの台頭を許したことから,民主制の根幹を揺るがすような表現の自由を認めていません。
「自由で民主的な基本秩序を攻撃するために濫用する者は、これらの基本権を喪失する。」(独18条)という訳です(
「自立した市民」を目指す不動産屋のオヤジのページのドイツ基本法の訳参照。)
ドイツの歴史を踏まえると理解はできますが,果たしてそれが有効なのかは,やっぱり疑問が残ります。やはり一番の敵は,表現ではなく,それを支持した背景だろうと思うのです。

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