「テアイテトス」
プラトン著(田中美知太郎訳,岩波文庫)。
今まで読んだプラトンの中では一番読みにくい印象を受けました。テーマのせいなのか,翻訳のせいなのかは分かりませんが(特に後半)。
本書のテーマは,知識について。若きテアイテトス君とソクラテス(時にはテオドロスも)の対話です。
ソクラテスは,自分は精神の産婆であると言います。自分は問を重ねていくことにより,相手に智なるものを生ませる。自分が智を与えるのではないということです。ソクラテスの問によって,困惑するのは,いわば陣痛なのだと。うまいこといいますね。
当初の命題である,感覚イコール知識であるという見解はちょっと現実離れしている感じがして,それほど一生懸命に反駁しなくてはいけないことなのかと思ってしまいますけれど,議論の過程で生まれる,直接的な感覚(うまい,寒い,痛い)は各人によって様々だが,健康によいとか悪いとかいうことに関しては,各人に任せればそれで足りるものではない,という指摘は何となく新鮮でした。
これから,発展して,テアイテトスは国家の制度をどのように定めるかも各国によって様々(これは各国の道徳を見ても分かること)であるけれど,それが国家のためになるのかどうかという観点は,必ずしも相対的ではないという指摘をしています。
これ故に,第三者の分析が成り立ちうる訳です(つまり絶対的な規範を探し,その尺度で比較検討する)。社会科学の基礎という感じですね。
また,哲学家と弁論家の比較もよかったですね。この弁論家,まあ弁護士かと思いがちですが,考えてみると現代社会での勝ち組はことごとくこちらに入るといってもいいでしょう。
ことの真理を追求する代わりに,間近いレンジ(領域)で競争に勝つ。そのためには,常に忙しくなくてはならず,どうでもよさそうに見えることをじっくり考える時間の余裕も持たない(つまり,そういう自由がない)訳です。結果として,奴隷的になり(これは金銭によってモラルを売るという意味合いで読めば身につまされます),精神は矮小になる。これは否定できないですね。少なくともシニカルにならないと生きていきにくいですからね。あげくの果てには,やっぱ金がないと世の中だめだよ,とかいう言葉まで出るようになってしまう。
じゃあ,哲学家になって何の得があるのか(これは別に哲学科に行って哲学を専攻しろという意味ではなく,魂とか正義の問題に関心を持つかどうかですね。)。ソクラテスは皮肉にも,星のことばかり考えて,目の前の穴に落っこちた天文学者の例を挙げていますが,確かに俗世間的に見れば,何の益もないということになるでしょう。でも,社会人になると道徳教育とは別に,「善」について考えることが多くなるような気がします。それは具体的な利益ではないし,そんな利益をつけて説明する必要もないでしょう。
つまりは,心の満足なんでしょうね。
我々は多かれ少なかれ,癒しを求めています。しかし,本当の癒しは与えられるだけでは解決しないのではないか(なぜなら,我々が癒しを求めるのは,何かに追われているからであって,そこに能動性・積極的創造の余地がないからなのに,癒しを受動的に受けるとは),むしろ哲学的なことを考えることが実は最大の癒しではないのか,なんてことを考えてしまいました。

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