「国家(下)」
プラトン著(藤沢令夫訳,岩波文庫)。
第9巻では,僣主(独裁者)についての分析に入ります。まず国制レベルでいえば,独裁制は,独裁制ゆえに人材の活用がうまくいかないという問題があります(才能よりも独裁者に刃向かわないことが重視される)。
独裁者的性格というのは,思いのままに行動する人を表しています。しかし,逆にいえば欲望に振り回されているだけだという訳です。
多くの奴隷を所有する金持ちをその状態のまま砂漠の真ん中に置いたとして,召使いたちを怖れないだろうか?と問います。
そりゃ,富を独占している訳だから怖いですね,こうして奴隷解放の動きに動いていくでしょう。
ここから考えると安全保障を重視しないといけないという発想も,結局は富の偏在が作用していることがよく分かります。これを武器によって威嚇しながら保持しようという試みな訳です。
「それでは,僣主(独裁者)とは,まさにそれと同じような一種の牢獄の中に縛られているのではないだろうか」(262頁)。こうやって見てくると,テロとの戦いや有事の想定によって,市民生活の制約を受ける国家のあり方が見えてきますね。見えない敵のために監獄にいるのと同じような生活を送る。これはやっぱり矛盾でしょうね。
同巻では,快楽についても触れられています。基本的にプラトンは,節制を旨とします。他の快楽は,終わると苦痛を残したり,途中で止めると渇きを与えたり,苦痛との比較で快を与えたりするのだけれど,匂いは,別であると指摘する部分はちょっと面白かった。
たとえば,飲酒でいえば「飲み足りない」とか「飲み過ぎた」の感覚が伴いがちだけれど,匂いって,そんなことないよなー(まあ,あくまでコーヒーのアロマとかを想定してだけれど,何かのフェチの人たちは違った意味で囚われてそうだけど。)。
「健康を目標とすることさえなく,どうすれば強壮になり健康になり美しくなるかというようなことにしても,そのことから思慮の健全さが得られると期待できるのでないかぎりは,これを重要視することもないだろう。」(298頁)も,ちょっと面白い。
健康っていうと,誰もがその価値を否定しないが故に少し天の邪鬼的に構えるためにこういう言葉をおさえていてもいい。
さて,9巻の最後,哲人国家を目指す決意を引用。
「しかしながら,その国が現にどこかにあるかどうか,あるいは将来存在するだろうかどうかということは,どちらでもよいことなのだ。なぜなら,ただそのような国家の政治だけに,彼は参加しようとするのであって,他のいかなる国家のそれでもないのだから」(300頁)
そして,第10巻は,おなじみのイデア論に加え,あの世の世界を描いたエルの物語について述べられます。
「国家」。非常に刺激的な一冊(上下2巻)でした。

0