「国家(上)」
プラトン著(藤沢令夫訳,岩波文庫)。
上巻の最後は,第5巻。みなさんは読書に際して,どのような読み方をするでしょうか?良いところを探して読むか,批判的に読むか。また,考えに合わないなーと思った時にどう対処するでしょうか。ガラス片でも交じった食べ物を食べるような感覚か,あるいはスイカの種のようにスルーして,うまいところだけ食べちゃうでしょうか。
これはその本がどのように取り扱われているかによって結構左右されそうですね。つまり,それが「権威」とされているなら,僕なら辛目に読むだろうし,誰も振り返らないような本なら,少しでもおもしろい部分があれば儲け物と思うでしょうね。プラトンの時代は,きっとホメロスやヘロドトスがもの凄い影響力を持っていたのでしょうね。なので,結構厳しくやり玉に挙げられています。
現代におけるプラトンの意味ってどうでしょうかね。やはり,日本ではそんなに読んでいる人は多くないかもしれませんね。ぼくにとっては,元々読書リストに入っていなかった存在なので,すべてをあるがままに崇拝するような読書方法ではなく,良いところを探して読むというスタイルになっています。
前置きが長くなりましたが,本巻では,男女共同参画社会です!前回までに出てきた守護者となるべき者は,男女を問うべきではないと宣言します。
すごいですね。紀元前ですよ,紀元前!チャングムがプラトンの時代に生まれていたら,それチャングムを見よ,と言われていたでしょう。
男女の間では,差異があるではないかという批判に対しても,
「ただ当の仕事そのものに関係するような種類の相違と類同だけに,注意しなければならない」(352頁)にすぎないから,女性の社会進出を奇異に感じる必要はないと言い切ります。
ただ,守護者の女性は,共有されるべきだとの主張には,ギリシャだなーと思わされました。これは自由恋愛で,一人の男の所有物になるような法制にはするな,ということです。うーん,共有とまで言われると,結構ドロドロしたりするのではないのーと心配してしまいます。
さて,最近は何かにつけて愛国心問題にかこつけていますが,今日もいきます。最もよく治められている国は,
「国民の一人に何か善いことなり悪いことなりが起るとき,そのような国家こそはとりわけ,起ったそのことを国自身のことであると言うだろうし,国の全体がいっしょに喜んだり悲しんだりすることだろう」(375頁)。つまり,一体感のようなものでしょうか。
こういう状態をこそ人は愛国心を持つにふさわしい国と言えるのではないでしょうか。
とするなら,ここで気付いてしまう訳です。そもそも格差社会を肯定するような政府が愛国心を言うこと自体が背理ではないか,と。
勝ち組,負け組をそのまま認容する国家であれば(これは発生自体を否定するのではなく,自由競争の結果をそのまま受け入れてしまうことを言う),その国はある意味勝ち組のための国家になるわけです。これに愛国心を持てと言われても,持てるでしょうか。
つまり,愛は相手に要求するものではなく,愛されたいなら愛されるだけのことをしろ(あるいは愛されるだけかわいくあれ,か)がどうしても前提にならないといけないということです。
やっぱり,与党の人たちは,愛を知らないのだねー。

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