「国家(上)」
プラトン著(藤沢令夫訳,岩波文庫)。
いよいよ「国家」にたどり着きました。全く知識がなかったのですが,この「国家」。様々な解釈上の争いを生んだり,いろんな議論に利用されたりしたんですね。まあ,そういうあたりは今後つめていくとして,構成は上巻が第1巻〜第5巻を収録し,下巻が第6巻〜第10巻までを収録しています。「国家」のテーマは,ずばり正義。個人における正義と不正を論じるために,大きな分析対象として国家を引っ張り出してくる訳です。
第1巻には,トラシュマコスという人が出てきますが,この人インパクトあります。今でいうところの2ちゃんねるに出てきそうな人です。ソクラテス,おめーの意図は分かってるんだ,その手には乗るかーと,とにかく攻撃的です。もちろん,最後には借りてきた猫状態になってしまうのですが,こういう攻撃的な議論を吹っかけられても動じないソクラテスって,やっぱり面白いですね。
「不正はお互いのあいだに不和と憎しみと戦いをつくり出し,正義は協調と友愛をつくり出すもの」(89頁)
何気ないことですが,これが故に悪は自壊してしまうというのは,よく分かりますよね。暴力団の抗争しかり,政治家の権力闘争しかり。
また,支配者の役割を,支配される者の最善を考慮するものだと述べます。これは支配者としての素質とは,と読み替えられるでしょうか。こういうことも別に綺麗事として述べている訳ではないことに深さを感じます。
つまり,支配が不正でないためには,当然正義によって支配する必要が出てきます。もちろん暴力で支配したりする現実もあるのですが,結局暴力は暴力による顛覆を防ぐために暴力を使わなければならないという悪循環に陥ってしまいます(世に言う独裁政権を見れば分かりますね。)。
これを避けるためには,正義,少なくとも一定の正当化要素を必要とする訳です。日本でも選挙過程という正当化要素がありますね。これがあるので,現在は昔のように天皇の神格化による支配をしなければならないという必要性が減る訳です。
そして,こういう正義,正当化要素によって支配するということはどういうことかといえば,結局,国民のためを考えていること(少なくともその外見)が必要になってくる訳です。
現在は,この国民にとって「最善か」どうかが広汎に議論される社会であるといえると思います。
そして,市民運動が必要な理由も垣間見えます。つまり,支配者(これは政治に参画する者と読み替えることも可能でしょう。)となることを強制させる要素として,罰の要素を挙げます。いわく,
「罰の最大なるものは何かといえば,もし自分が支配することを拒んだ場合,自分より劣った人間に支配されるということ」(76頁)だと言います。
ぶっちゃけていえば,彼らに任せっぱなしにしてたら,大変なことになっちゃうよ,面倒だけれどみんなで声を上げていこう,ということでしょうね。
と,まあ相変わらずの感じで楽しみながら読んでいます。

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