
「リヴァイアサン 第1巻」 ホッブズ著,水田洋訳(岩波文庫)。
序説では,国家を人工的人間に喩えています。いわく,主権は,魂であって,行政機構は,関節(まあこれがないと動けませんね),賞罰は,神経(刺激ですね),個々の構成員の富と財産は,力,人民の福祉は,活動の対象(つまり生きる目的みたいなもんですね),顧問官は記憶(現代社会では,この記憶の部分がもっと拡散していますね),公正と諸法律は,人工の理性と意志,和合は,健康,騒乱は病気で,内乱は死であると。
第一巻は,ホッブズの考察の枠組みについての基本的な考え方を示していると言っていいでしょう。
「あるひとりの人間の諸思考と諸情念が,他のひとりの人間の諸思考と諸情念に類似しているために,だれでも自分のなかをみつめて,自分が思考し判断し推理し希望し恐怖し等々するときに,何をするか,それはどういう根拠によってかを,考察するならば,かれはそうすることによって,同様なばあいにおける他のすべての人びとの諸思考と諸情念がどういうものであるかを,読み,知るであろう,ということである。」(39頁)
人は,自分を基準にしないと他人を理解することはできない。まず,己を見よということですね(ちなみに,デルポイのアポロン神殿に刻まれている三つの格言の一つは,「汝自身を知れ」でしたね。)。また,後の方でも出てきますが,人は個性があり皆違う側面もありますが,揺れ幅で見ると一定の枠,つまり類似という枠の中にとどまるのです。
まあ,そんなもんだろうと思うのですが,今の時代ではこういう感覚は重要だろうと思います。カテゴライズするのではなく,自分の中の感覚からまずはスタートする。そしてそこから推測する,理解する。この作業なしに,「特別なもの」を規定するのは避けた方がいい。
我々が認識,理解できるのは,結局自分から辿り着いた結論でしかない。そして,新しい物の創造も実はこの道程から導かれるものにすぎない。つまり,それは一見独創的に見えるけれど,実は類推に近い。無から有を作るのはやはり自然に反する。
いろんな人の話をみると,結局ここに辿り着く,つまりヒントがある訳です。で,これは芸術なんかでも同じ。ところが,若い時はこの点について誤解しやすい。何か天才的な感覚があって,それが突然稲妻のように作用し,「それ」が生まれるのだと。
しかし,それに辿り着く過程は天才的な要素があるだろうけれど,そこには辿らなければならない道があるのです。
この道をどうやって進むか。純粋に自己の感覚と経験によるか,他者の経験や感覚を参考にし,感化されながら新しい感覚を模索するか。あるいはミックスするか。いずれにせよ,意欲によって刻み込まれる印象は,「強力で永続的で」す。これは,自分で積極的に経験したことだと鮮明に記憶に残ることからも分かるとおりです。
以上からすると,ぼくらは,自分の感覚から進まなければ,自分にとっての「理解」には辿り着かない。そのためには間違いを犯すこともあるかもしれない。そうならないような助言に出会うこともあるだろうし,残念ながら出会わないこともある。
そうやって失敗をしながら進むことが阻害されたり,あるいは萎縮して進むことを止めては結局我々は枯れてしまうだろう。ぼくは,「政治的」なるものの本質に,そういう部分をみる。そう,個人にとっての政治的な成熟の問題だ。政治は,時には論争的であり,不毛に思える。しかし,それに個人の感覚だけを理由に関与し,対等に議論していく(これは権力を握るということではない)。こういう過程が絶対必要だろうと思う。教育改革には,こういう側面にも着目してもらいたい(例のごとく,かなり脱線)。
(つづく)

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