地方紙の夕刊に,中沢新一の「天皇制を存続させるもの」と題した文章が載っていた。いわく天皇制の核心部分には霊の働きがあり,われわれは霊について思考する手段をほとんど失ったため,その核心部分を認識できなくなっている,日本的霊性を考える必要があるという文章。
久々に出会った酷い文章だった。この人は,チベット仏教を修行したとかで,人類学を専攻にしているそう。ウィキィによれば,麻原を賞賛したとかでかなり叩かれたよう。まあ,そういう話を抜きにしても,ひどい文章だった。知識は正しく用いないと節操のない文章になる。よい見本だと思った(このことは,プラトンの国家にも出てくる)。
まず前提として,
「天皇制の存続にかんする危機感が,かつてないほどの現実味をおびて,国民の間に共有されはじめている。」と来る。しかし,皇室の跡取り問題が起きることはあっても,果たしてこれが共有されているといえる状態にあるのか?
さらに,その分析として
「それは日本語や日本文明の土台がおびやかされているという認識と連動しており,世界化の波の中で,この文明が何かの独自性を保ったまま,生き残っていけるのだろうか,という不安に裏打ちされている」
なんじゃそりゃ。そんな程度で終わってしまう文化しか持っていないのか我が国は。
まあ,ここだけ読めば,この人がどの程度の力の持ち主かは分かってしまう。つまり,検証も何もないのだ。感覚で思ったことを放談。
最近というか,いつの時代でもそうなのかもしれないが,こういうあいまいな議論をする人が増えている。天皇制に関していえば,やはり国家制度とされてきた明治以来の政策への批判的視座がなければ,「霊的なもの」などという言葉が出ようはずがない。前にも述べたことがあるが,天皇制を文化史的に,霊的ななどというのであれば,そもそも明治以来の天皇利用を批判し,そもそも象徴天皇制すら廃止し国家機関から外すべきだと提言しなければおかしい。
霊的なものが利用されれば,それは霊感商法的なうさんくささを内包し,ひいては霊性すら失わせるのだと主張してこそ一貫性が出るだろう。
渦中の愛国心論争でもそう。愛国心とは一体何かの議論が落ちたままの議論をするから結局あいまいな話になる。他国では規定している国が多い,ふつうのことだ。って,そんなに中途半端な考えしかないの?と驚く。
脱線ついでに愛国心について述べると,子供のころにいくら愛国心をつけた(内容は置いておくとする)としても,大人になって変節すれば何の意味もない。そして,愛国心が必要だと嘆く大人たちの世界といえば,愛すべき国家に対して払うべき金すら払わず(脱税),愛すべき国民たちから税金をもらって国のことを考えなければならないのに一部の業界に金で買われたり(汚職),それこそ国を守らねばならないという愛国的業務の最たる仕事である防衛施設庁で談合をして私腹を肥やすありさま。
さて,こういう売国的行動に対する規制はといえば,遅々として進まず(結局選挙を公営化しながら企業献金一つ禁止できない)。自分たちの足下は見ずに,弱い子供たちに愛国を唱える。
なんともはや。ぼくは,道徳を説く前に,少なくとも深い考察をもったしっかりした議論ができるような大人になるように教育していくことが最優先だろうと思う。

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